一章・八節 忘却した我
「っ……眼が……!」
刺し貫く様な眼球の痛みに建人は椅子から転げ落ちる。瞼を閉じても火花が散ったように明滅する右眼を押さえる。
突然のことだった。
彗星を中心に円を基礎とした幾何学模様が展開されたかと思うと、真下へ向けて強烈な光が射出されたのだ。
落雷と遜色ない光線の輝きを収束してしまった望遠鏡。接眼レンズを覗いていた建人の右眼はこれをまともに直視してしまったのだ。
一体何が起きたのか。
それすら考えることが出来ず、痛みに呻く。痛みは視神経を伝って脳にまで達し、凄まじい激痛を放っていた。
際限なく涙が溢れ、口から嗚咽が漏れる。
痛みは引くことを知らず、凄まじい灼熱の塊となって建人を苛む。質量すら感じさせる熱は頭蓋の奥底でのたうち回り、建人の意識を容赦なく削いでいく。
いつしか左の視界さえ真紅に染まり、身体の自由が利かず鉛になったように重い。
相次いで襲う変調に建人は上手く呼吸を行えず、過呼吸から恐慌状態に陥りかける。
やがて、幻覚まで見え始めた。
倒れ伏した建人を冷やかに見下ろす影。赤く染まった視界で尚輝く、鮮血を思わせる双眸。その奥底に宿る仄暗き視線は建人に注がれていない。もっと、根本的な“何か”を推量り、値踏みするような、そう。
きっと、人が家畜に向けるものだ。
違う、幻覚じゃない。
灼熱で凍り付く建人の中で何かが叫んでいた。今見ている光景を現実だと、忘却してはならない記憶だと訴える。
――思い出せ、思い出せ。お前にはその責任がある。
叫び声はより強い痛みとなって脳に響いていく。まるで封じられた記憶が檻を叩いているかのようだ。いま、建人はその檻の前に立っている。
しかし、一体何を思い出せばいいのか。
こんな痛みに耐えてまで何を果たせと。
人影の五指が建人を捕まえる。それに伴って痛みが引いていくのに、建人は安堵した。
叫び声もまだ、遠ざかる。
だが知ったことではない。
脳を苛む激痛から一刻も早く解放されるなら、責務など放ってしまえ。
擦れ合う鎖の音が聞こえる。恐らく建人に訴える檻の住人が封鎖されてしまうのだろう。
三日月形に歪んでいく人影の口元。
恐怖はあったが、それ以上にもう苦しまなくていい安堵が勝った。
もう痛みさえ感じない。鉛のように重い脳漿が影に侵食されていき、底なし沼に沈んでいく鈍重な浮遊感。
視界は赤から黒へ。
凄まじい痛みで希釈された建人の意識は闇へ完全に堕ちる、一歩前。
――建人の名前を呼ぶ、愛しい少女の笑顔がよぎった。
「――――――――――――――は、あッ」
急浮上した意識が最初に感じたのは、酸素を渇望する肺の悲鳴だった。
何度も咳き込みながら苦労して呼吸を整える。苦悶に呻く口の端から涎が滴ってだらしがないことこの上ないが、いまは無視する。
這う這うの体で強烈な渇きを癒そうと鞄を探すと、建人は視界が正常に戻っている事にようやく気が付く。
「なんで?」
大光量を直視した右眼も問題ない。余韻はあるものの、頭蓋が砕けそうだった激痛も嘘のように引いている。
ゆっくりと身体を起こした建人は軽く動いてみるも、異常は感じられない。
恐る恐る望遠鏡を覗く。
レンズは変わらずカトプレス彗星を捕捉している。言うまでもなく幾何学模様は確認できず、眼球を焼き殺す物騒な光線が発射される様子もない。
夢だ。そう夢に違いない。
ゲームの寝落ちのように観測に夢中になるあまり寝落ちしたに違いない。
「うん。間違いない。そうだとも」
我ながらバカだなと一人笑う。が、言い聞かせるほど何故か嫌な汗が噴き出してくる。
空笑いを止めた建人は一旦ドームから出ることにした。あれだけ高鳴っていた鼓動はすっかり収まっているうえ、盛り下がった気分では何をみてもつまらない気がしたからだ。
兎に角一度夜風に当たって頭を冷やしたかった。
鞄からペットボトルを手探りで掴み取ると早足に外へ出た。
その時――全身が凍り付いた気がした。
反射的の身体を掻き抱く。手から零れたペットボトルが屋上タイルを濡らしていく。
手には氷どころか霜すらついてない。
錯覚だ。
錯覚に違いない。
だというのに全身に伝播する悪寒は骨まで達し、ギシギシと軋ませる。
山頂だからか。いいや、そうではない。肌は確かに熱帯夜の気配を伝えている。
悪寒は自然現象による寒気ではない。しかし建人はこの感覚に覚えがあり、つい先ほどにもそれを体感したばかりではないか。
「――魔力」
確信する。
国枝とは規模も質も桁違いだが、今自分が感じ取っているのは凄まじい魔力の波動だ。
理解が追いつくと僅かだが平静を取り戻せた。
ほとんど中身が零れてしまったペットボトルを拾い上げ、残りを飲み下す。
