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夢幻神在月  作者: 堤明文
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第六話「水月空華」



 夜の訪れが怖い。そう思ったのは、幼い頃以来だった。

 この夜が明ける時、自分は生きていないかもしれない。そう思ったのは、生まれて初めてだった。

 傷の痛みを忘れてしまうほどの恐怖を抱いたまま、楓は病室のベッドの上で孤独な時間を過ごしていた。

 彼女にあてがわれた病室は狭い個室だ。彼女以外は誰もいない。昼間は見舞いに来ていた母親も、とうに帰っている。外界と隔絶されたような空間で独りきりという状況が、恐怖をさらに増大させていた。

 シーツをきつく握っても、深呼吸を繰り返しても、現実から逃げるように目を閉じても、心に根付いた暗闇は消え去ってくれない。むしろ、徐々に――時間が経てば経つほど、その濃度と重みを増してきている。

 無理矢理他のことを考えようとしても、駄目だった。どうしても考えてしまう。思い返してしまう。昨日の昼に体験した、一連の不可思議な出来事を。

 突如部室に現れた骨の怪物。清次郎が出した青黒い腕。朝宮と呼ばれていた見知らぬ女。林の中で清次郎と対峙していた鹿のような顔の怪物。赤い髪の女を従えていた少女。そして、最後に現れた虫の怪物。

 非現実的なことの連続で、理解がまるで追いつかなかった。しかしそれでも、明確に理解出来たことが一つだけあった。

 あの虫の怪物が、去り際に放った言葉の意味――他でもないこの自分が、六月二十二日の午前零時を迎えた瞬間に死ぬということだ。

 それを馬鹿らしい戯言だと思えたら、どんなに楽だっただろうか。

 昨日見たものを全て夢だと思えたら、どんなに幸せだっただろうか。

「……っ……う……くっ……」

 無理だ。信じないことなんて出来ない。夢だったなんて思えない。

 清次郎と一緒に逃げている最中、足に大怪我をした。そのせいで入院にすることになった。事件は警察沙汰になっていた。

 だから、昨日のあれは何もかも本当で、自分が死ぬということも本当だと、そう思うしかないではないか。

 自分は死ぬ。あと五時間弱で、おぞましい虫の群れに体を内部から喰われて絶命する。そう考えると、怖くてたまらない。気が狂いそうだ。

 けれども、そうした恐怖に苛まれる一方で――今の自分の有様を冷静に見つめている自分も、心のどこかにいる。その自分が、呆れ果てた顔で言っている。

 酷い奴、と。

 ここに来てから頭にあるのは自分のことばかり。自分は死ぬかもしれないだとか、死ぬのが怖いだとか、そんなようなことしか考えていない。

 どこまでも自分、自分、自分、自分。呆れるほど自分本位。醜くて卑しくて汚らしい、自己愛の権化みたいな思考回路だ。

 昨日の事件で傷つき血を流したのは、彼も同じなのに。

 今この時も、彼は血を流しているかもしれないのに。

「……っ」

 途中で気絶したから詳細なことは知らないけれど、清次郎が自分を守ろうとしてくれたことは知っている。それなのに昨日病室の前まで来た彼を追い返してしまったのは、まともに会話出来る精神状態ではなかったからだ。

 あまりにも混乱し過ぎていて、気持ちの整理がつけられなかったから、会えば最低のことを口にしてしまいそうだった。

 そう、例えば――

 僕は死にたくないから、危険を冒してでも僕を助けて――だとか。

「……最低」

 本当に、最低だと思う。だってそれは、あの怪物共とまた戦ってこいと言うのと同じだ。

あの虫の怪物を倒さない限り自分の体内に入り込んだ虫は消えてくれないのだから、必然的にそうなる。

 あんな連中とまた戦ったら、清次郎は死んでしまうかもしれない。

 それが分かっていながら、助けてと懇願しそうだったのだ、自分は。

 いや、口に出さなかっただけで、実質的には懇願したのと同じだ。何故なら、自分は清次郎を止めようとしなかった。「危険なことはやめて」なんて、一言も言わなかった。彼が危険を冒してくれることを、本心では望んでいたから。

 やはり、最低だ。性根が腐りきっている。

 そう自覚していながら、助けてほしいという気持ちを手放せない。今も密かに、この状況を彼がどうにかしてくれることを期待している。そんな自分の薄汚さを見つめると、涙が出てきてしまう。

「……っ……うっ……」

 嗚咽を洩らしながら、枕元に置かれた一枚の紙片に目を向けた。

 母が見舞いに来た時、置いていったものだ。家を出る前に訪ねてきた清次郎から託されたものだという。

 そこには短い文が記されていた。

「心配しないで。必ず助けるから」――と。





 豪雨の如き怒涛の弾雨。電動ガンの銃口から放たれたプラスチックの弾丸が宵闇の中を突き進み、倉科敦を襲う。

 容赦のないその猛攻を、倉科は自らの玩神の力で防いでいた。

 それは簡単に言い表すなら、虫の防壁。両肩の突起から放出する無数の甲虫を自身の眼前で密集させ、巨大な黒い防壁を作り上げたのである。

 電動ガンの弾はその防壁によって直進を阻まれ、一発たりとも倉科に届かない。虫を生み出して操る倉科の力が清次郎の銃撃を無効化している形だった。

 苦境に立たされているのは、倉科の方だったが。

「やべえな、こりゃ……」

 険しい顔をして呟く。彼の呼吸は徐々に乱れ始めており、額には大粒の汗が浮かんでいた。

 間一髪で防御が間に合ったのはいいものの、この状態を続けるのは危険だ。相手の銃が弾切れになるまで虫の防壁を維持しようとすれば、おそらく――いや間違いなく、自分の力も尽きてしまう。頭痛を覚えるほどの疲労感に苛まれながら、倉科はそう確信した。

 玩神の力とは無制限に使い続けられるものではない。玩神を使うということは、脳を酷使するということに他ならないからだ。

 玩神を召喚し現実世界に存在させている間、使い手はその玩神の姿形を常に頭の中で想像していなければならない。それを怠ると玩神は指一本たりとも動かなくなり、やがて現実世界から消えてしまう。特殊な能力を使う場合も同じだ。その能力の仕組みや効果を想像していなければ正常に作用しない。

 想像を保ち続けるというのは非常に困難なことであり、それは重い負荷となって使い手の脳を疲労させる。そして疲労が限界に達すると、想像を保ち続けられなくなり、しばらく間玩神の力を全く使えない状態に陥る。

 故に、玩神法の使い手は自らの限界を弁えた上で玩神を運用せねばならない。戦闘時の無駄な動きや無節操な能力の行使は、敗北と死に直結する。

 そうした観点で言うなら、今の倉科の状況は最悪だった。完全な防戦一方である上、長時間に及ぶ能力の行使で脳が悲鳴を上げ始めている。

 彼の玩神、屑虫が生み出す小さな甲虫は、本物の甲虫と同程度の耐久力しか持っていない。プラスチックの弾が当たっただけで四散する。そのため次から次へと生産していかなければ防壁を維持出来ないのだが、そうすると彼の脳にかかる負荷が甚大なものになってしまう。

 かといって、今更防壁作りを止めるわけにはいかない。止めた途端に弾雨を浴びる羽目になるのは目に見えている。相手の得物がただの電動ガンなら屑虫の本体で防げばいいだけの話なのだが、この場合はそうもいかない。相手は明らかに、自らの玩神が生み出す病原体を弾丸に付着させている。そんな攻撃を直に受けてしまえば、終わりだ。屑虫の体は病魔に蝕まれて崩壊するだろう。

 玩神にも死があるのだ。一度死んだ玩神は、二度と復活しない。

「ったく、やってくれるぜ……どんだけ殺す気満々なんだよ……」

 確かに、恨まれて当然のことをした。しかしまさか、こんなにも過激な方法で剥き出しの殺意をぶつけてくるとは思わなかった。

 とんでもない小僧だ。頭がどうかしている。

 このまま電動ガンと虫の防壁による単調な攻防が続くなら、残念ながら不利なのは自分。相手は弾切れになってもあの右腕で戦えるだろうが、自分は力尽きて何も出来なくなる公算が大きい。だから、そうなる前に何か手を打たねばならない。

 そう考えたところで、ふと疑問が浮かんだ。相手はこれ以上何も手を打ってこないのだろうか――用意してきた武器はあの銃だけなのだろうか、と。

 まだ何かある気がする。いや、きっとある。手段を選ばずこちらの命を奪おうとしているあの少年なら、他の武器も用意するに違いないと確信出来る。問題は、それが何かだ。考えろ。考えて、次の攻撃を予測しろ。自分が奴なら、どんな武器を用意する――

 相手の視点で物を考える能力に長けた倉科は、僅か数秒でその答えに行き着き、上空を仰いだ。

 頭上に広がる宵の空。そこに、明らかな異物が一つ。

 回転しながら落下してくるそれが予想通りの代物であることを瞬時に見抜き、防壁作りを中断。屑虫と共に身を翻し、全力で走る。

 直後、それまでいた場所に小さな白い物体が落ちて、弾けた。無数のBB弾が花火のように飛び散っていく。

 手作りの簡易的な手榴弾だ。紙の容器に少量の火薬やBB弾を詰めて作ったのだろう。あの八方に弾け飛んだBB弾にも病原体を付着させていたと見て間違いない。

 恐ろしい奴だ、と改めて思う。おそらく、こちらが虫の防壁という手段で電動ガンを防ぐことも事前に読んでいたのだろう。だからあの手榴弾を用意した。

 電動ガンの銃口を向けられればそちらに注意がいく。防壁を作れば自らの視界を遮ることになる。心理と物理の両面に死角が生じる。その死角を突き、上空から山なりの軌道で襲いかかる手榴弾で仕留める。寒気がするほど悪辣な戦術だ。

 そして、手榴弾による攻撃をどうにか凌いだからといって、息つく暇はない。咄嗟の判断で防壁作りを止めてしまったため、自分と清次郎の間を隔てるものはもう何もない。完全に射線が通っている。

「くたばれ」

 消え去った防壁の向こう側にいた倉科を凝視し、清次郎は告げる。病魔を纏った豪雨の如き弾雨が、倉科を再び襲った。

「ぐっ……おああああ……!」

 半ば反射的に、倉科は屑虫の体を盾にした。深緑の外骨格を纏った体にプラスチックの塊が次々と命中していく。着弾と同時に感染が生じ、その身を病魔が蝕んでいく。

 普通なら、それで勝負がついていただろう。しかし屑虫の能力と倉科の冷静な判断力が、絶望的窮地を打開した。

 被弾しながらも素早く後退し、遊歩道脇の柵に手をかけ、屑虫と共に乗り越える。そして、その先に広がる茂みの中に飛び込んでいく。

 ゲートボール場の隣には柵で囲われた池があり、池の畔には多種の植物がかなりの密度で生い茂っていた。倉科が身を隠したのは、その中だ。

 それでどうにか銃撃の射線から逃れた彼は、すぐさま自らの玩神に命じた。

 虫を産め、と。

 主の命令に従い、屑虫は能力を行使。体内で無数の甲虫を生産し、両肩の突起から放出する。

 外界に放たれた虫達が向かう先――それは、生みの親である屑虫の体表面だった。

「喰え」

 押し殺した声で、倉科は告げる。彼の玩神によって生み出された無数の甲虫は、何の躊躇いもなく親の体に大顎を食い込ませた。屑虫の体表面が文字通りの意味で虫食いの様相を呈していく。

 一見自殺行為とも思えるようなそれは、屑虫を「病死」から救うための荒療治である。

 屑虫が産む虫達は何でも喰う。人も獣も草木も岩石も金属も玩神も、極めて有害な物質さえも、消えてなくなるまで喰い続ける。

 だから、倉科は命じたのだ。屑虫の体の病魔に侵された部分だけを喰い尽くせ、と。

 彼にとっても初めての試みであり、一歩間違えれば自滅する危険な行為だったが、結果的には上手くいった。生みの親の胸から大腿にかけての大部分を喰い取った後、甲虫の大群は一匹残らず死滅。屑虫本体は満身創痍となりながらもかろうじて生存する。

「危ねえ危ねえ……マジでやられるとこだった」

 被弾した箇所がもっと多ければ、もしくは虫達に屑虫本体を喰わせる決断があと数秒遅れていれば、きっと助からなかっただろう。我ながらよく間に合ったものだと思いつつ、茂みの中で冷や汗をかく。

