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夢幻神在月  作者: 堤明文
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第八話「人道」



 遡ること四時間弱。

 住宅地の細い道をゆるゆると進む軽自動車の中で、瑞希は遥にいじられていた。

「ほらほらみーちゃん、さっきから凹み過ぎだぞー。顔面から鬱なオーラ出し過ぎだぞー。帰ったらベッドに突っ伏してすすり泣いちゃいそうな感じだぞー。もしくは部屋の隅っこで体育座りしてそうな感じだぞー」

「べ、別にそんな……凹んでなんかいませんけど……」

「盛大なやられっぷりを披露した後だからって落ち込まなくていいんだぞー。ドヤ顔で調子こいた後に負けたからって気にしなくていいんだぞー。白目剥きながら泡吹いてぴくぴくしてたことなんて忘れていいんだぞー。その後セージ君の黒いオーラにビビっておしっこ漏らしたからって恥ずかしがらなくていいんだぞー。辛かったら優しい遥先生の胸に飛び込んできていいんだぞー」

「ドヤ顔してませんし泡吹いてませんし漏らしてませんよッ! 勝手な妄想で脚色しまくらないで下さいよこの年増ッ!」

「うわっ、年増とかひどーい。せっかく凹んでるみーちゃんを優しく慰めてあげようと思ってたのにー。そんなこと言うんだったら濡らしたパンツ洗ってあげないぞー」

「だから漏らしてないって言ってるでしょッ!」

 公園での戦いを終えた後、彼女らは帰路についていた。

 移動手段は行きと同じく、遥の運転する車。同乗していた清次郎は数分前に自宅の手前で降りていたため、この時車内にいるのは遥と瑞希の二人だけだった。

 清次郎を降ろした途端急に饒舌になった遥を、瑞希は助手席から横目で睨む。

「……何かもう、いつにも増してテンション高めですね、遥さん……ウザ過ぎて軽く殺意を覚えるレベルなんですけど……」

「とか何とか言いつつ、ほんとは大好きな遥先生の胸に飛び込みたくってたまらない早川瑞希ちゃんなのでした、っと」

「殺意がだんだん増大してきてるんですけど。今すぐ後ろから首締めたい衝動に駆られてたりするんですけど」

 瑞希の知る限り、朝宮遥というのはいつも大体ふざけていて、やたらと馴れ馴れしい上に辟易するくらい口数が多くて、口を開けば他人をからかわずにいられないような性悪で、簡潔にまとめると腹が立つ女なのだが――今はその性格の酷さに拍車がかかっている。一秒でも早くこの車から降りたくなるほどのうざったさだ。出来ることなら簀巻きにして相模湾に沈めてしまいたい。

 何でこんなのが自分の師なのだろう、とつくづく思う。

 今夜の戦いであまり役に立てなかったのは認めるが、それを責めるならもう少し真面目な顔をしてほしい。ふざけた調子でねちねち言われると反省する気も失せてしまう。色々なことを真面目に悔いたり悩んだりしていた自分が馬鹿みたいではないか。

 心の中でそう嘆いていると、不意に、それまでと質の違う声が飛んできた。

「……ごめんね」

 その発言に驚いて首を回した瑞希は、笑っていない遥の横顔を目にした。

「何か疲れちゃったって言うか……色々あって気が重かったから、みーちゃんとじゃれて息抜きしてた。気を悪くしちゃったらごめんね」

「……べ、別に……遥さんがアレなのは、いつものことですから……いいんですけど……」

「おしっこ漏らした事実を必死に隠蔽しようとしてるみーちゃんを追い詰めちゃって本当ごめん。でも安心して。今夜のみーちゃんが人類史に残るレベルの超絶醜態を晒しまくっちゃったことは五、六人にしか言わないから。みーちゃんが忘れてもあたしだけは忘れないでいるから」

「一瞬真面目なふりしてそれですか。もうどうでもいいですから、さっさと死んで下さい。私が降りた後にトラックと正面衝突でもして天に召されたりして下さいよ本当に」

 怒る気力もなくなってきたので、投げやりに言う。そんな反応を面白がってか、遥はまたふざけた顔に戻った。

「車で事故ったくらいじゃ遥先生は死なないぞー。ていうかそのくらいでいちいち死んでられないぞー。可愛いみーちゃんを立派に育て上げるまでは死ねないって誓ってたりするんだぞー、こう見えても」

「……いつから私の保護者になったんですか」

 溜息交じりに応じつつ、瑞希はルームミラー越しに後部座席を見やる。

 数分前まで、そこには一人の少年が座っていた。

 筒井清次郎。様々な意味で、今夜の出来事の中心だった人物。

 彼は戦いが終わると急に大人しくなり、車を降りるまでほとんど口を利かなかった。

 何故か瑞希には、その沈黙がひどく不気味なものに思えて、声をかけることはおろか目を合わせることさえ出来なかった。

 正直な所、今も震えが止まらない。

「……まだ、教えてくれないんですか? あの人のことは」

 そう問いかけたものの、納得のいくような返答は期待していなかった。どうせまたはぐらかされるに違いないと思ったのだ。

 しかし予想に反して、遥は真面目に返答した。

「危険な人。危険の度合いだけで言えば、茅野さんよりずっと上」

 硬い声音で、淡々と語る。

「例えるなら……そうね、導火線が尽きる直前の爆弾みたいなもの、かな。いつ爆発してもおかしくなくって、爆発したら取り返しのつかない惨事になる。本人の前じゃ言わないけどさ、はっきり言って狂人だよ。いろんなところが歪で、病んでて、壊れてる」

