111 魔術を使った暑さ対策
草原の夜明けは早い。朝日を遮るものが何もないからだ。
地平線が白み始め、それが水平に広がりやがて空全体から星がひとつ、またひとつと見えなくなってゆき、濃いすみれ色から、赤紫に、そして群青色に変わってゆく。草原の草に付いた朝露が金色に輝く。
「ん〜!実にいい朝だ。」
ひんやりとした早朝の風と朝日を受けて、私は伸びをした。朝食を終えたら、今日も馬の背で揺られる一日となる。
私は金属製のコップに“浄水作成”で水を満たし、“加熱”で温めてお白湯にすると、野営地の外側に寄ると口をすすいだ。
空が群青色からいつもの青空になり、朝食の出来上がりを告げる声が聞こえる頃、私が昨夕に魔術で創った柵が薄れて霊素の靄になって消えていった。
「閣下、おはようございます。」
「おはようございます、閣下。」
「おはようございます!おかげさまで安心できました!」
野営地を移動していると、護衛隊や随行の者たちからも挨拶を受けた。どうも、昨夕に魔術で柵を創ったのがだいぶ心象が良かったらしい。
彼らは私に『貸し与えられている』人員だから、むやみに損耗することは許されない。そもそも現代地球の良識や倫理観を持つ私としては、自分の力不足や配慮が足りなかったせいで誰かが死んだら精神的に辛い。
だが使った魔術自体が自分の魔術属性に合っていただけに、魔力の消費も一晩寝れば完全に回復する範疇に収まった。相手に良し・社会的に良し・自分にとっても良しの三方良しで、これで良いんではなかろうか。
朝食はブラッド ソーセージをニンニクと干し野菜を戻したものと一緒に煮たものとパン、チーズだった。
ブラッド ソーセージは昨夜、魔獣使いたちがせっせと作っていたものである。これは日持ちがしないので、今日、明日ぐらいまでに食べてしまわないと腐ってしまう。
燻製もいい感じにできたようで、同じ大きさに束ねてなめした革に包んでしまっていた。
「この様子では狩りはもうしなくても大丈夫ですかな?」
「おそらく、あと1回ぐらいは必要になるかと。なにぶん大所帯ですので。」
朝食を食べながら今日の予定を話している時に訊いてみると、ダヴィッド殿はそう答えた。道中、持ち込んだ保存食だけでは辛かろうという親切心であるようだ。
「部下の四人の方が危険に遭わねば良いのですが。」
「閣下のお気遣いに感謝します。ですが、野牛を狩るぐらいでしたら、我らは10代前半には一人でやってのけますので御心配には及びません。」
「そ、そうでしたか。まことに逞しいですな。」
野牛とか、ああいう大型の動物を仕留められるんだ…と思うと、魔獣使いたちの子供の教育はきびしそうに感じた。
朝食中に確認したルート・危険性などを考慮して隊列を組み直し、再び馬に乗る。エズアール隊長が号令をかけ、ダヴィット殿が先導して隊列が進み始めた。
「今日は雲が無いな。暑さが厳しそうだ。」
1時間ほど進んで私は空を仰いだ。どこまでも青く、澄み切った空。夏に雲ひとつないのは、ちょっと危険である。
「水の備えは十分か、確認した方がいいでしょう。倒れる者がいても不思議ではありません」
「でも午前の小休止点には水場がありませんよ。そうだ、閣下がお水出してくださいよ。」
「お前なぁ…。」
まるで私を水道の蛇口のように言う秘書官に皮肉のひとつも言いたくなったが、この陽気では、そうせざるを得んだろう。
出発から3時間後、小休止の際に確認してもらったところ、やはり水の消耗が早いようだ。
「昼まで保つか?」
私の問いにエズアール隊長は少し表情が冴えない。
「昼の大休止までは大丈夫ですが、午後の分が厳しいです。」
「昼の大休止の予定地近くには水場がありますが、今朝お話ししたとおり、やや水量が不安定です。」
報告を聞いて、昼の大休止の際に“浄水作成”で飲用に適した水を作ることにした。この魔術、水属性っぽいが実は風と火の複合である。大気中の水分をかき集め、温度を下げて凝結させて得るのだ。霊素で創った仮想の水ではないので、出来上がるのはちょっと冷たい普通の水だ。
普通の晴れの日で気温25℃なら、飽和水蒸気量は1㎥でおよそ23g。
得られる水の量から考えると、この魔術は大量の大気を処理しているはずのだが、そこらへんの物理がどうなっているのかは使っていてもよく分からない。
私にとって風属性はちょっと苦手、火属性はそうでもない。“浄水作成”がごく初歩の魔術というのもあって、それほど負担になるような魔力消費ではない。
「一度に風呂桶1杯分ぐらい作れるから、それで間に合うかな?足らなかったら、午後の小休止でも作ろう。」
「閣下には頭が上がりません。」
「気にするな。実はもうひとつ心配がある。」
私は馬を降りると、食料品を管理している者たちの所へと急いだ。
