41 今日の午前中は忙しい
「宮廷魔術師長閣下、おはようございます。」
「おはよう。君も目の下に隈があるな。」
宮殿の玄関ホールで出迎えた秘書官に、私は挨拶を返すと回復薬の小瓶を渡した。
「ありがとうございます。閣下は飲まないんですか?」
「私は屋敷で飲んできたんだ。」
秘書官は回復薬を一気飲みして、瓶をポケットにしまった。
「閣下のお屋敷にはいっぱいありそうですよね…。さて、午後1時から例の会議があります。その準備のため、今日の予定は全てキャンセルしました。定型文ですが詫び状が必要な分は用意しましたので、最初にそれのサインをお願いします。すぐに使い走りに持ってゆかせますので。」
「わかった。書類のまとめは?」
「あとは清書だけです。」
さすがだ。しかし速いな。そしてふと気づいた。
「ひょっとして、朝食も食べずに来たのではないか?」
「あ〜、途中の道で屋台のパンを食っただけですね。」
秘書官は平然と答えるが、これは良くないと思った。
「それはいかん。いくつか私が書類を書いている間に、君は食堂で何か食べてくるんだ。それくらいの時間はある。」
「大丈夫ですよ。昼まで保ちますって。」
言い張る秘書官の背中を押して私は言う。
「倒れられてからでは困るのだ。早く行け。」
「わかりました。さっき申し上げた詫び状のサインを先にお願いしますね。戻ってくる頃には使い走りに渡せるようにしておいてくださいね。」
「わかった、わかったから早く食事に行け。」
秘書官を送り出した私は執務室に入る。
机の上に数枚の定型の詫び文──この場合は急用で突然予定をキャンセルすることの謝罪文と、予定の再設定についての伺いだ──と、封筒と封蝋・スタンプなどのレターセットが用意されている。封筒には宛先が書かれており、本当にサインをして封をするだけになっていた。
「用意がいいな。完璧だ。」
私はサインを済ませると封筒に入れた。
「“点火”」
私はロウソクに火を点ける。そして封蝋用の蝋の欠片を黒檀の柄のスプーンの上に乗せて、それをロウソクの火で炙って溶かす。群青色のそれを封筒の上に垂らし、黒檀の握りがついたスタンプを押した。
押されるのは宮廷魔術師長の公式印章だ。群青色の封蝋は宮殿の文官が公式に使うもの、封筒は宮殿の公式文書を郵送する際に使うもの、詫び状に使う紙も宮殿の紋章が入った公式文書に使う紙だ。
現代地球の記憶がある者には無駄な贅沢にも思えるが、いろいろ未発達なこの世界では公文書の偽造対策に一定の効果があるのだ。
一連の作業を終えて、封筒を手にした使い走りと入れ替えに秘書官が手に紙包みを持って戻ってきた。食べながら仕事をするらしい。
「戻りました。…お、今のは?」
「詫び状なら、今しがた使い走りに持たせた。」
「ありゃ、全部やらせちゃって済みません。」
私は彼に気にするな、と言って例の子供の件の処理を済ませることにした。
私は孤児院へ銀竜騎士団団長のニームス卿へ推薦する旨と、薬師ギルド長夫妻への養子縁組を勧める旨を書いた公式の推薦状を書くのにとりかかった。
本人証明の手紙を孤児院の院長が書いて持たせるのを忘れないように、と特記する。ミスや遺漏が無いか秘書官に確認してから封筒に収める。
もちろん、この公式の推薦状も公式文書用の紙と封筒を使い、宮廷魔術師長の印章で封蝋を押す。
これは外部機関への公式文書なので、宮殿に詰めている伝令に渡して届けてもらう。
“癒し”属性の子供の方は我が領なので半日もかからないが、五重属性の子供がいるリーモックス領は遠いから伝令に返事を貰ってから戻るようにと言い含め、滞在費を含めた路銀を心持ち多めに持たせて行かせる。
次の仕事にかかろうか、と言う時に王立魔術院の悪魔学専門の学者が面会を求めて来た。
閑職では無いが、こちらから指示書をもらうような事があまり無い部署なので驚いたようだ。実は私も初めて会った。父と同じぐらいの初老の学者にするべき事を伝え、求められれば上級将軍の下で助言するようにと指示を出す。
相手が上級将軍という事でちょっと恐れている様子だったが、知っている事をそのまま伝えれば良いからとなだめた。あのオッサンがおっかない気持ちはわかるので、トラブルがあれば私に回すようにと言っておく。
