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夢幻神在月  作者: 堤明文
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第七話「玩物喪志」



 全ての夫婦が幸せになれるわけではない。

 長きに渡って良好な関係を維持し、円満な家庭を築いていけるとは限らない。

 愛し合うことを望んでも、愛し合うために努力しても、上手くいかない場合もある。

 椎名幸久はそれを、妻と過ごした十八年の間に思い知らされた。

 結婚したのは、相手の女性を純粋に愛したからだった。

 容姿ではなく温和な性格に惹かれて交際を申し込み、二年の交際期間を経て結婚し、同じ屋根の下で暮らすようになった。やがて子供も生まれ、暮らし向きも安定し、彼らの夫婦としての生活は順風満帆に進んでいった。

 というのは、表向きの話。実際の所、彼ら二人の関係は月日が経つにつれて冷え込む一方だった。

 和やかに談笑する機会は減り、代わりに諍いが増えた。

 仕事のこと、金銭のこと、子育てのこと、生活の中での些細なこと――様々な理由で度々対立し、激しく罵り合うようになった。離婚の話になりかけたことも何度かあった。同じ屋根の下にいながら、生活は別居に近いものに変わっていった。

 そんな日々が、幸久には辛かった。

 関係が悪化の一途を辿り、諍いを繰り返すようになっても、彼は妻を愛していたのだ。

 それに、事あるごとに怒鳴り散らしながらも、心の底では気付いていた。自分達の心の距離が開いた原因は、自分の側にあるのだということに。

 自分の欠点はよく分かっている。

 短気で不寛容な上に、自己中心的。何事も思い通りにならなければ気が済まず、気に食わないことに対して感情を抑えられない。

 人として不出来なその性格が妻に嫌われ、埋められない溝を作っていることは、誰かに指摘されるまでもなく自覚していた。

 自覚していたが、どうにもならなかった。持って生まれた性分はそう簡単に変えられない。妻の前では自分を抑えて寛容に振舞おうとしても、ふとした弾みでつい怒鳴り声を上げてしまう。

 努力したつもりだったが上手くいかず、それにより募った苛立ちが態度に出てしまい、また喧嘩になるという、完全な悪循環に陥っていた。

 そして、破局の日が訪れる。

 長年の間に鬱積していたものが、その日の口論でついに爆発し、気が付けば妻を殴り倒していた。

 苦痛に歪む妻の顔。流れる血。手に残る暴力の感触。越えてはならない一線を越えてしまった事実が、耐え難い重荷となって幸久の心にのしかかった。

 さらに耐え難かったのは、自らの行いを孝文に諌められたこと。

 息子の口から放たれた言葉が、悲しみと憐れみを含んだその言葉が――まるで、遠い昔の自分が今の自分に向けて放った言葉のように思えて、あらゆる感情が暴走した。

 罪から逃れるように、自分を見つめる過去の自分を拒むように、孝文を殴った。殴り倒して、足蹴にして、何度も罵声を浴びせかけた。理不尽な仕打ちだと分かってはいたが、自分では止められなかった。どこかで歯車が狂った自分の人生への怒りを、無関係な孝文にぶつけてしまっていた。

 それを止めたのは、頬に走った衝撃と痛み。妻の手による、一発の平手打ちだった。

 傷ついた息子を庇うために立ち上がり、幸久を睨みつけ、その目に涙を溜めながら、彼女は言ったのだ。

「あんたは……本当に、最低の男ね」

 返す言葉もなかった。

 妻と子の傷ついた姿と、血で汚れた自分の手を見て、深く痛感した。

 夫としても、父親としても、自分は最低だと。

 次の日は仕事も手につかず、妻に謝る方法ばかり考えていた。

 何と言えば許してもらえるのか。何をすれば償いになるのか。そんなことばかり考えていた。

 考えて、考えて、必死に考え続けて、ようやく答えらしきものを見つけ出し、妻と向き合う決心を固めた時、知らせを受けた。

 妻が事故に遭い、帰らぬ人となった知らせを。

 謝罪の機会は訪れなかった。許しを得られる日は来なかった。壊れた関係を最後の最後まで修復出来ないまま、妻と共に暮らせる時間は終わったのだ。

 茅野清明と出会い、玩神法を知ったのは、そのすぐ後だ。不可能を可能にする神秘の力に魅せられ、縋り付くように弟子入りした。全てを捨てて修行に打ち込み、妻の蘇生という奇跡を追い求めた。

 彼女にまた逢いたかった。自分の元に帰ってきてほしかった。

 あの日伝えられなかった謝罪の言葉を、どうしても伝えたかった。

 そして、今度こそ――仲の良い夫婦になりたかったのだ。





 意識を取り戻してから最初に見たのは、朝宮遥の顔だった。

 自分を見下ろしてくる一対の目に、幸久はまだ焦点が合わない目を向ける。

「朝……宮……」

「あ、もう目ぇ覚めた? 思ったより早かったね」

 そう言ってから少しだけ目つきを真剣なものにして、遥は言葉を続ける。

「でも……相手があたしじゃなかったら、二度と目覚められないとこだったよ。椎名さん」

「……っ!」

 身も蓋もないその言葉は、幸久の意識を完全に覚醒させ、重い敗北感を与えた。

「陽子さんやサナちゃんは手加減してくれないだろうし、稔君は手加減するかもしれないけど、ぶっ飛ばした後で死んでなかったらほっとこうかって程度。道厳和尚なんか相手にしたら、きっと死ぬより酷い目に遭う」

