115 竜(ドラゴン)の訪問
野営地からどよめきと悲鳴が上がった。
「うわ…大きい…。」
天幕の外に出て、空を見上げると大きな赤竜が旋回していた。襲われることは無いと、頭で解っていても圧倒される。
「秘書官、なぜ私の後ろにいるのかね?」
「閣下の観察の邪魔をしてはいけない、と思いまして。」
「…とりあえず、そういう事にしておこうか。」
私はチベットスナギツネのような表情になるのを止められなかったが、秘書官が怯えるのも無理はない。私だって、生きた本物の竜を直接見るなんて初めての経験だ。
やがて上空を飛ぶ竜の数はもう2頭増えた。竜が3頭とか、もう騎士団一つが壊滅不可避のレベルだ。怖がるなというのが無理である。
野営地の者たちが固唾を飲んで様子を見ている中、赤と白の小さな旗を持った腕を上げたり下げたりしている者がいた。ダヴィッド殿だ。動きは手旗信号に似ている。
「ダヴィッド殿、これは一体?」
「しばしお待ちを。」
エズアール隊長が駆けつけてきたが、抜刀などせず待機するように命じる。
ややあって、ダヴィッド殿が話しかけてきた。
「閣下、お待たせしました。竜たちに我らのことを説明しておりました。」
「あの旗で?」
「ええ。動きの組み合わせで意思を伝達できるようになっております。他の土地の者はどうか知りませんが、竜の狩場の魔獣使いは皆できます。」
ダヴィッド殿の動きは、やはり手旗信号との認識で正しかったようだ。
「ほう、そんな技が…。」
上空の竜も気になるが、彼らの手旗信号も興味深い。
「閣下、彼らが降りてきますぞ。」
竜の翼が風を切る音が次第に近くなり、風圧に草がなびく。天幕の布が飛んでしまいそうな程はためいた。地響きを立て、近くの茂みを踏み潰して赤竜が柵の外に着地した。続いてもう2頭も着地すると、野営地を取り囲むように陣取った。
最初に降り立った赤竜が、グルルル…と喉から響くような音を発した後、空に向けて咆哮した。
ヴォグル゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ッ゛!
その咆哮は野営地のすべてのものをビリビリと震わせた。
聴く者を震撼させ、勇士の居並ぶ戦列を恐怖で崩壊させる、竜の咆哮とはこんな凄いものなのか!
大きな声だが想像していたほどではないな、と言うのが本音だった。今でも目の前の竜が恐ろしいのに変わりはないが、一方でどこか冷静に観察している自分がいる。
「クリスヴィクルージャ!ご機嫌よろしゅう!」
「そのにおい、声はダヴィッド・ガンゲスか。久しいな。」
轟くような、地を這うように低いダミ声で目の前の赤竜が話し始めた。意外なことに人間の共通語を使った。でも赤竜騎士団のルーデス将軍は普通に話したそうだから不思議は無いのか。
柵の上を越えて赤竜の首が伸びる。
「ムゥ…魔術の柵とは。そこの魔術師、貴様か。」
赤竜の大きな黄色い目が、私をジロリと睨んだ。身がすくみ、背中を冷たい汗が流れる。
「そ、そうですよ。クリスヴィ──…」
先ほど耳にした名前がなかなか出てこない。
「クリスヴィクルージャだ。我らの名前はヒトの国の者どもには覚えにくいらしいな。」
「これは、失礼を。」
緊張で額に汗がにじむ。
「特使閣下、ご紹介しましょう。こちらの赤竜はクリスヴィクルージャ。」
ダヴィッド殿はにこやかに深紅の鱗の竜を示した。
「向こうの明るい赤の赤竜はモデュルヴェリル、あちらの青竜はプレイザテールレフィールです。」
紹介を受けた二頭の竜も、先ほどのクリスヴィクルージャと同様の咆哮を上げた。
竜の名前ってなんでそんなに長いの?とツッコミたいが、それをすると灰になりそうなので別の質問をした。
「つかぬ事を伺いますが、あの咆哮はひょっとして、ご挨拶だったのでしょうか?」
「いかにも。竜語の挨拶だ。人間はこれを聞いて怯えるようだが。知らんのか?」
「私はてっきり威嚇行為だと思っていました。無知をお許しください。」
私の答えに目の前の赤竜はふんと鼻を鳴らす。
「威嚇で吠えるならば相手の正面を向く。覚えておくがいい。」
「ご教示感謝します。申し遅れましたが、私はダルトン・アーディアス公爵。今回、ヴィナロス王国ガイウス二世陛下の名代として、金角の黒竜王グレンジャルスヴァールと謁見するために移動中です。」
竜に人間の爵位だの社会的地位は関心の外だ。少しも反応しない。
しかし、次の言葉には反応を見せた。
「たしか、ゾンビを焼き払った赤竜はあなたでしたね?」
「なんだ、下手人が判ったのか?教えろ、今すぐにでも八つ裂きにしてやろう。」
クリスヴィクルージャは私にずいっと迫った。その巨体以上に、竜の濃密な魔力の気配によって気圧されそうになる。
後ろからも強い視線を感じるので、モデュルヴェリルとプレイザテールレフィールもこちらの様子を伺っているようだ。
「いえ、まだです。ただ、そのことも含めて金角の黒竜王と話し合うために私は来ました。」
「もったいぶるのは人間の悪い癖だ。人間程度ならば、1人が10人に変わったとて大して変わらぬ。」
いかにも圧倒的な力を持つ竜らしく、目の前の赤竜は不敵に笑った。
 




