100 密偵の存在の効果と、天界と魔界とこの世の関係
エングルムでの宿泊先のホテルの部屋に入ると、何も言わずにベッドに飛び込みたかったが、残念ながらそうはいかない。今日の一件について詳細な報告書を書かねばならない。モンジェリン卿も今頃はベルトラン氏の居室を捜索して、王室に提出する調査報告書を作成しているだろう。
「今回のこれって、あの国からの攻撃なんですかね?」
ようやく報告書の下書きを書く手を休めて、秘書官のアンドレは疑問をつぶやいた。
「現時点では否定も肯定もできませんね。」
「そうだな。ただモンジェリン卿は“密偵”と表現していたから、何か諜報活動があったのだろう。」
ラブリット二等書記官の答えに私は同意した。
「一番心配なのは、あのおじさんだけなのかなって事なんですよ。またあんなのが襲ってきたら、イヤじゃないですか。」
秘書官の疑問はもっともだ。私も低位悪魔だのアンデッドと戦いながら進むなんて嫌だ。
そうでなくても竜の狩場は竜の獲物ともなる大型の動物や魔物が多いのだ。エズアール隊長のような、近衛三軍からの精鋭が護衛についた理由でもある。
「そうやって、疑心暗鬼にさせるのも向こうの狙う効果でしょうね。団結を妨げるために。」
「まさに悪魔的な手段だな。」
スパイの侵入や工作が露見することの最大の影響は、疑心暗鬼となって脅威に対して一致団結できなくなることだ。
実はあいつが裏切り者じゃないのか、そいつは見知らぬ奴と親しげに話していた、見慣れぬアレはなんだ、最近羽振りが良くなったアイツは怪しい…こうしてお互いに疑いの目を向け合い、排外的になり、些細なことを咎め立てるようになって、社会全体がギスギスし始める。
そうして自滅に向かった国は、現代地球の歴史上にもいくつもあった。
「モンジェリン領は国家の絶対防衛ラインだ。町自体が要塞だし、ここでそんな事態になったらたまったもんじゃない。」
「絶対狙ってやってますよ、今回の黒幕。」
「この町を出立する前にもう一度、モンジェリン卿にお会いして釘を刺しておこう。わかっていらっしゃるとは思うが。」
「それがよろしいかと。」
ラブリット二等書記官も同意する。
「これまで、こうした事はあったのだろうか?」
「過去にスパイ事件自体はございました。それでも悪魔を取り憑かせるなど、外交の事例研究にも、噂ですら聞いたことがありません。」
私がラブリット二等書記官に話を振ると、彼女は秀麗な眉根を寄せて、かぶりを振った。
「そうだよな。人間を金で抱き込んでやらせた方がリスク低いよな。」
「うわ〜。僕らが遭遇したのって、前代未聞の大事件だったんですね。」
「そんな前代未聞の大事件なんて、遭遇したくなかったぞ。」
直接、敵と相対した身からすれば、守られていたとは言え文句のひとつも言いたくなる。
「軽率な発言でした。すいません。話違いますけど、悪魔ってどうやって来るんですか?」
秘書官は謝罪すると話題を変えた。
「小鬼なんかは、雰囲気悪い場所にいつの間にか居着いてることもあるそうだが。他のものは、だいたい誰かが召喚しないと現れる事は少ない。」
悪魔の居る『魔界』は異世界なので、直接こちらに来る事はできない。ただ異世界とは言っても神々の住まう『天界』と同様に、緩やかにつながりのある異世界だ。
しかし、何かの拍子に『門』または『道』と呼ばれる、天界や魔界とつながっている地点が生じて、そうした場所ではあちら側の存在が現れることがあるという。邪な霊素の濃い場所は魔界と繋がりやすく、そうした場所には必然的に悪魔が居つく可能性が上がるというわけだ。
魔術の学問上は、天界や魔界をまとめて霊素界と呼ぶ。
この世界が物理的な存在で構築されているのと同様に、あちら側は霊素で構成されているからだ。天界は『上昇する』霊素に満ち、魔界は『下降する』霊素に満ちている。中間的な部分もあって、そこは『狭間』と呼ばれている。
霊素界は三次元的な空間の広がりの他に『深み』と呼ばれる概念的な世界軸を持ち、深みの奥に行くほど霊的に強大な存在が棲んでいる。具体的には神々や最上位の悪魔だ。幻獣と言われるような存在もここの住人である。
この霊素界の諸存在だが、基本的にこの世界──魔術の学問上は主物質界と呼んでいる──には長く留まれない。
主物質界では霊素は拡散してしまいやすく、存在を長く維持できないのだ。
ではどうするか?方法は二つある。
ひとつ目は、なんらかの方法で存在を維持するための霊素をかき集めるのである。
悪魔や強大な悪霊が生贄を求めたり、そもそも霊素の濃い場所にずっといるのも、主物質界に留まるためのコストをまかなうためだ。
ふたつ目は、肉体を持つ生物などに憑依することだ。仮の肉体を得ることで存在を安定させるのである。
これによって、霊素界の諸存在であっても、我々が『生きている』のと同じ状態になる。
生きている時の我々は、物質的な体である『肉体』と、霊素によって構成された霊的な体である『幽体』の二つで構成されている。
それを踏まえれば、霊素界の諸存在は『幽体』だけの存在なのだと言えるだろう。
前置きが長くなったが、悪魔からすると美味しい餌はあるけれど維持コストが高くつく、ハイリスク・ハイリターンな場所。それが彼らから見た主物質界なのだ。
強大な存在ほど維持コストは高くつく(と考えられている)ので、黒魔術師や悪魔崇拝者によって呼び出されたらホイホイ出てくるのは、そこらへんのリスクヘッジがやりやすくなるからである。
『元本絶対保証!あなたは旨味を受け取るだけ』なんて言われたら、ちょっと見るだけ見てみようかな?という気になるじゃないか。
「──とまあ、そんな理由で悪魔が自分から進んでこの世に現れるというのは考えにくい。誰かが召喚したと考えるのが常識的な判断だな。」
「それで、あの気の毒な家宰さんは悪魔に取り憑かれちゃったんですね。」
「そうだな。屍の影は霊体型の低位悪魔だからなおさらだったのだろうが、不運というより他ない。」
そこまで話して、ラブリット二等書記官は当然の疑問を口にする。
「では、誰があの悪魔を召喚したのですか?」
「そう、そこなんだ。」
彼女の疑問はもっともだ。拙速な判断は視野を狭くするだろうが、国境近くで連続したゾンビの発生なども考えるとヤー=ハーン王国を疑いたくもなる。
「とりあえず火の粉を払った段階。いろんな可能性があるから、今後の捜査を待つしかないか。」
私は夕闇に沈みつつあるエングルムの町並みを部屋の窓から見下ろした。そこからは市井に暮らす庶民たちの暮らし以外に見えるものはなかった。




