三章・二十三節 シャノン・コーデリオン
鏡海。
無限に連なるとされる並行世界を満たし、世界同士の存在摩擦を防ぐ防護機構。並行世界を内包するが故にあらゆる事象を内包し、あらゆる可能性を肯定する。
現在から数えて四代前に神崎家は鏡海の門へと至り、以来究極の門へと至る鍵は当主へと伝承されてきた。
次期神崎家当主である雀は数年前に鏡海へと触れ──事故によってその継承者としての資格を半ば奪われていた。
鍵を持たない雀は本来門を開けない筈であるが、奪われた資格そのものとの回路は未だ雀と繋がっている故、ある程度の条件さえ整えば門を開く事は可能だ。
雀の目的はこの鏡海からシャノンが忘却した権能の魔眼の資格を引き出す事だった。
まるで最初からこの展開は想定済であったかのように、あのスーと名乗った人物は雀に何ら危害を加える事無く放置した。わざと勝ち筋を残す様なやり口に自ら乗っかる事に雀は腸煮えくり返らんばかりの激憤に駆られるも、歯を食いしばって耐えた。
──果たして雀の狙いは瓦解した。正確には状況を読み間違えた。
アルベルトの権能の魔眼はシャノンから奪った左眼だ。ならばシャノンが権能の保持者として相応しい器を取り戻したのなら、それはアルベルトにも適応されるのではないか?
遅まきながら雀がその可能性に辿りついた時、轟音と土砂を巻き上げそれは雀たちのすぐ横を擦過した。
間一髪のところでヴラドが雀たちを抱えて外へ飛び退いていなければ直撃だっただろう。
現実に引き戻された雀たちが一番に眼にしたのは、砲撃を浴びたが如く半分以上が吹き飛んだ外見だけの家と、土埃に混じって舞う千々と千切れた赤い布きれ。
木々を薙ぎ倒し村を縦断する深い轍を刻んだ先で、血塗れの見慣れない同居人が瓦礫に埋もれていた。
「す──」
条件反射で馴染んだ名前を雀は叫んだ。
たった二音の名前が空気を響かせるより先に、死神は雀たちの傍に降り立った。
「素晴らしい仕事だった。神崎雀」
手放しの称賛は第一宇宙速度で振るわれる邪気と神気纏う拳。
しくじった。
本能が生前を絶望視し、延々と引き延ばされた時間の中で神崎雀は己の浅慮を悔いる。己を縛り続けた戒めを簡単に破らされた憤りで思考を鈍らせ、見落としとも言えない失態にしでかした。
千の罵詈雑言で罵っても飽き足らない失態だ。
せめて命に幕を下ろす瞬間を魂に刻もうと雀は瞼を下ろさない。
だが雀を襲ったのは拳打の衝撃ではなく、重力を無視した真横からの風圧。
ヴラドに投げられたのだと、肩から地面に落ちてようやく気付く。雀と同じくヴラドに庇われたシャノンが身を起こすまでの僅か数秒の間に、既に十を超える剣戟が鳴り響いていた。
「生きていたかヴァンパイア。祝福しよう。やはり貴様こそ我らの旗揚げの贄に最も相応しい!」
「力に酔ったガキはよく吠える。借り物の力で粋がるなッ」
アルベルトの聖典儀礼の長剣にヴラドが合わせるは、従者ミレイが投げ寄越した身の丈に迫る大剣。倍以上の重量差がある西洋剣の連撃に鉄塊に等しい大剣でヴラドは苦も無く返す。
汚染された聖典儀礼の闇色と鮮血の如き吸血鬼の赤色の魔力が交わる度、爆裂じみた閃光が両者の中間で鬩ぎ合う。
常磐津と同じくヴラドもまた距離を詰め、左眼の権能の魔眼を封殺しに掛かる。あえて左眼側への踏み込みを多く入れ、潰れた右眼側から長い手足を生かした剣戟でヴラドは絶えずアルベルトへと揺さぶりをかけ続ける。
ヴラドは後天的な吸血鬼と首無し騎士の混血。如何にアルベルトが権能で器が底上げされようとも、身体能力には純然たる種族の格差がある。何より積み上げてきた鍛錬と潜り抜けてきた死線と数は、アルベルトの比ではない。
長剣と大剣の交わりが百を超える頃にはアルベルトの腕の筋肉は断裂し、更に百を迎える頃には長剣は骨と共に砕け、斬撃の余波で皮膚が裂け続ける。
苦し紛れに抜き放ったアルベルトの短剣などもはや恐れる足らない。邪気で強化しようと、ヴラドは技と駆け引きで翻弄し刃を交えることさえ許そうとしない。勝負の趨勢は誰が見てもヴラドに大きく傾いている。
「くっ!?」
だというのに、押されているのはヴラドの方であった。
最初は確実にアルベルトを凌駕していた筈のヴラドの剣閃が明らかに速度を落とし、眼に見えて技のキレを失っていく。今や武器の重量差で簡単に押し返せるような攻撃でさえ大きく飛び退く始末。
(何故だ、剣が異様に重い!?)