 遥は知っている。

 自分の同期生達は、自分ほど甘くないことを。

「言ってる意味、分かるよね? もし神在祭に出て他の人とやりあってたら、こんなもんじゃ済まなかったってことだよ」

 幸久は反論出来ない。遥との戦いで惨敗を喫した彼には、反論する資格がない。

 どう言い繕ったところで、無様に昏倒していたことは事実。遥に殺意があったなら、その間に息の根を止められていた。それが、否定も反論も許されない厳然たる事実なのだ。

「だから……」

 血塗れの顔に悔しさを滲ませて、幸久は声を絞り出す。

「だから俺に身の程を教えるために、この戦いを仕組んだというのか、お前らは……!」

「そうだよ。今回の件には、そういう意味もある」

 遥は即答した。

「椎名さんは玩神法に向いてないし、玩神法を極められるような器じゃない。神在祭に出ても殺されるか再起不能になるだけ。だから悪いんだけど、奥さん生き返らせるのは諦めて」

 残酷な言葉だった。幸久が願いを叶えるために費やした時間は――老骨に鞭打って鍛錬を重ねた日々は、遥によって徒労と断じられたのだ。

 遥自身、その残酷さは分かっていた。自分の言葉が相手に絶望を与えることを知っていた。

 それでも、躊躇わずに告げたのだ。

 妄執と幻想に囚われた男を、破滅に至る道から救うために。

「そもそも……最初の一歩から間違えてるよ、椎名さんは」

 声に微かな憐れみを込めて、諭すように言う。

「玩神法は人を幸せにしてくれない。偽物の神様に何もかも捧げて縋り付いても、待ってるのは破滅だけ」

 透き通った目を幸久に向け、真実を伝える。

「玩神法が与えてくれるものは、全部ただの夢で、実体のない幻だから。人の弱い心に付け込んで都合のいい夢を見せるだけの、甘い毒だから」

 玩神法の高みに達した女は、玩神法で得られる物の全てを、根底から否定する。

 神の力を、実体のない幻と断じる。

「麻薬とかと同じだよ。のめりこむほどおかしくなって、馬鹿になって、大事なものを失くしてく。それで救われる人なんて一人もいない。いくら求めても本当の幸せは手に入らない」

 月と星の光に淡く照らされるその顔は、これまで彼女が見せてきたどの顔とも決定的に違っていた。

 普段のふざけた顔ではない。戦う時の不敵で挑発的な顔でもない。

 儚げで、どこか淋しげで、朽ちかけた老木が何かを支えにしながら懸命に立ち続けているかのような、弱さと強さを感じさせる顔。

 百の仮面を持つ詐欺師の素顔であり、虚飾のない真実の姿だった。

 それを目の当たりにした幸久は驚き、僅かに戸惑いつつも、やがて怒りを露わにして言い返す。

「……ふざけるな」

 遥の言い分はおかしい。主張と行動が一致していない。

「ふざけるなよ……何だそれは……お前も玩神使いだろうが……力を欲しがって、茅野に縋り付いたんだろうが……! それが、何を偉そうに……!」

「……それ言われると痛いね。確かに、椎名さんに偉そうなこと言う資格なんてあたしにはないよ。玩神法にどっぷり浸かって色々悪さしちゃってるからさ」

 自らの矛盾を突かれても、遥は動じない。透明な目で幸久と向き合いながら、伝えたいことを口にする。

「でも……資格がなくても、一応言っときたかったの。あたしみたいなろくでなしと違って、椎名さんは真っ当な人だから」

 幸久にとって、それは不意討ちも同然だった。

 目を丸くして言葉を失う彼に、遥は優しく微笑みかける。

「ちょっと怒りっぽくて自分勝手だけど、根はいい人だよ、椎名さんは。誰かを本気で好きになれて、心の底から大切に思える……大好きな人のために泣いたり笑ったり怒ったりしながら、一生懸命頑張れる……そういう人は悪い人じゃないって、あたしは思う」

 そして、沁み透るような声で言う。

「亡くなった奥さんだって、椎名さんのそういうとこが好きだったんじゃない?」

 幸久の脳裏に浮かぶ、妻の顔。共に過ごした日々の記憶。

 思い返しても喧嘩ばかりで、幸せな日々とは到底言えない時間だった。いい夫にもいい父親にもなれず、月日を重ねるほど妻との溝を深め、終いには越えてはならない一線まで越えてしまった。

 けれど、それでも、自分達は夫婦だった。

 何度衝突しても、その繋がりが切れることだけはなかった。

 最期の時を迎えるまで、彼女は妻でいてくれたのだ。

「玩神法はあたしや茅野さんみたいな、歪な心の持ち主が身に付けるもの。根が真っ当な人は向いてないんだよ。玩神使いなんかよりお医者さんの方が、椎名さんにはずっと似合ってる」