 ハンドルを握る手に、微かな力がこもる。

「でも、あたしにとっては大事な人。だからどんなに狂ってても、あたしはあの人と関わるのを止めない。ちゃんと最後まで面倒見るって決めてる」

 静かに紡がれた、誓いを表す言葉。そこに込められた真摯さと慕情の深さ、そして決意の重さは、隣に座る瑞希にも伝わった。

「今言えるのはそれだけ……ごめんね、隠し事ばっかりの嫌な先生で」

 車が瑞希の家の門前に停まる。

 師の言葉にどう応じるべきか迷った瑞希は、結局沈黙を選択し、送ってもらった礼だけを述べて車から降りた。





 清次郎が楓と出会ったのは、六年前の九月一日。清次郎のいた小学校に楓が転校してきた日だ。

 教室の扉を潜る長い髪の少女を目にした瞬間、清次郎は呼吸を忘れ、席に座ったまま硬直した。

 端的に言えば、一目惚れだったのだ。

 腰まで届く長い髪に、細くしなやかな肢体に、整った作りの顔立ちに、猫を連想させる意思の強そうな瞳に、引き寄せられるように目を奪われ、そのまま目が離せなくなった。

 人の容姿に見惚れたのは、それが初めて。

 この子と仲良くなりたい――そんな感情を抱いたのも、それが初めてだった。

 それ以前から友達は数人いたが、自分から積極的に作った友達ではなかった。暇な時間を潰すために一緒にいるだけの間柄に過ぎず、薄くてあやふやな友情しかなかった。ある日突然会えなくなったとしても、特に何とも思わなかっただろう。

 無関心という意味では、自分をいじめの標的にしていた連中も同じ。迷惑だったし、自分に絡むのはやめてほしいと思っていたが、彼らに対して強い怒りや憎しみを覚えていたわけではない。

 自分は大人しくて体も小さい。家庭環境も少し変わっている。だからいじめられるんだろうと、冷めた心地で受け入れていた。

 要するに、どうでもよかったのだ。自分を好いてくれる者も、そうでない者も、等しくどうでもいい。関心が湧いてこない。人に好かれようが嫌われようが何とも思えない。

 彼らは自分にとってどうでもいい存在。もっとはっきり言ってしまえば、価値も魅力も感じられないゴミなのだから。

 そんな中で、日比谷楓だけが違った。清次郎の認識する世界において、彼女だけが眩い輝きを放っていた。彼女だけが、ゴミではなく宝石に見えたのだ。

 だから自分から声をかけ、積極的に距離を縮めていった。

 いじめから救ってもらったのを感謝して云々――などというのは、ただの口実。取って付けただけの理由。胸の奥にあったのは感謝などという清い思いではなく、一目惚れした相手に近付きたいという俗な欲望だった。

 楓は人を寄せ付けない性格だったが、上手い具合に波長のようなものが合ったのだろう。最初は刺々しかった態度を軟化させるまで、そう時間はかからなかった。

 しだいに一緒にいる時間が長くなり、交わす言葉も増え、本の貸し借りなどもするようになった。親しくなるにつれ、楓は少しずつ自分の内面を打ち明けてくれた。彼女の孤独癖や偏った物の見方も、清次郎の好意が薄れる理由にはならなかった。むしろ逆に、そうした部分さえも好きになっていった。