 死角から襲われるのを警戒してか、清次郎は茂みの中に入ってこない。

 怒りと殺意で頭が沸騰しているくせに、慎重だ。なかなか付け入る隙を見せてくれない。

「まいったぜ……本当に高校生かよ、あれ……あんなもん俺の手に負えねえっての」

 木の幹に背中を預けながら、うんざりした顔でぼやく。

 あの少年――筒井清次郎は、思っていたより手強い。

 自分の能力を生かせる武器を用意し、戦術を練った上で戦いに臨む周到さ。武器の扱いにおける手際の良さ。一片の迷いもなく命を奪いにくる非情さ。激怒しながらも思考力を手放さない冷静さ。

 どれをとっても、殺し合いに熟達した者のそれだ。ついこの間まで安穏な暮らしをしていたようには到底見えない。

「けど、まあ……」

 すっと目を細め、弛んだ表情と一緒に弱気を引っ込める。自我のない虫のような眼差しで、柵の向こうの遊歩道に立つ清次郎の様子を窺った。

「俺も死にたかねえから、ちっとは悪足掻きさせてもらうがよ」

 倉科敦という男は、何があろうと決して取り乱さない。

 自らの不利を悟ろうとも、どんな窮地に陥ろうとも、口では何と言っていようとも、心の奥底では些かも動じることがない。

 清次郎と種類は違えど、彼もまた異常者だった。





 時間は、一分前に遡る。

「まさか、あんなもの用意してくるとは……イカレた野郎だ」

 ゲートボール場の入口付近でガトリングガン型の電動ガンを乱射している清次郎を見やり、孝文は毒づいた。

 現在彼は自らの玩神である奔王を背後に従えた状態で、長方形をした広いゲートボール場の端にいる。清次郎がショルダーバッグから電動ガンを取り出した直後に奔王を召喚し、自身を車椅子ごと抱え上げさせて安全圏まで退避していたのである。

 俊足の玩神を持つからこそ可能な早業だった。

「俺としては、一秒でも早くあの野郎を蹴り殺してやりたいところだが……お前がそれをさせないって話か、これは」

 視線を清次郎のいる場所から自身の目の前に移し、砂地の上で咲き乱れている赤い花を凝視する。

 それを生み出した少女――早川瑞希は、やや不本意そうな面持ちで応じた。

「ええ、私があなたの足止め役です。自分で買って出たっていうより、強引に押し付けられた格好なんですけどね」

 既に彼女も自らの玩神、徒花を召喚している。不可侵の聖域である彼岸花の結界も、広範囲に渡って展開済みだった。

 倉科の相手をするのは清次郎。孝文の相手をするのは瑞希。事前の打ち合わせで、そう決めていたのだ。

 瑞希の徒花は倉科の屑虫と相性が悪い。屑虫が生み出す無数の甲虫は、本来なら何者も近寄れない彼岸花の結界さえも喰い尽くしてしまう。

 一方清次郎は、奔王の動きの速さに対処する術を持たない。電動ガンを乱射しても命中させられるかどうかは怪しく、接近戦に持ち込まれてしまえば勝ち目はない。

 だから、互いに相性の悪い相手を避け、相性の良い相手との一対一に持ち込んでいこうという方針になった。

 清次郎が倉科を相手に選んだ理由の半分は私怨に違いないと、瑞希は思っていたが。

「ふん……」

 孝文は奔王を操作し、背後にあった石壁に右腕を突き入れさせた。剛力と頑強さを併せ持った腕は石壁をいとも容易く破壊し、その破壊の跡から拳大の破片を取り出す。そしてそれを瑞希に向かって投げつけようとした。

 しかし、腕を大きく振りかぶったところで、動きが止まる。投げつけようという意思はあるのに、何故かそれを実行に移せなかった。

「投石も駄目、か……どうせ他の飛び道具を用意しても駄目なんだろうな……まったく、よく出来た能力だよ。そこは褒めてやる」

 腕を下ろし、破片を捨てる。

 泡影曼珠沙華。

 それが、徒花という玩神に宿った力の名。夢幻の花園を作り上げ、あらゆるものの侵入を拒む力だ。

 彼岸花――数多くの不吉な異名を持つその花は、全ての部位に毒を有している。生物がその毒を摂取した場合、中枢神経の麻痺を起こして死に至ることもある。

 そのため彼岸花は、害虫や害獣への対策として水田の畦や墓地に植えられることが多かった。有毒の花が植えられていることを察知した生物は、その場所を嫌って近寄らなくなるのである。

 早川瑞希の玩神の力は、彼岸花のそうした役割を強く反映したものだった。

 彼女が生み出す彼岸花に毒はない。その代わり、見る者の精神に強い忌避感を植え付ける。

 あれは危険だ。触れてはならない。踏みつけてはならない。傷つけてはならない。近寄ってはならない――そんな強迫観念を、精神の根底とでも言うべき部分に深く刻み込むのだ。その結果、相手は自分の意思で彼岸花に近寄ることが出来なくなる。彼岸花に囲まれてしまえば、一歩も動けなくなる。

 倉科の屑虫にそれが通用しなかったのは、あの玩神の力によって生み出される無数の甲虫が精神や知性といったものを持たない存在だからだろう。見る者に強迫観念を植え付ける徒花の力は、知能を持たない存在には効き目がない。本来なら虫除けに使われる彼岸花が虫に対して無力というのは、何とも皮肉な話であるが。

 とはいえ、多少なりとも知能を持つ生物が相手なら、一切の例外なく必ず効く。相手に能力の仕組みを知られていようと関係ない。気力でどうにかなるようなものでもない。彼岸花の結界から与えられる忌避感には、決して逆らえない。

 拘束力という面でなら、掛け値なしに優秀な能力と言えるだろう。

「しかし、随分と中途半端な真似をしているな。俺を倒そうとしているのかこのまま時間稼ぎに徹する気なのか、はっきりしたらどうだ?」

 鋭い指摘を受け、瑞希の顔が僅かに曇る。酷く中途半端な戦法をとっているという自覚は、彼女にもあった。

 彼女は今、孝文の奔王を清次郎に近付けさせないため、ゲートボール場の外まで及ぶほどの結界を張っている。自身の脳に重い負荷がかかることを承知の上で、結界を限界近くまで拡張しているのだ。清次郎の身を守ることを何よりも優先して。

 されど、攻撃の意思を捨てて守りに徹しているわけでもない。相手の出方を窺いながらじりじりと間合いを詰め、隙あらば拘束しようとしている。

 それを中途半端と言うなら、確かにその通りだろう。時間稼ぎをする気なのか、自力で相手を倒す気なのか、はっきりしていない。彼女自身、どちらにするべきか未だに決めかねている状態だった。

 事前の打ち合わせの際、清次郎は言っていた。あの虫の玩神は自分が倒すから、早川さんは獣の玩神の相手をしてほしい。倒せなくても構わない。時間を稼いでくれるだけでいい。虫の玩神を倒したらすぐに駆けつける。そうなれば状況は二対一。二人で力を合わせれば必ず勝てる――と。

 その時は頷いてみせたものの、清次郎の方針に心から賛同することは出来なかった。

 まず、清次郎が倉科に勝てるかどうか分からない。相性は悪くなさそうだし、今の清次郎は強力な武器を持っているが、あの倉科という男も遥と同じ師の下で過酷な修行に耐え抜いた身だ。一筋縄でいく相手とは思えない。

 仮に勝てたとしても、それは清次郎が倉科を殺すという結果に繋がる。躊躇いなく銃口を向けていたことからも、清次郎の殺意が本物であることは明らかだ。相手の玩神だけを始末しての勝利など、彼は望んでいないだろう。

 でも、自分は違う。出来る限り死人を出したくない。それが瑞希の本音だった。様々な事情から命懸けの戦いに身を投じている彼女だが、殺人を嗜好してはいないし敵は殺して当然というほど割り切ってもいない。誰も死なせずに済むならそれに越したことはないと思っている。

 徒花の力なら、殺人を伴わない勝利が可能だ。ここでどうにかして目の前の男を玩神共々拘束し、清次郎の元に駆けつけて倉科も拘束すれば、穏便な形でこの戦いに幕を引ける。

 だが、清次郎を守るため広範囲に結界を張っている今、攻撃に移るほどの余裕は正直なところあまりない。それに、相手はもうこちらの戦法や能力の性質を知っている。昨日捕らえた時ほど簡単にはいかないだろう。

 やはり、ここは下手に動かず時間稼ぎに徹するべきか。いや、しかし――

 そんな思考が堂々巡りして、彼女を悩ませていた。

「……大きなお世話ですよ。そっちの方こそ、のんびりしてていいんですか? お友達がやられそうになってますよ」

「そうだな、そろそろ真面目にやるか」

 あっさりと、今までの膠着状態を茶番と断じるかのように、孝文はそう言った。静かな自信を覗かせるその発言から、瑞希は危険な気配を感じ取る。

「その妙な園芸で俺を止めた気になっているようだから、言っておこう。お前は俺を舐めすぎだ」

 奔王が膝を曲げ、上体を前傾させる。これから全力疾走すると告げるにも等しい、露骨なまでの予備動作。

「そんなもので、こいつを……この奔王を止められると思うな」

 静かに告げたその瞬間、奔王の姿が瑞希の視界から消えた。

 一瞬愕然とした面持ちで固まった瑞希は、直後に気付く。相手の玩神はこの世から消失したのではない。移動したのだ。一瞬前まで自分の目の前にいた玩神は今、ゲートボール場の外にある芝生の斜面の上を疾走している。

 それは、あまりにも単純かつ乱暴な話だった。

 孝文の奔王は瑞希の徒花が作り出した結界を踏み越えられない。故に孝文は、奔王に結界を迂回させることにした。

 結界は公園全体を覆っていたわけでなければ、孝文と奔王を取り囲んでいたわけでもない。瑞希と孝文の間を隔てる長い線を地面に引いていただけだ。

 当然ながら、線には末端がある。そこを回り込めば、結界の向こう側に行ける。倉科と交戦中の清次郎を、あるいは結界の主である瑞希を、蹴り殺しに行くことが出来る。

 実に馬鹿げた行動であるが、そんな出鱈目を戦術として成り立たせてしまうほど、奔王というレイヨウの玩神は速いのだ。

 人はおろか、本物のレイヨウさえ凌駕するほどに。

 瑞希が自分の目を疑い、戦慄を覚えるほどに。

 その疾走は、速過ぎる。

「くっ……!」

 使い手である孝文はすぐ近くで無防備な姿を晒しているが、そこに攻撃を仕掛ける暇などない。そんなことをしていたら手遅れになってしまう。自分か清次郎のどちらか、あるいは両方が、あの玩神の蹴りを浴びて絶命する。

 だから、取るべき行動は一つしかなかった。何としてでも奔王の疾走を止めねばならないと悟った瑞希は、自身の脳を酷使して結界をさらに拡大した。相手の進路を完全に塞ぐべく、芝生の斜面に無数の彼岸花を咲かせていく。

 結界の範囲が脳の許容量を越えてしまいそうだったため、自身のすぐ傍で咲いていた彼岸花をあえて消滅させた。自身の守りを手薄にしてでも相手の疾走を止めねばならない局面だったのだ。

 その甲斐あって、結界の拡大はどうにか間に合った。列を成す彼岸花が斜面を貫き、奔王を急停止させる。

 かなり危なかったけれど、何とかなった。

 そう思い、安堵の息をついた時――奔王の姿が、再び視界から消えた。

「――っ!」

 ほんの一瞬気を弛めただけで、またもや姿を見失ってしまった。

 今度はどこだ、どこに行った――慌てて視線を走らせた瑞希は、奔王の居所を知って凍りついた。

 自分に寄り添って立つ徒花の左側面。手足を伸ばせば触れ合えるほどの至近距離。そこに、右足を軸にして回し蹴りを繰り出そうとしている奔王がいる。

 いつの間に、どこをどう通ってやってきたのか、まるで分からなかった。

 瞬時に理解出来たのは、自分の傍に咲く彼岸花を消したせいで肉弾戦の間合いに入られたという事実だけ。

 結界を張り直している暇はない。やむをえず、瑞希は奔王が繰り出す蹴りを徒花の左腕で受け止めた。

 その瞬間、激烈な衝撃が徒花の全身を貫く。

「――っあう!」

 衝撃に耐え切れず、徒花の両足が地面を離れる。傍に立っていた瑞希もそれに巻き込まれる。彼岸花の玩神とその主は、体を重ねた格好で数メートルの空中移動を体験した後、砂地の上を転がった。