 そう言ってから、遥は幸久に背を向ける。

「……あたしから言いたいことはそれだけ。悪いけど、もう行くね。うちの子達の面倒見なきゃいけないからさ」

 静かな足取りで遠ざかっていく背中を、幸久は地面に倒れたまま見つめた。

 言葉にし難い複雑な思いが、彼の胸に去来する。彼自身にも正体が掴めない感情だったが、絶望や敗北感といった重苦しいものでないことだけは確かだった。

 だからこそ、なのか――探るような問いかけが、自然と口から出ていた。

「……まだ、続けると言ったら……もう一度勝負だと言ったら、どうする……?」

「そしたら戦うよ。まだ死にたくないし、うちの子達も死なせたくないからね。でも、出来れば止めてほしいな」

 さらりと答えてから、遥は振り向く。どれほど激しい戦意も鎮めてしまうような儚い笑みが、その顔に表れていた。

「あたし嘘吐きだけど、人を傷つけるのは好きじゃないから」

 本当の意味で決着がついたのは、この時だったのかもしれない。

 去っていく女の儚い笑みを目に焼きつけ、玩神法に全てを捧げてきた男は、悟りを得る心地で受け容れたのだ。

 自身の敗北と、幻を追い続けた日々の終わりを。





 清次郎の復活と、彼の玩神――天熱の出現。

 その衝撃からいち早く立ち直って行動を起こしたのは、倉科だった。

 自らの玩神である屑虫に指示を飛ばし、その異能を行使。体内で生み出した甲虫の大群を両肩の器官から放つ。

 放たれた大群の攻撃目標は、清次郎と天熱。生け捕りにしろと命じられていたため、今までは清次郎に致命傷を与えない戦い方をしていた倉科だが、最早そんな命令を厳守している場合ではないと判断した。

 あの玩神は、危険だ。生温い攻撃では到底倒せない。

 殺す気で立ち向かわなければ、殺される。

 理屈を超えた本能の域でそう悟ったが故に、全力を注いで攻撃を仕掛けたのである。残る力のほとんどを費やして生み出した虫の数は一万匹以上。相手が何者だろうと瞬く間に喰い尽くせる大軍勢だ。

 一度包囲されてしまえば、それで終わり。無数の大顎による暴食から身を守れる生物は存在しない。

 だというのに、清次郎と天熱は襲来する大群から逃れようとしなかった。どちらも棒立ちになったまま何の抵抗もせず、虫の大群に全身を覆われていく。

 不気味なほどの無抵抗。その理由は、すぐに明らかになった。

 虫を使った攻撃が全くの無意味であることを、倉科に思い知らせる形で。

「なっ――」

 天熱の口が開いている。その口から、薄く緑がかった吐息が洩れている。

 吐息というより煙のようなそれは、あたりに充満していき、清次郎と天熱の体を包み込んでいく。

 同時に、虫の突然死が始まった。清次郎と天熱の体に纏わり付いていた虫達が、まるで殺虫剤を浴びせられたかのように次々と絶命し、地面に落ちていく。

 そこに例外はない。死の連続から外れる虫は、一匹たりとも存在しない。

 倉科が全力を注いで生み出した大軍勢は、僅か数秒で屍の山と化した。

「虫ケラの命は短い」

 唖然とする倉科に冷めた目を向け、清次郎は言う。

「ほんの少し老いさせてやれば、勝手に死に絶える」

 その発言は、倉科に理解と戦慄を与えた。

 老い――今確かに清次郎は、そう言った。あの煙のような吐息で、虫の大群を瞬時に「老化」させたということなのか。一万匹以上の虫を命が尽きるまで老いさせたというのか。

 だとすれば、触れたものを病魔で蝕む能力や骨折を治した能力とは別物ということになる。

 第三の能力。あの少年の玩神は、三種類もの特殊能力を有している。

 いや、もしかしたら、他にも何かあるかもしれない。

「ちっ……! 次々と……訳の分からねえ真似しやがって!」

 そう毒づきながら天熱に向かっていったのは、孝文が操る奔王だった。

 俊足を誇るレイヨウの玩神は天熱との間合いを一瞬で詰め、竜巻のような回し蹴りを繰り出す。

 清次郎の天熱はその蹴撃の軌道から逃れつつ、軸足を狙う下段蹴りで応じた。奔王の大振りな回し蹴りとは対照的な、無駄を省いた最小の動きによる下段蹴りだ。軸足を払われた奔王は大きく体勢を崩し、続く右拳の突きをまともに受ける羽目になった。

 重く鋭い拳打が腹部の装甲を砕き、その身を病魔で蝕む。

「がっ……おああああああっ!」

 正体不明の病原菌に体内組織を破壊され、奔王は苦しげに身をよじる。

 それでも先日と同様、その高い法力耐性で病の進行をどうにか抑え込み、再び攻撃を仕掛けていった。

「この……クソがぁ!」

 怒号と共に体を回し、後ろ蹴りを放つ。コンクリートの壁をも突き破る一撃だが、天熱には当たらない。たった一歩の後退で間合いの外に逃れられ、空を切るだけで終わる。

 続いて放った左の拳打も、天熱には掠りもしない。易々とそれを潜り抜けた天熱は、反撃の肘打ちを奔王の胸に叩き込む。

「づっ……ぐおぁ……!」

 奔王の口から、またもや苦鳴が洩れる。

 一方的な内容だった。奔王の攻撃が悉く外れる一方、天熱の攻撃は奔王の体を的確に捉え、次々と痛手を負わせている。

 両者の間に大きな差があることは、誰の目にも明らかだ。しかもそれは、身体能力の差ではない。技量の差である。

 玩神の体を効率的に動かす能力において、清次郎は孝文の数段上をいっているのだ。

「すごい……」

 戦いを傍観していた瑞希が、感嘆の声を洩らした。

 あの猛攻に――自分ではろくに対応出来なかった高速の蹴撃と拳撃に、清次郎の玩神は完璧に対応している。あの清次郎が、玩神の体を使って武術の技を披露し、奔王を圧倒している。