数々の苦難を叩き斬ってきたはずの愛剣が何倍の重さとなってヴラドの腕に圧し掛かっていた。魔族の膂力をもってさえ振るうのが困難になりつつあるほどに。
アルベルトの仕業である事は明白であろうが、その仕組みが分からない以上対抗策を講じられない。
「ああ、イイ。素晴らしい力だ! 第一級指定魔族ですらこのザマとは、凄まじい力だ。正しい器の一端に触れただけだというのに、眼に見える全てが手中に収まった様だ!」
哄笑するアルベルトが繰り出す翼の殴打を交えた変則的な二刀流が振るわれるたび、受けるヴラドの足元が陥没していく。混血の魔族の肉体が悲鳴を上げる程の膂力に加え、ヴラドを真に追い詰めたのは正しき神気へと羽化し始めた邪気であった。
「──ッ、貴様まさか!」
「気付いたか吸血鬼。一族の怨敵そのものである貴様が魔族であり続けることを、私が許すはずもないだろう。この左眼が貴様にとっての銀の十字架だ」
見開かれた権能の魔眼が大きく振るわれる。
辛うじて直撃を回避したヴラドの後方で一拍遅れて村と森が扇状に大爆発に飲み込まれる。燃焼のプロセスを経ることなく蒸発し、火柱の壁を形成。
熱線を掠めた大剣もまた一瞬で蒸発し、余波を浴びただけに関わらずヴラドの上半身は炎に焼かれ一部は炭化していた。
吸血鬼は皆例外なく高い再生能力を有しており、重傷であろうとも火傷程度であれば数秒あれば完治する。
普段であればヴラドもその恩恵に預かる身であるが、一向に再生の気配が訪れない。
──やはり吸血鬼の能力が削がれているのか!?
火傷の激痛すら遠のく衝撃にヴラドの全細胞が敗北を濃厚視する。
吸血鬼へと堕ちたヴラドが魔眼蒐集の傍ら人間へと戻る方法をのたうち回る思いで探し求めた。諦めかけた人間への回帰で死の淵に立たされるなど、皮肉にしても悪夢に過ぎる。
人間の肉体の何たる非力なことか。たかだか十や二十の身体強化の魔術の負荷にさえ血管が破れ、筋骨が泣き喚く。眼では反応できても身体が付いていかず、思考と肉体が乖離し負傷と判断ミスの悪循環に陥る。
形勢は完全に逆転していた。
雀の危惧は、正しく現実と成ってしまった。
鏡海と接続したシャノンと共鳴したことで、紛い物であったアルベルトが正しき資格を得つつあるのだ。彼の急激なパワーアップの絡繰りが此れだ。
「後悔する暇があったら手を動かせッ、このマヌケ!」
己を叱咤し雀は地面を蹴りつけ走り出す。
典型的な中遠距離型の射手である雀の魔弾では、下手に撃てばヴラドを巻き込みかねない。被弾覚悟で距離を詰め、尚且つあの権能の魔眼を掻い潜らなければ勝機は無い。
「来ては駄目だッ」
魔弾を構え向かってくる雀にヴラドが血相を変えて制止を叫ぶも、雀の脚は止まらない。黒髪を振り乱し一直線にヴラドへと突撃する。
握り固めた拳に凝縮される魔弾は直撃すればアルベルトでさえ無傷では済まない超高密度の魔力量だ。
それでも当たらなければ意味がない。
ヴラドとアルベルトの間に埋めがたい純粋な技量の隔たりがある様に、雀の戦闘技術は戦場で生きるアルベルトのそれに大きく見劣りする。
馬鹿げた火力を幾ら振り翳そうとも、鍛え抜かれた戦士の前では唯の虚勢と変わりない。
「……自棄か。つまらない最後だな神崎雀。だが私をこの左眼に相応しい器に導いたせめてもの礼に、苦しまず死んでいけ」
「やめろっ……!」
つまらなげに一瞥をくれるアルベルトの神経網が唸りを上げ左眼に邪気をくべる。吸血鬼の力そのものを容易く削いだ能力が、過剰な威力を内包してたった一人の少女へと向けられる。
濃密な邪気を纏う翼に押し留められヴラドは動けない。刻一刻と力を失いつつある彼はいまや自分の身を護る事すら覚束ないのだ。