 全てが順調だった。清次郎は他の誰よりも大切だと思える友達を得て、それなりに楽しい日々を享受していた。

 しかしながら、心のどこかで思わずにいられなかった。

 何かが違う、と。

 確かに楓と仲良くなれた。楓と一緒にいられる時間は楽しい。けれど、自分がしたかったこととは何か違う。こうじゃない。そんな思いが、どうしても拭えなかった。

 物足りない、と言った方がいいだろうか。とても大事なことを忘れているせいで、本当の充足を得られていない気がしたのだ。

 しかし、いくら考えてもその答えは見つけられず、もやもやとした思いを抱えたまま日々を過ごすしかなかった。あの日が訪れるまでは。

 あの夏の日――楓との対話の中で、清次郎は自分の真実を知った。

 キャンプ場から姿を消した楓を探しに出た時、頭にあったのは純粋に楓を心配する気持ちだった。

 しかし、林の中で彼女を見つけ、言葉を交わし、胸の内にある思いを知った時、そんな気持ちは跡形もなく消し飛んだ。

 代わりに生じたのは、穢れた願望。

 大好きな楓を自分の手で殺したいという、最低最悪の欲求。

 湧き上がる邪悪な衝動に身を委ね、狂喜しながら楓を襲った。殴り、蹴り飛ばし、組み伏せて首を絞めた。

 その時胸を満たした気分は、五年経った今でも忘れられない。

 快感だった。

 楓の怯えた顔を見るのが、楓の口から迸る悲鳴を聞くのが、逃げ惑う楓を捕まえて組み伏せるのが、楓の体を傷つけるのが、たまらなく快感だった。

 紡いできた絆を台無しにする行為の中で、清次郎は悟った。

 ああ、そうか――

 こうすればよかったんだ、と。

 ただ一緒にいるだけだとか、仲良くお喋りするだとか、そんなものでは全く足りない。心が満ちない。幸せを感じられない。

 自分が本当の意味で満たされるのは、この時だ。

 大好きな人を、かけがえのない存在を、傷つけ苦しめ絶望の底に叩き落とす行為が、楽しくて楽しくてたまらないのだ。

 どうして今まで、こんな簡単なことに気付けなかったのだろう。

 そう自嘲しながら、清次郎は暴虐の快感に溺れ続けた。





「くは、はは……くはははは……」

 暗い病室の中。天熱の腕で楓の口を塞ぎながら、清次郎は笑う。

 下劣に。獰悪に。酷薄に。凄絶に。

 溝鼠色の歓喜に打ち震えながら、怯える少女を舐め回すように見つめる。

「最高だ……ああ本当に、最高だよ……ゾクゾクする」

 あれから五年――出会った日から数えれば、六年近く経った。

 その間に、楓は美しく成長した。

 長い足はほどよく肉付き、胸も大きく膨らんだ。顔立ちは凛とした雰囲気を保ったまま女らしさを増し、大人びた色香を漂わせ始めている。

 華やかで瑞々しい十五歳の体。最高に美しい。

 実に、壊し甲斐のある体だ。

「さっきゴミを二匹潰したが……駄目だな、これっぽっちも楽しくねえ。汚らしいんだよ、あいつらは……糞みてえに汚すぎて、まるでそそらねえ。ぶちのめしたところで空しいだけだ。こみ上げてくるものが何もねえよ」

 倉科達との戦いは面倒なだけの作業であり、快楽を見出せなかった。

 元々、殺し合いを楽しむ趣味はない。無抵抗な相手を一方的にいたぶるのが好きなのだが、それとて誰でもいいわけではない。

 身も心も汚い男共に興味はないのだ。そんな奴等はゴミにしか見えない。目障りなゴミは手早く片付けるだけ。

 じっくりと時間をかけ、手を凝らしながら丁寧に殺すのは、心底から気に入った相手だけと決めているのだ。

「楓がいいんだ……楓だからいいんだよ」

 清次郎は、美しいものが好きだ。眩しいものが好きだ。清らかなものが好きだ。

 美しくて眩しくて清らかなものに泥を塗りたくって汚すのが、楽しくてたまらないから。

 大好きな相手の心を踏み躙るのが、何よりも好きだから。

「綺麗な楓をこの手でぐちゃぐちゃにしてやる時間が、最高に楽しいんだ」

 楓の美しい姿を見れば見るほど、妄想が膨らむ。この美しさを台無しにしてやりたいという思いが、際限なく増大していく。

 汚したい。嬲りたい。壊したい。

 綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶ様が見たい。小便を漏らしながら命乞いする様が見たい。恐怖のあまり発狂して惨めな醜態を晒す様が、見たくて見たくてたまらない。

「やっと、あの時の続きが出来る……長かったよ、本当に」

 五年前に楓を襲った時は、抵抗されて失敗に終わった。

 細かいことは憶えていないが、頭を強く打って気絶したらしい。気付いた時にはキャンプ場のテントの中まで運ばれていた。

 意外――というより不可解だったのは、楓が嘘をついたことだ。

 一人でキャンプ場に戻った彼女は、「林の中でセージと会った。一緒に帰る途中で自分が足を滑らせて、それに巻き込まれたセージが頭を打った」という作り話を大人達に伝えたらしい。

 無理のある説明だっただろうが、大人達もまさか殺人未遂があったとは思わなかったのだろう。その一件は事故として片付けられ、真実が明るみに出ることはなかった。

 後に残ったのは深い後悔と、罪悪感と、楓に対する負い目。

 どうしてあんなことをしてしまったのだろうと後悔し、犯した罪の重さに苛まれ、楓と顔を合わせることさえ辛くなった。

 楓は許してくれたが、それでも心は軽くならなかった。自分が最低の屑だったことを思い知り、自分で自分が許せなくなった。

 しかも始末が悪いことに、正気に戻った後も胸の奥底で渦巻いていたのだ。

「あの時の続きがしたい」という、下種な欲求が。

 楓の細い首筋を見る度、力いっぱいへし折りたくなる。楓が笑顔を見せてくれる度、拳を叩き込んで血塗れにしたくなる。決して許されないことだと分かってはいるが、それがしたくてたまらないのだ。抑えつけようと思っても抑えきれない。ふとした弾みで爆発しそうになる。

 だから、自分を殺そうとした。

 このままではいずれ、自分は狂う。内なる衝動に負けて理性を手放し、今度こそ楓を殺してしまう。そんな最悪の結末を避けるためには自分が死ぬしかないと結論付けて、橋から飛び降りた。

 けれど、それも失敗した。恐怖と戦いながら敢行した自殺は、突如現れた朝宮遥という女によって阻止された。どうにもならない欲求を抱えたまま生きることを余儀なくされ、その後は思いがけない出来事の連続で自殺どころではなくなり――そして、今夜の戦いを迎えた。