 その異常な光景からもたらされた衝撃は、戦いに参加することを彼女に忘れさせるほどだった。

 驚いていたのは倉科も同じだ。いや、この時彼が覚えていた驚愕は、瑞希のそれとは比較にならないほどのものだった。

 何故なら、気付いてしまったからだ。今の清次郎が駆使している技の正体に。

 足裏全体で地面を踏み、拳を中段に置く構え。

 瞬間的な脱力によって加速を得る歩法。

 腕の捻りを加えずに拳を突き出す当身技。

 間違いない。間違いであるわけがない。あれは、自分がこの身に叩き込まれたものと同一の技術体系。

 出雲の地で古くから脈々と受け継がれてきた武術。

 茅野清明の戦闘術だ。

「何だ……」

 背筋に悪寒が走り抜ける。空洞の精神に揺らぎが生じる。

「何だ……こいつは……」

 確かに素人だった筈だ。日頃から鍛錬を積んでいるようには見えなかったし、事実として先程は接近戦での脆さを露呈していた。

 それが今や別人だ。古武術の技を文句のつけようのない完成度で披露し、孝文の奔王を圧倒している。

 しかも、似ている。挙動の全てが酷似している。戦う姿が重なって見える。

 万輪会の頂点に立つ、最強の玩神使い――茅野清明に。

「倉科! おい、倉科!」

 孝文が切羽詰まった様子で叫んだ。

「何ぼけっとしてやがる! 手伝え!」

「くっ……!」

 火の海に飛び込めと言われたような心地になった倉科だが、すぐに意を決して屑虫の本体を動かす。

 彼は孝文と違い、馬鹿正直に天熱と殴り合ったりはしない。

 狙うのは、天熱の後ろにいる清次郎。屈強な玩神ではなく脆弱な使い手を殴り殺すことで勝負を決めようとした。

 しかし、それは叶わない。倉科の考えを読んだ清次郎は、自身に屑虫を近付けさせないための手を打つ。

 病魔、治癒、老化に次ぐ、第四の能力が発動。

 禍々しい暗黒の力が天熱の左腕から溢れ出し、鳴動しながら一振りの刃を形作った。

 持ち主の身の丈を超すほど長大な刃。夜の一部を切り取って圧縮したかのような、闇色の大太刀だ。

 天熱はその大太刀を左腕一本で握り締め、大きく横薙ぎに振り抜いた。

 天熱に挑んでいた奔王と清次郎に襲いかかろうとした屑虫をまとめて切り裂く形で、長大な黒刃が鮮やかに弧を描く。

「ぬっ……!」

「うおっ……!」

 切り裂かれそうになった二体は咄嗟に後退し、斬撃の軌道から逃れ出る。しかし二体共かわしきることは出来ず、黒刃の切先をその身に浅く受けていた。

 突然現れた大太刀による斬撃は二人の玩神使いに動揺を与えたが、本当の意味で彼らが動揺したのは、切先を受けた箇所に目を向けた後だった。

 そこには、僅かな傷さえついていなかったのだ。

「また、訳の分からねえことを……何だってんだ、いったい……」

 不可解な出来事の連続に苛立つ孝文。一方、倉科は危機感に駆られた顔で、たった今斬撃を浴びた箇所と相手の得物を交互に見比べていた。

 彼の鋭敏な直感力が、激しく警鐘を鳴らしながら訴えてくる。

 無傷だったからといって安心してはならない。あの刃は危険極まりない代物だ。あれに正面から立ち向かってはならない、と。

「……退くぞ」

「何だと!」

「ここは一旦退く。退いて、立て直す。それしかねえ」

 険しい顔を向けてくる孝文に、倉科は決定事項を伝えるつもりで言った。

「何でそうなったのかはさっぱり分からねえが、今のあちらさんはやたら強え。信じられねえくらい戦い方が上手くなってる。あの玩神も……まだどんな技を隠し持ってるか分かったもんじゃねえ。それに比べてこっちは、俺もあんたもかなり消耗してる。ここでこれ以上やりあうのは、どう考えても得策じゃねえよ」

