一章・七節 カトプレス彗星
「しばらく押さえておけ」
注射針が抜かれ処置を施された傷口を圧迫し、建人は一息つく。
机には建人から抜かれた血液で満たされた採血管が五本立ち並んでいる。
血液の提供。これが建人が研究所に呼ばれる理由だ。
理由は不明だが建人の血には高濃度の魔力が含まれているらしい。国枝曰く濃度だけなら一級の魔術師を凌ぐらしく、また珍しい属性でもあるとのこと。
当然の事なら建人に魔術の素養などなく、国枝からの指導もない。彼自身、魔術への興味は多少あるものの、教えを乞うには頭痛の件もあって些か気が引ける。
しかしそれで深刻な問題が生じている訳ではないので、声が掛かればこうして脚を運んで協力しているわけだ。
「ほれ。バイト代だ」
「あ……ども」
差し出された茶封筒を少々気後れしながら受け取る。
採血が終わればこうしてバイト代を貰えるわけだが、問題はその厚みだ。どう考えても十万二十万では足りない確かな手応えを返してくる。そう例えば、厚切りベーコンかポケットティッシュがニ、三個入っていれば近い感触を得られるはずだ。
どう考えても学生の財布には持て余す。
「なあ博士、やっぱり多いんじゃ……」
「口止め料も入ってる。ま、本来それ込みでも足りないぐらいだがな。お前さんの魔力はそれだけ希少価値があるってこった」
煙草に火をつけた国枝は本棚で専門書を物色している。採血が終われば建人の仕事は終わりだ。ダラダラしていても特に文句は言われないが、ここには娯楽の類は皆無だ。
いつもどおり報酬は生活費だけ抜いて、全部貯金に回すことし、茶封筒をバッグに仕舞い込んで建人は帰り支度を始めた。金はあるに越したことはないが。人を簡単に狂わせる。節約を心掛けて損はない。
準備を終えた建人はそこでふと今朝見たニュースを思い出す。
六十年周期で地球に訪れるカトプレス彗星が接近中で、最接近するのが今夜なのだ。
非常にマイナーな彗星であるため、テレビでも直ぐに次のニュースに移ってしまったが、扇状に広がる優美な尾を引く美しい彗星だ。
那月との一件ですっかり忘れていた。
時刻を確認する。
よく見える時間帯まで多少時間はあるが、家に戻る余裕まではない。
「博士。屋上と望遠鏡使っていいですか」
研究等にも小規模だが観測施設がある。
天文部員の建人は度々此処の施設を利用させて貰っている。自宅にも市販の望遠鏡があるが、やはり研究用はものが違う。可能であれば、こちらで観測したいのだ。
「好きに使え。鍵はいつもの場所にある」
予想通り、いつも通りの返答が来た。
礼を言い、建人はキーボックスから屋上とドームの鍵、ついでに冷蔵庫から軽食を拝借する。
研究室を出て、一息に一階への階段の登ると二階への道を塞ぐ鎖を外し、うっすらと埃の積もる階段を踏破する。
非常灯が灯る屋上扉の鍵を開け、小一時間ぶりに外へ出る。山の上という事もあって気温はかなりマシになっており、山特有の清涼感に満ちた風が吹き抜ける。
間もなく日付が変わる時刻だ。無数の星々が所狭しと輝き、彦星と織姫を別つ天の川が掛かっている圧巻の光景。手を伸ばし、夏の大三角形を指でなぞる。
五輪市も光害の少ない方ではあるが、街に降りれば大部分が人口の光に埋もれてしまう。それを悲しいとは思わない。天文台からも微かに見える街の光は、脈々と培われてきた営みの結晶だ。
そこに善悪はない。あるのは結果だけ。
利便性を追求し続けた先に直面するリターンとリスクを末代まで天秤に掛けられるものが文明の光を享受できる。
「ま、博士の持論だけどな」
呟いて建人は余計な記憶まで引っ張り出してしまう。国枝は同時に「要は知性が高い生物ほど自滅リスクを抱えるってこった」と身も蓋もない結論で締めくくっていた。
国枝は時々人類を酷く咎めるように酷評することがある。頑なに研究室から出ようとしないのも、何か関係があるのかも知れない。
「家族と上手くいってないのは、そこらへんに関係があるのか……」
夏休みが空ければ嫌でも那月とは顔を合わせる。どうあれ関係を修復するには早い方がいいのだが、今の建人にはどう切り出せばいいか検討すら付かない。
鉄平に相談すれば、一発イイ拳を叩き込んでから建人を蹴り出してくれるだろうか。
「アイツならやるな」
明日になっても踏ん切りが付かなければ、補修前に本気でそうして貰おうと決めると、建人は夜闇に眼を十分に鳴らしてからて観測室へ入る。
半球状のドームの中央には小型の光学望遠鏡が設置され、操作盤のスイッチを入れるとドームのスライド扉が開いていく。ドームは回転テーブルのように三百六十度度自由に方向転換が出来る構造になっており、さながら艦砲の射撃手にでもなった気分が味わえるので建人は大変気に入っている。
彗星が見える方角に望遠鏡を操作し、下調べした情報を元に星座の位置や角度を確認しながら夜天に眼を凝らす。望遠鏡の扱いで重要なのが接眼レンズ――覗きこむ場所――だけではなく、肉眼やファインダーで星の位置を随時確認していくことだ。レンズから見える空がどの位置にあるのかを逐一確認しながら、目的の星を見付け出すことがミソになる。
建人もセオリーに乗っ取り微調整を繰り返すこと数十分。
「入った!」
悪戦苦闘の末に目的の彗星をレンズに捉えることに成功した。
レンズの倍率を上げてよりよりハッキリと彗星を映す。
カトプレス彗星だ。
残念ながら現設備では最高倍率でも米粒大に捉えることが限界だったが、際限なく高鳴る鼓動の前では、建人は全てが些事なこと。
建人の前に現れた彗星はまさしく奇跡的な美しさだった。
決して煌びやかなわけではなく、さりとて華々しくもない。暗黒に浮かぶ艶やかな尾は眼に焼き付き、心をどうしようもなく揺さぶる。
──魔的、といった表現がこの彗星には相応しいかも知れない。
古代から彗星は厄災の予兆とされてきた。カトプレス彗星は今尚その役目を担っているように、振り撒く様な尾を引く。
『砂純。お前の属性は『彗雲』と呼ばれるものだ』
ふと、以前国枝が話していたことを思い出す。
魔力には四大元素と呼ばれる火水地風に大別される属性があり、さらにそこから細分化されている。建人のそれは『水』の派生魔力だという。また花言葉のように、既出の属性には意味が添えられている。
彗雲は今まさしくカトプレスが放つガス状の尾のことだ。意味は――
(確か、『不変の剥落』だったっけ……)
抽象的であるため、こうして実物を眼の前にしても建人には理解が及ばなかった。あるいは魔術師であれば、込められた意味を正確に汲み取ることが出来るのだろうか。
それとも、無意識の内に理解を避けている可能性か。
「やめよう」
折角の感動に自ら水を挿してどうするのかと自嘲し、意識を彗星へ傾けた。
その瞬間――彗星が堕ちた。