 あの戦いの中で、内なる衝動を封じていた殻は破れた。

 長年に渡って溜め込んでいたものが一気に噴出し、苦悩ばかりで疲弊していた頭に清々しい解放感をもたらしてくれた。

 それを境に、多くのことがどうでもよくなった。

 法も、倫理も、自分の願いの罪深さも、殺人の意味も、気にすることさえ馬鹿らしくなった。何故今までそんな下らないことを気にしていたのかとさえ思った。

 これからは、もっと正直に――自分に嘘をつかずに生きようと思ったのだ。

 そうすれば、幸せになれるから。あの時と同じように、湧き上がる無上の幸福感が、渇いた心を潤してくれるから。

「来いよ、天熱」

 清次郎の背後で、魔性の力が膨れ上がる。青黒い皮膚に覆われた巨躯が、闇を引き裂いて姿を現す。

 天熱――清次郎の歪な心から生み出された背徳の神は、その右腕で楓の身動きを封じたまま、主と同じ表情を見せた。

 牙を剥くように口を開け、嬉しそうに笑ったのだ。

「ふっ……ぐぅっ……」

 楓は呻き声を上げながら目を見開き、全身を小刻みに震わせた。

 その反応を見て、やはりな、と清次郎は思う。

 部室で襲撃に遭った時も、体内に虫を入れられた時も、傷の治療をされた時も、楓は玩神の存在を認識しているそぶりを見せていた。この自分でさえ一昨日まで玩神を目視することが出来なかったのだから、驚くべきことだ。

 おそらく、その道の才能があるのだろう。改めて考えてみれば、玩神法に向いていそうな面が多々ある少女だ。ダイヤの原石だったとしてもおかしくはない。

 実に結構。それならそれで、実にいい。

 何も分からないままあたふたされるより、天熱の醜さと恐ろしさを明確に理解してくれた方が、色々と面白い。

 それに、自分とお揃いな感じもいい。

 幻想の神を作り上げる才能に恵まれた者同士――何やら運命的なものまで感じられて、素晴らしい。

 やはりこいつは俺の獲物だ。俺に蹂躙されるために生まれてきたのだ。心からそう思えて、気分がますます高揚する。

「くく……」

 どこか人目につかない所に連れ去ろうと思っていたが、やめだ。今すぐ、ここで始めてしまおう。

 無論楓は暴れて泣き叫ぶだろうし、それを聞きつけた病院の職員や入院患者も騒ぎ出すだろうが、瑣末な事だ。蹴散らしてしまえばいい。

 邪魔な奴等は殺す。自分の楽しみに水を差そうとするゴミ共は、殺して潰して黙らせる。

 今の自分なら、それが可能だ。

 自分は最強の玩神使い。神の領域に到達した唯一の人間。自分に敵う者など、この世には一人もいない。

 誰が相手だろうと勝てる。全人類を敵に回したとしても、絶対に勝てる。

 だから、何も恐れる必要はない。瑣末な事は気にせずやりたいようにやってしまおうと思い、楓の口から手を放した。彼女の口が吐き出す汚い悲鳴や惨めな命乞いを聞いて、さらなる高揚感を味わうために。

 だが、次の瞬間、その期待は砕かれる。

「やめてよ、セージ……」

 楓が目を伏せながら零したのは、細く弱々しく、切ない声。

 悲しみを帯びた声だった。

「今の……そんなおかしくなったセージ……見たくないよ」

 清次郎の瞳から狂喜の熱が引き、代わりに驚きと戸惑いが浮かぶ。予期せぬ出来事に遭遇したような心境で、彼は悲しげに俯く少女を見つめた。

「分からないこと、たくさんあるけど……一つだけ、分かるよ……またおかしくなったんでしょ……? あの時みたいに……」

 紛れもない生命の危機に直面しながら、楓は不自然なほど落ち着いていた。沈んだ感情を表に出してはいるが、取り乱してはいない。むしろその佇まいからは、どこか開き直ったような印象さえ受ける。

 だからこそ、清次郎は戸惑わずにいられない。楓の思考が理解出来なくなり、唖然とした顔を晒すしかなかった。

「あの時のセージ……怖かったよ……抵抗しなきゃ殺されるって思えて、すごく怖かった……」

 握った手に力を込めて、楓は飾らない本音を口にする。

「でも……今までずっと、忘れようとしてた……忘れたかったんだよ、本当に……」

 目の端から涙が滲み、頬を伝う。

「思い出させないでよ……! 忘れたままでいさせてよ、お願いだから……!」

 激しく叩きつけられたその訴えを、清次郎は聞き流せない。彼の精神の中枢――毒々しい狂気の色に染まっていた部分が、微かに軋み、罅割れる。感情を剥き出しにした楓の言葉は清次郎の真芯を捉え、確かな動揺を与えていた。

 息が苦しい。頭痛がする。苦しくて、痛くて、楓と目を合わせていられない。脳細胞を焼き尽くしそうなほどだった高揚感が霧散し、腹の中に鉛を詰め込まれるような不快感がどこかから押し寄せてくる。