「ここまでされて、退けってのか……」

「何が何でもここでケリつけなきゃいけねえわけじゃねえだろう? 期日まではまだ四日ある。その間にどうにかすりゃいいだけの話だ」

 そう説かれては孝文も反論しにくい。攻撃を受けたせいで頭に血が上っていたが、倉科の言い分の正しさを認められる程度の冷静さは残っていた。

 忌々しいが、苦戦を強いられているのは事実だ。ここでこのままあの奇怪な玩神と戦い続けるのは危険すぎる。

 倉科の言う通り、一時的に撤退するしかない。

 そう考えて、頭に上った血を自制心で抑え込もうとした時――

「なぁ、お前……車椅子の馬鹿、お前だよ」

 正面から、清次郎の声が飛んできた。

「お前のその足、生まれつきだろ?」

 全てを見透かした発言が、孝文の顔色を一変させる。その反応を見て取ってから、清次郎は続けた。

「お前の操る玩神見てりゃ、そのくらい丸分かりだ。姿勢、足運び、蹴りの角度……何もかもが出鱈目で、どうしようもねえくらい下手糞だからな」

 それは、椎名孝文という玩神使いの急所を突く指摘だった。

 孝文には戦闘技術がない。奔王という近接戦闘用の玩神を使うにもかかわらず、その肉体を効率的に動かす方法を彼は全く知らない。

 生まれつき足が不自由だったからだ。立ち上がれる足を持たない彼には、武術や格闘技を習うことはおろか、普通に走ることや飛び跳ねることさえ許されなかった。

 足という部位の正しい使い方を知る機会が、彼の人生には一秒たりとも存在しなかったのである。

「自分の足で歩いた経験さえねえくせに、脚力自慢の玩神作って走り回らせ、格闘までやらせる……まさにアホの極みだな。発想の時点で既に失敗してんだよ、てめえは」

 奔王は非常に優れた玩神だ。されど使い手の操作が稚拙では、その優れた能力を活かしきれない。

 無駄に大振りな攻撃は相手の回避行動を容易にし、外した後に致命的な隙を生む。自身は脚力頼みの大雑把な回避しか出来ないため、相手の攻撃から逃れても迅速な反撃に移れない。攻守両面で穴だらけなのだ。

 生半可な玩神使いが相手なら身体能力の高さだけで優位に立てるが、今は違う。

 今の清次郎には奔王に対抗出来る玩神と、身体能力の差を覆せるだけの技術がある。

「今更遅えが、玩神はよく考えて作れ。てめえの適性と噛み合わねえもの作ったところでろくなものに仕上がらねえんだよ、アホ」

「何だと、この野郎……!」

 孝文は歯噛みした。彼の中で怒りの炎が再燃し、冷静な思考力を奪っていく。

「よせ、耳を貸すな。俺らに逃げられたら困るから挑発してんだよ、あっちは」

 倉科の声も、今度は耳に届かない。今度の怒りはそう簡単に収まらない。踏み躙られた自尊心が、あの小僧を殺せと強く訴えかけてくる。

 そんな彼の背中を押すかのように、清次郎の口は悪罵を吐く。

「事実を言ったまでだ。要は身の程を知れって話だよ。現実じゃどうにもならねえことを玩神法でどうにかしたかったんだろうが、その手の発想をする奴は総じて雑魚だ。救いようがねえくらいのな」

 孝文を雑魚と断じて見下し、彼が奔王という玩神に注いだ情念を侮辱し、さらに――

「何も出来ねえ分際で、都合のいい空想に耽ってんじゃねえよ。立って歩けもしねえゴミが」

 全てを否定する言葉で、心の古傷を深く抉った。

 十年前の記憶が蘇る。実の父に足蹴にされた時、胸の奥で渦巻いていた感情――十年間懸命に押し殺していたものが、制御不能の激情となって噴出した。

「てめええええええええええ!」

 叫ぶ。公園中に響き渡るほどの大声で叫び、高熱の殺気を全身から放つ。

 怒り狂う孝文を倉科は宥めようとしたが、既に遅かった。

「落ち着け! 挑発に乗るな! 奴は――」

「うるせえ! 黙ってろ! こいつは……こいつは、俺が殺すッ!」

 孝文の激怒は暴走の域まで達している。誰に何と言われようとも絶対に止まらない。

 彼は理性を手放した。

 生け捕りにしろという父の指示も、退却すべきという倉科の判断も、戦闘を続行することの危険性も、全て無視し、この場で筒井清次郎を抹殺すると決めた。

「ぶっ殺してやる……! 跡形もなく消し飛ばしてやるよ小僧! 俺の最高速の一撃でなぁ!」

 奔王の体内から強大な力が迸り、不可視の波動を生んで周囲の空気を震えさせる。圧倒的かつ暴力的な力の気配が、天熱の出現時とは別種の危機感をその場の玩神使い達に与える。

 孝文がやろうとしていることは、実に単純だった。

 奔王の特殊能力で奔王自身を加速し、天熱に正面からぶつかっていく。言葉にすれば、ただそれだけの行為。

 しかしながら、断じて生温い攻撃ではない。

 椎名孝文は非凡な玩神使いである。戦闘技術が皆無であろうとも、彼の才能が――生み出す力が並外れていることに変わりはない。その彼が、全身全霊を振り絞って極限の力を行使した場合、ただの体当たりでさえも一撃必殺の大技に変わる。

 そのことは、瑞希と倉科の肌を粟立たせる力の気配からして明らかだった。

 これから繰り出される攻撃の凄まじさを悟った瑞希は、清次郎に向かって叫ぶ。

「い、いけない! 筒井さん逃げ――」

「ハアアアアアアアアアアアア――ッ!」

 瑞希の声を掻き消す咆哮を上げ、奔王は地を蹴った。

 同時に、特殊能力――天羚神足通を発動。爆発的な推進力で自らを巨大な砲弾に変え、突風を巻き起こしながら突き進む。

 地を這う稲妻と形容すべき、超高速の突撃だ。速度が桁違いであるため、生じる破壊力も桁違い。技術や小細工で対処出来るようなものではない。

 問題は、破壊力が高すぎて奔王自身も無事では済まない点だろう。最悪の場合、相討ちという結果もありえる危険な技だ。それ故に今まで使用を控えていたのだが、今の孝文に危険を顧みるだけの理性は残っていなかった。

 後先考えず自爆に近い愚行に出た相手を、清次郎は冷めた目で見据える。

「こんな安い挑発に乗って、馬鹿丸出しで突っ込んでくる……」

 天熱の手に握られた大太刀が、命あるもののように脈動する。

 夜空より黒い刀身が、さらなる暗黒の色に染まっていく。

「だから雑魚だってんだよ、てめえは」

 どんな大技を繰り出そうと関係ない。天熱の刃を一度受けておきながら退却を選ばなかった時点で、椎名孝文の命運は尽きている。彼の玩神を葬る上で必要な段取りは、既に終わっているのだ。