私は昨夜作っていたブラッド ソーセージなど、いくつかの熱に弱い食品を食料品を管理している者たちに改めさせる。
「良かった。まだ傷んでいない。」
恐れたのは暑さで腐敗した食品による、集団食中毒の発生である。
この気温だと、傷みやすい食品は通常より早く腐ってしまう。冷蔵設備などない状態では、ダヴィッド殿の心遣いが仇になってしまいかねない。
「きれいに洗ったバケツと、使っていない清潔な布巾を用意せよ。すぐにだ。」
「はいっ、かしこまりました!」
数人が大急ぎで、調理に使う水を用意するためのバケツと白い布巾を抱えて持ってきた。
「閣下、これでよろしいので?」
「うむ、バケツをそこに置いてくれ。」
これからおこなうのは“浄水作成”を応用した魔術だ。使う属性は同じ、ただし作るものが違う。
ドライアイスだ。
現代地球のドライアイスの生産工場では工業的に生産された二酸化炭素を使い、高純度の二酸化炭素を液化したものを解放して気化熱を奪わせて凍らせるのだが、そんな事はこの世界ではまだ無理だ。
この世界には無い以上は大気から集めるしかない。ドライアイスの原料である二酸化炭素(CO2)の大気中の割合は、地球と同じなら0.03%。温暖化が問題になっていた現代地球の2021年で0.04%だった。
つまり二酸化炭素は水よりもはるかに少ないため、かき集めるのに必要な魔力は“浄水作成”の比では無い。
気化熱を使う方法もできないので火属性の魔力──その実態は熱を操るものだ──を使い、力技で温度を押し下げる。
もっとスマートな方法がありそうだが、時間をかけられないので今できる方法でやるしかない。出発の時に気づけば良かったが、今日の気温上昇は予想以上だった。
「…魔晶石を1個使うか。」
私はポケットから取り出した人造魔晶石を左手で握り、右手に魔術師の杖を持つ。地面に円を描き、霊素の五大属性の徴を書いた。私はその中央に立って、集中し、円に魔力を通す。
これは“魔力を吸い上げる”という、周辺の環境霊素を集めて自らの魔力に変換する魔法陣だ。魔晶石と合わせて魔力のブーストに使う。幸い、竜の狩場は風属性の霊素が多い。
“浄水作成”では大気中の水を集めるのだが、そこの魔術式を書き換えて、二酸化炭素を収集できるようにする。水も少量集めて、ものとして出す時には塊になっているように調節した。
「大気の内なる恵みを…ここに…顕さん。火よ…隠されたる力の深奥をもって…大気の恵みの姿を…顕せしめよ…。」
“浄水作成”の呪文詠唱とか子供の時以来だが、改変した魔術の安定化のためにおこなった。
(これで良い。これでドライアイスができる。)
理論上、問題なく働くはずだが。
その時、体に満ちて膨らんでいた、集めた魔力がごそっと抜けた。まるで、階段を踏み外した時のような感覚が全身を襲う。左手に握った魔晶石に衝撃が走ってヒビが入ったのを感じた。
だが魔力が通ったということは、いちおうは成功したということだ。これに成果が伴えば良し、なわけだが。
バケツの上に掲げた杖の先から、真っ白な親指大の塊がコロンと中に落ちて硬質な音を立てた。それはひとつ、ふたつと増えて、音を立てて大量に出始めた。
「早く!次!次っ!」
私は杖を支えながら、バケツをどんどん用意させる。結果的に、10リットルぐらい入りそうなバケツ10個いっぱいのドライアイスができた。バケツからはひんやりとした白い煙が周りに広がる。
用意させたバケツにドライアイスが一杯になると、左手の人造魔晶石は完全に砕けて砂になって崩れた。
「閣下、これはいったい、何ですか?」
「分かりやすく言うと、うんと冷たい氷のような物質だ。直接手で触るなよ。冷た過ぎて、凍傷を負う。」
興味本位で触れようとしていた者が、慌てて手を引っ込めた。
「空気がひんやりとしてきました。」
「これは周囲のものを冷やすのだ。だが氷よりずっと冷たく、そしてほとんど濡れない。食品を冷やして保存するのに好都合なものなのだ。」
後から追いかけてきた、秘書官たちなどもドライアイスを見て目を丸くした。
「こんなものは初めて見ました。」
「まあ、そうだろうな。使い方を教えるから、布巾を持ってきてくれ。」
私はドライアイスを布巾で掴んで包み込み、傷みやすい食料といっしょにするよう指示した。
「ブラッド ソーセージ、チーズ、あとワインもこれで冷やした方が良いな。惜しげなく使え。腐りにくくなる。」
「氷室に入れた獲物が腐りにくいのと同じですな。」
ダヴィッド殿は感心したように言った。
少し違うが、確かに原理は同じだ。ダヴィッド殿は交易所の責任者を任せられるだけあって、洞察力に優れているのだろう。本質を的確に見抜いている。
「そんなところです。これがあればこの暑さでも食料に不安はありません。とっさの思いつきでやったので、魔術的なエレガントさには欠けましたけどね。」
 