 巨大な砲弾が直撃したかのような、凄まじい一撃だった。

 立ち込める砂埃の中、徒花と共に身を起こした瑞希は、苦痛を顔に出しながら悟る。今の一撃によって、徒花の左腕が叩き折られてしまったことを。

「まさか知らんわけじゃないだろう? 使い手が近くにいる時とそうでない時とでは、玩神の性能が大きく変わることを」

 地に膝をつく瑞希を見下ろし、孝文は言う。

 足の不自由な彼が危険を承知でこの場に出てきた理由は一つ。自らの玩神に全力を出させるためだ。

 玩神は、大きく分けて二種類ある。使い手の傍を離れられないものと、単独で遠くまで行けるものだ。孝文の奔王や倉科の屑虫が後者の代表例である。

 そうした玩神の共通点として、遠くに行くほど弱体化するということが挙げられる。肉体の出力が、使い手との距離に反比例するのだ。

 言い換えれば――使い手との距離が縮まるほど、その力は強くなる。本来の性能を発揮出来るようになる。

 そのことは瑞希も知っていた。知っていたが、まさか――ここまで急激に変わるものだとは思っていなかった。

「ほら、立てよ。あと一分だけお前と遊んでやる。お前は昨日、随分と舐めた真似をしてくれたからな……その礼だと思え」

 礼という言葉とは裏腹に、孝文の瞳は報復の一念で燃えていた。





 朝宮遥と椎名幸久の二人が戦場に選んだ場所は、清次郎達がいる場所より十数メートル上――芝生の斜面を登った先に広がる、数種の桜が植え込まれた広場だった。

 幸久は遥との一騎打ちを望み、遥はそれを受諾したのである。

「オモチャの銃を玩神の攻撃に利用する、か……確かに、それによって得られる攻撃の速さと手数、そして間合いの長さは脅威だな……まったく、面白い発想だよ。よく考えたものだ」

 桜の木の根元に立つ幸久は、街の夜景を背にして立つ遥の顔を見据えて、そう言った。

「だが、それではまだ足らんな。そんな程度でねじ伏せられるほど、あの倉科という男は甘くない。私も最近気付いたのだがな……えらく目端が利くぞ、あいつは」

 喋りながらも、彼は自らの能力を行使していた。

 骸骨の玩神、殯が八本の腕の先に付いた計四十の指から光の糸を伸ばす。それらが向かう先は、幸久の足下に置かれた四つのボストンバッグの中。

「勝ち目がないという意味では、孝文の相手をしているお前の弟子も同じ事。昨日は孝文が不覚を取ったようだが、ここでやりあうなら話が別だ。あいつの奔王はこういう広々とした場所でこそ真価を発揮する。生半可な玩神に捉えられはせんよ」

 バッグの中に詰まっていたのは、大小様々な大量の骨。この日のために幸久が方々から掻き集めていた動物の骨だ。

 光の糸に導かれ、大量の獣骨がバッグから飛び出し宙に浮く。

「そして、お前も……私に勝てん」

 宙に浮いた大量の獣骨が、一箇所に寄り集まる。そして、建物の骨組みを作るように重なり合い、複雑に組み合わさっていく。

 無言を貫く遥の眼前で、異形の怪物が形作られる。

「景気よく技を見せすぎたのが仇になったな、詐欺師。もう私は、お前の玩神がどういうものかを理解したぞ。その対処法も用意した」

 現れる、巨大な体躯。鋭い爪牙。大地を踏み締める四本の脚。

 犬のようでもあり、虎のようでもあり、太古に存在した恐竜のようでもあるが、そのどれとも決定的に違う異形だった。

 椎名幸久の玩神、殯に具わった異能は、骨を武器や防具に変えるだけの力ではない。形も大きさも異なる骨を意のままに組み合わせて整形し、現実には存在しない空想上の怪物を作り上げることも可能としている。

 しかもそれは、形ばかりの置物を作るという意味ではない。

 本物の動物――血肉を持ち、自らの意思で動く獣と同等の存在を生み出せるということだ。

「というわけで、だ……前置きが長くなって申し訳ないが、こちらもそろそろ始めるとしようか。神在祭への切符をかけた戦いを」

 白骨の巨獣を従えた幸久は、自身の勝利を微塵も疑わない様子で遥に告げる。

 彼が遥の力を目にしたのは、昨日と一昨日の二度。どちらの時も玩神本体の姿は見ておらず、遥が玩神の力で攻撃を繰り出す様を見ただけ。しかし、朝宮遥の玩神がいかなるものかを見極めるには、それだけで充分だった。

 多種多様な幻覚を見せ、相手を惑わす。

 それが朝宮遥の玩神の力だと、幸久は既に確信していた。

 昨日と一昨日、地面から杭を生やしたり刃を飛ばしたり青い渦を放ったりと多彩な技を披露した遥だが、結果的には誰にも傷を負わせていない。何かを破損させてもいない。幸久が骨の盾を作って攻撃を受け止めた際も、手応えがまるでなかった。

 そうした事実から導き出される答えは一つ。彼女の攻撃には、破壊力や殺傷力が一切ないということ。

 杭も刃も渦も、全てただの幻覚なのだ。どれだけ見た目が派手だろうと、正体は張りぼて以下の虚像。実体はない。人はおろか虫一匹殺す力さえない。

 相手が幻覚に翻弄されている隙に間合いを詰め、遥自身の手で仕留める――というのが基本戦術なのだろう。要は、手の込んだ目眩ましだ。恐れるに足りない。

「一応忠告しておいてやるが、こいつにハッタリや目眩ましは通じんよ」

 目を閉じれば幻覚を見ずに済むが、目を閉じたまま戦える人間はまずいない。日常生活ならともかく、戦闘行為に視覚は必要不可欠だ。目を開けていなければ攻撃も防御もままならない。

 だがそれは、人間の話。

 獣なら話は別だ。

 野生動物は人間より格段に優れた感覚器官を具えており、目に頼らずとも獲物の居場所を知ることが出来る。

 だからこそ幸久は獣骨を利用し、自分の代わりに戦ってくれる存在を作り上げた。

「殯」という葬送儀礼の名を冠した玩神は、骨を介して死者を部分的に蘇らせる力を持つ。その骨の持ち主だった生物が生きていた頃に有していた生理機能や技能を再現することが出来るのだ。

 今はその力で、白骨の獣にイヌ科の動物の嗅覚とネコ科の動物の聴覚を与えていた。視覚はあえて与えていない。朝宮遥を相手にする場合、それは役に立たないどころか害にさえなるからだ。それに前述の通り、このまま飛びかかって彼女を仕留めるだけなら嗅覚と聴覚の二つで事足りる。

 何も見ず鼻と耳を頼りに襲いかかってくる獣には、どのような幻覚も通じない。成す術なく喉笛を喰い千切られて、朝宮遥は死を迎えるだろう。

 そう確信している幸久が白骨の獣をけしかけようとした、まさにその時――

「楽しそうね、椎名さん……本当、さっきから楽しそう」

 それまで黙っていた遥が、薄く笑いながら口を開いた。

「何でそんなに年甲斐もなくウキウキしちゃってるのか、当ててみせよっか?」

 状況にそぐわないほど平静な声。その声から名状し難い不気味さを感じ取った幸久は、攻撃を思い止まった。

「……言ってみろ」

「双輪華燭」

 結論から述べるように、遥は一つの単語を口にする。

 幸久は目を見開いた。

「三つある玩神法の秘技の一つ。他人の玩神から力の核を摘出して、自分の玩神に移植する技。簡単に言うと、他人の玩神の能力を奪い取る技。椎名さんがセージ君をとっ捕まえた後でやりたいと思ってるのは、それでしょ?」

 遥は最初から見抜いていた。

 幸久が清次郎に玩神法を身に付けさせようとしていること――そして、その力を奪い取ることが最終目的であることを。

「どっから情報漏れたのか知らないけど……他人の力を奪い取れるなんて便利な技があることを知っちゃった椎名さんは、それを使いたくってたまらなくなっちゃいました……と。でも玩神使いなんてそこらに転がってるわけじゃないし、神在祭で勝ち残るには味方も必要だから、息子さんや倉科君相手に使うわけにもいかない。そんなわけで、双輪華燭をやりたいんだけどやる相手がいなくて困ってた椎名さんが目をつけたのが、今回のターゲットであるセージ君」

 嘲笑を浮かべながら、皮肉混じりのおどけた口調で、幸久が清次郎の玩神を狙った理由を言い当てていく。

「明らかに玩神法の才能あるんだけど、訓練されてないからろくに戦えなくて、それでいて有用そうな能力持ってるセージ君なんて絶好のカモだよね。これを逃す手はないとか思って鼻息荒くしちゃった椎名さんは、豚は太らせてから食え的な作戦を実行に移す決意を固めちゃったのでした」

「相手が玩神を出している状態でなければ双輪華燭は使えんからな……ああそうだよ、お前の言う通りさ。一目見て素晴らしい素材だと思ったから、この殯の一部にしてやることにしたんだ」

 幸久は苦笑して、遥の言葉の続きを自分で言った。

「だから少しばかり工夫した。精神的に追い詰めてやればその拍子に覚醒するかもしれんと思い、わざと仲の良い娘を巻き込んだりして苛めてやったよ。効果の程は、可もなく不可もなくといったところだったがな」

「無茶なことするよね。追い詰めて無理矢理玩神出せるようにさせるとか、正気の沙汰じゃないよ。そんな簡単に出せるようなら誰も苦労しないし」

「分かっているさ。我ながら、いくら何でも無茶苦茶だと思ったよ。だがそれでも、あれならどうにかなるかもしれんと期待せずにいられなかった。いや……正直今も期待している」

 遥の言う通り、精神的に追い詰めて玩神使いとしての覚醒を促すなど正気の沙汰ではない。幸久もそこは弁えている。

 にもかかわらずそんな暴挙に出たのは、筒井清次郎という少年が特別な背景の持ち主だからだ。

「なにせあの茅野の息子だ。一朝一夕で玩神法を覚えるくらい、出来ても不思議ではなさそうだろう?」

 笑みを深め、核心に切り込むつもりで言う。

 遥は首を傾げた。

「息子……? セージ君が?」

「とぼけるなよ。お前は知っていただろう? あれが茅野の隠し子だということを。でなければ、茅野の側近であるお前がわざわざ護衛につくわけがない」

 何の根拠もなく茅野清明の息子と決め付けているわけではない。幸久は既に清次郎の素姓を、本人でさえ知らない域まで調べ上げていた。

「神在祭に出るための条件を提示された時、何故あんな子供を狙わねばならんのかと思ったから、少しばかり調べてみたのさ。そうしたら驚いたよ。十四年前、あの小僧を佐久間とかいう女に預けたのは茅野……」

 パチパチパチパチ――という乾いた音が、言葉を遮る。

 拍手であった。

 どういうわけか、突然遥が手のひらを打ち合わせ始めたのだ。感服したとでも言いたげな顔で。

「すごいねー椎名さん、すごいすごい。ほんともう、びっくりしちゃうくらいの勘違いのオンパレード。いや、知ってたけどさ……知ってたけどね……思ったよりすごかったよ、うん……何から何まで勘違いで合ってるとこが一つもないなんて、ここまで来ると奇跡だね。テストで例えるなら全問不正解。奇跡の0点」

「なっ……」

 思いもよらなかった切り返しをされ、幸久の顔色が一気に変わる。

 遥は拍手を終えた後、小さく溜息をついた。

「いやほんと、ツッコミ所が多すぎてツッコむのを放棄したくなるレベルなんだけど……ま、いっか……いつまでも勘違いさせとくのも可哀想だから、ツッコんであげる」

 肩にかかった長い髪をかき上げつつ、彼女はひどく冷めた目を幸久に向け――

「双輪華燭ってさ、椎名さんじゃ無理だよ」

 絶望的な事実を、遠慮なく突きつけた。

「どうせ読んだ文献か何かにやり方とかが詳しく書いてあったから、出来るような気になっちゃったんでしょ? でも残念、無理。玩神法の中でも上から二番目くらいに難度高い技だもん、あれ。あたしでも無理だし、茅野さんや宇津木さんがやっても成功率は二割ってとこみたい……そんなのを、椎名さんが出来ると思う? 何年もかけてガラクタ同然のクソ弱い玩神作るのがやっとだった、センスの欠片もない椎名さんが」