 その不快感に抗うために、静かな怒声を放つ。

「黙れ……」

「嫌だよ、黙らない」

 楓は即座に言い返し、顔を上げた。涙を振り切った強い眼差しが、清次郎を射抜く。

「いくら凄んできたって、何度でも言ってあげる。馬鹿なことやってないでいつものセージに戻ってよ。今のそんなおかしくなった姿、見てるだけで辛いから」

「づぅ……!」

 苦鳴を洩らす清次郎。焼き鏝を押し当てられたような痛みが彼の脳髄を駆け巡り、血を逆流させた。

 訳の分からない苛立ち――いや激怒が、思考の全域を埋め尽くす。楓に向ける感情が歪な好意から純粋な殺意へと変わっていく。

 何故かは自分でも分からないが、許せなかった。今の楓の表情が、眼差しが、言葉が、声が、佇まいが、どんな侮辱や罵倒よりも許し難く、耐え難かった。

 今すぐに力ずくで黙らせたいという衝動に駆られ、天熱を動かす。病魔の力が宿った拳を振りかぶらせ、楓の体に叩き込もうとした。

「やだよ……そんな顔、しないで」

 清次郎の目を真っ直ぐに見つめて、楓は言った。

「僕は、セージを……嫌いになりたくないよ……」

 殺意が爆ぜる。拳が奔る。

 人体など砂糖菓子も同然に粉砕するであろう、邪神の巨腕。

 全てを断ち切り、終わらせてしまう、破滅の一撃。

 手加減を忘れた過剰な暴力が楓の体に到達し、命を奪う。

 まさに、その寸前――

『つっちーはさ……カエをわざと傷つけたりしないでしょ?』

 過去から届いた声が、頭の中に響き渡った。

『最近はあの子、昔ほど口悪くないし……本気で怒ることなんてそんなになくなったでしょ? 大人になったっていうより、小六が中一になったくらいだけど……それでも、何だかんだでつっちーに影響されてるんだよ、ちょっとずつね』

 昨日の日没前。病院からの帰り道。

 芹沢真奈美は、そう言っていた。

 楓と姉妹のような間柄の彼女は、落ち込んでいた後輩を元気付けるように、柔らかな笑みを浮かべていた。

『おばさんこう見えても、みんなに感謝してるのよ。あの子はああいう子だから、学校でも一人ぼっちになるんじゃないかって心配してたのに……こんなにいい友達が出来てよかった、ってね』

 楓の母親、日比谷祥子はそう言っていた。

 あの穏やかな女性は、病院まで駆けつけてきた子供達を娘の良き友人と信じ、感謝の気持ちを言葉にしていた。

 恭也も、由梨も――自分の周りにいる人間は、皆同じだった。少しも疑わずに信じてくれていた。

 筒井清次郎にとって、日比谷楓は大切な存在だと。

 何があろうと、決して、傷つけたりしないと。

「――っ」

 楓の顔面の一センチ先で、拳が止まる。

 楓は息を呑み、顔を強張らせて、その拳を見つめる。

 清次郎は歯を食いしばり、苦しげに息を吐く。

「ふ……ぐぅっ……」

 どうしてか、頭の中で雑音がする。

 今となってはどうでもいい、無意味で無価値な記憶を、頭が勝手に掘り起こしている。次々と再生される音声と映像が鎖のように絡み付いてきて、行動を阻害する。

 かつてないほど怒り狂い、殺意をぶちまけたくてたまらないのに、拳を振り抜くことが出来ない。

 眼前の少女を、傷つけられない。

 本当に、どうしてなのか。楓以外の全てがどうでもよくなって、余分なものを頭の中から取り除いて、望みを叶えるつもりでここに来たのに、どうして今、取り除いた筈のものに苦しめられるのか。

 あんなゴミみたいな出来事の数々に、どうして自分は縛られているのか。

 自分は鬼畜。

 生来の破綻者。

 骨の髄まで穢れた外道。

 人間らしい真っ当な精神など、最初から持ち合わせていないのに――

「――違うよ」

 声が、聞こえた。

 楓の声ではない。自分の声でもない。知らない誰かの声。しかし何故か、聞き覚えのあるような声。

 遠い過去からやってきた、幼い声だった。





「セージは、悪い人じゃない」

 いつか、どこかで、そう言われたことがある。

 いつだったかは思い出せない。

 けれど確かに、誰かから、そう言われたことがあったのだ。

「きれいじゃないし、悪いことたくさん考えてるけど……でも、違うよ。本当の悪い人とは、違う」

 寂れた神社の境内だった。

 年月を経て朽ちかけた社殿。苔むした石鳥居。罅割れた石畳。鬱蒼と茂る杉林。木々の隙間から差し込む日の光。

 脳裏に浮かぶそんな情景の中に、一人の少女がいた。

「セージは、優しいから」

 まだ十歳にも満たないであろう子供。

 白い小袖と緋袴に身を包んだ、小さな巫女だ。

 その幼い顔が、こちらを向いていた。

 曇りのないガラス玉の瞳が、隠された真実を探り出すように、じっとこちらを見つめていた。

「きれいじゃないから優しくなれるんだって……あたし、知ってるから」





 清次郎が床に膝をつく様を、楓は見た。

 そして、聞いた。彼の口から洩れ出る、無惨なほど痛々しい声を。

「っづぅ……ああ……! うおあああああっ……!」

 淡い月明かりに照らされる中、頭を抱えて蹲る清次郎。頭皮に爪を立て、髪が抜けるまで掻き毟り、四肢を震わせながら身をよじる姿は、禁断症状に苦しむ薬物中毒者のようだった。

