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7 アレクの教育と乳母のナターシャ

 我が家の嫡男・アレクの教育は乳母のナターシャに一任している。

 ナターシャは他の貴族家での乳母や子供の世話役の経験が深く、彼女自身も教養があり、私は全幅の信頼を置いている。きちんと役目を果たしてくれているのでとてもありがたい。

 書斎にやってきた、そのナターシャは私の前でうつむいて悲しげにしていた。

「旦那様…。やはり(わたくし)ではアレク様の教育には不十分で、解雇されるのでございましょうか?」

「いやいや、そんな事はないぞ。解雇とかそういう話じゃ無いから安心してくれ。」

 ナターシャは執事のマイケルからアレクの教育の件で話があると聞かされて、どうも悪い方に想像してしまったらしい。

「アンドレアの教育について方針や方法論について考えたくて、ナターシャの知識と経験を参考にしたいのだ。」

「参考…で、ございますか。私の拙いものでしかありませんが。」

 ナターシャの反応は薄いというか、キョトンとしていると言うか、ちょっと自己評価低過ぎではないかと思ってしまう。

「アレクの教育を一任しているんだ。拙くはないだろう。こないだアレクが書いた手紙はちゃんとしていたぞ。大したものだ。」

 クレヨンで書かれた、所々の線が飛び出したりしている落書きみたいな手紙を私は思い出していた。ちゃんとしていると言うのは文字の綺麗さではなくて、ごく短い文だが手紙の基本的様式を備えていた事だった。我が子とは言え3歳児に高度な内容は期待していない。

 そもそも3歳児で読み書きできるって、なかなかではないのかな?と親バカだと言われそうだが嬉しくなってしまう。だって“パパ、ありがとう!”なんて書いてあったのだから!

 あの手紙をアレクからもらった日は、秘書に『なんか怪しい魔法薬でも吸ってしまわれましたか?』と不審者を見るような目をして言われた。

「ああ、あれは…。実を申しますと、まだアレク様は文字の意味を理解されていないかと。」

「なに?ではあれはいったい?」

「私が文字やごく短い文章を下書きをしまして、アレク様と一緒にクレヨンでそれをなぞりました。私の経験では3歳ぐらいでも、意味は分からなくても遊びながら文字を書く動きや文字の形は覚えられるのでございます。個人差がありますが、アレク様は覚えが早いように思います。」

 ナターシャによって、おそるべき種明かしがされた。私は愕然とした。

「……と言う事は、あれは、その…塗り絵のようなものか。」

「旦那様には申し訳ございませんが、左様でございます。」

 私は右手で顔を押さえて呻いた。

「あぁ〜!だからアレクはあの時“ちちうえ、かけたー”と言っていたのか!」

「はい。文字と理解していれば、アレク様は“読んで”とおっしゃったかと。本などは“読んで”と私におっしゃいます。」

 ぬ、ぬか喜びだった〜!お父さんショックですぅぅっ!と、心の中で叫んだが、子供のする事だものなと自分を納得させた。

「それじゃあ、文字の隣にあった水色の渦巻きが二つある肌色の卵に鳥の巣が乗っていたようなものは?」

「…おそらくでございますが、旦那様の似顔絵のおつもりなのではないかと。ですのでアレク様の感謝の気持ちと申しますか、親を慕うアレク様のお気持ちが『あの手紙』に込められている事は、間違い無いかと考えます。」

 記憶から思い出すために少し間をおいて答えたナターシャ。

「そうか…。あれが私…。うん…まあ…あまり日に焼けてはいないし、茶色の髪だし、瞳も水色だものな…。」

 うん、まあ、子供のする事だから仕方がない。私が3歳の時も、父は同じような気持ちになったのだろうか…?今度訊いてみよう。

「まあ、あの手紙のことはそれで良い。ナターシャも含めて幼児教育の経験や知識は他の乳母や家庭教師の間で共有されているものだろうか?」

「私の知る限り、世話する者同士で日常的に交流が無い場合は知識や経験を共有することはほぼ無いかと。ですので隣近所に住んでいて顔見知りの範囲内、親族などで顔をあわせる機会が多い者同士など、ごく限られた範囲でしか共有されていないと思います。」

「それは王侯貴族であってもか?」

「王族の方々はどうなのか存じ上げませんが、私の知る範囲では貴族家で働く乳母同士の交流の機会はほぼございません。したがって知識や経験を共有することもあり得ません。あったとしても、迂闊(うかつ)なことは申せませんので口を開きません。」

 ふむ、貴族家に仕える乳母ともなれば意図せずにその家の内情を知ってしまう事もありうるから、ナターシャの言うことは事実であろう。あっちこっちで井戸端会議の話題に貴族家の内情をベラベラ話す乳母とか願い下げである。

「そうか…。ナターシャ、きっと一人で苦しんだこともあったであろうな…。」

「旦那様にそう言っていただけるとは、誠に畏れ多いことでございます。」

 私の魔術師としての研究も果たしてこれで良いのか、方向性や進め方に問題があるのでは無いのかと、不安で禿げそうになる事は少なく無い。

 だが魔術の研究は相談できる相手がいる。しかしナターシャのような乳母たちは孤独に、そして決して失敗できない重圧にさらされながら耐えてきたことを、私はこの時理解した。

「決めたぞ。幼児を教育した経験のある乳母や家庭教師たちの経験談を集める。もし可能であれば、交流を持ってもらい、お互いの経験を共有してもらおう。」

「旦那様、それは本気でございますか?」

「もちろん本気だとも。経験を教えあえば、より良い方法が見つかるだろう。それはアレクとアンドレアの教育にも反映できるだろうし、君自身の教育者としての水準も上がると思うのだが、どうだろうか?」

「…そうですね。これまでの経験を話し合って、これで良かったのか誰かと話し合いたい気持ちはずっと持っておりました。旦那様に貴重な機会を設けていただけるのなら、ぜひ参加しとうございます。拒む理由はございません。」

 ナターシャからは好意的な返事をもらえたから、執事のマイケルに計画を進めるように指示することにする。

「では、話がまとまったら伝える。楽しみにしていてくれ。私も面白そうなことになりそうで、ワクワクしてきたぞ!」

 一礼して書斎から退室するナターシャの様子は入ってきた時とは真逆だった。きっと彼女は長い間教育について、乳母という仕事について、誰かと話し合いたかったのだ。

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