四章・一節 はじまりの日
2018年3月末。
季節は春を迎え、五輪市は桜に彩られていた。
街中に植樹された桜の木もそうであるが、手付かずの原生林が多く残るこの街は山林の桜も見ごろを迎えている。
気紛れに吹く風が枝に触れれば、花びらたちが手を引かれ、空へ川へ、街行く人々へ。
普段は忙しなく人々が行き交う駅前も、この時期は不思議とのどかに見える。
季節の移ろいは方々で様々な変化を与えるものだが、とりわけ春は特別だろう。
学校ともなればそれは殊更だ。
始業式を過ぎれば間もなく新入生が入って来る。
春休み終了を間近に控えた五輪高校もまた、新年度に向けて準備に追われていた。
その日、生徒会メンバーは来る入学式の会場設営、及び運営に関する打ち合わせのために集合していた。
といっても段取りは例年通りであり、格式ばったことは何もない。本日も午前十時に集合、雑務処理を含めて昼前には解散というゆとりあるスケジュールである。
そして予定通り打ち合わせは滞りなく終了し、あとは各自雑務が終了次第解散という流れに落ち着いた頃。
生徒会長・百瀬智巳がこんなことを口にした。
「そう言えばよ、最近商店街の方でえらい美人が出没するって話、聞いたか?」
自前の皮張りのリクライニングチェアの背もたれを大きく倒し、頭の後ろで手を組む彼は今朝から妙に上機嫌であった。
自他ともに認める快楽主義者の娯楽好き。彼が面白がる事柄は大抵碌でもないというのが、生徒間での共通認識なのだが、此度はいささか毛色が違った。
「それって、王陵女学院の御令嬢のことですか?」
応じたのは会計の有澤那月だ。
肩口でざっくばらんに切った黒髪と、水泳部で鍛えたスレンダーながら均整の取れたプロポーションが印象的な少女。
彼女が名を上げた王陵女学院とは市の外れに位置するいわゆる御嬢様学校だ。日本を代表する有名財閥や巨大企業等の子女が多く在籍したこの学園は、高い塀に取り囲まれ外部との交流がほぼない。
時たま生徒が市中で目撃されちょっとした話題になることがあり、那月は今回もそれではないかと踏んだのだ。
百瀬は手をパタパタと横に振った。
「いんや、王陵のお堅い金持ちじゃあない。それに俺はあそこの規律と宗教で育てられた健康優良児は好みじゃないね。知ってるか? あの学園出身の既婚者の約半数以上は政略結婚って話だ。しかもかなりの割合で一回り以上の歳の差婚だとよ」
「やだ……これ先輩の女漁りの話だったんですか? 所用の腹痛があるんで帰りますね」
「異性の目利きは存外馬鹿にならんぜ。特に夫婦にまで行き着くなら、自分も相手のことも深く見極めておいて損は無えだろ」
「むう……それは、まあそうかもですけど」
百瀬のやけに含蓄のある言葉に那月は難しい顔で天井を仰ぐ。
ちなみに現生徒会メンバーに恋人持ちはいない。遊び慣れている百瀬とて例外ではなく、それっぽい恋愛観を語って見せたものの──
「まあ、全部親父の受け売りだがな」
このようにいけしゃあしゃあと開き直るのが百瀬智巳という男だ。
「もう! 会長が言うと皆不思議と真に受けちゃうんですから、それっぽく語るのはは止めて下さい!」
「そうやって素直に反応するからイジりやすいんだよ、お前は。あー、可愛いかわいい」
顔を真赤にして那月がクレームを入れる横で、他のメンバーが百瀬の感想に静かに頷く。
百瀬の益体のない話に那月が振り回されるのはいつもの光景だ。今期の生徒会メンバーは歴代でも傑物揃いと職員たちの間でも話題であり、裏を返せば各々の個性が強すぎる嫌いもあった。
そんな中で那月はムードメーカーの立ち位置にいる。百瀬が意図してそうなるよう仕組んだ面もあるが、素直にイジり倒される那月がメンバーの間に入ると自然と纏まりが付くのだ。
ただし、半分は百瀬の趣味である。
「はあ……それで会長、その美人さんがどうしたんですか?」
「いやなに。否応なしに眼で追っちまうような日本美人の割には、ここらじゃ見ない顔でな。新入生か、四月に入ってくるって話の転校生かとウキウキしてたんだがよ。調べた限りそれっぽい奴はいなくてな」
