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三章・二十二節 並行世界の事象羊水・鏡海

 常磐津とアルベルトの戦闘をヴラドは右眼に移植した遠視の魔眼、いわゆる千里眼を通して見届けていた。


 一定範囲内か中継器に相当する触媒があれば、鳥の眼を借りる様に遠方を監視できるこの魔眼は常磐津達の戦いを終始その視界に納めていた。


 アストレアで腕をならし、現在では魔眼公と恐れられる吸血鬼であるヴラド・オルギアでありながら、彼は戦慄を禁じ得ない。


 ようやく従者が運んできた身体に首を繋げる事すら忘れ、呻くようにその言葉を漏らした。

 生命そのものを屈服させるような権能の魔眼とその邪気を前にして、しかしてヴラドが眼を奪われるのは若き監視官であった。


「……つ、強い」


 ──いや強すぎる。


 権能の魔眼を宿した今のアルベルトは通常であれば入念な対策と人員選出、作戦立案を用いて対抗するであろう第一級指定魔族に匹敵する脅威だ。曲がりなりにも聖王協会や名うての魔眼使い等を退けてきたヴラドであってすら、対抗手段が一つ二つあるかどうかだ。


 シズの故郷を襲撃した吸血鬼たちをも単独で退けるであろう力が偽・権能の魔眼にはある。


 それを、たった一人の監視官が抑え留めている。両儀の霊力や致命傷すら即時修復させる式神技術など理由のほんの一部分でしかない。


 然るべき位置、タイミングで最適な術式を即時展開し、時には強力無比な雷撃を囮につかい常磐津はアルベルトの攻め手を悉くいなしていた。機関銃十数丁の一斉射を一発ずつ見極め、生身で防いでいるのと何ら変わらない芸当だ。コンマ数秒以下の判断遅れが命取りになろう死地を、あの監視官はどうやって潜り抜けているのか。


「あれで三等監視官、だと? 有り得ない……有り得ないぞ! あのレベルで三等なんて地位に置いてたら、下も上も自分の実力を見失ってしまう。ユースティア家はいったい何を考えているんだ」


 ヴラドの見立てでは涼/常磐津の実力は彼の現役時代を遥かに凌駕している。当時の彼の階級が三等であった事から、涼の階級は不当な低さとさえ評価しても過言ではない。


 しかもヴラドの観察眼が正しければ常磐津は徐々にではあるが邪気を中和し始めている様にも見える。彼ないし彼女特有の能力に由来するものであろうことからも、今この場でアルベルトを押し留める事を可能とするのは宵波涼の他にいない。


 もし今もアストレアに所属していれば、ヴラドは直ぐにでも現当主に怒鳴り込みに本部へ乗り込んでいたかも知れない。


 そしてヴラド以上に常磐津の奮戦に衝撃を受け、尚且つ際限なく焦燥を募らせている少女が一人。シャノンである。


「──早く、早く儀式の手掛りを見付けないと、旦那様が……! ああでも、でも……」


 ヴラドの支援を受けて雀とシャノンは再現されたシズの村に辿り着いていた。


 儀式に重要な何かがあるという事前の予想に反して、村にそれらしい痕跡などをシャノン達は見付けられないでいた。


 いや。実際には既に村の役割そのものはもう判明していた。


 村は楔なのだ。

 治水のように霊脈の流れを一族の都合のよい形に整える為の加工機構の役割。


 儀式人が二重構造になっているというヴラドからの“月天の儀”情報と、雀が収集した“地母の儀”を照らし合わせれば、村の機構を導き出すのはそう難しい事ではなかった。


 問題はそれ以外の機能がまるで見当がつかない事にある。


 アルベルトが降ろした権能の魔眼が紛い物である以上、革新派が推し進めた儀式を模倣したところでシャノンもまた同じ末路を辿るのは必定だ。


 これが血筋だけの問題であるならばどれほど良かった事だろう。正当な血筋を受け継ぐシャノンであれば、所詮借り物であるアルベルトの資格など足元にも及ばない筈なのだ。


 ではそうでなかったら?