 錯乱という言葉だけでは表し切れない狂態だ。

 精神が半壊状態に陥っている。

「セージ……」

 目を背けたくなる気持ちを抑えて、楓は苦悶する清次郎を直視した。

 自分の言葉は彼に届いたのか。彼を衝き動かしていた狂気は鎮まったのか。だからあんなにも苦しそうにしているのか。

 分からない。心の中は覗けないから、確信は持てない。けれどあの異常な様子を見たら、放っておくわけにはいかない。

 どうにかしなければと思い、おそるおそる手を差し伸べようとした。

「屑、が……この屑がぁっ……!」

 その手を拒むかのように、清次郎は罵声を放つ。

「死ねッ! 死ね死ね死ね死ね死ね死ねッ! 死ねよ、この屑……!」

 呪詛に等しい罵声だった。憤怒、憎悪、悲嘆、後悔、絶望――あらゆる負の想念が溶け合いながら激動する濁流。壊れた心が紡ぎ上げる黒い呪詛だ。

 それが動力となり、停止していた天熱を動かした。再び握り固められた右の拳が、緩慢な動作で大きく振り上げられる。

 危険を感じて反射的に身構える楓だったが、すぐに気付いた。

 今度の標的は違う。あの拳が狙っているのは、自分ではない。

 清次郎自身だ。

「死ねよ、この屑……! 死んじまえよ!」

 自分自身に罵声を浴びせながら、清次郎は天熱に命じる。

 お前の主を――この救いようのない屑を殺せ、と。

 その命を受け、背徳の神は拳を打ち下ろす。巨大な青黒い塊が、断頭台の刃のように落ちていく。

「ダメッ!」

 蒼白な顔で叫んだ瞬間。

 横合いから伸びてくる線状の物体を、楓の目は捉えた。

 長い、銀色の鎖であった。

 清次郎の体はその鎖に絡め取られ、引き寄せられる。それにより間一髪で拳撃の軌道上から外れ、死を免れた。

「なっ……」

 共に驚愕の表情で、鎖の持ち主に視線を向ける清次郎と楓。そんな二人に言葉を投げかけられるより早く、闖入者は次なる行動に移った。

 手にしていたスタンガンのスイッチを入れ、電極部を清次郎の体に押し当てる。感電した清次郎は体の自由を失い、倒れ伏した。

 その数秒後、天熱が現実世界から消失する。

「ギリギリセーフ……ね。ストーカーやっててよかったって、今だけは本気で思うよ」

 闖入者の正体は、朝宮遥だった。いつの間にか病室の入口に立っていた彼女は、鎖の形にした自らの玩神で清次郎を縛り上げつつ、楓に笑いかける。

「ごめんねー楓ちゃん、怖い思いさせちゃって。けどもう大丈夫だから、とりあえず安心して」

 突然出てきた女にそう言われても、楓はどう応じればいいのか分からない。

 楓にとって遥は、ほとんど見知らぬ他人だ。

 先日自分が負傷した際に応急処置をしてくれた女、という程度の認識しかない。

 立場も素姓も清次郎との関係も、今ここにいる理由も、何一つ知らないし、見当もつかない。

「んじゃ、ま、そういうわけで……お取り込み中のとこ悪いんだけどさ、この子ちょっと借りるね」

 遥は動けない清次郎を荷物のように担ぎ上げ、病室から出ていこうとする。

 そこでようやく、楓は声を発した。

「あっ……ま、待って……!」

 引き戸に手をかけていた遥は、ぴたりと動きを止め、振り返る。

「あの……えっと……」

 楓は言葉に詰まった。咄嗟に呼び止めたものの、やはり何を言えばいいのか分からない。それでも何か言わねばならないと思い、懸命に言葉を探す。

 そんな様子を見た遥は、ふっと笑みを零した。

「大丈夫、どっかの山の中に埋めてきたりするわけじゃないよ。ちょっとお説教しとくだけ」

 安心させるため、深刻さの欠片もない声で言う。

「また、楽しい学校生活が送れるようにね」

 そうして遥は、清次郎を担いだまま病室を後にした。





 病院の裏手――古い家屋が連なる細い路地。

 そこで遥は、担いでいた清次郎を下ろした。

 鎖を解かれた清次郎はアスファルトの上に尻餅をつき、後ろにあったブロック塀にもたれかかる。そしてまだ痺れの残る体を動かし、目の前に立つ遥の顔を見上げた。

 夜の河原で出会った時と似たような構図だった。

 あの時と違い、遥の顔に柔らかな微笑みはなかったが。

「俺を……俺の後を、つけてたんですか……?」

「つけてたっていうより、待ち伏せね。ま……どこ行って何するかは予想がついてたし。先回りしてみたら案の定、ってとこ」

 無表情のまま、遥は淡々と答える。清次郎は問いを重ねた。

「知ってたんですか……俺のこと、全部……」

「最初に言ったでしょ、年季の入った凄腕のストーカーだって。セージ君のことなら何でもお見通しだよ」

 当然のように返ってきた言葉は、清次郎の神経を逆撫でした。奥歯を強く噛み締めて、彼は遥を睨みつける。

「だったら……」

 掠れた声を吐き出し、怒りをぶつける。

「だったら、死なせて下さいよ」

 剣呑な眼光と共に放たれた訴えを、遥は何も言わずに受け止めた。

 畳みかけるように、清次郎は語気を強める。

「知ってたんでしょう……? 俺がこんな奴だってこと……こんな、最低な……生きてる資格もない屑だってこと……最初から全部、知ってたんでしょう……?」