「じゃあそれこそ王陵女学院に入るんじゃ」
「そこも調査済だ」
「あ……そうですか」
さらりと述べた百瀬の発言に那月はうすら寒いものを感じた。
この学校でまことしやかに囁かれる噂の一つに百瀬の情報網がある。曰く、彼の手元には五輪高校に通う全校生徒、並びに勤務する教職員全ての個人情報が蒐集されているとか。
生徒間では面白半分に世間話で持ち上がる噂だが、生徒会メンバーであればこの噂が事実ではないのかと、疑う場面は多々あった。
直近では去年の秋のこと。とある生徒の両親が闇金に騙されて背負ってしまった借金返済のため、学校を辞める事を迫られていると知った百瀬は、学校を終えたその脚で件の闇金へ乗り込んだ。
翌日から死んだ魚のような眼で街を徘徊する男が暫し目撃されるようになり、例の生徒は現在も五輪高校に在籍している。
百瀬の仕業か否か、真相は定かではないが「会長ならやりかねない」というのが素直な那月の感想である。
その彼が追い切れない美人となれば、興味を惹かれないと言えば嘘になる。
「どんな人でした?」
「大和撫子だな。一言で表すなら」
ほれと、無造作に投げ渡されたスマホを那月は危うげなくキャッチ。
それまで会話に混ざらなかった他の面子が那月の手元を覗き込む。
明らかな隠し撮り写真に苦言の一つでも零れそうなものだが、口をついたのは溜息にも似た感嘆。
「うわわ、本当に美人」
「でもまだ中学生ぐらいだぞ」
「馬鹿野郎、花ってのは蕾から愛でるもんだろが」
会計、庶務、公報が釘付けにされるのは和服に袖を通した少女。
矢絣柄の着物と小豆色の袴の取り合わせは派手さこそ欠けるも、上品に纏めた黒髪と写真であっても伝わる嫋やかな立ち姿によって、結果的に彼女の魅力を押し上げている。
なるほど、此れはストーカーの一つもしたいというもの。もしこんな美人が同じ学校に通うとなれば、同性であっても目の保養にはこと欠くまい。
そこで那月は、おや、と首を傾げる。
ガッカリしたようなことを口にしていた百瀬だがその表情に落胆は無く、代わりに何処までも愉快気な笑みがあった。その笑みは一人会話の輪に混ざらず、黙々と書類を片付ける女生徒へ向かっていた。
「なあ、どう思うよ副会長」
「……何がですか?」
「駅から車で十分も走れば田畑が眼に優しい、田舎丸出しな典型的なこんな地方都市に、下手な女優も裸足で逃げたしかねない美人がご来訪だ。年甲斐もなく何か起きそうってはしゃぎたくならないか、神崎?」
百瀬の含みのある笑みを見て、那月は内心で呆れていた。
彼が高みの見物を決め込むときの笑みである事を、短い付き合いながら知っている。
そしてそれは大抵、碌でもないことの前触れなのだ。
恐る恐る、那月をはじめとした野次馬は雀へと視線を回頭させる。
その名前にも、女子高生という若さにも似つかわしくない抜き身刀のような雀の視線が百瀬に突き刺さり、一時、生徒会室は水を打ったような静けさに満ちた。
教師すら慄く二人の傑物の中間で今にも火花が散りかねない、呼吸すら躊躇う張り詰めた空気。
先に動いたのは雀であった。
「会長」
「何だ?」
「私の担当分の仕事は済んだんで、お先失礼します」
「はいよ。お疲れ」
そんなやり取りの後、雀は手早く荷物を纏めると脚早に生徒会室を後にした。
足音が完全に聞こえなくなった頃にようやく、那月たちは詰まらせた息を一斉に吐き出した。
「もう会長! よく分からないけど、神崎を悪戯に刺激しないで下さい!」
「そうそう、身が待たないぜ」
「新年度を目前に幸先悪し」
口々に文句を突くメンバーに悪びれる様子もなく、百瀬は呵々大笑と肩を揺すった。
これが傍観者である百瀬智巳から見た、神崎雀の数奇な出会いの始まり。
彼もその渦中に片足を踏み入れる事になるが、それはもう少し後の話。
今は誤魔化す様に那月にこうアドバイスした。
「赤いリボンがトレードマークの年上とは仲良くしとけ、有澤よ」