 もし、もしだ。あると思われた資格がシャノンの眼に宿っておらず、それが原因でアルベルトがああなったのなら、全ての希望が瓦解する。涼は権能の魔眼への対抗手段としてシャノンに同等の力、即ち真の権能の魔眼を降ろす算段で今たった一人でアルベルトを押さえ込んでいるのだ。


 絶えず届く戦闘音は激しさを増す一方。幾千の刃と銃弾、そして術式を交える攻防は一見すれば常磐津の優勢に思えるが、実際にはその逆。あと数分もしない内に、常磐津はまず間違いなく敗着を喫するだろう。


 常磐津がどれほど強力な術式で手傷を追わせようとも、アルベルトは倒れない。失った血肉に比例していくように、左眼から湧き出る邪気の総量は加速度的に増長していくばかり。


 右眼、右腕は全損。右側の腎臓も蒸発し、雷撃の踵落しの直撃を受けた肩は肺が圧潰していてもおかしくない筈だ。普通であれば確実に息絶えている。


 だというのにあの男は尚吠え続け、邪気の反動に耐え切れず顔の皮膚が剥がれ落ちようとも、零れ落ちる血液さえ枯れようとしていながら、常磐津を抹殺せんと己を駆り続けている。


 骸も同然のアルベルトを無理矢理生かしているのも、またあの歪んだ権能の魔眼なのだろう。まる権能という籠に捉われている様に、死が権能に阻まれているようではないか。


 血を流し続ければ確実に死に近づくシャノン達とは適応されているルールそのものが異なる。


 常磐津という反則技に近い延命措置で難を逃れただけの涼では、アルベルトを封殺することは不可能。どうしても今、シャノンがアルベルトへの天敵(カウンター)にならなければならないのだ。


 そのための手掛りを求め、人獣を強引に蹴散らして此処へ来たというのに──


「──分からない……。これじゃどうやって権能の魔眼を降ろせばいいのか、全く……」


 村が再現されているのは外観のみであり、住居の内装や装飾品などは省略されている。つまり、村の役割は本当に霊脈の制御だけなのだ。


 そもそもこの空間を革新派が造り出したというのなら、分かり易いヒントなどご丁寧に用意してあるわけもない。シャノンが彼等の立場でもそうする。


 すがる思いで十四年前に住んでいた家に飛び込んだが、そこも他と同じく中身は空。壁に霊脈制御の術式機構が刻まれているだけであり、今更これを破壊したところで意味はないだろう。もう何軒か雀が吹き飛ばしてしまったが、アルベルトの能力が削がれた様子はない。


 一体どうすればいいのか。


 正当後継者の血筋であるといっても、シャノンは数年前まで己にさえ無知であったのだ。その事実が重しとなり、彼女から冷静さを削いでいく。


 このまま打開策を見いだせなければ、彼女には何も残らない。GHCの強権の使者として一族の遺恨を理由に涼にヴラド捕縛を強要した挙句、身から出た錆で失うのが涼になるなど冗談ではない。


 シャノンがアルベルトを止め、遺恨に終止符を打たなければどうして涼の償いを受け入れる事が出来よう。被害者の身に甘んじで責務すら放棄すれば、シャノン・コーデリオンは二度と彼を仰ぐことは許されない。