「……知ってたよ。全部、知ってた」

「だったら、何で死なせてくれないんですか! こっちは死のうとしてるのに、何で……何でいつも邪魔するんだよ! 何で死なせてくれないんだよ! 俺は……俺は死ななきゃいけないのに……!」

 自分は屑だ。生きる資格さえもない、最低の屑だ。

 五年前からずっと自分を嫌悪し、責め続け、邪悪な本性を抑えつけようとしてきたのに、それでも駄目だった。

 また自制を失い、楓を手にかけようとしてしまった。

 救えない。自分という屑は、本当に救いようがない。今夜の件で、そのことを再認識した。

 だからこそ自ら命を断とうとしたのに、すんでのところで阻止された。

 三日前の夜と同じだ。あの時も死ぬつもりで橋から飛び降りたのに、死に損なった。

 今目の前にいる女のせいだ。

 このふざけた女が、自分を死なせてくれないから――

「死なせるつもりだった。ううん、殺すつもりだったよ。あたしが、この手で」

 静かに紡がれた言葉が、怒りの炎をかき消した。

「もし君が、あの子をほんの少しでも傷つけたら……その時は、どんな手を使ってでも君を止めるって決めてた。君と殺し合うことになっても……君をこの手で殺すことになっても仕方がないって思ってた。完全に暴走した君を力ずくで止められるのは、あたししかいないから」

 そこで一旦言葉を切り、遥は楓の病室がある方に目をやった。

「……そうならなくてよかったよ。あたしまだ刑務所行きたくないし、楓ちゃんや由梨さんに恨まれたくなかったしね」

 その様子から、清次郎は遥の心情を理解した。

 彼女がどんな思いで一部始終を見ていたのか――どれほどの覚悟がそこにあったのかを、ようやく知った。

 しかしながら、それでも納得がいかなかった。どうして死なせてくれなかったのかという思いが頭の中から消えなかった。

 未遂に終わったからといって、自分は無罪だなどとは到底思えない。

 この手で楓を殺そうとしたことは、否定しようのない事実なのだから。

「違う……俺は……」

「違わないよ、何も」

「違う! 俺は……俺は楓に、あんな……」

「君がやったのは、夜の病院に不法侵入して、あの子の怪我を治した後、ちょっと脅かしたってことだけ。そりゃいけないことではあるけどね、後でちゃんと謝れば済む話だよ。死んで償わなきゃいけないほどのことじゃない」

 清次郎の否定に、遥は否定を返す。揺るぎない意思を声に込めて、死ぬ必要などないと強く主張する。

「俺は、楓を殺そうとした……」

「そうね。でも、殺さなかった。一度振り上げた拳を、ちゃんと自分の意思で止めた。あたしにとってはそれが全て」

 迷いのない様子で言い切られ、清次郎は言葉に詰まった。逃げるように視線を逸らし、苦い顔で押し黙る。

 彼が口を開いたのは、それから十秒以上経った後だった。

「全てって、何だよ……」

 体と声を微かに震わせ、呟く。

「二度だ……これで二度も、楓を殺そうとした……そんな……そんな奴が、許されていいわけあるかよ……!」

 一度だけなら、まだ取り返しがつく範囲の過ちだったかもしれない。だが、二度目となれば最早弁明の余地はない。

 自分は楓を裏切った。彼女の優しさを踏み躙り、信頼関係を破壊し、彼女の全てを冒涜しようとした。

 その罪は重い。決して許されることではない。許されてはならない。

 何より自分自身が、こんな自分を許したくない。

「……俺は、屑だ」

 五年間溜め込んでいた思いが、涙と一緒に溢れ出る。

「いつも……いつもいつもいつも、最低なことばかり考えてる。絶対に許されないことを、心の底からやりたがってる。歪んでるんだよ、性根が……腐ってるんだ、根本的に……自分でもどうにもならないくらい捻じ曲がってる、手遅れな屑なんだよ、俺は……!」

 再び交わる、二人の視線。

 激情に駆られて吼える清次郎と違い、遥はどこまでも冷静だった。

「そうだよ。君は性根が歪んでる。狂ってるし、腐ってるし、酷く捻じ曲がってる。どこからどう見たってまともじゃない」

 膝を折り、清次郎と目の高さを合わせる。

「でもね……」

 顔を寄せ、言い放つ。

「歪んだ人が歪んだ人生しか歩めないなんて、あたしは思わない」

 その言葉は、清次郎の中の何かを強く打ち据えた。

「歪んだ人を待ってるのは救われない未来だけで、道を外れて罪を犯して、地獄に落ちて罰せられるしかないなんて……そんなの、誰が何て言ったって、絶対認めない」

 鋼より強固な意思を、清次郎は遥の瞳の奥に見た。

 朝宮遥が抱き続ける、決して譲れない何か――彼女を根底から支える何かを、この時初めて垣間見た。

 同時に、感じた。自分自身の中で、何かが徐々に目を覚ましていくのを。

「落ち着いて、よく思い出しなさい。君が昨日、必死にあの子を守ろうとしたのは何のため? あの子が傷つけられた時、本気で怒ったのはどうして? 自分の獲物だから? あの子を傷つけるのは自分じゃないといけないから? 違うでしょう!」

