68 穏やかな休息の日
今日の日程すべてを終了させた私は、予想していたとおり這々の体で寝巻きに着替えるや否や、ベッドに倒れるようにして翌朝まで泥のように眠った。
そして起きたのは普段より1時間ほど遅く、朝の内ではあるが外はすっかり明るくなっていた。
「おはようございます。旦那様。ご気分はいかがでしょうか?」
「おはようマイケル。悪く無いが喉が渇いているな。お前も激務だったというのに、よく務まるな。」
「これが私の仕事でございますし、旦那様にお仕えすることに喜びを覚えておりますよ。」
執事のマイケルは普段の装いで穏やかな笑みを浮かべ、ベッドサイドの小さなテーブルに銀の盆を置く。そこには大ぶりのガラスの水差しに入った浄水とコップ、二日酔いに効く粉薬、シナモンの香るパン粥があった。
「さすがだ。気が利くな。」
「普段より酒量が多いのはわかっておりますから。」
私はマイケルが注いでくれた水を一気に飲んで、喉の渇きを癒した。
「今日まで午前中の仕事は無しで良いか?アンブローズ辺境候のお相手もしなければならないだろうし。」
「そうでございますね。旦那様が祝福式に備えて早め早めに処理をしてくださっておりましたので、急ぎのものはございません。」
私はそれを聞いて、今日は休息日としてゆっくり過ごすことにした。アンブローズ辺境候夫妻を交えて、子供たちとのんびり過ごす日も必要だ。
私はマイケルにその事を皆に伝えるように言って下がらせる。
最初の食事を普段より時間をかけて摂って、私は首から下げた細い鎖に付けてある水晶を手に取った。
いくつかの小さな水晶は朝の光を反射させるだけでなく、内から発する魔力の光を帯びている。これらは小さくとも、時間をかけて魔術を組み込んだ魔法道具だ。
高位の貴族なら誰でも持っている護身用の“身代わり水晶”のほか、魔力を増幅するもの、魔力自体を底上げするもの、防御系の魔術を組み込んだものなどがある。
私が注目したのは、その中で最も新しいものだ。これには屋敷中に張り巡らせた感知・探知系魔術の結節点とリンクさせてある。
「…変化は無しか。」
アンドレアの祝福式を境に『シナリオの強制力』が何らかの形で出現する可能性に備えて網を張っていたが、どうも空振りのようだ。『シナリオの強制力』はこうした魔術的手法で捉えられるものでは無いらしい。
(あるいは、この世界は似ているだけでゲームとは無関係なのか。)
そうであれば、娘に関するいろいろな懸念は取り越し苦労ということになる。
(どうも、嫌な予感が拭えないんだよな。)
あるいはゲームによく似た世界であるがゆえに、世界で起こる事象そのものもそれに似たことが起こる世界、なのかもしれない。
「…誰かが闇落ちして、魔王召喚を計画して国を滅ぼすのかもな…。」
もしそうならば、アンドレアの闇落ちを阻止しても、別の誰かがその代わりを果たすだけだ。
根本的な解決にはならないどころか、対象が不明になるだけかえって事態の把握が遅れて手遅れ、という可能性すらある。
「考え過ぎてもしょうがないか。」
答えが出そうに無い問題を考えても頭が痛くなるだけのような気がしてきたので、これに関する考証は後回しにすることにした。屋敷の魔術的防御力を上げられたのを、奇貨とすることができただけ良しとしよう。
室内着に着替えて1階に降りると何やら賑やかだ。
「アレクはそんなこともできるようになったのか!」
「おっきいじーじー、声おーきー!」
「はーっはっはっは!西の辺境ではこれぐらい声が大きくなければ、やってられんのじゃ!」
大きな声の発生源は、主に義理の父、アンブローズ辺境候ユリアンのようだ。
「おはようございます、アンブローズ卿。昨夜はよくお休みにになれましたか?」
「おおアーディアス卿!御機嫌よう!素晴らしいベッドであったし、湯浴みの設備もまことに快適であった。至れり尽くせりで、申し分無い。」
義理の父は上機嫌だった。昨日はけっこう喋っていたはずなのに喉が枯れないとか強い。
「おはようございます、アーディアス卿。昨日の素晴らしい宴、そして格別のおもてなしに感謝しますわ。」
「お気に召したようで良かったです。この屋敷をアンブローズの家同然にお過ごしください。」
辺境侯夫人のテレーズ・バーナード夫人にも答える。
そして義理の父母二人に、何か不足があれば申し付ける相手として執事のマイケル・女使用人長のラバール・従者長のアルバンを紹介しておいた。
もちろんお二人は自分たちの使用人を連れてきてはいるが、不案内な土地では効率的に動き難いし、他家の屋敷の物を勝手に使うわけにはいかないからだ。
「今日はまず、長旅と昨日の疲れをお癒しください。あとで薬湯浴と疲れを癒すマッサージの上手い者を遣わします。」
「そうさせていただく。かたじけない。」
「まあ、嬉しいこと。」
二人は笑って顔を合わせた。
「アンブローズ卿、ぜひ西のことなどお聞かせくだされ。」
「おお、武勇伝とまでは申しませんが、私の経験した事ならいくらでもお話ししますぞ!」
アレクを膝の上に抱いたアンブローズ卿は顔をほころばせて、父のパウロに答える。
「実は陛下との謁見の後に久しぶりに姉と会うのですが、ソフィア夫人もご一緒しませんか?」
「あら、嬉しい。私が付いていってもお邪魔じゃ無いかしら?」
「とんでもない!積もる話をいっぱいしましょう。」
母のソフィアとテレーズ夫人は今後の予定を嬉しそうに話している。
「おはよう。父も母も元気でしょう?」
後ろからアンドレアを抱いたマリアがロレーヌを伴ってやってきた。
「おはよう。本当にね。」
私はアンドレアの頬をつついて反応を見る。私の方をじーっと見つめる黒い瞳は黒曜石のようだ。
この日、私は授乳以外のアンドレアの世話をしながら、義理の父の話し相手や読書をして過ごす。
この日は一家で揃って穏やかに過ごし、夜はアンブローズ辺境候夫妻を歓迎する夕食会を開いて愉快に過ごしたのだった。