 焦る気持ちとは裏腹に現実は八方ふさがり。膝をついたシャノンは情けなくブローチを握る事しかできない。


「コーデリオン嬢。何か分かったかい?」

「すみません、何も……」


 首を抱え外見だけの家に入ってきたヴラドに、シャノンは力なく返す。


「こうして現物が手元にありながら、実際に私はこれが何であるか殆ど知らないのです……」


 無力である己が情けなく、悔しく、涙が零れそうになる。


 苛烈を極める戦闘が引き起こす衝撃波の爆音が絶間なく村まで届き、常磐津の奮戦を物語っている。それもあと数分と持たないだろう。


 経験の差か、友人の子供の死が確定しつつありながら、ヴラドは冷静であった。


「落ち着きなさい。村長が君にそれを託したのなら、絶対に明確な理由があるはずだ。でなければ死地の只中で破壊ではなく、託した意味が通らない。もうコーデリオン嬢は権能を受け継ぐための資格を手にしている筈だ。何か心当たりはないか?」

「ですが……」

「アンタ涼の霊術を受けそうになった時にソレで何かしようとしたんでしょ? 全く使えないなんて言わせない」


 シャノンの弱音を切り捨てる様に割り込んで来たのは雀だ。


 人獣との連戦に加えて、今の今まで村中を駈けずり回り調査していたので肩は激しく上下し、傷だらけの肌からは血が滲んだ球汗が滴っている。魔弾の連射で指先は爪が残らず割れ、真赤に染め上がっている。


 それらの苦痛や疲労といったものを雀は一切表情に出さず、ズカズカと大股でシャノンへ詰め寄る。


「あの時アンタはソレで何をしようとしたの? 答えて」

「……魔眼のコピーです」

「何だって?」


 反応したのはヴラドだ。魔眼公である彼をして、シャノンの言葉は耳を疑うものであった。


「我々一族の眼を繋ぐネットワークの収束点は常に権能の魔眼にあります。私は血筋か体質のせいかその収束点の影響を受けやすいようで、ごく短い時間ですが魔眼の力を転写することが出来るのです」


 以前、シャノンは宵波家でどこかで眼を加工される同族と同調してしまったことがある。その絡繰りが此れなのだろう。


 俄かには信じ難い話であるが、雀もヴラドも言及はこの場では避ける。


 一方で納得できない話ではない。


 一族全ての瞳力を減衰させることが可能であるならば、その逆もまた然りだろう。力の源水にも等しい存在である権能に干渉が可能であれば、全ての魔眼の雛型とも呼べる。能力に相応しい形さえ組めれば、転写も可能だろう。


 恐ろしい力だ。そう思う反面で雀はその話に違和感を覚え、気付けば窓から常磐津達が戦う方向を疑うような眼で見据える。


「ならあの男の収束点って奴にアンタは影響されてるわけ?」

「え?」


 思いもしなかった雀の問い掛けにシャノンは顔を上げる。

 どうなの、と問い直す雀の言葉を受け、戸惑いつつシャノンは眼を閉じ常磐津と戦うアルベルトへ意識を傾ける。


 答えは直ぐに出た。


「……感じない。アルベルトからは権能の収束点が感じられない」


 紛い物ゆえかどれだけ集中してもアルベルトからはブローチにはある収束点がまるで感じられない。


 つまりブローチを触媒に魔眼の転写が可能な点から鑑みても、少なくともアルベルトのそれは彼が求め欲した権能の魔眼ではないのだろう。


「でもそれでは、何のために彼等は命を落としたというのです……」


 シャノンと袂を別ち、一族の再興を信じて自らを贄と捧げた同族たちの顔が浮かぶ。これだけ大規模かつ緻密な術式を用意し多大な犠牲を払った結果、全ては失敗でしたなど、報われないにもほどがある。


 青ざめ胸を掻きむしるシャノンとは対照的に、雀は苛立ち気に爪を噛む。


「頭きた……。やってくれるじゃないっ、あいつ! 私を此処にただ放り出したのはそういう魂胆か」

「神崎嬢?」


 ずっと胸に蟠っていた疑念が氷解し、雀は入れ替わって烈火の如き瞋恚を露わにする。まんまと策略に組み込まれた自分が情けなく、そして何よりも腹立たしい。気を抜けば握り固めた拳を自分に振いかねないだろう。