収縮される邪気の密度は雀の魔弾を容易く飛び越え、その左眼に破滅を宿す。地獄の体現は間もなく小さな命を蒸発させるだろう。
そうとも。鏡海という全知に達する道を有していようとも、神崎雀にアルベルトを撃ち砕くにはあまりにも準備が足りない。渾身の魔弾を突き付けたところで虚勢と何が違うか。
彼我の戦力差などアレと対峙した瞬間に雀とて弁えている。正義心や使命感に行動原理が由来しない雀は冷徹に自らの敗北を受け入れていた。
もっとも、それは彼女がアルベルトの土俵で素直に戦った場合。最初から敵対していたアルベルトの領域で律儀に戦ってやる義理など一切無し。
突き出した右腕から特大の術式陣を展開した雀は
「ぶち抜け!」
地面へと渾身の魔弾を叩きつけた。
かつて照の編纂魔術の雪原空間さえ脅かした雀の馬鹿火力は仮初の地面に大穴を穿つ。
村一帯が激震に見舞われ、次いで気持ち悪い浮遊感がその場の全員に襲い掛かる。
雀の魔弾は唯の一撃でこの亜空間の地盤を叩き割り、更には邪気の熱線ですら微動だにしなかった空間魔術に罅を入れた。
唐突に地面を取り上げられた生物が即座に真面な判断を取れるわけもなく。雀から大きく熱線を外したアルベルトは落下の最中に二つの選択肢を迫られていた。
一つ目は同じく落下中の雀に再度攻撃を仕掛けるか。視線さえ通れば崩落に巻き込まれていようとも関係が無い。
二つ目はまずは翼で落下を防ぐこと。片翼しかない上に不慣れであるが、瓦礫からの跳躍を併用すれば問題は無い筈だ。
普段のアルベルトであれば雀を逃がすリスクを冒してでも、後者を選択しただろう。
だが自縛に等しい雀の行動の真意を量れず、アルベルトは時間にすればほんのひと時の間だが、しかし確実に硬直した。
その隙を見逃す雀ではない。
頭上に投げ放った魔力を充填した塩の結晶を触媒に術式を展開。雀が得意とする星辰魔術で天井に再現された星座から魔弾に概念武装を施す。
呼応させる星座はペルセウス座。ギリシア神話に名高き英雄ペルセウスであり、数々の戦士を屠った女怪・ゴルゴーンを討つ取った逸話の持ち主。ゴルゴーンの石化の魔眼を破った逸話はあまりにも有名。アルベルトならず、ペルセウスは魔眼使いには天敵とさえいえる強力な概念だ。
「小賢しい真似を。その程度の浅知恵など佩いて捨てるほどみて来たわッ!」
毛髪を逆立て激昂するアルベルトは雀の撃滅を優先する。威力を度外視し速射性のみを重視し権能の魔眼を発動させる。
左眼に完全に捉えた雀は、しかしてアルベルトへ不敵な笑みを送って見せた。
「ちょっとあいつを甘く見過ぎじゃない?」
なに? とアルベルトが眉を潜めるとほぼ同時に彼の視界の隅で星が瞬いた。
腐っても権能の魔眼の保持者。その星光が銃撃による銃口炎であるものだと思考より先に身体が反応していた。
人間の限界を超えた超反応で半身を捩ったアルベルトの真価を──宵波涼は読みきった。
式神・常磐津との同化。唯一無二の能力を囮にした変わり身はアルベルトの眼を掻い潜り、涼に絶好の狙撃地点への移動時間を与えた。
小高い丘の一本杉に潜伏した涼が構えるは対物ライフルにカテゴライズされる対物ライフル、バレットM82.。時代遅れの骨董品とはわけが違う、現代技術が生み出した狙撃銃の代表格の一つ。50口径の巨大弾頭は1㎞以上先から人間を両断する威力を誇る。
アストレアでは三等以上の攻城官、監視官でなくては使用許可が下りない殺人兵器。確実に殺害してしまう大口径狙撃銃のスコープにアルベルトを捉え、魔族・魔獣に使用する特殊弾頭が射貫く。
「かっ……!」
瓦礫の隙間を掻い潜り、弾丸はアルベルトの胴を袈裟懸けに両断。着弾の激力で傷口付近の血液は一瞬で気化し内臓を焼き、衝撃波で体内をミンチにする。泣き別れの下半身がクルクルと底知れぬ闇へと飲まれていき、残った半身は白目を剥き邪気が霧散していく。
