40 慌ただしい朝
「──な様、旦那様。お時間でございます。お目覚めください。旦那様、旦那様。お時間で──」
執事のマイケルの声で、私は目が覚めた。目を開けて、窓から差し込む明るい陽射しに目を瞬かせる。
「はっ。いま何時だ!?」
私はガバッと体を起こした。マイケルが起こしに来ているという事は、起床予定時刻を過ぎているという事だ。
「おはようございます。予定時間より5分ほど遅れております。」
「そうか。すぐに湯浴みの支度を。」
「すでにご用意しております。」
マイケルは慇懃に述べる。
「さすがだな。助かる。──それと言いそびれた。おはよう!」
マイケルは笑みを浮かべて会釈した。
湯浴みのための部屋、浴場は寝室の隣にある。片面には明かり取りの大きな窓があり、朝日に照らされる収穫の進んだ小麦畑が見えた。
タイル張りの床は寝室より少しだけ低くなっていて、中央に白い猫脚付きのバスタブが据えられている。
バスタブの周辺には真鍮製の透かし模様がある覆いのされた溝があり、バスタブから溢れた湯や水が排水される仕組みだ。バスタブの少し手前には白いタオル地の足拭きマットが敷かれ、その脇に体を拭くタオルと替えの下着が用意された真鍮製の棚が置かれていた。
特徴的なのはバスタブの上だ。
装飾された真鍮製のしっかりとした柱がバスタブの周囲に4本固定されている。ちょうどそれはベッドの天蓋を支える柱と同じような感じで、上部でアーチ状になった部分と接続し、その上に真鍮製の円筒形のドラム缶のようなタンクを乗せている。そのタンクの真下から真鍮のパイプが伸びている。
そのパイプはまず床と水平に伸び、続いてまっすぐ下に伸びて、床から1mぐらいの高さに湯の量や流れを止めるバルブがついている。そこからまた上に上がって先端がシャワーヘッドになっているのだ。
そして、システム全体を支える4本の柱の間のうち、配管がある面はイスラム建築の窓を思わせるような幾何学模様を構成する格子になっている。配管を支え、なおかつ美的に美しいようにデザインされていた。そこには石鹸やスポンジ・ブラシなどの体を洗うのに必要なものが用意された棚もつけられている。
現代的な水道システムの無いこの世界で、至れり尽くせりの貴族の浴室である。なお、この世界は電化されていないのでドライヤーも無い。
「あ〜気持ちいね、やっぱ。」
バルブを開くと温かいお湯が降り注ぐ。タンクに水を汲んで魔法で温めてあるのだ。
これは執事のマイケルがやってくれている。彼は水と火の魔術属性を持っているので“浄水作成”の魔術でタンク内に水を溜め、次に“加熱”の魔術で温めるのだ。
自分でもできるのだが、まあ、こういうのを周辺に任せてしまえるのが特権階級の特権たるところのひとつというわけだ。なるほど、歴史上ほとんどの特権階級が堕落したわけである。楽だもんな。
女の使用人に身体を洗わせたりする奴もいるのだが、あれってセクハラだと思う。他人をアゴで扱き使える優越感に浸るための行為にしか思えない。正直なところ、私は誰でも彼でも全裸を見せつける気にはならないし。そもそも、自慢になるような体はしてないが。
シャンプーは無いので、石鹸を手に取って少し溶かして髪を洗う。
「仕方がないとは言え、シャンプーとリンスが無いのは不便だな。…開発するか。」
幸い、シャンプーもリンスもこの世界の技術レベルで入手可能な素材で作ることができる。前世の現代地球で市販されている製品レベルのものは無理だが、手作りレベルのものなら十分可能だろう。
体を洗って、流して、体も気持ちもサッパリとした。
昨日からの疲れが取れ切ってはいないが、明日あたり領地での公務を理由に休みを取ってもいいかも知れない。
身体を拭いて下着を身につけた私は、扉を隔てて浴室の隣にある衣装室に移動する。
ここは日常的に身につける服と装身具が保管されている。正装や上等の装身具は別の部屋に保管されていて、必要な時と手入れする時だけ取り出されるのだ。
自分でさっさとズボンを履いて、ローブを着るとすぐに部屋を出た。日課の仕事を済ませねばならない。
「マイケル、昨日の報告は朝食を摂りながら聞く。」
「かしこまりました。目の下に隈が出ておりますな。回復薬をお持ちします。」
「うわ、そうか…。ありがとう。」
疲労が顔に出ていたか。やはり寝る以上の薬は無いわけだが仕方がない。
朝食を食べながら、昨日の報告を聞き、回復薬を飲んで、朝の仕事にかかる。
いくつか返事しなければならない手紙に返信し、決済待ちの書類を読んでサインをしてゆく。
領地内の仕事の方にややこしい案件が無いのは幸いだったし、アンドレアの祝福式の支度を妻に任せたのも正解だった。こんなに忙しくなるとは思わなかった。
そして歯を磨いて、宮殿に出仕するための略式礼装に着替える。
今日は早く宮殿に出るので、家族との朝食は無しだ。ただ、顔だけは見せておく事にした。
「おはよう、父上、母上。マリアにアレクも。ちょっと今日は早めに出るので、もう行くよ。」
「今日も帰りは遅いのですか?」
「なんとも。緊急の会議が午後からあって、昼前までに準備を終えねばならないのです。」
心配顔の母の問いに、私は答えた。
「まあ…。何事ですか?」
「まだ言えないが…時期が来たら話すよ。」
私の答えに、妻のマリアも心配顔だ。機密扱いになっちゃったからな。ほんとは家族に言うのもまずいんだけど。
「回復薬漬けは体に悪いからな。ちゃんと寝るのだぞ。」
父は黙って聞いていたが、心配してくれた。
「わかっていますよ。倒れないようにします。まだしたい事はたくさんあるので。」
小さな手を振るアレクに、私は手を振って応えると、急ぎ足で玄関前に待機させた馬車に乗り込んだ。