 いずれ必ずケジメを付ける事を強く胸の内に刻み、雀はシャノンに向き直る。

 そして明らかにする。誰かに敷かれたレールに自分たちが走らされている事を。


「シャノン。多分これはアルベルトだけじゃなくて、アンタへ向けても整えられた舞台よ」

「私に……?」


 胸の下で腕を組みながら雀は肯定する。


「考えてもみて。例え劣化していようとも現物があるなら、それを利用しない理由が何処にあるのよ。新しく創造するにしたって、アンタの眼を奪うようなシステムの穴を突く様な真似を重ねれば何処かに綻びが出ることなんて簡単に予想できる。アルベルトの失敗は裏で糸を引いてる奴は絶対に織り込み済み。彼はきっと実験体ね」

「なっ……!? で、ですが私がアルベルト達革新派に迎合しなければ、彼等の目的は叶わない。だから私の眼を奪ってこれほどの儀式を構築したのではないのですか!?」

「そんな単純な理由だったらアンタを洗脳でも何でもすればいい。でもそうしなかったのには理由があるんでしょ。操り人形じゃダメな理由、アンタの一部を取り込んでも手にしたかった資格があった」


 はっ、とシャノンはブローチを握りしめる。


 そうだ。つい先程自分で口にしたばかりではないか。

 あるいはアルベルトがシャノンの左眼を簒奪したのは、“それ”は眼ではなく正しく継承者にのみ与えられる“資格”なのだろう。


「──ネットワークの収束点!」


 正確には収束点を感じ取る視点こそがシャノンにあってアルベルトが持ち得なかった、権能の魔眼へと至る鍵。


 なるほど。確かに短絡的に洗脳でシャノンを縛ってしまえば、権能の魔眼は永遠に到達不可能な極致へと遠ざかってしまうだろう。アルベルト達の読み間違いはこの資格を血筋に見出してしまった事だ。


 例え求めた結果が同じでも、解釈を違えればそれ相応の結果に陥るのは道理。革新派は最も重要なピースを見落とした。


 ──流星は同族の光が奪われた証だ。


 ふと、子供の頃に聞かされた祖母の言葉が蘇る。


 物心がついて直ぐに亡くなってしまった祖母がよく空を見上げては、耐える様に口にしていた言葉。どんな昔話よりも印象に残り、故郷を追われて以来記憶の奥底に沈んでいた。


 故郷を失ってからの激動の時代に押し潰されてきた古い記憶が、シャノンの中で徐々に表出してくる。


「もしかして、あの空が……」


 窓辺に駆け寄り、偽物の空を見上げシャノンは自らが秘める“権能の資格”を自覚する。


 そう、空だ。幼い頃、シャノンは現実の星空とは別の、もう一つの空を視ていた。ただ一つとして同じ輝きは無く、遠くありながら細い道で繋がっていた星々たちを。


 涼が暴いたネットワークの正体が、あの空なのだろう。


 十四年前のあの日、自分で自らの眼を潰しかけて以来、視えなくなってしまったあの空こそが“権能の資格”そのもの。


 しかして──


「──……視えないっ」


 苦悩にシャノンの顔が歪む。


 ずっと忘却していた事実が指し示す通り、シャノンは故郷を失ってからというもの一度としてあの空を見上げていないのだ。


 それは同時に、彼女に権能の魔眼を宿すのに相応しい座を失っている事に等しい。一族の悲劇から眼を背け、託された宿命からも背き続けた罰が今となってシャノンを縛りつける。