決着。
そう安堵しかけたヴラドは、魔弾を振り下ろそうとする雀に眼を剥いた。
それ以上は死者を辱める行為だと、ヴラドが口を開きかけたときだった。
「やれ、神崎まだ終わっていない。塵一つ残らず吹き飛ばせ!」
「分かってる!」
遠隔操作された常磐津が切羽詰まった声で雀に追撃を急がせる。
この場で権能の全容が視えていなかったのはヴラドただ一人だと証明された瞬間でもあり、アルベルトという男の妄執の体現を全員が目の当たりにした時でもあった。
振り下ろされた雀の腕を引き金に、魔眼殺しの魔弾が天上から駆け抜ける。ゴルゴーンの石化の視線を撥ね退けた鏡を思わせる白銀の流星が一人の男へ死を届ける。
「これで終わりよ」
終幕を告げる魔弾はアルベルトを呑み込み、光の柱となって再び空間に激震を走らせる。
直撃だ。神崎雀の魔弾は確かに彼女たちの敵を撃ち抜いた。
直撃のはずだというのに、手応えがまるでない!
「生物としての枠組みすら無視か。人間の在り方そのものを歪めるアレが天使の力だなんて冗談じゃないっての」
渾身の一撃に硬く抵抗する感触が、その存在感を増大させる。
滝が岩にぶつかり枝分かれするように、魔弾の柱が中腹から幾筋に裂けていき、ついには完全に砕かれる。
現れたのは最早一族の再興を志す青年にはあらず。
失われた右腕や下半身が邪気の光帯で輪郭だけ形作られ、半分以上が中身を伴わない人型を形成していた。権能の魔眼の神経網が異常増殖し、潰れた右眼が二つ目の心臓のようにバクバクと脈動を打っている。
神経網の一部が植物の根のように周囲から魔力を吸い上げているのを眼にし、雀の背筋に冷たいものが走る。
まずい。
ばくり、とそれまで沈黙を強制されてきた翼の口が開くと、ギュオという濃密な邪気で空気が焼ける音がした。
「KYARAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
空気が歪むほどの絶叫。出鱈目な黒き音波の直撃を受け雀たちは穴の外へ吹き飛ばされる。空間が魔弾と音波で崩壊しかけていなければ壁に叩きつけられ、強力なマイクロ波を浴びた様に身体がグズグズになっていた事だろう。
諸共吹き飛ばされた石や木の破片が散弾銃のように雀たちに襲い掛かり、何度も地面に激突し数百メートル以上を転がり身体中を殴打。
勢いを殺せず意識の手綱を離しかけた雀の身体が不意に何かに受け止められ、思い出した様に肺が空気を求め咳き込む。
邪気が空気を焼く最低な臭いに混じって、嗅ぎ慣れた煙草の匂いを見付け苦労して声を絞り出した。
「何か、策はある?」
「……無い。アレはもう権能とは違う、理から外れた別の何かになろうとしている。君なら解るだろ?」
「そう……ね。これはちょっと、参ったわね」
血にまみれた顔を拭う事すら出来ず、鈍痛で麻痺した身体を雀は涼へと預ける。
涼もまた雀と同等以上に負傷していた。二度及ぶ即死を常磐津で強引に誤魔化した無茶がここにきて祟った。涼本来の身体の修復が間に合わず、常磐津を緊急に代わり身に脱ぎ捨てたことで肉体の転化が不完全に終わり、常磐津の負傷を半分以上引き継いでしまった。
今すぐに死にはしないが、少なくともこれ以上の戦闘は不可能。先の狙撃は文字通り命を削り霊力で無理矢理身体を操った荒業だった。
最早戦える状態ではない。
「これがシズを切り捨てたアストレアの咎だっていうのか、フラン」
吸血鬼の襲撃を防げなかったアストレアが、ヴラドを第一級指定魔族という人柱にまでして魔眼の脅威を排しようと画策した真の理由がアレだというのか。
権能は、神の如き絶対的な力でありルールそのもの。
