105 美しく、そして恐るべき大地
目の前に広がる見渡す限りの草原。むしろ草の海と言うべきか。それが竜の狩場の風景だ。
竜の狩場の風景はよく耕された畠、自然のものと言いながらもどこか人の手が入っている森とは明らかに違う雰囲気を持っていた。これが野生の大地の気と言うものなのだろう。
藪や木・巨岩が点在し、谷筋にだけ樹木が生い茂っている風景は北米大陸のプレーリーを思わせる。その草原と雲と鳥の姿が見えるばかりの青い空が接するあたりに、特徴的な形の山々が青く煙って見えた。
あそこが目的地の『竜の棲家』と呼ばれる山々だ。広い裾野は上に向かって緩やかに高度を上げてゆき、突然、垂直に立ち上がる。湧く雲の間から見える山頂は平らだ。ギアナ高地のテーブルマウンテンを遠くから眺めたらこんな感じなのだろうかと思わせる。
あの竜の棲家の奥に、金角の黒竜王グレンジャルスヴァールの住む荘厳な洞窟があるのだという。
父はその洞窟について微に入り細に入り書き記し、その美しさを褒め称えている。その上で“我が修辞の非才をかくも口惜しく思うこと、まことに甚だしき。我が筆には尽くす事能わず”と途中で筆を投げている。どうも金角の黒竜王の住まいは大変に美しい場所のようだ。
我々はエングルムの東門を出て、しばらくそのまま東街道を進む。そしてある所で北側に道が分かれていた。そちらに進路をとって、そのまま進むと正面に城門が見えてきた。
あるのは城門だけ。左右に塔屋があり、それをつなぐ2階建ての楼閣、1階正面に大きな門がある。
しかし普通ならばその左右に続くはずの胸壁などは無い。強いて言えば周辺に木の柵が続いているが、防御用の柵というよりも民家の周囲を囲む木の柵に近い感じだ。
これが竜の狩場の正式の入り口なのである。
「開門!ダヴィッド・ガンゲスがヴィナロス王国特使どのをご案内仕るために来た!開門せよっ!」
ダヴィッド殿が周囲に響き渡る大声で呼びかける。門番の姿は無いが視線は感じるので、塔屋か周辺の茂みに潜んでいるのであろう。
ややあって、門は軋む音とともに開いた。門の先には通路があるばかりで、奥には桝形のような敵を足止めして集中攻撃を浴びせる場所も無い。踏みならされた土の道がまっすぐ、草原の中に伸びている。
この城門は草原がただ広がる竜の狩場にあって、出入り口を象徴する建築なのだった。
「さあ、特使閣下。参りましょう。ここより我らが故国、竜の狩場でございますぞ。」
「なんとも広大無辺の天地ですね。建国の時代にはどこもこんな場所だったのかと想像してしまいます。」
「おそらくは、そうであったのでしょう。ここはかつて無辺の野山を我らの先祖が獣たちと駆け抜けていた時代のままです。」
ダヴィッド殿の言葉には国境などとは関係無く、広い世界を旅して暮らしてきた魔獣使いの誇りが含まれているように感じた。
霊素が視える私にとっても、この未開の土地の環境霊素相は興味深いものだった。土・風・水の属性を帯びた霊素に満ち、全体に生命の属性を帯びた霊素が煌めくように漂っている。
その幻想的な光景に、魔術の心得のある護衛隊の者たちには感嘆の声を上げている者もいた。人間の手が入る前の大地とは、これほどまでに自然の霊素の気が強いのかと、私も周囲をキョロキョロと見回してしまう。
「なんと美しい…。」
「魔術師でもある閣下には、私などには見えぬものを目にしていらっしゃるご様子。そうした方は皆、賛嘆されますな。」
私が漏らした感想に、ダヴィッド殿が応えた。
「とは言え、美しいばかりではありません。」
彼は草原を広く示して話す。
「ここは大野牛・大角獣・大懶獣・剣歯虎・大恐鳥などの巨大な猛獣の棲む土地でもあります。油断すると、我々ですら彼らの腹に収まることとなります。」
私は図鑑の絵図と剥製や骨格標本でしか見たことのない恐るべき猛獣の名を聞かされて、笑みが凍り付くのを止められなかった。
どれも人間一人をやすやすと殺せると言われる恐るべき大型の動物だ。どれも人間の数倍の体躯を誇り、恐るべき力で敵とみなした者を引き裂くのだ。
注意しなくてはいけないのは、これですら『動物』と言うこと。これに魔力による特殊能力を持った、魔物の域を超えて魔獣と呼ばれるものすら、竜の狩場には棲むと言うから恐ろしい。その最たる例が竜なのだが。
「この隊を外れたら、1日だって生き延びられる気がしませんね。」
「ははは、主だった猛獣がどの辺りを縄張りにしていて、どこにどんな獣がいるのか、我々はおおよそのところを把握しております。危ない所は避けた結果が道として成立しているわけですが、それでも獣の行動次第、あるいはその年の気候いかんで動きが変わる場合もございます。そこで案内役が必要になるのでございます。」
竜ともに暮らし、巨狼を駆って、恐るべき猛獣を仕留めて暮らす勇猛な狩人といった印象の魔獣使いたちだが、その基礎になっているのは自然への緻密な観察に支えられた知恵のようだ。
それは私の記憶の中にある、現代地球で読んだ探検記に登場する、極東ロシアの森で暮らした狩人デルスウ・ウザーラを連想させた。