「なん、だと……貴様……!」

 痛烈な侮辱を浴びせられ、憤慨する幸久。そんな彼に追い討ちをかけるように、遥は続けた。

「あ、やっぱ自覚ない? 自分は超すごい玩神生み出して朝宮達に追いついたんだー、とか思ってた? ほんとにそうなら、もう重症だね。自分を客観的に見れてなさすぎ」

 彼女は確かな眼力の持ち主だ。物事の真贋や本質を見抜く能力においては他の誰よりも優れている。

 その眼力を以って断じていた。

 椎名幸久は玩神使いとして下の下。殯という玩神は玩神扱いする価値さえないゴミだ、と。

「落ち着いて、よーく考えてみなよ。そんな骨いじくって博物館の恐竜みたいなの作るだけの玩神で、他の人達に対抗出来ると思うの? 稔君に、サナちゃんに、陽子さんに、道厳和尚に、本気で勝てると思ってるわけ?」

 骨を操るから何だというのか。骨を繋ぎ合わせて合成獣めいたものを作ったところで、何が出来るというのか。

 何も出来はしない。本物の玩神使いに――玩神法の深奥に辿り着いた真正の怪物共に、そんな児戯は通じない。

「ていうかさ、あたしの見立てじゃ、あなたに比べたらあなたの息子の方がいくらかマシだよ。あっちの方がまだ、玩神法がどういうものかをちゃんと理解してる。あなたは駄目。根本的なところで勘違いしすぎ」

 玩神法において最重要な資質は想像力。玩神の優劣を決するのは想像力の優劣。

 幸久はそう考えているのだろう。

 それは間違いではないが、正しいとも言い切れない。

 超常の存在を育むほどの想像力が何を源泉にしているか――想像力というものを根底から支えるものが何なのかを、彼は未だに理解していない。

 きっと永久に理解出来ないだろう。玩神の力を、目的を遂げるための「手段」としか考えない限り。

「そもそも、何でなかなか玩神法を覚えられなかったんだと思う? 何で途中で茅野さんに見限られたんだと思う? どうせ年齢のせいだと思ってたんだろうけど、違うよ。確かに若い方が玩神法覚えるには有利だけど、はっきり言ってあなたはそういうこと以前の問題。もし仮に若い頃から修行始めてても結果は同じだったよ。間違いなくね」

「だ、黙れ……黙れ……! この……」

 幸久は遥を黙らせようとしたが、遥は黙らなかった。

 無慈悲に、残酷に、執拗に、徹底的に、言葉の刃で、幸久の精神の支えだったものを細切れにする。

「いい加減気付きなって。玩神法覚えるのが遅かったのも、茅野さんに捨てられたのも、今こうしてあたしに馬鹿にされてるのも、全部理由は一緒。年齢のせいでも何でもない。ただ単にあなたっていう人が、どうしようもない能無しだから。玩神法の使い手としては最低レベルの雑魚だから。まともに相手してあげる価値もない、残念な勘違いおじさんだから」

「うるせえええええええッ! 黙りやがれええええええええええッ!」

 臨界点を超えて爆発した激情が、醜い叫びとなって迸った。

 理性も品性もかなぐり捨てた幸久は、白骨の獣に命じる。あの忌々しい女を噛み殺せ、と。

 獣はその命令に従い、後ろ脚で大地を蹴り上げ、牙の並ぶ顎を広げて遥に飛びかかっていく。

 対する遥は、その突進から逃れようとしない。彼女は一歩も動かないまま玩神の力を行使し、自身の前に鉄板のような黒い障壁を作り上げた。

 無駄だ、と幸久は心中で叫ぶ。

 遥の玩神の力は幻覚。実体のない虚仮威しだ。そんな力で壁を作ろうと盾を作ろうと剣山を作ろうと無駄なこと。そもそも視力を持っていない白骨の獣は一瞬たりとも怯まず、あの細い体を八つ裂きにする。

 そう思っていた。絶叫するほど激怒していながらも、彼は自身の勝利を確信していた。

 黒い障壁に突っ込んでいった獣が、崩れ落ちるように倒れるまでは。





 椎名孝文は、生まれつき両足に障害を負っていた。

 彼が自分の足で立ったことは一度もない。幼少の頃から現在に至るまで、ずっと車椅子生活を余儀なくされていた。

 そんな彼に対する家族の接し方は、両極端と言っていいほど真っ二つに分かれていた。

 父の幸久と七歳上の兄は、孝文をいないものとして扱った。

 ろくに面倒を見ようとせず、話しかけることもほとんどなく、何かを教えたり与えたりすることもなく、その将来に期待を寄せることもなかった。椎名孝文という存在に対して、彼らは徹底的なまでに無関心だった。

 母と五歳上の姉は、その逆だった。

 不自由な体で生まれてきたことを不憫に思ったからだろう。彼女らは孝文に惜しみなく愛情を注いだが、その愛情は些か歪だった。厳しく躾けることはなく、何をするにも必ず手を貸し、少しでも良いことをすれば過剰なほど褒めそやした。明らかな過保護であり、さらに悪く言えば愛玩動物も同然の扱いだった。

 無関心による放置と、憐憫による過保護。そのどちらもが、幼き日の孝文を深く傷つけていた。

 物心ついてすぐ、気付いてしまったからだ。四人の家族が抱いている感情の正体に。

 立って歩けもしない出来損ないだから、鬱陶しい。邪魔臭い。視界に入れたくもない。

 立って歩けもしない可哀想な子だから、優しくしてやろう。保護してやろう。特別扱いしてやろう。

 表に出る態度は真逆でも、根底にある思いは同じだ。

 見下している。

 椎名孝文は自力では何も出来ない無力な存在だと決め付けて、一段上の所から侮りの目を向けているのだ。

 家の外で出会う連中も、そのあたりは同じだった。同年代の子供、学校の教師、近所の住人、親類縁者――その誰もが、孝文と接する時は露骨に態度を変える。勝手に憐れんで、勝手に蔑んで、勝手に無力と決め付けて、勝手に見下してくる。立って歩けないというだけの理由で。

 納得がいかなかった。何故自分が、自分だけが、こんな扱いをされなければならないのかと心底から憤った。

 無視されるのは嫌だが、だからといって特別扱いしてほしくはない。同情してほしいなんて思っていない。

 ただ、「普通」に接してほしかっただけだ。父と母からは普通の息子として、兄と姉からは普通の弟として、蔑まれるのでも憐れまれるのでもなく、普通の人間らしい扱いをされたかっただけなのだ。

 そんな思いを幾度か言葉にしたことはある。けれど、思いが伝わったことはない。

 蔑む者は蔑んだまま、憐れむ者は憐れんだまま、孝文への接し方を変えることはなかった。

 侮られ、軽んじられる度――

 特別扱いされ、優しくされる度――

 黒い澱のようなものが、彼の胸の奥底に少しずつ沈殿していった。

 それがはっきりとした形を成したのは、今から十年前。十歳の誕生日を迎えて間もない頃のことだ。

 その日、父と母が、家の居間で激しく口論していた。

 別に珍しいことではなかった。元々あまり仲が良くない夫婦で、些細な行き違いをきっかけにした口論をそれ以前から何度もしていた。

 しかしその日の口論は、最早口論ではなくなっていた。熱くなりすぎた父が、母に手を上げたのだ。

 顔面を殴られ、倒れる母の姿。

 それまで見て見ぬふりをしていた孝文も、そんな光景を目にした後は黙っていられなかった。

「お父さん……もう、やめてよ」

 怒り狂う父は恐ろしかったが、勇気を振り絞って、そう言った。

「そんなことしたら、お母さんがかわいそうだよ……」

 父にも母にも不満はあった。けれども、憎んでいたわけではない。醜く言い争う姿を見続けて、何も感じずにいたわけではない。

 傷つけ合うのは止めてほしかった。仲の良い夫婦になってほしかった。だから怒鳴られることを覚悟で間に割って入った。

 父に真っ向から意見したのは、それが初めてだった。

 そのささやかな反抗に対する制裁は、苛烈な暴力だった。

 拳で殴られ、車椅子ごと倒された。そうして床に横たわる格好になった後、父の足裏が頭の上に降ってきた。

 何度も、何度も、踏みつけられた。

 涙が出るくらい痛かったが、より深刻に痛めつけられたのは心の方。

「この、糞馬鹿が……! お前が……お前なんぞが、偉そうな口を叩くな……!」

 踏まれながら、様々な罵詈雑言を浴びせられた。

 中でも忘れられないのは、最後に父の口から放たれた言葉。それが孝文の心に、二度と消えない傷を刻んだ。

「――立って歩けもしない分際でッ!」

 自分の足で立てない。歩けない。

 生まれた時から抱えていた障害の重みを、これほど痛切に感じたことはなかった。

 立って歩ける足がないから、軽く見られる。誰も人間扱いしてくれない。

 立って歩ける足がないから、何も出来ない。暴力に抗うことはおろか、暴力から逃れることも出来ない。

 母を守ることさえ出来ない。

 そんな現実が、十歳の孝文を徹底的に打ちのめし――胸の奥底に沈殿していたものに、確かな形と身を焼き焦がすような熱を与えた。





 大地と大気を激震させるその疾走は、最早一種の災害だった。

 吹き荒れる暴風のように、あるいは閃く雷光のように、黄褐色に輝くレイヨウの玩神は超高速で走り続け、瑞希を翻弄する。

 彼岸花の結界で進路を塞ごうとすればすぐさま方向転換され、取り囲もうとすればその前に脱出される。縄のように伸ばした花茎で手足を絡め取ろうとしても、容易く避けられる。何をしても、その疾走を止められない。

 そして一瞬でも隙を見せれば、彼我の距離を零にされる。

「くぅっ……!」

 奔王が仕掛けてきた猛突進からの体当たりを、瑞希は徒花と共に紙一重でかわす。その際に生じた凄まじい風圧が彼女の髪を逆立たせた。

 直撃を受ければひとたまりもなかったことを感じ取り、心底から戦慄する。

 既に瑞希は清次郎を守ることを半ば諦め、結界の範囲を大幅に縮小していた。他人の心配をしている場合ではなくなったのだ。無駄な消耗を抑えて自分の身を守ることに専念しなければ、あっという間に殺されてしまう。

「どうした? この程度でもう対処しきれんか?」

 疲労で息を乱し始めた瑞希に、孝文は冷めた声を投げかける。

「俺はまだ、軽い運動をしているだけだぞ」

 それがはったりでないことを証明するかのように、奔王はさらに速度を上げる。暴力的なまでの激走で砂塵を巻き上げながら、瑞希の攻撃を掻い潜っていく。

 僅か一年半という短期間で玩神法を会得した椎名孝文――彼の玩神使いとしての才能は、非凡といっていいものだった。

 常人離れした想像力、強固な意志力、そして自らの力に対する強い執着心を持っている。経験不足故に未熟だが、その潜在能力は茅野清明に認められた五人の精鋭と比べても遜色ない。

