間章二・終節 座右の銘に恥じないように。
サディの日記より──
アタシの初陣。
惨敗を喫したあの事件から一週間が過ぎようとした時だ。
師匠に……宵波涼監視官と雨取照さんに救出されたアタシは大阪府内の大学病院に入院し、治療とリハビリ生活を送る運びとなった。
治療といっても、傷は師匠の手で殆ど完治している。
なんと言っただろうか。式神技術を応用した肉体補完だったか。兎に角仮初の肉体に霊力を消費する代わりに五体満足だ。
むしろ医者や上司たちが危惧したのは身体より、心の方。
……正直、あの日の事を思い起こす度に胃が締め上げられる。
仲間が死んだ。眼の前で二人も。
噴水みたいに血を噴き上げながら倒れるあの光景が目に焼き付いている。
バラバラに解体されて、丁寧に瓶詰にされたあの光景が脳に染み付いて離れない。
夜になると視界を奪われて嬲られた痛みが、慰み者にされた恐怖が蘇る。
何度も吐いて、胃の中身を吐きつくしてもまだ吐気は止まらなくて、麻酔が無いと夜も眠れなかった。
かつて師匠はアタシと似たような事件に巻き込まれ、同じように友達を失ったらしい。
凄惨な事件を経験しながら、監視官へと昇りつめた師匠に憧れを抱いた。候補生は皆師匠を天才と称して、でも周りからは不思議と彼を持ち上げる声は無かった。
今ならその意味が分かる。
友の死を乗り越えて、己を叩き上げた苦悩を天才なんて安い言葉で片付ける事の、なんと卑しい事が。
アタシには無理だ。
もう戦えない。
頭では分かっていたつもりでも、日常が脆いガラス細工みたいなものだと思い知った今、外へ出る事さえ出来そうにない。
そう、思っていた。
「出掛けるぞ、クラウン」
ある日のことだ。
唐突に現れた師匠に病院から連れ出された。
というか殆ど誘拐に近かった。
いつの間に病院服から袴姿に着替えさせられて──淑艶という式神の能力らしい──大阪の街へ繰り出した。
あまりに堂々としていたからか、誰にも咎められる事もなく、難なくと。
「し、ししょ……!」
「いいから来なさい」
脚が竦むアタシの手を師匠は強引に、でも不思議と乱暴な感じはなく、ぐいぐいと手を引いて歩いた。
「ひっ……!」
この時のアタシは擦れ違う人達が皆怖くて仕方が無かった。また誰かが突然爆発するんじゃないかと思うだけで脚が竦んで、眼の前が暗くなっていく。
医者や看護師どころか、両親にさえ同じように怯えていた。
声を上げる事も出来ずに、赤ん坊みたいに師匠に縋りついた。
動悸が激しくなって、また吐気が込上げて来る。
どうして師匠がこんな事をするのか理解が出来なかった。
いやだ。もう帰りたい。これ以上苦しい思いをしたくない。
それでも師匠は脚を止めず、アタシの手を引いていく。
喧騒の中に聞こえない筈の銃声が、悲鳴が木霊し、またパニックに陥りそうになった。
「いま言うことではないかも知れないが、君に伝えなければならない事がある」
何故か、その声だけはすんなりと耳に届いた。
「……?」
あえてなのだろうか。
なんてことのない調子で師匠はその言葉を口にした。
「生きていてくれて嬉しい。ありがとう、クラウン」
最初、何を言っているのか分からなかった。
嬉しい? どうして?
仲間が死んだのに、友達がバラバラにされたのに、どうして師匠はそんな事を言うのか。
理解が出来なかった。
この人は殉職した人を悼んでいないのか。だから親友が無くなっても直ぐに立ち直れたのか。
そう思うと、微かに怒りが湧いてきた。
「……あ」
けれど、それも師匠の横顔を見た瞬間、霧散していった。
ふと、思い出した。
犯罪組織の船から助けてくれたあの時。
アタシを抱きしめてくれた師匠はほんの少しだけ泣いていた事を。
今の師匠も涙こそ溜めていないけど、あの時と同じ顔をしていた。
「今はとことんまで落ちぶれていい。泣いていい。暴れてもいい。幾らでも我が儘を周りにぶつけろ」
壊れ物を扱うように手が引かれる。さっきまでの強引な手付きじゃない。
ああ、違う。
さっきまでアタシが拒絶していたからそう感じただけだ。
「今の君の気持ちは俺も少しは汲み取れると思う。寄り添うことも、慰める事も……多分出来ると思う」
ちょっと自信が無さげだった。
「この日常がハリボテに見える事だろう。偽物の平和というつもりは無いが、ああいうことはこの先も何度でも起きる。失われる命は限りないだろう。これは絶対だ」
断言された。
嘘も誇張も、脅しもない、ただの事実なのだろう。
「少し乱暴な方法なるが、君から事件の記憶を消去する手法もある。何もかも忘れて、アストレアを離れ、唯の学生として生きる事も出来る。実際そうして引退して、人並みの幸せを手にした人も多い」
当てもなく師匠は歩き続ける。
徐々に人波が多くなってきて、怖いという感情が膨らんでいく。
でも記憶を消せば元通りになる。
もう辛い思いはしなくていいんだ。
「ししょうは、どうしてアストレアにのこったんですか……?」
だというのに、気付けばそんな事を口にしていた。
師匠とアタシは違う。聞いても仕方がないだろうに。
「さあな。自分でもよく分からん」
それでは答えになってないと思い直したのか、やや間を置いて師匠は「けれど」と言葉を繋いだ。
「報いたい、と思った」
「……それは、みやふじさん、にですか?」
「──宿命に」
宿命に報いる。
後になって思い返しても、師匠が何故その言葉を選んだのか分からない。
ただ、何となくだけどあの五輪の魔術師、神崎雀と雨取照が関係しているんじゃないか。
何の根拠もないけど、確信があった。
「むずかしい……です」
「だろうな。繰り返す様だが、自分でも分からん」
やっぱり師匠はアタシとは違う。
この世に隠れた地獄を眼にして、それでもあの恐ろしい世界に踏み込み続ける。
「あたしに、アストレアはつとまると、思いますか?」
「一人が出来る事などたかが知れている。クラウンにはクラウンにしか出来ない事がある」
「そんなの、ありません」
「いや、ある」
「ないですよっ」
「例えば俺を師と仰ぐ奴は君ただ一人だ」
「でも弟子じゃないって……」
……あれ?