物の様に摘まれる一族の悲運を取り払う為、目指すべき理想を違えたとしても抗った末路がこの結果というのか。
まるで異界から罰が降り注ぎ続ける様にアルベルトの左眼からは際限なく邪気が振り撒き続けられる。肉体はとうに死んでいるだろうに、汚染された細胞が分裂と死滅を繰り返し、その身に“死”を蓄積するように伽藍洞であった人型が満たされる。
鏡海を通じて半端に権能の資格を得てしまった不出来な覚醒。もし涼の危惧が正しければ罰である邪気はシズのネットワークに流れ込み、やがてはいまを生きる全てのシズの一族を汚染するだろう。
もたらす結果が死以外の変異であったならば、それはもう人ではあるまい。ある日唐突に人類史に現れた吸血鬼の様に人ならざる魔族へと堕ちていく。
そうなればアストレアはシズを撃滅対象へと掲げ、人間の法ではあずかり知れない罰を理由に無辜の命を奪う事となりかねない。ペルセウスがゴルゴーンの首を刎ねた様に。
涼の償いは泡沫の夢となり、彼等を摘む事こそ正義だと偽善にさえ届かない道化を演じる事を、自らに強制する。或いはまだ見ぬ後輩にさえそれを強いるというのか。
──そんなものは許される訳がない。
「神崎、立てるか? 立てるなら足が折れてでも、どうにかしてこのラヴュリンスから脱出するんだ」
「何するつもり? 下らない戯言吐いたら引っ叩くから言葉を選んで頂戴」
「俺の“赤服”でアイツを連れて行く。君は五輪へ帰れ」
「ふざけないで。彼がああなった責任の一端は私にもある。一人で持ち逃げなんて卑怯な真似許さない。それに忘れたのかしら? アンタは私の全権代理者、つまり宵波涼の何割かはこの私の所有物。ぽっと出の祓魔師なんかにくれてやるなんて冗談じゃない」
「もうそんな次元の話ではないだろう。鏡海を預かる君ならアレがどれだけの厄災を運ぶかなんて、俺以上に理解している筈だ。恥と無責任を承知で全権代理者の契約を断ってでも、俺はあいつを止めに行かなくてはならない。その責任が監視官である俺にはある」
「ただ組織のゴタゴタに巻き込まれただけで、他所のあれこれに身を切り売りする馬鹿が何処にいんのよ。自分を助けられないような奴が他人の境遇にあーだこーだ悩んでんじゃないわよ、この馬鹿!」
「ば……馬鹿とは何事だ。ほんの一年とちょっと前まで誰よりも自分を蔑ろにしてきた君が言うことか。コスパ重視の食パンとSF映画みたいなバランス携行食料ばかり齧って、体調管理を疎かにしていた過去を都合よく忘却したか!?」
「う、うっさいわね。私は照ほどじゃなかったでしょ!?」
妙な方向に行きかけた二人の押し問答だが、それも長くは続かなかった。
勢いを増した翼の絶叫が大穴の崩壊を加速させていく。音圧で村の建造物は諸共崩壊し付近の木々が病葉のように薙ぎ倒されていく。
遥か向うに見える空間の壁にノイズが走り始めるのを見るに、いよいよをもって空間魔術にすら影響が出始めたのだろう。魔力で拡張された空間が主柱となり術式を失えば、急速な空間圧縮による疑似的な超重力が発生し、下手をすれば船そのものが沈没しかねない。
運よく空間崩壊から脱出できたとしても、船を失い太平洋のど真ん中に投げ出されれば結果にそう大差はない。数時間前に雀が冗談交じりに口にしたタイタニック号の如くだ。
シズの汚染と船の沈没。どちらも絶対に防がなくてはならないもの。
どれだけ雀に罵られようとも涼の覚悟と意思は、アルベルトを命に代えても討つべき敵だと身体を突き動かす。
「どうしても行くっての?」
「……ああ」
抱き止めた雀から満身創痍の身体を引き剥がして、涼は殆ど感覚が飛んでいる脚を霊力で無理矢理操る。