 そんな彼が生み出した奔王という玩神は、非常に優秀な玩神である。

 高い攻撃力と防御力を有し、動作も精密。遠隔操作も可能。最大の長所である移動力においては他の追随を許さない。

 さらに、その移動力を有効活用するための「能力」まで具えている。

「調子に……乗らないでよっ!」

 苦し紛れの怒声を放ち、瑞希は一か八かの賭けに出た。

 余力を残すという考えを捨て去り、全身全霊を捧げて徒花の力を行使。可能な限り高速で可能な限り結界の範囲を広げ、奔王を呑み込もうとする。

 それに対する奔王の回避行動は、跳躍だった。天高く飛び上がって大きな放物線を描きながら、結界の外に移ろうとしたのだ。

 ――かかった。

 空中に逃れた奔王を見上げ、瑞希は勝利を確信した。

 どれほど優れた運動能力を持っていようと、足場のない空中では身動き出来ない。一度飛び上がった後は重力に引かれて落ちていくのみ。無防備な姿を晒しているも同然だ。

 その好機を逃すまいと、地上に作られた夢幻の花園が牙を剥く。結界を成していた彼岸花の一部が瞬く間に伸長し、縛鎖と化して落下中の奔王に襲いかかる。

 回避は物理的に不可能。この戦いは、瑞希の逆転勝利で幕を下ろす。

 傍目にはそう見えるに違いない状況の中、孝文は平静な面持ちを保ったまま、奔王の秘められた力を解放した。

「転法輪」

 神の理を想像し、創造する。

 現実を侵す幻想の力が、今ここに顕現する。

「天羚神足通」

 突然の、物理に反した急上昇。放物線を描きながら地面に向かっていた奔王が、着地を経ずして再び飛び上がった。

 その身を捕らえる筈だった数十本の花茎を置き去りにして。

 不可視の翼をはためかせ、空の頂を目指すかのように。

「――っ!」

 落下していた物体が突然急上昇に転じるという怪奇を目の当たりにして、瑞希は言葉を失う。

 驚くべき事象はさらに続いた。空を駆け上る奔王がくるりと縦に半回転したかと思えば、鋭い角度で急降下。滑空する猛禽を思わせる勢いで地上の瑞希に襲いかかる。

 重力以外の何かが作用したに違いない運動。異常すぎる降下速度での襲来。

 繰り出される蹴り足が目の前に迫ったところで、瑞希はようやく理解した。この一連の出鱈目な動きこそ、相手の身に具わった特殊能力であることを。

「くっ……!」

 頭上から降ってきた足を、咄嗟に身を屈めてやり過ごす。同時に再び花茎を伸ばして捕らえようとしたが、やはり無駄だった。奔王はまたも急上昇。そして空中を自在に飛び回り、徒花の間合いの外に逃れていく。

 推進力の発生。それが奔王の能力だった。

 足場を蹴らずとも、奔王はその身から――正確には両足の部位から、非常に強い推進力を生むことが出来る。

 発動のための条件は一つ。そこに足場があると仮定して、通常の跳躍の際と同様の動作をする。ただそれだけ。

 それだけで、レイヨウの玩神は不可視の翼を得て空を駆ける。

「空中では身動き出来ないとでも思ったか? 甘く見るなよ、ガキが。空中にいようが水中にいようが自由自在に動けるからこそ、俺はそいつを奔王と名付けたんだよ」

 奔王という名の由来は、将棋の駒だ。

 将棋と言っても、現代の主流となっている本将棋ではない。現代ではほとんど指されることのなくなった古い時代の将棋――中将棋、大将棋、天竺大将棋、摩訶大大将棋等に、奔王という名の駒が存在する。

 その性能は、本将棋の主力である飛車と角行を合わせたものと言っていい。チェスで言うならクイーンと同じ。即ち、全方向に好きなマスだけ移動出来る。

 恐るべき機動力で盤上を縦横無尽に駆け巡り、攻撃の要となって敵軍を蹂躙する、強力無比な駒である。

「はぁ……はぁっ……!」

 荒い息をつきながら、瑞希は考えた。肉を切らせて骨を断つという諺に倣うかのような、痛みを伴う起死回生の一手を。

 このままでは何をしても奔王を捕らえられない。結界の使い過ぎで余力もほとんどない。だからここは、次の攻撃をあえて受ける。相手が繰り出してくる蹴りを徒花の体で受け止め、その瞬間に徒花の腕で相手の足を掴み、動きを止める。

 一秒でいい。たった一秒でも動きを止められれば、花茎の縛鎖で拘束出来る。

 問題は、あえて受ける一撃に徒花が耐えられるかだ。

 相手の蹴りは半端ではない威力を持つ。対するこちらの徒花は、お世辞にも頑強な玩神とは言えない。むしろ身体的には脆弱な部類に入る。

 それでも、覚悟を決めて受け止めれば一撃くらい耐えられるかもしれない。いや、耐えてみせるしかない。この窮地を打開する方法は、もうそれしかないのだから。

 希望的観測に縋るような思いを込め、瑞希は徒花と共に迫り来る奔王を迎え撃った。歯を食いしばり、大地を踏む足に力を込め、相手が繰り出してきた上段蹴りを真っ向から受け止める。

 そんな彼女に、孝文は心底から呆れ果てた顔で言い放つ。

「――馬鹿が」

 徒花の細い体が、真後ろに飛ぶ。守るべき主である瑞希も巻き込んで、諸共に飛んでいく。

 蹴りの衝撃で飛ばされたのではない。徒花の体に蹴りを叩き込んだ瞬間、奔王の能力が発動したのだ。

 これが、もう一つの使い方だ。奔王の両足から生じる強い推進力は、単なる移動手段ではない。その足と接触した物体に推進力を与えることも出来る。

 そうした特性を利用して、蹴りを叩き込んだ相手を彼方に吹き飛ばす。単純だが、極めて強力な攻撃である。

 事実として、瑞希は全く抗うことが出来なかった。

 体が勝手に後方に飛んでいく。止まらない。強制的な高速移動を止められない。両足が地面から離れてしまった以上、どうすることも出来ない。

 驚愕と混乱、そして絶望を抱いたまま、瑞希と徒花はゲートボール場の端にあった石壁に激突した。

「か……はっ……!」

 肺から空気を吐き出し、砂地の上に倒れ伏す。

 咄嗟に自身を大量の彼岸花で覆い、激突の衝撃を和らげようとしたが、それでは不十分だった。背中から受けた重い衝撃に耐えられず、失神する。

 それから数秒後、徒花の姿が現実世界から消えた。主が意識を失ったため、存在を維持出来なくなったのだ。

 砂地の上で咲き乱れていた彼岸花も消え去り、その場に残る超常の存在は孝文の奔王だけとなる。

 明確になった勝者と敗者。

 完全なる、決着の光景。

 そんな中、倒れ伏して無防備な姿を晒す瑞希を見下ろしながら、孝文は思った。

 殺してしまおうか、と。

 父からはあの少女も生け捕りにしろと言われている。だがそれは、「可能なら」という条件付きだ。筒井清次郎に比べれば優先度が低いらしく、何が何でも生け捕りにしろとまでは言われていない。

 思いのほか手こずったから、勢い余って殺してしまった――とでも弁明すれば済むだろう。筒井清次郎の身柄さえ確保しておけば、父はきっと納得する。

 ここで殺しても問題ない。

 生意気で、癇に障る小娘だ。昨日の一件で恥をかかされた恨みもある。この手で息の根を止めてやれば晴れやかな気分に浸れるだろう。

 しかし――

 分かっていたことだが、相手は自分より大分年下だった。

 おそらく十四、五歳。まだ子供と言っていい年齢だ。

「……ちっ」

 舌打ちして、視線を逸らす。結局彼は瑞希に何もしないまま、その場を後にした。





 自分は玩神使いになれない。

 玩神法を体得するまで、倉科敦はずっとそう思っていた。

 これは彼の持論だが――玩神法を体得する者は、総じて「濃い」。強いとか弱いとか、優れているとか劣っているとか、そういう話ではない。「濃い」のだ。人格の濃度とでも呼ぶべきものが、常人のそれと大きく違う。

 特定の事物に強く執着する者。

 何があろうと揺るがない強固な信念を持つ者。

 どんな危険や困難も顧みず夢や目標のために邁進する者。

 常人には理解し難い異常な思考回路を持つ者。

 感情の起伏が病的なほど激しい者。

 倉科より一歩も二歩も先を行っていた者達――早い段階で玩神の創造に成功した五人の「優等生」は、そういう者ばかりだった。筋金入りの異常者共であり、同じ空間にいるだけで言い知れぬ圧迫感を与えてくるような連中だった。

 だから、自分には無理だと思ったのだ。

 並外れて「濃い」人格を持った五人に比べて、自分は「薄い」。倉科敦という男の人格は、薄くて軽くて中身がない。

 夢や目標は特にないし、これといった主義主張もない。何かに深くのめりこんだこともなければ、誰かを深く愛したことも憎んだこともない。欲しい物もやりたい事も、考えたところで何一つ浮かんでこない。

 玩神法にしても、超常の力を得たいから修行しているわけではなかった。

 子供の頃に母親が万輪会に入信したから、自分も入信することになった。母が死去した時には教団を抜けようかと思ったが、よく考えてみれば抜ける理由も特にないのでそのまま居据わり続けた。そうしたら何故か玩神法を学ぶ千人余りの中に入れられてしまい、修行の日々を送る羽目になった。ただそれだけの話。

 才能もなければ情熱もない。努力も人並み程度しかしていない。そんな自分に玩神法を体得出来るわけがない。そのうち師に見限られて放り出されるのが落ちだろうとばかり思っていた。一人また一人と修行の日々から脱落していくのを見る度、「次かその次くらいが俺の番だろうな」と心の中で呟いていた。

 けれども不思議なことに、いつまで経っても彼の番は回ってこなかった。一緒に修行を始めた仲間の九割以上が姿を消す頃になっても、彼は師に見限られなかった。

 そして、いつの間にか――劇的な出来事など何もなく、本当にいつの間にか、彼は虫の姿をした玩神を出せるようになっていた。

 自分が玩神を生み出したことに少しだけ驚いた彼は、同時に疑問を抱いた。

 何故、虫なのだろう――と。

 別段虫が好きなわけではない。虫の生態に詳しいわけでもない。虫に対してこれといった思い入れがあるわけでもなく、虫の玩神を生み出そうとした憶えもない。

 にもかかわらず、彼の玩神は虫だった。

 これはいったいどういうことだと思い、しばしの間自問を続けた彼は、やがてその答えに行き着いた。

 何のことはない。

 これはただ、自分というろくでなしの中身が表に出てきただけの話。

 虫には自我がない。連中はただ、外部からの刺激に反応しているだけ。

 中身は空洞。心と呼べるものは一片もない。

 意地も誇りも信念も情念もない。善意や悪意もない。

 仲間を愛さない。敵を憎まない。夢を見ない。願いを持たない。自己への執着さえもない。

 生まれてしまったから生きるだけ。生きるために生きるだけ。そして最後は、何も為すことなく死ぬだけ。

 無意味に生きて、無意味に死ぬ。ただそれだけの空虚な存在。

 だから、自分の玩神は――

 いや、自分の正体は――虫なのだろう。

 そんな結論に至った後、彼は自らの玩神に名前を付けた。

 愛など込めず、大仰な意味付けをしようともせず、見たままの印象で名前を付けた。

 屑虫、と。





「転法輪」

 想像する。虫の姿形を。虫の在り方を。

 無意味に生きて、無意味に死ぬ――塵の山にも等しい軍勢を。

「無量塵芥窟」

 倉科敦の武器であり手足であり、精神の投影である甲虫の大群。それが、屑虫の両肩から再び放たれた。

 向かう先は地面。いや、地中。何もかもを喰うその能力で地面に穴を空け、地中に潜り込んでいく。

 僅かな時間で反撃の手段を考え出した倉科は、それを実行に移していた。

 一方、茂みの手前の遊歩道に立つ清次郎は、電動ガンを油断なく構えつつ倉科の出方を窺っていた。

 視界を遮る宵闇と草木のせいで、今の彼には倉科の正確な位置が分からない。そのため積極的な行動が取れずにいた。

 草木が倉科を守る盾にもなっているため、闇雲に撃ったところで弾丸を当てるのは難しい。ひたすら撃ちまくれば病魔の力で草木を一掃することも可能だろうが、そうすると弾丸を大量に消費してしまう。今の自分にとって電動ガンの弾は生命線だ。無駄撃ちは極力控えたい。

 かといって、あの茂みの中に踏み込んでいくのも躊躇われる。踏み込んだ途端に死角から攻撃される恐れがあるからだ。そうでなくとも、格闘の心得のない自分は接近戦に向かない。自ら距離を詰めていくのは危険すぎる。

 しかしながら、このまま膠着状態を続けるのが賢明な判断とも思えない。時間が経てば経つほど相手の疲労が抜けていくからだ。完全に回復されてしまえば勝負は振り出しに戻る。先の攻防で体力を削った意味がない。

 今更嘆いても仕方のないことだが――やはり、戦闘準備を整える期間が短すぎた。たったの一日では電動ガンと手榴弾を用意するのが精一杯で、このような状況に対処するための手立てまでは講じられなかった。