「鍵の在りかは思い出した?」

「ええ……ですが、今の私には──」


 無理だ、と口に仕掛けたシャノンの腕が不意に雀に引き寄せられる。窓際から強引に剥されたシャノンはあっと言う間もなく足払いを駆けられ、床に押し倒された。


 突然の事で反応が遅れたシャノンだが、涼に貸されたコートのボタンが全て外された辺りで我に帰る。


「な、何を考えているのですあな……」

「黙って。涼の呪詛は私達とは相性最悪なの。あると間違いなく失敗する」


 有無を言わさずシャノンは十秒と掛らずにコートを剥がれてしまった。涼のコート以外はシャノンが身に着けているのはボロ布と大差ない衣服とも呼べない服であり、殆ど半裸近い。


 突然の蛮行に目を丸くするヴラドへコートを投げつけ男の視線を断つと、雀は何を考えてか唯一原型を留めていた下着に手までを掛けた。


「いやっ……本当に何を考えているのです貴女は!?」

「うっさい暴れんな。感応性を高めるには肌と肌との接触面積を広げるのが一番効率的なのよ、術師なら常識でしょ」

「そ、それは勿論知っていますが……じゃなくて、何故そのような事が必要だと聞いているのです!?」

「アンタを『あの空』とやらに連れて行く為よ」


 ピタリとシャノンの抵抗の手が止まる。


「いま、なんと?」

「だから『あの空』ってのがブローチに封じられてる権能の魔眼を宿すのに必要なんでしょ? そしてその為の手段か道筋をアンタは失っている。違う?」

「そう……ですけれど」


 まだ殆ど何も伝えていないにも限らず、異様に呑み込みが早い雀にシャノンは戸惑いを隠せない。


 いや、それも理由の一つではあるが何より雀の雰囲気が先程とは一変している。


 常に揺るぎない確固たる信念が芯にある普段の彼女とは何処か異なる印象だ。何か自らに課したタブーに触れる自分への怒りを必死に抑え込んでいるように見える。

 今からしようとする事に、納得はしていても本心は良しとしていない。そんな感じだ。


「踊らされているようでムカつくけど、現状これが最適解なのよ。初めては勘弁してあげるから、大人しくマグロになってなさい」

「なに……をっ……!?」


 無遠慮に服の内をまさぐられ、シャノンの声が引き攣る。事前に断った通りに局部にこそ触れていないが、雀の指が胸や内腿を這い、今まで経験した事の無い感覚に脳が痺れる。


 一応シャノンとて暴れはしているが、拷問で体力が擦り減っている為に抵抗らしい抵抗も叶わない。せめてもの意地で漏れそうになる声を必死に抑えるも、我慢すればするほど身体の奥底から湧き出る疼きが形容し難い衝動に成り代わっていく。


 しかし、それも僅かな時間。


 不意に自身の輪郭があやふやになる。肉体から解脱し幽体となって、世界という水溶液に溶け込んでしまったような錯覚。


 勿論シャノンは幽体離脱などしておらず、その奇妙な感覚もほんのひと時の間だった。


「意外と早く繋がるもんね。一度涼の呪詛を受けたから無理かと思ったけど、杞憂だったか」


 納得顔を浮かべた雀はシャノンの右眼と胸に手を添えると、集中を高める様に瞑目する。


 魔弾を撃つ際に展開される魔術陣とはまた別の陣が展開され、青色を発す。力場が重力を減衰され二人の黒と金の髪が揺らめき、お互いを絡め合う。


 (ブルー)に染め上がる二人を中心に魔力の波紋が周囲に満ちていく。鐘の音にも似たそれは壁や床に阻まれる事無く、人の身さえ例外なく全てを透過していく。


「透けている──!?」


 コートを剥ぎ取り視界の自由を取り戻したヴラドが驚愕に眼を見開く。


 雀とシャノンを中心にして、周囲の景色が水晶体のように透けているのだ。波紋が脈打つ度に透過はその深度を増していき、空は蒼穹を覗かせ、地は海溝を詳らかにする。


 足元に見え始めた川の如く流れる力の奔流が“霊脈”だと気付いた時、ヴラドは雀の狙いを悟る。同時にまことしやかに噂されてきた神崎家の偉業が真実であったことに驚愕を覚え、それ以上に拭い難い畏怖を抱く。