 切り札である第四の能力を行使するため、清次郎は天熱を迎撃に移らせた。長年の鍛錬により培った技術と感覚を総動員して奔王の超高速突撃を見切り、天熱の身をその軌道の外に置く。そして闇色の大太刀を両手で握り締め、下段から切り上げる。刃の形をした暗黒の力が、黄褐色の装甲をすり抜けて奔王という存在の核へと迫っていった。

 天熱は「人道」を神格化した玩神。その能力は、人の世界に存在する「苦」を歪んだ形で顕現する。

「苦」とは「思い通りにならないこと」を意味し、以下の四つから成る。

 生苦――生まれること。生きること。何一つ思い通りにならない迷いの世界に生まれ落ち、生涯という苦行の道程を歩み続けることを意味する。

 老苦――老いること。時の流れに蝕まれること。月日が経つにつれ衰え、若き日の瑞々しい輝きを失っていくことを意味する。

 病苦――病を患うこと。病床に伏せること。病魔という見えない大敵に肉体を破壊され、生き地獄を味わうことを意味する。

 そして、最後の一つ。

 命あるものの全てが背負う宿命。誰も逃れられない絶対の理。

 何を望み、何を目指し、何を為して生きようとも、やがて必ず辿り着く、人の生涯の終着点。

 それが――

「死苦」

 呟きと共に振り抜かれた刃が、奔王に終焉を与えた。

 逃れられない絶対の死が、津波のように押し寄せる。

 全身に走る亀裂。末端から砕けていく手足。塵と化していくその破片。頭頂から足裏までのあらゆる部位が、刹那の内に割れて砕けて塵と化し、風に運ばれ散っていく。後には何も残らない。

 肉体の崩壊であり、消滅だった。

 超高速で低空を駆けていたレイヨウの玩神は、黒き刃の一閃を浴びた瞬間、この世から消え去る形で即死した。

「な……あ……」

 孝文は怒りさえ忘れ、目を見開いたまま固まる。瑞希と倉科も同様だった。

 天熱がたった今披露した怪能力は、彼らの理解が及ぶ範疇から完全に逸脱していた。

「そんな……」

 口から洩れる声が言葉にならない。天熱の巨体が自分に接近してくることさえ、上手く認識出来ない。

 奔王の消滅がもたらした衝撃は、孝文の思考を麻痺させていた。

「俺の……奔王が……」

 うわ言のように呟いた直後、孝文の体は宙を舞った。天熱の左腕が繰り出す裏拳打ちを受け、車椅子ごと吹き飛んだのだ。

 そのまま放物線を描いた後、遊歩道脇の柵に激突し、あえなく昏倒した。

「ちぃ……!」

 そこで倉科は放心状態から脱したが、既に逃げられる間合いではなくなっていた。屑虫で防御する暇もなく天熱の足に蹴り飛ばされ、遊歩道の上を転がっていく。

 重傷を負って悶え苦しむ倉科の前に立った天熱は、胸倉を掴んでその身を持ち上げる。

「今すぐ、楓の体内に入れた虫共を消せ。そうすりゃ命だけは助けてやる」

 天熱に命を握られた状態の倉科を見上げながら、清次郎は要求を口にする。

 倉科は苦笑した。

「普通じゃねえとは、思ってたが……とんでもねえ化物だな、あんた……何者だよ……つぐぅ!」

 太い指が、倉科の頚部を強く圧迫する。

「うだうだと下らねえことのたまうんじゃねえよ、さっさと虫を消せ。俺はどっちでもいいんだぜ。お前が自分で消すのでも、お前を殺して消すのでも」

 それは脅しではなく、最後通牒。

 要求に従わなければ殺す。少しでも抵抗すれば殺す。これ以上一言でも無駄口を叩けば殺す。清次郎の暗く淀んだ眼差しは、明らかにそう語っていた。

 だから倉科は、もう観念するしかなかった。

 逃げることさえ諦めて降伏し、本当のことを言うしかなかった。

「……ハッタリだよ」

 受諾でも拒否でもない発言を受け、清次郎は眉をひそめる。倉科は苦笑しながら続けた。

「確かに、あの子の中に虫入れたけどよ……午前零時になったら死ぬってのはハッタリさ……あんたを俺らとやりあう気にさせたかったから、適当なフカシこいただけだよ」

 最初から、楓を殺す気はなかった。あの少女には何の恨みもないし、殺せと命じられていたわけでもない。

 それに、そもそも屑虫の能力は、時限装置として運用可能なようには出来ていない。

「さっきあんた言ってたろ? 虫ケラの命は短い、って……俺が生み出す虫は極端に短命でよ、ほっといてもすぐに死んじまうのさ。だから、人の体の中に入り込ませてタイムリミットが来たら殺すなんて使い方は、そもそも出来ねえんだよ。あの子の中に入り込んだ虫共も、とっくに消えてなくなってる」

 意外な事実だった。倉科を倒すことだけを今まで考え続けていた清次郎は、倉科に騙されている可能性を少しも考慮していなかった。

「……てめえが今言ってることが、本当だという証拠は?」

「さっき俺が作った穴の中とか、虫の壁で銃弾防いでたとことかを見てくれよ。生き残ってるのは一匹もいねえっつーか、死骸さえ残ってねえだろ? 理屈は俺も知らねえが……まあ、所詮偽物の命だからな、五分かそこらしかこの世にいられねえようになってんのさ」