 せめてもう二、三日あれば、万全に近い態勢で戦いに臨めたかもしれない。より強力な武器を用意出来ていたかもしれない。戦術も練り込めていたかもしれない。

 玩神を完全な姿で召喚することも、可能になっていたかもしれない。

 そう思うと、やり場のない憤りが心の中で芽生えてしまう。

『言ってどうなるもんでもないかもしれないけど、大事なことだと思うから言っとくよ。君のその右腕……その玩神は、まだ完全な形で発現してない。本当は右腕だけじゃなくて、左腕も、両脚も、胴体もある。みーちゃんや倉科君の玩神と同じようにね。今はまだ、それを表に出せないでいるだけ』

 昨日、朝宮遥はそう言った。

 彼女の言葉を信じて自分なりに色々と試してみたが、やはり一日では無理だった。どう頑張っても右腕以外の部分を出せるようにはならなかった。自分にはまだ、何かが足りないらしい。

 いや、何が足りないのかは分かっている。

 遥が何よりも大切と言っていたこと――自分の心と真っ直ぐに向き合うことだ。

 自分にとって、それは他のどんなことよりも難しい。それだけは絶対に避けたいと思っている。

 何故なら、屑だから。生きる資格もない、正真正銘の屑だから。

 その腐った心を見つめ続けていると、取り返しのつかないことになってしまうから。

「……よせ、考えるな」

 愚にも付かない思考に耽りかけた自分自身を、小声で叱咤する。

 今考えなければならないのは、そんなことではない。あの茂みの中に隠れている倉科をどうやって焙り出すかということだ。

 そう自らに言い聞かせ、気を引き締めた時。

 彼の立っていた場所が、大きく陥没した。

「――っ!」

 体が真下に落ちる。目に映るものが、倉科の潜む茂みから土の壁に変わる。

 驚きのあまり思考停止に陥ってしまい、何が起きたのかを理解するまで数秒の時間を要した。

 そのくらい、ありえない出来事だったのだ。

「な……に……?」

 目の前に土の壁。背中が触れているのも土の壁。自分の尻が下敷きにしているのは、砕けて落下した遊歩道の路面。

 突然地面が陥没した――というより、これではまるで落とし穴だ。ほんの数秒前まで遊歩道の上に立っていた自分が今、深さにして一メートル少々の丸い穴に落ちている。

 何故そんなことになったのかは、落ち着いて考えてみれば明白だった。

 倉科の仕業だ。あの男は池の畔の茂みに隠れながら、地中に虫の大群を送り込んでいたのだ。

 その大群がこちらの立ち位置の真下までやってきて、土壌を大量に貪り喰った。それによって生じた落とし穴に自分は嵌まってしまったというわけだ。

 ならば、急いで脱出せねばならない。虫の大群によって作られたこの穴は、奴らの巣窟も同然なのだから。

 そう思って立ち上がろうとした清次郎は、手遅れだったことを直後に痛感した。

 玩神の右腕に握らせていた、ガトリングガン型の電動ガン。それが既に、穴の底から這い出てきた虫共の餌食になっていたのだ。

 銃把も、弾倉も、モーターも、六本の銃身も、まとわりついた無数の甲虫に齧られ、著しく破損している。これではもう使い物にならない。

 突然の落下に驚き、数秒間放心したのが致命的な過ちだった。自らの間抜けさを呪いたくなる。

「くっ……そぉっ……!」

 清次郎は悪態をつき、やむなく武器を捨てて虫共の蠢く穴から脱出した。

 その直後、落ち着き払った低い声が彼の耳に届く。

「この前見た映画に、兵隊が地下にトンネル掘って城を攻め落とすシーンがあったんでよ。真似してみた」

 屑虫の本体を従えた倉科が、清次郎の前に立っていた。

「急な思いつきでやったもんで、成功する保証なんざなかったが……案外上手くいくもんだな。我ながらびっくりしてるよ」

 言葉とは裏腹に、彼は冷静だった。何事もなかったかのように平然としたその顔からは、いかなる感情も見て取れない。

 思惑通りに事が運んだための喜悦も、危機を脱したための安堵もなく、形勢逆転が成ったという事実だけを淡々と受け入れている顔だ。

 その薄気味悪いほどの冷静さ――非人間的なほど感情の欠落した精神に、清次郎は恐怖を覚えた。

 そして、思い知る。

 今目の前にいる男は、人の形をした虫なのだということを。

「じゃ、そちらさんが丸腰になったところで……殴りかからせてもらうぜ」

 宣告と共に、屑虫が動いた。足の脱力から生じる重心移動を巧みに利用し、その身を素早く前へと運ぶ。

 そして、清次郎が慌てて突き出した拳を沈み込むような身のこなしで避け、懐に侵入。脇を締めながら左腕の肘を振り上げ、清次郎の下顎を強打する。

「がっ――」

 苦鳴を上げて大きくのけぞる清次郎に、屑虫は容赦なく二撃目を見舞った。腰を水平に回して右拳を伸ばし、無防備な鳩尾を打ち抜く。

 鍛錬を積んでいない清次郎の体は、屑虫の重い拳打に耐えられない。受身もとれないまま仰向けに倒れるしかなかった。

「これでも一応、茅野先生から武術仕込まれてんだ……って、自慢するほどの腕前でもねえんだけどな」

 自慢するほどの腕前でなくとも、素人の清次郎を叩きのめすくらいなら造作もないことだった。

 茅野清明の下で玩神法を学んだ者は、一人の例外もなく武術の手ほどきを受けている。茅野清明自身が古流武術の練達者であり、玩神使いの育成には肉体の鍛錬も必要不可欠という理念を掲げていたためだ。

「まあ……なかなか手強かったよ、おたく。弾くらった時なんかマジで殺られちまうかと思った。今まで普通に暮らしてたのにこんだけ戦えるのはすげえと思うぜ。大したもんだよ。けどまあ、あれだな、自分の手で俺を仕留めることにこだわり過ぎてたな。もうちょっとあっちのお嬢ちゃんと協力して戦った方がよかったと思うぜ。結果論かもしれねえけどよ」

 敗因を指摘しながらも、倉科は清次郎の健闘を素直に讃えていた。

 彼はそういう男だ。人を傷つけることを好まず、人を見下すことをせず、敵対する相手に怒りや憎しみをぶつけることもなく、勝利を手にしても決して驕らない。

 だから、よく誤解される。

 優しい心の持ち主で、人を傷つけることを嫌っていて、乱暴なことは決してしない、人間の出来た常識人――などという風に誤解される。

 繰り返すが、誤解である。

 倉科敦という男は、断じてそのようなお人好しではない。

「んじゃ……生け捕りにしとけって言われてるんでよ、逃げられねえようにさせてもらうわ」

 清次郎の左足の脛を屑虫の足で踏みつけ、骨を砕く。

 悲痛な叫びが、清次郎の口から迸る。

「あああああああっ!」

「悪いな、勘弁してくれ」

 罪悪感など全く抱いていない様子で、形ばかりの謝罪を口にする倉科。

 彼は人を傷つけることを好まないが、人を傷つけることを嫌っているわけでもない。

 好きも嫌いもないのだ。

 傷つけなければならない理由があるか否か――判断基準はただそれだけ。

 理由のない暴力は決して振るわないが、理由さえあれば暴力を振るうことを全く躊躇わない。

 その精神は虫であり、空洞も同然。悪意や加虐趣味がない反面、善意や慈悲の心もない。

 良くも悪くも、人間らしさの欠けた男である。

「……終わったようだな」

 ゲートボール場の方から、孝文が車椅子を動かしながら奔王と共にやってきた。

「ああ、今終わったとこだが……念のため、もう一本の足も折っとこうか?」

「いや……もう充分だろ」

 孝文は複雑な面持ちで頭を振る。

 倉科の異常性は彼も薄々感付いていたものの、平然と人体を壊している様を見ると寒気を覚えずにいられなかった。

「それより、うちの親父の方はどうなってる?」

「さあ? 朝宮さんと上の方行っちまったから分かんね」

「……なら、様子を見に行くぞ。手出し無用とかぬかしてやがったが、どうにも信用出来ん。こう言っちゃ何だが、自信過剰なところがあるからな。今頃やられてるってこともありえ……」

 背後から攻撃の気配を感じた孝文は、言葉を切って回避行動に移った。自身を車椅子ごと奔王に抱え上げさせ、真横に跳ぶ。

 それに一瞬遅れる形で、緑色の縛鎖が孝文のいた場所を貫いていった。

「様子見に行く前に、あっちを片付けなきゃいけないみたいだぜ。つーか止め刺してなかったのかよ?」

「ちっ、馬鹿が……大人しく寝てりゃいいものを……」

 孝文に不意打ちをしかけたのは、瑞希だった。

 彼女は荒い息をついてよろめきながら、両目に精一杯の力を込めて孝文と倉科の二人を睨む。

「勝手に、勝った気に……ならないで下さいよ……私は……まだやれますから……」

 懸命に言葉を絞り出しているが、その様子はどこからどう見ても強がりだった。

 立っているのがやっとという有様で、とても戦えるような状態ではない。

「いい根性してるよ、って褒めるとこなのかもしれねえが……そりゃあんまり賢くねえぞ、お嬢ちゃん。分かるだろ? この状況じゃもう勝ち目はないってことは」

「……っ」

「それでも頑張るってんなら、降参しろとは言わねえがよ」

 言って、倉科は瑞希に歩み寄っていく。自らの手で瑞希を二度と立ち上がれない体にするために。

 必死に強がっている瑞希も、自分に勝ち目がないことは理解していた。

 壁に激突した際に負った怪我は決して軽くない。今も背中が激しく痛んでいる。徒花の力を使い続けたせいで脳の疲労も限界に近い。

 その上、相手は驚異的な速度であらゆる攻撃を回避する奔王と、徒花の力が通じない屑虫。

 考えれば考えるほど絶望的な状況だ。

 それでも、絶望したくなかった。諦めたくなかった。

 ここで負けたら、あの楓という少女は確実に死ぬ。清次郎も最後には殺されてしまうだろう。それに、自分の望みも永遠に叶えられなくなる。

 だから退けない。たとえ絶望的な状況でも、どうにかして勝利をもぎ取るしかない。

 そう自分に言い聞かせ、決死の覚悟で眼前の二人に挑もうとした時。

「――え?」

 不可思議な現象を目の当たりにして、彼女は放心した。





 五年前のことだ。

 朝宮遥は師である茅野清明に呼び出され、万輪会本部の応接室で話をした。

「人道?」

「ああ……仏教で説かれる六道輪廻の一つ、人間道。または人道。人として生まれた者が迷い苦しみながら生きる世界だ。お前にくれてやる称号……いや、役割と言うべきか……とにかくそういう感じのものを、それにしたって話だよ」

 宗教法人万輪会第三代教主、茅野清明。

 万輪会の頂点であり、玩神使いの頂点でもある人物は、革張りのソファに腰を埋めたまま、薄く笑ってそう言った。

「いきなりこんなこと言われてもピンとこないか? なら、もっと分かりやすく言おう。一番重要で一番上等な役をお前にやるよ、遥。俺の玩神法講座を無事卒業する五人の中の筆頭格はお前ってことだ」

 つまり、首席卒業。

 朝宮遥は茅野清明に最も優れた弟子と認められ、その評価に見合うだけの栄誉を与えられたということだ。

 しかし当人は感激するそぶりなど微塵も見せず、あまり関心がなさそうな顔で小首を傾げるばかりだった。

「いいの? あたしが筆頭で? あたしより陽子さんや道厳和尚の方が強いよ、きっと」

「ああ、奴らの方が強えだろうな。玩神使いとしては」

 茅野清明の下で玩神法を学んだ者は数多くいた。しかし、自らの玩神を生み出した上でその技を徹底的に磨き上げ、茅野の求める水準まで至れた者は、たった五人。

 朝宮遥もその一人だが、彼女は五人の中で明らかに浮いていた。身も蓋もない言い方をしてしまえば、他と比べて弱かったのである。

 彼女以外の四人は、いずれも怪物。絶対的な力を誇る玩神を従えた、純然たる強者だ。

 建造物を一撃で粉砕する者もいれば、砲弾の一撃さえ容易く防ぐ者もいる。玩神を出しただけで地形を変容させてしまう者もいる。その気になれば一瞬で何百人もの命を奪える者もいる。