「……ぷは。街の方角から感じるな、多分」
感覚を頼りに屋上を駆ける。
ミニチュアサイズになった街は建人の記憶通りの外観を保っている。眼下の森を越え、田畑が広がる平野を抜けると民家が増え始める。静恵川を横断する大橋を越えれば都市部に入り、背の高い建築物が目立ってくる。
建人が違和感を覚えたのは大橋。
あの場所を中心にして街灯が消えており、何故か注視すると意識が他へ逸れてしまう。かなり集中しなければ気付けば視線が別の場所へ泳いでいるのだ。
まるで何かに『見るな』と暗示を掛けられているかのように。あるいはもっと強い結界や封印といった表現が正しいかも知れないが、一度芽生えた違和感はそう簡単には拭えない。
ドームから双眼鏡を持ち出して観測した建人は、それを目撃した。
「なんだ、ありゃ……」
そのあまりに馬鹿げた光景に我が目を疑う。
大橋の支柱、その天辺に蜷局を巻く巨影。およそ陸上生物の常識では考えられない巨体は爬虫類特有の長い口吻と尻尾を示し、信じがたいことに背中からは一対の翼が屹立している。
距離が離れすぎて詳細は視て取れないが、間違いなく”龍”と言える姿形をしている。
支柱から支柱へ飛び移る龍は巨体からは想像もできない機敏な動きを見せ、絶えず下方へ威嚇している。
流星が撃ち上がったのは、その直後。
地上から放たれた無数の光弾は支柱へ飛び移る龍を撃ち抜き、その片翼を完全に引きちぎった。
飛行能力を捥がれた怪物が血の尾を引いて堕ちる。片翼でなおもがく龍に追撃の流星群が突き刺さり、先程より高威力なのか着弾と同時に青白い爆炎の華が咲く。
流星の射出速度が増していく。
聞えるはずがない、龍の悲鳴が建人の耳を打つ。
その光景を建人は呆然と眺めていた。
傍観する。散っていく、命を。
だらりと、双眼鏡を持った腕が落ちる。
「ふざけんなっ……」
口を付いて出た言葉は、怒りのそれだった。
同情ではない。
事情の知らない建人はあの龍と魔弾の射手のどちらに肩入れする理由はない。
問題は場所だ。
あの辺りは比較的民家は少ないが、運悪く人が近くにいれば被害が出かねない。
「那月っ」
川沿いの高層団地に住む想い人に連絡を試みる。
意識疎外の件からみて、あの戦闘は隠蔽工作が施されているとみて間違いないだろうが、周辺住民の安全は別だ。
形勢は依然魔弾の射手が優勢。それでも建人にはあの戦いがこのまま幕を降ろすとは思えなかった。
「那月、早く出ろ」
強く耳に押し当てた携帯から規則正しいコール音が何度もする。
喧嘩もなにも関係ない。恥知らずと罵られようと、無神経だと貶されようと今は彼女の無事だけが確認出来ればそれでいい。
固く眼を瞑りながら必死に那月の無事を祈る。
無情にループする電子音は建人の逸る気持ちを裏切り、相手の不在を知らせる定型文を伝えてきた。
「クソッ」
最悪のビジョンが脳裏を過る。
役立たずの電話を乱暴にポケットにしまうと、建人は屋上出入り口に飛び込んだ。
こうなったら直接彼女の安否を確かめに行く。
殆ど落下同然に階段を駆け降りていくと、国枝が地下から上がってくるところだった。
「なんだお前。何をそんなに急いで……」
「すんません俺帰ります!」
「お、おい待て! 今夜はもう外に出るな――」
研究棟の主を無視して建人はロビーを走り抜け外へ出る。
往路は選ばず、建人は方向を変えて森へ突っ込む。
バスが利用する道は蛇行を繰り返す典型的な山道だ。舗装されている道路を下っていては時間が掛かりすぎる。
舗装された道と異なり凹凸が激しく障害物で溢れる荒々しい地面を、建人は苦も無く駆けていく。一切スピードを緩めることなく斜面を駆け降りていく様は野犬のそれだ。
以前から走るのは得意だが、特に障害物を駆使した鬼ごっこでは敵無しだった。パルクールさながらに瞬時に走行ルートを見極め的確に脚を捌いていく。
淡い期待を抱いてもう一度那月に電話するも、結果は同じ。もしかしたらわざと無視しているのかも知れない。
「くそッ……」
身勝手な理由で那月を傷付け、彼女の直ぐ傍に迫る危機に暗幕を掛けた自分へ怒りで気が狂いそうだった。
肌を嬲る魔力の波動は激しさを増すばかり。
直後、夜天に再び幾何学模様が出現した。
頭上に輝くそれはアニメや漫画で見る魔法陣にそっくりだ。
事実そうなのだろう。
複雑な模様を描く魔法陣の輝きが増すにつれ、外周が激しく回転しスパークしていく。
「あれはまさか」
陣を仰ぐ建人の右眼が嫌な予感に疼く。
予想は的中。
一際激しく輝いた魔法陣から、特大の魔弾が放たれた。着弾点は言うに及ばず、大橋の龍だろう。
ギリリと歯を鳴らし、建人は己を叱咤しスピードを上げていく。




