4 なんてこった。そういや幼児教育という概念が無い
翌日、妻マリアも赤ん坊も容体は良く、健康上の問題ない。診察に来た医師も異常は無いと言っていた。
悪役令嬢(仮)の娘は妻の胸に抱かれて乳を飲んでいる。その顔は穏やかで、無邪気で、窓から差す光が母子二人を優しく照らして一枚の絵のようだった。
私は側にいて、この穏やかな時間が続くことを願った。もっとも願っているだけで問題が解決するわけがない。私は娘が悪堕ちしないような環境づくりから始めることにした。
私がまず思いついたのは教育である。
ゲームの中では娘がどのような教育を受けたのか描写は無い。『シナリオの強制力』があったとしても、それは働かないだろうと予想した。
「娘が好ましい人物に成長するよう、教育を徹底したいと思う。」
「賛同致します。」
私の方針に執事のマイケルも賛成してくれた。
「しかしながら、お嬢様はまだ昨日生まれたばかりでございます。早過ぎるのでは?」
「いや、もちろん今日明日からでは無い。教師とて人材。優れた人材を確保するのには時間がかかる。早めに確保にかかりたいのだ。」
私の言葉にマイケルは深く頷いた。納得してくれたようである。しかし次の言葉に私はギクリとした。
「ひとつお聞かせ願えますか?旦那様はアレク様の養育にはあまりご関心がお有りでなかったのに、どうして突然変わられたのか?それが不思議でして。」
まさか『娘に殺されたく無いからです』なんて言えるわけがない。
「アレクの様子を見ていてな、やはり早めが良いのでは無いかと思ったのだ。」
私はとっさにそれらしい理由を答えた。
ちなみにアレクの勉強は文字の読み書きと一般教養・行儀作法・簡単な体育である。貴族社会における一般的な内容のもので、それもごく初歩である。魔術や貴族社会での振る舞い方を学ぶのはもうちょっと後だ。
進捗自体に遅れは無く、それは父親である私の贔屓目を抜きにしてもおかしくは無い。
ただ未来の娘のことを考えると悪堕ち BAD END になっても、それまでになんとか一人で逃げ切る力を付けさせねばならない。普通よりちょっと早く勉強を進め、早くから経験を積ませた方がうまく逃げ切る可能性が高いだろう。
「アレク様の学習に特に問題があるようには思えませんが…。しっかり学べるのであればそれに越したことはございませんし、学問と学識で知られる当家でございますから、旦那様の判断は悪くないように思います。」
なんとかマイケルをごまかすことができたようだ。私は内心、ホッとした。
「うむ、娘はもちろん、アレクのためにも幼児教育を徹底させたい。」
そこで私ははたと気がついた。この国、というかこの世界には体系的な幼児教育のシステムが存在しないことを。
おそらく幼児教育という概念すら無く、単に大人の学習内容を簡単・単純化させたものになっているのでは無いか?それが子供の学習にとって効果的か疑わしい。特に幼少時の体験は大きくなってからの思考や態度に影響すると言うし。
「…先ずは幼児にどういった教育をすれば効果が上がるのか、その調査からしなければならないな。」
「現状は乳母のナターシャにアレク様の教育を一任しておりますが、それでは問題があると?」
「いや、ナターシャは経験豊富で教養もある。信頼しているが『なぜその方法が良いのか?』を調べたい。」
私の発言にマイケルは朗らかに笑う。
「はっはっは。旦那様は魔術だけでなく子育ても研究なさるおつもりですか?」
「いかんかね?魔術師は森羅万象を研究するものだ。子供もそのうちだ。」
私はなかなか上手いこと言ってごまかせたぞ、と一人悦にいった。
「仰せのとおりでございますな。ではどうやって調べましょうか?」
マイケルもノってきてくれたが、さてどうしよう?この世界では幼児教育の学問的基盤自体が存在しないのである。
「うむ、そうだな。まずは幼児の教育経験のある者に話を聞いてみよう。貴族家で家庭教師や乳母の経験がある者の話を集めてみようか。良い教育者もついでに見つかるであろうしな。」
「では、そうした者をリストして準備いたします。」
「それは任せる。それは急がないから、今は命名式と祝福式を優先してくれ。」
「承知しました。」
慇懃に一礼するマイケル。その時、私は庶民の子供達がどうしているかが気になった。参考になる事例があるかもしれない。
「それとマイケル。領内各地の子供の教育事情を見て参考にしたいから、娘の命名式と祝福式の後に行けるように準備をしておいてくれ。」
私の言葉にマイケルは戸惑った様子を見せたが、畏まりましたと答えてこの件についての話を終わらせた。