 朝宮遥にそのようなことは出来ない。出来るのは、自分の目の前にいる少数の人間を驚かせたり惑わせたりすることだけ。彼女の玩神はあまりにも非力で、脆弱で、他の四人の玩神とは比べ物にならないほどの小物だった。

 生み出した玩神の性能で序列をつけるなら、朝宮遥は五人の中で最下位。そこに議論の余地はない。

「だが……人間としてなら、どうか」

 茅野は僅かに目を細めて、自らの一番弟子を凝視した。

「例えば、だがよ。どっかの山の中とかにお前等五人を放り込んで、最後の一人になるまで殺し合えとか命じてみたら……生き残るのはお前だと思うぜ、俺は。同じようなことを十回やっても百回やっても、結果は同じだろうと確信してる」

 冗談めかした例え話をしながらも、その目は本気だった。

 茅野は本気で、そういう状況になれば遥が勝利するに違いないと断じていたのだ。

「……何でそう思うの?」

「簡単だ。お前は、人をよく見てる」

 何も考えていないかのような緩い表情が、遥の顔から消えた。本当の顔を見せ始めた詐欺師に、茅野は笑いながら鋭い目を向ける。

「自分と関わる人間一人一人をよく見て、そいつらのことをよく理解してる。本人以上にな。性格も、特徴も、思考回路も、致命的な弱点も、無自覚な願望も、お前には全てお見通しだ。正直なところ、透けて見えてんだろ? お前には、人の心ってやつが」

 遥はそれを肯定しなかったが、否定もしなかった。

「人を知ることに長けた奴は、人を操ることにも長けている。目の前にいる人間の、本人でさえ気付いていない、弱さ脆さ愚かしさ……それらを全て見通せるお前にとって、相手を自分の都合のいいように動かすなんぞ容易いことだ。時に欲しがっているものを与え、時に触れられたくない部分にあえて触れ、時に偽りを真実と思い込ませ、掌の上で踊らせる。お前と関わった奴の中で、お前に操られていない奴は一人もいない」

「……いるよ。今目の前に、一人だけ」

 遥は静かに呟く。その声と眼差しからは、あらゆる感情が削げ落ちていた。

「どうかな? こうして得意気に語ってる俺も、お前に操られてる一人かもしれんぜ」

 そう言って、茅野清明は――最強の玩神使いは、自らの最高傑作と認めた弟子に、牙を剥くような笑みを向けた。

「本当は分かってたんだろ? 俺がお前を選ぶことも、お前を選んだ理由も、お前に与えた役割の意味も、何もかも承知の上ですっとぼけてやがるんだろ? なぁ、詐欺師」

 遥は答えない。されど彼女の眼差しは、真実を雄弁に語っていた。

 感情という名の偽装が剥がれ落ちた瞳。

 ガラス玉のように透明な瞳。

 温度のない、冷めた瞳。

 他者を惑わし、欺き、操り、無情に切り捨てていく人でなしの本性が、そこに表れていた。

「やはりお前だな。人道の役を任せられるのはお前しかいねえよ。非力で脆弱で、誰よりも悪辣な詐欺師……俺が育てた奴らの中じゃ、お前が一番上等な人殺しだ」





 水月空華。

 朝宮遥は自らの玩神を、そう名付けていた。

 水月とは、水面に映る月。

 空華とは、眼病に罹った者が見る幻の花。

 目に映るだけで触れられないという意味では、どちらも同じ。

 即ち水月空華とは、水月や空華の如き実体のない存在を表す言葉である。

「は……へ……?」

 目に映る光景が信じられず、幸久は間の抜けた声を出していた。

 彼の視線の先にあるのは、骨の山。朝宮遥を噛み殺す筈だった白骨の獣の残骸だ。それは漆黒の障壁と接触した瞬間に倒れ伏し、そのまま動かなくなっていた。

「勘違い、その二。これが何より致命的」

 澄んだ声が耳に届く。漆黒の障壁が霞の如く消え失せる。

「幻だと思ってたでしょ? 何も壊せない、誰にも傷一つつけられない、張りぼて以下の嘘っぱちだと思ってたでしょ? ――馬鹿ね、そんなわけないじゃない」

 遥は悠々と前に踏み出し、地面の上に散らばった骨を踏みつけながら、その顔に冷笑を浮かべた。

「な……あ……うぁ……」

 強く確信していたことを根底から崩され、幸久の顔から血の気が引いていく。

「ま……幻だと思っていたいなら、お好きにどうぞ」

 遥の頭上に新たな「幻影」が現れる。

 今度は、鋭利な穂先を持つ七本の槍だった。

「殺る側としては、その方が楽だし」

 うろたえている幸久を刺し貫くべく、七本の槍が一斉に空を奔る。それを幻と思って見過ごすことなど、今の幸久には出来なかった。

「うわあああああああっ!」

 悲鳴を上げながら真横に跳び、降り注ぐ槍の雨から逃れる。そんな無様を晒す彼の左腕を、槍の穂先が掠めていった。

 服の袖と一緒に皮膚が裂け、出血する。痛みが脳髄を走り抜ける。

 やはり、幻ではない。この攻撃には実体がある。命を奪う力がある。

 思い知られた事実が幸久の精神を打ちのめし、混乱をさらに加速させた。

「殯ってさ、大昔の葬送儀礼でしょ? 死んだ人を長い間小屋の中とかに仮安置しといて、骨になるまで見守りながら復活を祈り続けるとか……そんなんだったっけ? 確か」

 混乱する幸久の耳に、遥の声が届く。

「何ていうか、あからさまだよね。そんなに生き返らせたいの? 死んだ奥さんを」

 幸久の顔が一気に青褪める。

 その秘密を――内に秘めていた思いを、息子以外の者に知られているとは今まで思ってもみなかった。

「椎名さんがセージ君のこと調べたのと同じように、あたしも椎名さんのこと調べたよ。そしたらびっくり。何と十年くらい前に奥さんが交通事故で死んじゃってたなんていう、悲しいエピソードが出てきちゃったのでした」

「だ、だ……黙れええええええええ!」

 激昂した幸久は、足下に散らばっていた骨の数本を殯の力で持ち上げ、遥に向かって射出する。

 しかしそれらは、遥に突き刺さる前に空中で消滅した。

 今度は壁の出現もない。まるで見えない空間の穴に呑み込まれたように、骨の矢はひとりでに消え失せていた。

「最愛の奥さんを亡くして気落ちしてた椎名さんは、運悪く茅野さんなんかに出会っちゃって、その力見て盛大に勘違いしちゃったんだよね? この玩神法ってやつはすごい。この力なら何でも出来そうだ。死人を生き返らせることだって出来るかもしれない。よし、自分が玩神法を身に付けて妻を生き返らせてやろう! って感じに」

 おどけた口調で揶揄した後、遥は急に真顔になる。そして、死刑を宣告するように告げた。

「無理だよ。あなたには、そんなこと絶対出来ない」

 その言葉は、どんな皮肉や罵倒よりも鋭く深く、幸久の精神を貫いた。

「神在祭に出ても秒殺されるだけだろうし、百万歩くらい譲って勝ち残れたとしても、玩神法を極めるなんて出来やしない。さっき言ったように才能ないもの。全然、これっぽっちも」

「だ、黙れ! 黙――」

「むしろ、何かの間違いで中途半端に進化しちゃった方が悲惨かもね。奥さん蘇生させようとするんだけど上手くいかなくて、B級ホラーのゾンビみたいなの作っちゃうなんてオチが見え見え……」

「うおあああああああああああ!」

 言葉の体をなさない叫びを上げ、幸久は傍らにいた殯を遥に襲い掛からせようとした。

 その時だ。地面から拳大の何かが対空砲のように放たれ、幸久の腹にめり込んだ。

「がほっ……!」

 苦鳴と共に、体がくの字に折れる。不意討ちも同然の攻撃を受けて驚愕した幸久は、その攻撃の正体を知った後、さらに驚愕した。

 骨だったのだ。

 ついさっきまで白骨の獣を成していた獣骨の内の一欠片。それがどういうわけか、遥に操られる飛び道具となって幸久に痛打を与えていた。

 訳が分からない。いったい何故、朝宮遥が骨を操るのか。奴の能力は幻覚を見せることではなかったのか。

 そんな疑問が頭の中で渦巻いた時には、既に手遅れだった。

「はい、おしまい」

 好機を逃すことなく至近距離まで詰め寄っていた遥が、幸久の右肩を掴む。そしてその上体を自分の方に引き込みながら、渾身の膝蹴りを顔面に突き入れた。

 鍛え抜かれた肉体から繰り出される殺人技が、鼻骨と前歯をまとめて叩き折る。重い衝撃が脳を揺らす。

 鼻と口から夥しい血を垂れ流して、幸久は崩れ落ちるように昏倒した。

「駄目だよ、相手の言うことをいちいち真に受けてちゃ。あたしみたいな奴は、口先が一番の武器なんだから」

 敗者の無残な姿を見下ろしながら、勝者は淡々とした声音でそう言った。

「何も考えずに攻撃し続けてれば、問題なく勝てたのにね」

 幸久は水月空華を「幻覚を見せる玩神」だと思い込んでいたが、それは誤りだった。

 水月空華の力の本質は、幻覚より変身と表現した方が正しい。

 通常の玩神と違い、朝宮遥の水月空華には決まった形というものがない。他に類を見ない不定形の玩神であり、その外見をいかようにも変えられるのだ。

 故に、剣にも槍にも盾にも鎧にもなれる。岩石や草花にもなれる。火や水にもなれる。人や獣にもなれる。機械や乗り物にもなれる。

 ただし、外見がそれらと同じになるだけだ。中身や性質まで真似ることは出来ない。

 従って、名刀に化けても名刀の切れ味を持てない。鉄槌に化けても鉄槌の打撃力を生み出せない。鉄壁に化けても鉄壁の強度を得られない。他の何に化けても同様で、見た目を似せただけの張りぼてにしかならないのだ。そうした意味では幻覚と大差ない。

 しかしながら、水月空華は無力で無害な存在なのかと問われれば、答えは否だ。

 不定形という特質を持つとはいえ、水月空華は歴とした玩神である。実体を持たない幻の類とは違う。

 実体はある。その実体――水月空華の肉体はあまりにも非力で脆弱なため、普段は可能な限り肉体の密度を下げ、無害な幻を装っているだけの話。密度を上げれば多少の物理攻撃を行うことは出来る。

 全てを切り裂く名刀にはなれないが、果物ナイフ程度にならなれる。

 大岩を砕く鉄槌にはなれないが、人の骨に罅を入れる程度の鈍器にならなれる。

 人間同士の戦いで勝利するだけなら、その程度でも足りるのだ。

 名刀の切れ味も鉄槌の打撃力も必要ない。首や手首を少し掻っ切るだけで、あるいは頭の骨を叩き割るだけで、人は死ぬ。

 問題は、どうやってそこまで持っていくかだ。

 水月空華の微小な力でも殺人は可能だが、相手も止まった的ではない以上、そう簡単に攻撃を受けてはくれない。玩神を出せば当然警戒されるし、攻撃を仕掛ければ防御や回避で対応される。反撃も飛んでくる。

 水月空華は最弱の部類に属する玩神だ。体の密度を上げたところに攻撃を受ければ、ひとたまりもなく粉砕され、消滅してしまう。その微小な力で勝利を掴むのは容易いことではない。

 だから、朝宮遥は工夫する。

 策を練り、相手の目を欺き、心理の隙を突き、罠に嵌める。

 今回もそうだ。一昨日、昨日と二日連続で幸久に見せるために水月空華を使い、その能力を単なる幻覚と思い込ませ、油断と慢心を誘った。そしてこの決戦の舞台で幸久の切り札である白骨の獣を鮮やかに倒してみせ、勝利の確信を粉砕。最大級の動揺を与え、まともに戦えない状態に陥らせた。

 白骨の獣を倒したカラクリは単純。あれは、黒い障壁と衝突して壊れたのではない。疾走中に自壊したのだ。

 幸久が白骨の獣を作ろうとした時点で、遥は密かに、その材料が詰め込まれたボストンバッグの中に異物を紛れ込ませていた。骨に化けた水月空華だ。

 ほんの僅かだが、白骨の獣を構成する部品の中に水月空華という偽物が混ざっていたのである。

 それが、致命的な瑕疵となった。手の込んだ設計の建造物がたった一箇所の瑕疵で崩壊に追いやられるように、複雑な構造の物ほど脆さを抱えている。部品の破損や欠損という事態に対して、酷く弱い。