一歩進むだけでも気が遠くなるほどの鈍重な歩み。数歩と進まぬうちに気が遠くなり、何度もたたらを踏む。最早アルベルトの元へ自身を運ぶ事すらままならず、霊力は枯れかけ。無様にもなんてことの無い小石に躓く始末である。
今度は逆に雀が涼を支える形となった。
「死ぬのよ?」
「そうだな」
「ふざけた“呪い”背負わされて、私と照の正体を知っておきながら、真面な死があると思ってるの? あの権能擬きにだって、そんな幸せがあるか怪しいのに」
「──」
死が幸せと、矛盾にも等しい雀の制止に固めたはずの涼の覚悟が揺らぐ。
そうとも。宵波涼は、神崎雀や雨取照と同じく正しき輪廻からつま弾きにされてしまった異端者。過程も原因も異なれど三者三様に歪な終わりを、あるいは苛酷な運命を確約された。
命を賭けることそのものに涼は大きな恐怖は抱かない。
だが涼がそうであったように、ある日突然押し付けられた“赤服の呪い”が誰かの幸福や人生を何もかも滅茶苦茶にするのではと考えると、途端に脚が竦んでしまう。
そうならない為に今日まで足掻いて、けれど宵波涼に宿る呪詛を殺すための手段は欠片さえ見付かっていない。
例え堕ち行く権能の魔眼が停止させたとしても、その後に責任を負えない不幸が待ち受けている。それでは正義の代行者たる監視官として死ぬことさえ愚かしい。
立場も能力共に宵波涼に決着を委ねる事を許さず、運命は彼が傍観者である事を欲した。
無力を嘆くならまだ納得がいくものを、何もしない事をどうして最善と飲み下せばいいのか。
自力で立つ事さえままならない壊れた身体はいまや堅牢な檻。万策尽き果て、敗北に眼の前が真っ暗になる。
「それでいいのす。アレを止めるのは私の役目です」
ハッと、優し気な声に顔を上げた涼は愕然とする。
幾度の死線を潜り抜けてきた若き監視官の判断は正しく──此処に相応しい終止符が現れた。
労わる様に涼の義手を手に取る彼女は、涼の知る彼女ではなかった。
右眼に宿した権能の魔眼に引き摺られ相応しい器へと霊基が押し上げられている。豊かな金髪は溢れる神気で温かな光を蓄え、背中からはステンドグラスを彷彿とされる神気で編まれた翼。
アルベルトのそれとは抜本的に在り方が異なる。ただ相対しているだけで人々に昂揚を齎し、魂が敬服を求める様だ。
今の彼女はアルベルト達革新派が求め欲し、望まぬ形で実現された一族の希望そのもの。
同時に、この先永遠に現れぬであろう最後のシズの女王。
「──シャノン」
「はい、私です」
半月に満たない時間、従者として涼に仕えた少女、シャノン・コーデリオンは仮初の主である青年に微笑む。
限界を迎えていたブローチに封じられた権能の魔眼は術式に一切の綻びを見せずに、シャノンと適合を果たしていた。アルベルトがそうであったように、鏡海へと導かれたシャノンは権能の継承者へと復権を果たした。
虹彩は螺鈿模様のような術式の輝きを内包し、元々の碧玉の様だった眼に星空を写し込んでいる。
系譜のようだと、心の何処かで涼はそう感じ取った。
シズの一族が誕生して以来、過去から現在に至るまでの命の系譜が“権能の魔眼”には宿っているのだと。
ゆるゆると、無意識に涼の首が横に振られる。
違う。確かにアルベルトへの対抗手段として望んだ。しかし何もこのような状況での発現ではない。他の誰でもなく、涼はシャノンへと一族への償いの誓いを立てたのだ。
「貴方と雀の尽力で亡き同胞たちの無念を晴らすことができそうです。心より感謝申し上げます」
「やめなさい!」
旦那様ではなく貴方と涼を呼ぶシャノンに気付けば涼は怒鳴っていた。
監視官としての側面がこの状況を冷徹に“良し”としながら、この現実を拒否する感情と板挟みになり胸が引き裂かれそうになる。