「雀、貴女まさか。あの噂は本当だったのですか……!?」


 再び自己の輪郭が曖昧になりゆくシャノンは、雀が連れ出しつつあるその領域を知覚しつつあった。


 もはやシャノンは現実から乖離しつつある。


 透けて透けて、まだ透けて。


 巨大な半透明の鏡の球で形成された様な世界に引き込まれていく。


 そこは、ある意味では術師の到達点。


 無数の可能性世界を内包しながら何物でもない虚ろの海。或いは無限に連なる並行世界を繋ぐ門とも呼ばれる存在。常磐津が操る両儀の更に向う側の概念であり、あらゆる事象の根源。


 数世紀前からその存在は提唱されてきたが、実証は不可能とされてきた机上の空論。


 ある時、極東の地方都市でそこへ至る門が開かれたという噂が流れたのだ。


「……そうね。術師なら一度や二度は“これ”の存在を耳にした事はあるもんよね」


 いつの間にか、雀は上下逆さでシャノンの手を取っていた。声があらゆる方向から聞こえるようで、遥か彼方から届いている様な奇妙な錯覚。それに留まらず、雀が本当に頭上にいるのかさえ曖昧になってくる。横にいるのか下にいるのか、それとも眼の前にさえいる様に視えるし、誰もいない様にも視える。


 実在と非実在。相反し矛盾する概念がそこら中に散在しているとでもいうのか。おかしくなりそうだ。


「なっ、どうして。身体が縮んで……!?」


 いつの間にかシャノンは身長が三十センチ以上低くなり、声音も幼く高いものへと変じていた。まるで子供時代に逆戻りしたようで、袖を通す衣服も故郷の衣装へとすげ変わっている。ブローチと涼に施された義眼こそ無くなってはいないが、それ以上の物を──十九歳のシャノン・コーデリオンであるものが削ぎ落された。


 だからこそ、困惑に陥りながらシャノンは此処が何であるかを本能的に理解出来た。


 眼にしたのは鏡の天幕に映りこむ最も馴染み深い容姿の女性。


 母親によく似た金髪、宝石のようだとよく父親に褒められた碧眼。耳の形がやや尖りがちで、紫外線に弱いことが悩みの白磁の肌。


 涼と主従契約を結んでからは彼が使役する美麗な式神に女の矜持が些か刺激され、毎日の身支度で普段より長く対面した顔。──シャノン・コーデリオンに他ならない。


 天幕に映りこんだシャノンは鏡合わせのように更に無数の自分が連なっていた。ただ全員が全員同じ容姿という訳ではなく、奥に行くにつれ徐々に髪色や肌の色が異なっている。似通った容姿ほど存在を隣ほどに近くに知覚し、差異が大きく成ればなるほど感じ取りにくく思える。


 ──我々という存在は一つ一つは非常に矮小な透かし絵のような存在だ。しかし鏡合わせのように無限に連なる世界の自己を無数に投影することで、脆弱な魂に強度を与えている。


 神崎家が到達した“それ”を提唱した術師は、魂の構造にそう仮説を建てたらしい。


 それは正しかったのだろう。


 同時に噂や机上の空論でしかなかったあまねく事象の根源の示唆であり、シャノンいまその生き証人になろうとしている。


「全ての、始まり。あらゆる可能性を内包し、観測する次元空間……」

「そうよ。此処では過去も未来も権能でさえ事象の一つに過ぎない。アカシックレコードとかアーカシャ記録とも言うけど、私達は畏怖も込めてこう呼んでるわ」


 客人(シャノン)の困惑を他所に案内人(すずめ)は何処までも冷めた表情を浮かべ、特に誇るでもなく偉業の正体を詳らかにする。


「鏡合わせの並行世界を満たす事象の羊水──鏡海ってね」


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