 大量の骨を複雑に組み合わせて作られた白骨の獣も、例外ではなかった。疾走中に遥が水月空華の偽装を解除し、その身から分離させたせいで、構造上の問題が発生。自重を支えられなくなり、自壊した。

 それと同時に黒い障壁を作り出せば、あたかも衝突のせいで壊れたように見えるというわけだ。

 とはいえ、その瞬間に幸久の敗北が決定付けられたわけではない。彼が冷静さを保ってさえいれば何の問題もなかった。もう一度白骨の獣を作り上げることも出来たし、そうでなくとも遥の地力は彼より数段下だ。普通に殯の力で攻撃するだけで容易く勝利出来た。

 にもかかわらず敗北へと導かれたのは、相手の冷静さを奪うことこそが朝宮遥という女の本領だったからだ。

 時に挑発的な態度で、時に冷酷な眼差しで、時に心の傷を抉る言葉で、何度も何度も執拗に揺さぶりをかけ、幸久の精神を乱していった。その結果、幸久は本来の力の半分も発揮することが出来ず、自滅に等しい敗北へと導かれたのである。

「さんざん馬鹿にしちゃってごめんね。少なくともあたしよりは百倍強いよ、椎名さん」

 昏倒している幸久を見下ろし、遥は静かに告げた。

「でも……こんなに弱いあたしにやられてるようじゃ、どの道駄目。神在祭に出てもどうなるかは目に見えてる。だからここで諦めてもらうことにしたの……って、聞こえちゃいないか……」

 朝宮遥は詐欺師だ。

 彼女の芸は人を驚かせ、惑わし、欺くことだけ。

 ただそれだけで、非力な詐欺師はいかなる怪物をも打ち倒す。





 宵の空を見上げながら、清次郎は喘ぎ続けていた。

 叩き折られた足が痛む。かつて経験したことのないほど凄絶な激痛が、脳を責め苛んでいる。

 けれども心の中を占めているのは、そんな痛みではなく――立ち上がりたいという不屈の思いだった。

 このまま倒れていたくない。立ち上がりたい。立ち上がって、戦いたい。戦って、敵を倒したい。

 そうしないと、楓を救えないから。

「ぐっ……あ……つぁっ……」

 立て。痛みなど忘れて立ち上がれ。意地でも立て。死んでも立て。何が何でも立ち上がって、あいつらを皆殺しにしろ。

 そう念じる。強く、強く、気が狂いそうな域で強く念じる。無様に喘いでいる自分自身に檄を飛ばし、気力を糧に立ち上がろうとする。

 しかし、立てない。何十回立てと命じても、体は応えてくれない。

 脳の発する命令を拒否するかのように、動かない。

「はあっ……あぁ……づうっ……!」

 分かっている。これはもう、気力や根性でどうにかなる問題ではない。足の骨が折れているから、立ち上がれる道理がないのだ。

 そんなことは知っている。理屈の上では分かっている。けれども、だからといってこのまま倒れたままでいるなんて腑抜けたこと、出来るわけがない。

 立つのだ。どんな理屈も困難も無視して、立ち上がらなければならないのだ。

 立って戦う。戦って勝つ。そして、楓の命を救う。

 彼女を救いたいからここに来た。何が何でも絶対に死なせたくないから、この戦いに臨んだ。

 だから、このまま何も出来ずに終わるなんてふざけたこと、絶対に許さない。絶対に認めない。誰が何と言おうと、そんな結末は絶対に受け容れない。

 楓は大切な人だ。彼女に比べたら、他は全てどうでもよくなるくらい、大切な人なのだ。

 彼女を救えるなら何だってする。何だってしてみせる。

 そう、何だって――

 たとえ、地獄に落ちるような真似だろうと――

「づうっ……が、はあっ……!」

 思えば、やるべきことは明白だった。

 楓を救うには何が必要で、そのためにどうすればいいのかを、自分は本能の域で知っていた。

 委ねてしまえばいい。

 自分の中の最も深い所で絶えず渦巻いている黒い奔流に、身も心も全て委ねてしまえばいい。

 そうすれば、きっと手に入る。あらゆる無理を押し通して願いを叶える力が、自分の元にやってくる。

 そんな確信があった。確信があったからこそ、怖かった。

 力を手にした後の変化が。

 醜悪な本性の表出が。

 必ず訪れる、破滅的な未来が。

 怖くて怖くてたまらなかった。だから目を逸らした。そんな力に頼らなくてもどうにかなると、武器と戦術次第でどうにかなるに違いないと、必死に思い込もうとした。

 結果が、この様だ。

 武器を壊され、足を折られ、戦う力は一片も残っていない。仮に立ち上がれたとしても、すぐに叩きのめされて地を這うだけだろう。

 もういい加減、認めなければいけないのかもしれない。

 この状況を打開する手は、一つしか残されていないことを。

『玩神法を身に付けるための第一歩は、自分の心と真っ直ぐ向き合うこと。自分を直視して、自分と対話して、自分の心の在り様を正しく理解することが、何よりも大切。どんなに自分が嫌いでも、見たくない部分があっても、目を背けずに真っ直ぐ見つめなきゃいけない。それが出来なきゃ玩神は生み出せないし、たとえ生み出せたとしても弱くて脆い玩神にしかならない。自分を真っ直ぐ見つめられる人だけが、本当に強い玩神を生み出せるの』

 朝宮遥はそう言った。その言葉が、ずっと頭の中から離れなかった。

 自分。

 筒井清次郎という、最低の屑。

 その中に――その腐った魂の深奥に、全ての答えがある。この身に宿った力の真相が、そこにある。

 そこに触れてしまえば、もう後戻り出来ない。

 確実に狂う。狂って、壊れる。かろうじて繋ぎ止めていた理性と自制心が剥げ落ちて、今まで通りでいられなくなる。

 それが怖い。怖くて怖くて怖くて、嫌で嫌で嫌でたまらない。

 けれど、他に手がないなら――楓を失うという最悪の結末を回避するためならば、決断するしかない。

 諦めに等しい覚悟を決めて、忌まわしい領域に手を伸ばすしかない。

「来い……」

 呼びかける。自分自身に。魂の深奥で渦巻くものに。

 嫌悪と憎悪と侮蔑と殺意を込めた声で、強く訴えかける。

「来いよ……」

 何かに亀裂が走った。その亀裂から猛烈な勢いで汚水のようなものが溢れ出し、精神の全域を呑み込んだ。

 それが、変革の瞬間だった。

 魂の深奥に封じられていたものが止め処なく溢れ、清次郎の内面を塗り替えていく。

 その中で、知った。

 否、思い出した。自らが奉じる神の名を。

「来いよ――天熱」





 唐突に生じた異変。

 最初にそれを察知したのは瑞希だった。次いで倉科と孝文が、ほぼ同時に後ろを振り返った。

 三人の視線が捉えたのは、青黒い陽炎。

 仰向けに倒れる清次郎の傍らに出現した、奇怪な空間の揺らめきだった。

「何だ……?」

「あれは……」

 孝文は驚きと警戒の表情で、倉科は僅かに表情を険しくして、青黒い色をした奇怪な揺らめきを凝視する。

 異変はさらに続く。三人の見ている前で、謎の揺らめきが徐々に人のような形を取り始め――それと呼応するかのように、意味のない呻き声を発し続けていた清次郎の口が、意味のある言葉を紡いだ。

「――転法輪」

 静かに唱えられたのは、力ある呪句。

 聖なる車輪を転じ、神の法を世界に刻みつける言葉。

「迷界化現・曲説四苦」

 清次郎の左足の内部で、ありとあらゆる組織が蚯蚓のように蠢く。

 人体の理から逸脱したその現象に伴い、奇跡に等しい治癒が始まった。

 屑虫に踏み折られていた脛骨が、元通りに繋がる。損傷していた皮膚、筋肉、血管、神経も、健全な姿を取り戻す。内出血で溜まった血も綺麗に除かれていく。

 完治までに要した時間は、僅か四秒。それだけの時間で脛骨骨折という重傷を消し去った清次郎は、灯された火のようにゆらりと立ち上がった。

「マジかよ……」

 倉科は目を見開いて驚きの声を零す。

 彼の視点では清次郎の体内で起きたことなど分かりようもないが、立ち上がったという事実から、骨折が完治したことだけは分かる。

 完全に折れていた骨を数秒で元通りにする――そんな馬鹿げた真似を可能にするのは、玩神の力以外にない。

 しかし、清次郎の玩神の力はあの病原菌を生み出す力ではなかったのか。

 何故ここにきて、今までと全く違う力が発現しているのか。

「おい、倉科……あれは何だ? いったいどうなってる?」

 孝文に問いかけられても、倉科は答えない。答えることが出来ない。あまりにも理解の及ばない事態に直面して、さしもの彼も言葉を失っていた。

 瑞希も同じだ。ここで清次郎が立ち上がるとは思っていなかったし、立ち上がれた理由もまるで分からない。清次郎にかける言葉も見つけられないまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 戸惑いの顔を並べる三人を置き去りにして、異常事態は最終段階へ突入する。

「あれは……」

 清次郎の口から、ぽつりと零れる声。それを境に、彼の背後にあった揺らめきが揺らめきでなくなる。

「あれは、俺のものだ」

 収縮し、固体と化す青黒い陽炎。幻想の住人が確かな質量を得て、現実世界に侵入する。

「体も、魂も……髪の毛一本、皮膚の一片、血の一滴まで、何もかも全て俺のものだ。俺だけのものだ」

 宵闇の中に歪な輪郭が浮かび上がる。禍々しい巨躯が、景色の一部を塗り潰すように形作られる。

「勝手に傷物にして、勝手に死なすんじゃねえよ。ゴミ共が」

 怒気の発露と共に、筒井清次郎の玩神がその全貌を現した。

 見る者を圧倒し、震え上がらせる筋骨の塊。主とは比べ物にならない巨大な肉体。それを覆う、有害物質に汚染されたかのような青黒い皮膚。

 乱雑に伸びた髪の色は、老人のそれを思わせる白。顔面は漆黒の仮面に覆い隠されており、その造形は不明。仮面の他に身に付けているのは、濃紺の脚衣と筒型の手甲のみ。剥き出しの胴体は波打つ紋様の刺青によって彩られている。

 二本の腕は、左右非対称。左腕の方が右腕より一回り太く、筋肉のつき方も不自然極まりない。特に肩の部分は、悪性の腫瘍を持つかのように大きく隆起していた。

 その玩神と正面から向き合った瞬間、倉科敦の心身は自然と強張り、呼吸さえも困難になった。そんな経験は初めてだった。並外れて鋭敏な彼の感性が激しく警鐘を打ち鳴らし、最大級の危機の到来を告げていた。

 椎名孝文は猛烈な吐き気を覚え、顔をしかめていた。液状化した腐肉を胃の中に流し込まれたような気分だった。押し寄せてくる最低最悪の不快感に抗うだけで、彼の気力と体力は大幅に磨り減った。

 早川瑞希は耐え難い恐怖に苛まれていた。足腰が無様なほど震え、立っているのもやっとな状態だった。彼女を支えていた不退転の決意は、清次郎の玩神の出現と同時に消し飛ばされていた。

 三人に危機感と不快感と恐怖を与えたのは、清次郎が召喚した玩神の姿形ではない。臭気だ。

 酷い悪臭が、全身から漂っている。

 血より臭い。反吐より臭い。糞尿より臭い。死骸より臭い。それら全てを釜の中でかき混ぜながら煮詰めたものより、何千倍も臭い。

 嗅ぐだけで死に至りそうなほど破壊的な悪臭。

 地獄の亡者を思わせる、腐った魂の臭い。

「ほら、来いよクソガキ共。勝負続行だ」

 骨の髄まで穢れた玩神――堕落と背徳と罪業の神を従え、清次郎は告げた。

 目の前に並ぶ粗悪な玩神使い共に。

 相手が誰かも知らずに挑んできた、愚かな身の程知らず共に。

 一片の価値も見出せないゴミ共に。

 凍てついた殺意を宿す目で、無情に告げた。

「纏めて片付けてやる」



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