このような結末が欲しくて戦ったのではない。犠牲を強いる為に義父やヴラドたちは命を賭したのではない。誰も報われない、救われないではないか。
「いいえ。雀の言う通り貴方は組織に翻弄されたに過ぎません。禍根は全て我々の一族そのもの。なら幕引きは同じ一族でなければ筋が通らないでしょう」
「ならそれは我々アストレアにだってある! 十四年前の盟約を果たせなかった責任が……」
「その責任は負うのは私たちだ。盗らないでおくれ」
「……っ!!?」
ポンっと後から頭に置かれた大きな手に、言葉が詰まる。
義父・直嗣と同じく十四年前の戦いに身を投じ、アストレアの名を剥されようとも今日に至るまで己に課した使命に従事した男の手だ。
「親友の息子を死なせてしまえば、胸の内に掲げた正義すら砕けて俺は本当の醜い吸血鬼でしかなくなってしまう。どうかだらしない先輩に花を持たせてくれないか」
「……卑怯です……そんな言い方卑怯ですよ。父に何て言えばいいのですか……!」
「なに、ありのままを伝えてくれればそれでいい」
もし吸血鬼になっていなければヴラド・オルギアにも涼と同じころの子供がいたかもしれない。有り得たかもしれないIFはやはり虚妄でしかなく、涼の頭を撫でるその手は不器用そのもの。撫でるというより髪をグシャグシャにかき混ぜるといった方が近かった。
それでも後輩であっただろう青年に向けられる自愛は混じりけの無いもの。
「宵波。正義を名乗る以上、命を賭すことはいつだって最低条件だ。それが出来ない奴は武器を取る事すら罪になる。だがな、命に代えて護り抜けるものがあったとして、それは誰であれ同じではない」
「!」
頭から手が離れ、シャノンの横についたヴラドは涼の眼を真っ直ぐに見据える。
目頭を熱くしながらも男の覚悟に答える様に、背筋を伸ばしその視線を受け止める。
「君は君にしか護れないものに全てを賭せ。いずれ来るその時までその命、とって置け。若き監視官」
「──はい」
胸に拳を添え、ヴラドの言葉を魂に刻み付ける。偉大なる先達が誇らしくあれるように在る為に。
「お供します、コーデリオン嬢。露払いはお任せを」
「ええ、お願いします」
偽・権能の魔眼の暴走で生き残ったシズの人獣にも変化が及んでいた。ネットワークから流れ込んだ邪気が憎悪と共に人獣を汚染し、無差別に人を襲うだろう。
シャノンに道を切り開くため、絶叫の大津波へとヴラドは一人突撃していく。ものの数秒でその背中は視えなくなり、微かな血の匂いが音波に乗って来る。
後に残されたのは涼と雀、そしてシャノンだ。
「では私も役目を果たします。改めて感謝を、御二人とも」
「……ああ」
「──」
涼は短く、雀は視線のみで答える。
もはや問答はただの侮辱に他ならない。憐憫も同情を己から排斥し、敵から始まった少女に敬意を払う。
義手を取る彼女の手が離れれば、この三人が集うことは永劫に訪れない。
幕引きは近い。シャノンの手はその為の手。数十年に及ぶ一族の非業の歴史に一つの終止符を打つ英雄のそれだろう。
誰にも肩代わりが叶わない使命と覚悟は、しかして死の恐怖を超克するに至るものだろうか。
カタカタと震えを伝える義手を、神気と微笑に隠れる滂沱の汗に涼は必至に気付かないフリをした。
時間が無い。既に一秒を争う事態にある事は、涼とて重々承知している。だがそれでそうしてこの手を振り払う理由になろうか。
「──報酬が必要よね」
不意に雀が何処かわざとらしく声のトーンを上げてそう口にした。
「頑張った奴には何か報酬がなくっちゃね。あ~、でもこの場合誰に請求すればいいのか」
下から覗き込んで来る雀の意味深な笑みを受け、涼はシャノンの小さな手を握り返した。決してこれから立てる誓いが嘘ではないと伝える様に。