 清次郎は視線を走らせ、戦闘を始めた場所と穴の中の様子を確認する。

 倉科の言う通り、虫の大群は影も形もなくなっていた。

「それに、だ……虫共が長持ちするようなら、俺はもっといろんな戦法駆使してあんたを苦しめてるよ。あらかじめ大量に産んどいて一斉に襲い掛からせたりとか、物陰に潜ませて奇襲かけたりとかな……それをしなかったってことは、やりたくても出来なかったってことだ」

 一応、筋の通った説明ではある。嘘をついている様子もない。

 それでも念入りに真偽を確認するため、清次郎は質問を続けようとしたが――再び口を開く前に、第三者の声が飛んできた。

「彼が言ってることは本当だよ」

 声の主は遥だった。芝生の斜面に設けられた石段を下ってきた彼女は、悪びれもせず静かに言う。

「倉科君の玩神が産む虫は、五分前後しか生きられない。一緒に修行した仲だから、その辺はあたしもよく知ってる。でもそれ言っちゃうと色々都合が悪かったから、今までセージ君には黙ってた。ごめんね」

 ほとんど裏切りに近い内容の告白。

 それに対する清次郎と瑞希と倉科の反応は、三者三様だった。

 憤りが滲む険しい顔を遥に向ける清次郎。驚きと納得が同居した苦い顔をする瑞希。

 そして、敗者の顔で力なく笑う倉科。

「つーわけさ……あの子には怖い思いさせちまったし、あんたにも迷惑かけて悪かったがよ……このまま日付変わっても何も起きやしねえから、安心してくれ」

 そう言われた後、清次郎は少しの間無言を通した。

 彫像のように固まりながら数秒の内に考えをまとめた彼は、唇だけを微かに動かし、抑揚のない声を発する。

「そうかよ……なら、お前にもう用はない」

 傍から見ていた瑞希は、倉科を許して解放する気なのかと一瞬思った。

 しかし、違った。

 清次郎の忠実な従僕である天熱は、倉科の胸倉を掴んだまま腕を大きく回し、池の方に向かって倉科を放り投げたのだ。

 飛矢を思わせる猛烈な速度で、倉科の体が一直線に飛ぶ。そのまま柵を越え、立ち並ぶ木々の枝葉を突き抜け、池の水面に激突する。

 太い水柱が、飛沫を散らしながら立ち上った。

「そこら辺で、適当に死んでろ」

 水中に没していく男に、非道な異常者はそう告げた。





 玩物喪志という言葉がある。

 中国最古の歴史書である書経に記された一文、「人を玩べば徳を喪い、物を玩べば志を喪う」に由来する熟語だ。

「玩」の字には「もてあそぶ」という意味がある。

 玩物とは、物をもてあそぶこと。喪志とは、志を喪失すること。

 珍しい物や変わった物を過度に愛好するのは愚かしいことであり、それを続ければ物事の本質が見えなくなり、本当に大切なことを忘れてしまう。玩物喪志とは、そういう意味だ。

 玩神法が玩神法と名付けられた所以は、そこにある。

 我執と我欲から紛い物の神を生み出し、幻想の力に依存し、拘泥し、耽溺し、やがて人の心を失くして外道に堕ちていく者達――そんな愚者共への皮肉が、玩神法という名には込められている。





 午後十一時半。

 消灯時間をとうに過ぎ、病院内の大半が闇に包まれている時刻。楓は眠ることも出来ないまま、病室のベッドの上で苦しみ続けていた。

 不安と恐怖に圧迫されてきた心は、もう破裂寸前だ。あと三十分で自分の命が終わるかと思うと、正気を保つことさえ難しい。眉間には絶えず皺が寄り、何もしていないのに発汗し、意味もなく体中を掻き毟ってしまう。

 いっそのこと時間が止まってほしいという思いと、この辛い時間が早く過ぎ去ってほしいという思い。矛盾した二つの思いが、頭の中でせめぎ合いながら交錯していた。

 そんな彼女の耳に――

「ごめん、楓……怖い思いさせちゃったね」

 穏やかな声が、何の前触れもなく届く。驚いて顔を上げると、ベッド脇に立つ小柄な人影が目に入った。

 暗くて顔はよく見えないが、声と背格好で誰だか分かる。

 清次郎だ。

「な、あ……え……」

 楓は混乱した。

 ここは自分の病室で、今は真夜中で、何をどう考えても清次郎と顔を合わす筈のない状況だ。

 なのに、清次郎がいる。さも当然のようにベッド脇に立っている。訳が分からない。

 彼はどうやってこの部屋に入ってきたのか。今は面会が許される時間帯ではないし、病院の出入り口も閉まっている。普通なら、来ようと思ってもここまで来られない筈だ。

 それに、たった今声をかけられるまで、彼が近寄ってきていることに全く気付けなかった。いったいどういうことなのか。

「やっぱり驚かせちゃったか……ごめんごめん。少しでも早く楓を安心させたくってさ、ついこんな時間に忍び込んできちゃったよ。あはは」

 とんでもない内容の発言が、さらりと出た。

 真夜中の病院に不法侵入。完全に犯罪だ。そんな当たり前のことが分からないわけでもないだろうに、本人は平然としている。いや、それどころか、朗らかな笑いさえ洩らしている。