 激しさを帯びた叱声が、耳朶に響く。

「あの子が好きだからでしょう? 殺したいとか傷つけたいとかそんなことじゃなくて、本当に大切に思ってたから、自分の命に代えても守ろうとしたんでしょう? 違う?」

 返答に窮しながら、清次郎は昨日の出来事を思い返す。記憶の中にいる自分自身と向き合い、答えを求める。

 ――そうだ。あの時は、ただ必死だった。

 自分が傷つくことよりも、楓が傷つくことの方が、何十倍も嫌だった。楓が涙を流すところを見たくなかった。楓を失いたくなかった。だから自分の手で守りたいと思って、必死に戦った。

 本当に、ただそれだけだった。

 悪意も殺意もありはしない。ただ楓を守りたいという気持ちだけが、あの時の自分の全てだった。

 そんな気持ちを、どうして忘れていたのだろう。

「……玩神法を身に付けた人はね、みんな少しずつおかしくなっていくの」

 声音を穏やかなものに変えて、遥は言う。

「強くて、便利で、何でもしてくれるものね、神様は……どんな願いでも叶えてくれるから、みんなそれに惑わされておかしくなる。欲望に歯止めが利かなくなって、自分が抱いた妄想しか見えない人になっていく。その内他の人を思いやる気持ちもなくなって、平気でひどいことをするようになる……何人も見てきたよ、そういう人」

 清次郎を見据える眼差しに幾つもの感情が折り重なっていく。そこには、僅かな希望を見出したような安堵の思いも含まれていた。

「でも、君は違うよ。もう手遅れな、手の施しようのない人達とは、違う」

 白い手が清次郎の後頭部に伸び、髪にそっと触れる。

「おかしくなりかけたけど、それでも……玩神の誘惑にも、自分の狂気にも負けなかった。最後まで、本当に大事なことを忘れなかった」

 その尊さを知っているからこそ、嘘吐きな女は優しく頭を撫でながら、溢れる慈愛を言葉にして贈った。

「君はいい子だよ」





 先日下駄箱で発見した、一通の手紙。

 最初に見た時は当惑し、誰かの悪戯かと疑ってしまったもの。

 制服のポケットに入れていたせいで図らずも病院まで持ち込むことになったそれに、楓は今再び目を通していた。

 差出人の名前がどこにもない、妙な手紙だ。封筒は完全にラブレターの仕様なのだが、中の便箋に書かれていた内容は愛の告白などではない。

 かなり口語的な――というより、非常に不真面目な文体で、幼馴染の少年に関することが書かれていた。



前略 とりあえず初めまして、日比谷楓様。真面目な話ですので真面目にいこうかと思ったのですが、つい遊び心が出てラブレター風味にしちゃいました。マジすみません。

 私は……まあ何と言いますか、あなたとあなたの幼馴染をたまに陰から見守ってたりする絶賛休業中のアーティストです。訳あって今は名乗れないので、「名無しの権兵衛」とか「アーティスト(笑)」とか脳内でテキトーに呼称をつけとく感じでお願いします。

 胡散臭さ満載で申し訳ありませんが、決してヤバい奴じゃないので警戒したり気味悪がったり先生に相談したり警察に通報したりしないで下さい。マジお願いします。

 てなわけで、本題に入らせてもらいます。あのショタ面チビ……もとい、筒井清次郎君のことです。

 とっくにご存じかと思いますが、彼は普通じゃない子です。色んな意味で病んでいて、ほっとくと大変危険です。先日も懲りずに自殺未遂をやらかしました。本当に世話が焼けるというか、すごくめんどくさい奴ですね、はい。

 でも、ああ見えてけっこう良い所もあったり……するかどうか微妙かもしれませんが、それでも、あなたのことが好きなのだけは確かです。本人は隠してるつもりでしょうけど、傍から見るとバレバレです。全然隠せてません。

 なのでまあ、たまにウザいとかキモいとかめんどくさいとか思ったりするかもしれませんが、どうか嫌わないであげて下さい。

 そして、出来ることなら、あの駄目な子を救ってあげて下さい。

 無茶なお願いをしているのは承知ですが……彼の救いになれるのはあなただけだと、私は思っています。                              草々



 何度読み返しても胡散臭い、色々な意味で酷すぎる手紙。

 けれども無視する気にも捨てる気にもなれず、一度読んだら頭から離れていかない――そんな手紙だ。

 この手紙の差出人が誰なのか、今なら見当がつく。

 どんな気持ちでこの文章を綴ったのかも、何となくだが分かる気がする。

「……」

 暗い病室の中、楓は一枚の便箋を見つめ続けた。



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