そういえば今日はまだ「師匠じゃない」って言われてない。
候補生とは師弟関係を結べないんじゃなかったのか。
「クラウン」
呼ばれ、この日初めて師匠を直視した。
アストレアの意匠が刻まれたロングコートと真赤なリボンの人。
以前は何処までも大きく、憧れに眩んでいたその人はやっぱり遠い人だった。
「今は泣いていい。弱音を吐いていい。塞ぎ込んでもいい。だが今君がいる所は暗く、何もない。留まり続ければ、いずれ帰る道は閉ざされていく」
けれど初めて本物の悪と対峙した今、その意味合いは大きく変わっていた。
見えないだけで、師匠もまた挫けて、傷だらけになりながらも正義を背負っているのだと初めて知った。
「遠回りでも、誰かに寄りかかってもいいから、立って進め。その先がアストレアでなくとも誰も責めはしない。だがもし、再びこちらへと踏み出したのなら──」
手が離れる。
人波みの中で、数歩距離を置いた先で師匠が振り返えり、人目も憚らず煙草へと火を点けた。
その煙草は呪詛が蓄積されたもの。
「その時は正式な師弟関係として、宵波涼はサディ・クラウンを導こう。まあ……俺も諸先輩方と比べれば若輩者だがな」
宵波涼監視官は、アタシの憧れだ。
それはいまも変わらない。
その人が正式に弟子としてアタシを迎えると言ってくれた。
事件に遭う前なら飛び上がるほど嬉しかった筈だ。
でも心は咄嗟に無理だと、拒絶した。
「アタシ……接近戦以外取り柄がありません……」
「そうだな」
「霊術も射撃だって……ちっとも上達しません」
「知っている」
「……戻っても、戦えるか分からないです」
「そういうものだ」
──一歩、前へ踏み出した。
怖い。またあの地獄を見る事が。
逃げ出したい。戦うことが痛くて、恐ろしい事だと思い知ったから。
でも記憶を消して、普通の女の子になったとしても、世界が変わる訳じゃない。
あの日、視界を奪われて怯えるしかなかったアタシと何も変わらない。
──もう一歩、師匠へ向かって踏み出す。
そんなのは真っ平御免だ。
情けなく震えようとも、馬鹿みたいに歯を鳴らそうとも、吐瀉物を撒き散らそうとも、もう一度頑張ってみよう。
何よりも憧れの人を泣かす様な情けない女のままではいたくない。
「……っ」
精一杯の勇気を振り絞って、師匠の前へと踏み出した。
自分で選んだ道の癖に馬鹿みたいに膝が震えていた。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって、覚悟なんて大層なもんは感じられなかったと思う。
何かを言おうとしたけど、結局何も言えず終い。
「クラウン。生きてくれただけで、俺は嬉しい。ありがとう」
声が震えていた。
「知らせを受けた時には生きた心地がしなかった」
そうだった。
師匠はアタシと同じく眼の前で同期を失った。その恐怖も悲しみも知っていた。
だから理不尽ともいえる模擬戦を強いて、鬼畜じみた訓練を施した。
陸奥と伊予に嫌われる様な真似をしたのも、全部アタシ達の為だ。
責任感が強い人だ。きっと自分を責めもしただろう。
「ごめ……ごめんなさいっ……」
「君が謝る事ではない」
結局、また師匠に抱かれてわんわんと泣いた。
師匠は何も言わずアタシが泣き疲れて眠るまで頭を優しく撫でてくれた。
後日、正式にアタシは師匠への弟子入りを認めて貰った。
候補生と師弟関係を結んではいけない暗黙の了解は、正確には初陣を経験していない候補生とのものらしく、特に御咎めは無かった。
もっとも、アストレア内部の派閥抗争が激化した結果、師匠は五輪に留まる事となり中々稽古を付けて貰える機会は訪れなかった。
その代わりに氷杜監視官が面倒を見てくれるようになり、半年間で五回ぐらい死にかけた。
しかも稽古でも訓練でもない。
全部実戦だ。
そうなるとあら不思議。師匠と神崎の三日三晩に及ぶシゴキが生ぬるく思えてきた。
師匠、早く迎えに来てください。死んでしまいます。
ただその実績を認められて四等攻城官へ推薦されて、受理された。
まあ、少しは師匠に恥じない女になれただろうか。
派閥抗争が落ち着いたらアタシから会いに行こうと思う。
余談だけど、先日雨取さんからLINEで二枚の写真が送られてきた。
どっちも師匠の胸でアタシが泣いてる奴だ。
一枚目はクルーザーで裸に剥かれた時。
二枚目は大阪の大衆の面前での時。
よし。師匠に会いに行くときに雨取さんをぶちのめそう。
リベンジマッチだ。
だからそれまで精々強く成ろう。
憧れ無くして成長はなし。
この座右の銘の由来となった人に恥じないように。
これにて間章は閉幕です。
次回、四章となり、涼と雀そして照が出会った過去のお話になります。
現在鋭意製作中です。いつになるかは分かりませんが完成次第随時更新していきます。
それでは、ごきげんよう。