 普段とはあまりに違う幼馴染の言動に、楓は言い知れない不安を覚えずにいられなかった。

「あ……セ、セージ……その……」

「落ち着いて。もう大丈夫だよ。楓を酷い目に遭わせた奴らは全員ぶちのめしてきたからさ。何も心配いらないよ」

「ぶ、ぶちのめ……」

「まったく酷い奴らだよね。楓は何の関係もないのに巻き込んで、怪我までさせてさ……でもその分の仕返しはきっちりしてきたから、安心して。あの虫野郎なんか今頃水の中だよ」

 不穏な言葉を立て続けに放ってから、清次郎は楓の下半身に目を向ける。

 昨日の一件で重傷を負った左足は今、ギプスによって固定されていた。

「あ、そうそう、怪我の方も大丈夫だよ。ちょっと足、触るね」

「え……?」

 目を丸くした楓は、次の瞬間、清次郎の背後から伸びる青黒い腕を見た。その腕は、ギプスの上から楓の左足にそっと触れる。

「きゃっ――」

「大丈夫、怖がらないで」

 悲鳴を上げそうになる楓に、清次郎は優しく言う。すると、青黒い腕の掌から淡い白光が溢れ出した。

 楓は驚きながらも、気付く。

 骨まで届く裂傷を負った左足から、徐々に痛みが引いていくことに。

「これでよし、と」

 呟いて、清次郎は青黒い腕を左足から離す。その時にはもう、傷の痛みは完全になくなっていた。

「傷が……」

「話すと長くなるけど、色々あってさ……傷の治療なんかも出来るようになったんだ。もう痛くないでしょ?」

「う、うん……」

 酷く戸惑いながらも、楓は頷く。清次郎は肩の荷が下りた様子で溜息をついた。

「よかった……俺のせいで楓が傷ついたって思うと、正直いてもたってもいられなかったんだ。迷惑かけちゃったし、いくら謝っても足りないくらいだけど……ちゃんとこの傷を治せてよかったよ」

 そこに嘘はない。清次郎はこの時、楓の傷を癒せたことを心から喜んでいた。まるで自分自身が救われたような心地で、喜びを噛み締めていた。

 楓の体に傷が残ったままでは、楽しみも半減だったから。

「これで……」

 笑みが変質する。

 心の奥底に封じ込めていたものが、硬い殻を破って露出する。

「心置きなく、壊せる」

 零れる本音。

 どす黒い悪意で練り固められた、最低の言葉。

 楓がそれを聞き取り、身の危険を感じた瞬間、清次郎は動いた。青黒い腕を真っ直ぐに伸ばし、楓の口を塞ぐ。そして顔を寄せ、囁きかける。

「騒がないでよ、楓……騒がれたら困る……楓と二人っきりになるために、せっかくここまで来たんだからさぁ」

 押し殺した声にもかかわらず、その声には隠しきれないほどの下劣さが滲み出ていた。

 楓を凝視する二つの眼球は、ヘドロの色をしていた。

「ずっと、だ……そう、ずっと……」

 恍惚とした様子で熱い息を吐き、狂った少年は、腐った本音をぶちまける。

「この五年間ずっと……ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……あの日の続きがしたくてたまらなかったんだよ、俺は」

 窓から差し込む月明かりが、その顔を照らす。露わになった醜い笑みを至近距離から直視して、楓は愕然となった。

 裂けそうなほど開いた口。剥き出しの歯。喜悦の形に歪んだ頬肉。滴り落ちる涎。荒い吐息。汚濁の塊を孕みながら充血した眼球。

 それは狂気と悪意と黒い欲望に彩られた、醜悪極まりない外道の形相。

 五年前の悪夢の再来だった。





 五年前。

 清次郎が本当の「自分」を知った、運命の日。

 覚醒のきっかけとなったのは、楓の言葉だった。

「セージは……あたしの嫌がることしないから……あたしのこと、分かってくれるから……だから、嫌いじゃないよ。死ねばいいなんて、思ってない」

 人間が嫌いで、世界が嫌いで、目に映るもの全てを嫌っている日比谷楓。

 そんな彼女が、清次郎だけは違うと言った。

 特別な存在だから、傍にいてもいいと言ってくれた。

 それが嬉しくて、本当に嬉しくて、幼い清次郎は涙した。楓が見せてくれた優しさに救われて、自分にとっても彼女は特別な存在なのだと心の底から思えた。

 だから――

 そう、だからこそ――

 日比谷楓を、殺したくなった。

「けへっ……ひひっ……けひひひひ……」

 狂おしいほど、殺したくなったのだ。

 目の前にいる優しい少女を、一番大事な友達を、かけがえのない存在を、自分の手で惨殺したくなった。

 自分に向けてくれた優しさを踏み躙り、自分達の間にあった絆をぶち壊し、極上の恥辱と恐怖と苦痛を与え、この世に生まれてきたことを後悔させ、身も心も滅茶苦茶にしてやりたくなった。

 一度そう思うと、もう歯止めがきかなかった。熱く滾る欲望が理性を溶かし、体を凶行へと走らせていた。

 憎いから殺したくなったのではない。

 楓のことが好きで、他の誰よりも好きで、本当に大好きだったから、殺したくてたまらなくなったのだ。



 筒井清次郎は異常者だ。

 彼の心は、人として正しい形をしていない。



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