そうとも。たった五歳で外界に放り投げられ、必死に生き抜いた少女には好きな望みを叶える権利がある。誰が何と言おうとも。
「望みがあれば聞こう。どうか聞かせてくれ」
「……!」
微笑が崩れ、シャノンの顔がくしゃりと歪む。咄嗟に伏せられた眼元から弾けた雫が音波に攫われ、涼の頬に砕ける。
涼の手を胸にかき抱き嗚咽に肩を震わせるシャノンの言葉を、涼は雀と共にジッと待つ。
──ああ、神よ。もし貴方がいるのであれば、このひと時だけで構わない。どうか彼女の望みを聞く時間を下さい。
「もし……」
面を上げたシャノンは端正な顔を涙で晴らしながら、声を枯らし願う様に涼に死に際の願いを告げる。
「もし此処から生きることが叶ったのなら、この身を今一度貴方の従者にして頂けますか?」
今度は唯の人として、想い慕う男性へ忠誠を捧げたい。
幸せだった。
最初は確かに強要されたもの。けれども日を追う毎に、人としての当たり前が満たされていったのだ。
薬や毒に怯えること無く毎日三食の食事を摂れた。鍛錬意外の自分の時間が初めて持てた。戦うこと以外の役目が与えられた。宵波家では久しく忘れた家族を思い出した。
何より涼の後ろではシャノンは自分の眼に怯えなくて良かった。
普通の女性の様に街中を歩き、買い物をし、景色を楽しんだ。それだけでも十分に満たされたのに、涼はシズへの援助を確約してくれたのだ。
これ以上はない幸福があった。
大きすぎる恩だ。返すにもシャノンはこの身一つしか持ち合わせておらず、捧げられるものは忠誠しかなかった。
従者である事を望む。組織のしがらみも一族の因縁も排斥した、唯のシャノンの純然たる願いがそれだった。
その想いを確かに聞き届け、涼はシャノンの涙を拭ってやると、懐から取り出したものをシャノンの手に握らせる。
「主の健康を管理するのも従者の役目だ。俺がヘビースモーカーになる前に帰ってきなさい」
渡したのはこの二週間、シャノンに何度もお使いを頼んだ煙草。
研究に没頭する涼が吸殻を積み上げ、度々シャノンに取り上げられた。他人への気配りは眼を見張るものがある涼であるが、自分の事に関しては蔑ろにしがちというのは短い付き合いながらシャノンも痛感した。
だから、これは宵波涼の命令であり同時に願いでもある。
煙草の箱を胸に押し抱き、シャノンは深々と頭を垂れ新たな主従の門出に答えて見せる。
「かしこまりました、旦那様」
手は離れた。涙は止まった。賽は投げられ、後は進み乗り越えるのみ。
空間が軋み始め、タイムリミットはもう誤魔化し切れない所まで来ている。
それでも先程までの張り詰めた空気は弛緩し、三人の口元は弧を描いていた。
「あ、でも涼は私と全権代理者契約を結んでるから、私はシャノの主の主みたいになるのよね。その時は存分に敬いなさいね」
「嫌です」
「ちょっと涼、この従者早速無礼働いてるけど? 殴っていい?」
場違いな笑い声が大音波の津波の中でありながら明朗に三人を満たす。
三人が思い描く未来は万に一つも有り得ない直ぐに弾けてしまう泡沫のようなものかも知れない。
それでも帰って来る場所でもう一度同じことが出来るように、想いを同じにする。
誰ともなく声を静め、後に残ったのは一つの静謐な覚悟と送り人が二人。
「では、また」
そうして権能の魔眼を宿した少女は墓標となる大穴へと消えていった。
脱出する涼と雀が眼にしたのは本来の体積へと圧縮されていく地下空間と、ラヴュリンスを貫いた光の柱。
光の柱は幾筋に枝分かれし、流星となって方々へ駆け抜けた。
かの有名な童話『マッチ売りの少女』では流星をこう語られる。
──流れ星は誰かの命が消えようとしている象徴、と。
この日、権能の魔眼は完全に消滅した。




