58 祝福式当日の朝
昨日はうっかりして、いつもより早く公開してしまいました。
ルビなどを調節する前で、お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。
娘のアンドレアの祝福式当日。空は晴れ渡っていた。
この国の5月の末から6月は小麦の収穫期で、雨が降り続く梅雨のジトジトした空気とは無縁だ。からりと乾いて、気持ちの良い風が吹いている。
農民たちが明るい茶色になった小麦を刈り取って荷車に積んでいるのを、私は妻の寝室の窓から眺めていた。
今日は久しぶりに朝の事務仕事は無しにした。そして妻と茶を飲みながら外を眺めている。
「なんだか、あっという間の1ヶ月だった。」
「そうね。私も大変だったし、あなたも大変だった。」
「まだ大役があるけどね。」
私はマリアの額に軽くキスを落とした。
しかし、その甘い空気も一瞬、アンドレアがほぎゃあほぎゃあと泣き出した。なんという絶妙なタイミング。
ベビーベッドに手を伸ばすのはマリアの方が一足先だった。
「うん、おしめを替えた方が良さそうね。」
「じゃあ、替えてくるよ。」
私の申し出に、マリアは私にアンドレアを預ける。
「お願いできる?たぶん、そのまま目を覚ますと思うから、私はお乳をあげるわ。」
抱き上げると、前におしめの替え方を教わった時よりも若干重い。順調に育っているようだ。以前に教えてもらった手順どおりにおしめを替えてから、マリアにアンドレアを渡す。
アンドレアはもぞもぞと動いてマリアの胸を探り、彼女の胸に吸い付いた。昨夜は2回夜泣きで起こされたのだが、我が家の場合は妻の侍女たちの内、夜勤番の者が対応してくれているのでかなり楽をさせてもらっている。
世の母親たちは赤ん坊の夜泣きで睡眠不足に陥り、精神的に追い詰められる場合も少なくないと聞く。育児がなくても睡眠不足は辛いのに、ワンオペ育児などさせる方が無茶だ。
(う〜ん。これはそのうち、仕事場にも保育所とか作るべきだろうな。女性職員の職場復帰も早くできるし、そこを幼児教育研究機関の管轄に置けば、研究の進み方も早くなりそうだ。)
マリアの授乳を眺めていると、ロレーヌが現れた。彼女はすぐに状況を確認した。
「奥様。朝食のお時間ですが…。こちらに運んで参ります。」
「そうしてもらえる?あなたは小食堂室に行ってきて。アレクをお願いね。」
「わかった。任せてくれ。」
私は笑みを浮かべて妻の寝室を後にした。
アレクは3歳なので食器の使い方もまだうまくない。ナイフで切り分ける必要のあるものについては。あらかじめ切ってもらってある。
まだナイフを持たすには不安がある頃だ。使えないならともかく、食事用とはいえ投げられると怖い。そうしたことの危険性を判断できないのだから仕方ないが。
だいたい食事は済んで、今は干しブドウや刻んだドライフルーツを入れて一晩おいたヨーグルトを自分で食べている。スプーンの使い方はだいぶ上達してきた。後ろで食事の様子を見ている乳母のナターシャに視線を送ると、無言で頷いた。
「ダルトンは子供の世話をよくするようになったわね。」
「やはり、マリアに任せきりは良くないと考えを改めまして。」
その答えに母のソフィアは、父のパウロの顔を見た。
「これも愛情の現れ方でございますわね?」
「…埋め合わせに努力しようかの。」
父は視線を庭に泳がせた。
確かに私は小さい時は、父にあまり構ってもらえなかったような記憶がある。過去は取り返しはつかないものな。私はアレクとアンドレアの育児には可能な限り関わってゆこうと決意を新たにした。
とりあえず、アレクの口の周りを拭いた。
朝食が済んだら、湯浴みをして用意した礼装に着替える。
レースのヒラヒラした飾りが付いた大きな袖、金糸銀糸と絹糸・ビーズを使って花と植物をモチーフにした豪華な刺繍と宝石付きの金ボタンで装飾された、紺色に薄い青の細い縦縞模様が入った絹の布地の膝上までの長い上着に始まる豪華な服を着て、白い絹の長い靴下・エナメルがつやつや光る黒い靴を履く。
髪は丁寧に梳かされて整えられると、シュッと柑橘系の香りの香水が噴かれた。
そして胸にアーディアス公爵家当主を示す勲章を佩用する。
勲章は中央に白い五弁の花のある金色で縁取られた青い円盤に金色の五芒星、その下にアーディアス家のモットー“知恵と知識は人と世界を救う”があしらわれ、円盤の後ろに交差する魔術師の杖、その背後に多数の小さなダイヤモンドを使って無数の光芒が表現されている。
そして御前会議の時に身につけた、家宝のたくさんの宝石がついた金のメダルがついたネックレス。
そのほかにも白い手袋をした上から、アーディアス公爵家の当主を示す指輪を始め、幾つもの指輪をはめる。
正直言って、服だけでもう重い。金とか宝石とか、どんだけ使っているのさ。
「はぁ…。さすがに立派なお姿です。」
身だしなみを整えるのを手伝っていた使用人達が一歩下がり、鏡で確認すると、執事のマイケルが満足げに言った。
そういうマイケルも今日ばかりは正装姿だ。襟から前たてに銀糸で植物の模様が刺繍された立派な群青色の上着は、当家の男の使用人達の正装用のものだ。執事のそれは彼の地位の高さを表して、袖口のレースの飾りや銀の刺繍がより豪華で、ボタンの数も多くなっている。
「そりゃあ、ねぇ。」
私は聖銀製の精緻な彫刻が施された握りのある、艶やかな黒い杖を肩にかけて気取ったポーズをとってみた。私は魔術師なので、武人と違って帯剣する代わりに杖を持つのだ。
「これでも、アーディアス家の当主だしね。」
「左様でございますな。」
私とマイケルは笑いあった後、マリアの寝室の扉をノックする。
「マリア、そろそろ準備は良いかい?」
「どうぞ、お入りくださいな。」
中から妻の返事が聞こえた。