なんと言っても、神殿以外で悪魔学を専攻する者は貴重だ。
神殿は悪魔に関する情報を集めてはいるが、それは『敵を知り己を知れば百戦殆からず』の類であり、神敵を滅するためという観点なので、どうしても集める情報やその解釈に偏りが出るのを避けられない。
神敵という観点を捨てて、悪魔について情報を収集・分析できる者は少数であり、彼は得難い人材なのである。
どのみち敵なのだから神殿に任せればよいでは無いか、と思う人もいるかもしれないが、何事でも独自に情報収集・分析できる能力を一定レベルで保持するのは行政機関として備えておくべき冗長性である。
それを無くすと、そこがおかしく──敵国の破壊工作を受けたり、あやしい思想に汚染されたり、上司のパワハラや不幸な事故で業務執行能力を喪失したり──なったり、通常以上の負荷がかかる事態になった時に詰むのだ。
複数のラインがあれば全滅する可能性が低くなるし、おかしくなっていたらチェックできる。
そもそも神殿は王国の組織では無いので、協力を頼むのはちょっと面倒なのである。今回は国家機密にも関わるし。
話を戻すと、彼が言うには悪魔の大公“死を嘲笑う者ザカトナール”についての資料をまとめるのに、少し時間がかかると言う。
ならば基本的な情報、重要な事件・事例だけまとめた概説を先に提出し、細かな事柄や詳細まで詰めた報告は後日届けるようにしたらどうかと提案する。
そしてその方針を書いた紹介状を上級将軍宛に書き、これを持って挨拶に行くように指示して送り出す。後は軍務尚書のフィグレー卿がうまく取りなしてくれるだろう。
そして、いいタイミングで東方面での魔物の動向についてのデータのまとめが上がってきた。
速報版と特記された内容は、魔物の発生状況に概ね大きな変化は見られないと述べている。
アンデッド系魔物については特に重大な報告は無く、迷宮での遭遇例がほとんど。念の為、冒険家に仕事を斡旋する王都の日雇い手配師数人に話を聞くも、特別変わった事例は聞いていない、との返答だったと記している。
(竜の狩場での事件は特異事例か?でも自然発生で10体ほどと言うのは考えにくい…。)
御前会議であった、あの事件はこの速報版に含まれていない。
だが、これには死霊魔術師が関わっている疑いが濃厚だ。私は魔物担当の者にアンデッド系の発生状況を定期的に報告するように指示をした。
それから私は少し考えて、調査官を数人呼び出す。
彼らに霊媒師たちから最近の霊的な異常について情報を集めるように指示する。霊媒師たちは違う視点から何か勘付いているかも知れないからだ。
天然魔晶石の買取価格についてのデータをまとめるよう指示した者に進捗を報告させる。問題なく進んでいるようなので、できたら財務大臣の執務室に持ってゆくように言いつける。
それとは別に、王室に提出する人造魔晶石の流通状況についても報告書を作るため、手分けして魔晶石作りのアルバイトの学生と魔術師協会・魔法道具を扱う商人に聞き込み調査を始めるようにと指示を出しておく。
これの報告書の提出は10日後としておいた。遅いと言われたら急がせるが、こちらは白紙から作るので時間がかかる。
「秘書官、ヤー=ハーン王国に関する書類の清書は済んだか?」
「できてます。今、最終チェック中です。」
彼は真面目な顔で書面に目を通していた。ちょっと眉間にシワが寄っている。
「ん、問題ないです!」
ややあって、秘書官は明るい声で報告した。そして書類を書類袋に入れて手渡してきた。
私は書類をチェックして、問題ない事を確かめると書類袋に戻した。そして袋の上に『機密書類』の判を押して、執務机の引き出しにしまうと“施錠”する。
「よし。じゃあ、腹ごしらえをするか。」
立ち上がった私に秘書官は怪訝な顔をした。
「あれ?どこ行くんですか?」
「うん?食堂だが?」
「うわ、本気ですか!?」
秘書官の驚く声に、私は答える。もう昼近いので、昼食をさっさと食わねば食べ損なう。
「何か問題が?」
「いや、無いですけど。ヒラの官僚ばっかりなんで、みんなビビりますよ。」
「そうか。たまには良いだろう。」
私は秘書官と共に宮殿の食堂に向かった。