間章 臨時開設五輪高校生徒会恋愛相談所②
「――俺に恋愛経験はない。所謂、童貞という奴だ」
「童…貞……!、?」
耳朶を打った宵波涼の信じ難い告白に、恋愛相談に生徒会室を尋ねた大迫博之は呆然と言葉を震わせる。
一歩間違えば放送禁止用語に分類されかねない際どいワード。
それを顔色一つ変える事無く言い放つ涼に対して、那月は驚愕と羞恥に赤面していた。
「一体何を言い出すんですか!」
「見栄を張っても仕方がないだろう」
「ちょっとは張って下さい!!」
堪らず那月はクレームを入れるが、涼は淡々とした表情のまま。
「というか先輩。本当に神崎とは何ともないんですか?」
「個人的に仲良くして貰っているが、それ以上は何も。何処から生じた誤解は知らないが、彼女の前では言うなよ」
きっと怒らせる、と涼は口元に指を立てる。
それに関しては那月も同意見ではある。神崎雀に色恋沙汰はNGワードに等しい。
安易に雀へ告白などしようものなら、こっぴどくふられた(物理)上に、周囲からは蛮勇だと曝しあげられる始末だ。
だが那月も含め周囲は『アイツならやるんじゃね?』と秘かに、しかし着実に涼の雀との進展に好奇心を募らせていた。
本人はそんな周囲の身勝手な期待を知ってか知らずが、あっさりブチ壊した。
なんてことだ。
明日から有澤那月は何を楽しみに神崎雀と相対すればいいのだ!
――いやそうじゃない。
那月は暴走しかけた思考に慌ててブレーキを掛ける。
けれどももう好奇心は許容限界だ。
気付けば那月は前のめりに涼へ迫っていた。
「本当に恋愛未経験なんですか? 東京に置いてきた可愛い幼馴染とか、将来を約束した後輩とかそういう人すらいないんですか!?」
「急にどうした?」
「いいから答えて下さいっ」
那月の剣幕に押され、涼は慎重に言葉を選ぶようにして応える。
「……まあ。幼馴染はいない事もないが、あれはどちらかといえば上司だし……」
「写真」
「は?」
「写真みせて下さい! ありますよね? 無いわけないですよね? 無かったら大声で泣きますよ、ひどいですよ」
「落ち着け、有澤。君そんなキャラだったか……?」
女の涙は大抵の男には覿面に効く。
涼もまた那月の勢いに押されるようにして慌ててスマホ内の写真を表示し、那月へ手渡す。
「うわ、美人! しかも外国人」
「へぇ~。お前も隅に置けねえな。それにどう見ても年下だぜ」
それを眼にした那月は思わず仰け反り、便乗して覗き込んだ智巳は意味深な視線を涼に向ける。
写真に写っていたのは涼と彼の長髪を結って遊ぶ少女との一幕。
ざっくばらんに切ったセミロングの藍鼠色の髪に、同性からも羨まれるであろう白磁の肌。しかしてそれらを引き立て役に下がらせる意志の強さを放つ銀色の瞳。精緻な刺繍とレースがふんだんに使われたブラウスと緋袴の和洋折衷甚だしい出で立ちは、しかして不思議と彼女に合っていた。
年の頃は十四、五程度だろうか。隠し切れないサドっ気が滲む笑みを浮かべながら、仏頂面の涼の髪を手に取っている。何となくだが涼が少女の言いなりになっていると、那月はそんな印象を受けた。
きっと毎日の様に繰り返された光景なのだろうと、そう伺わせる日常の一枚だ。
他にもないか、と那月がスマホを操作するより早く涼が取り上げてしまった。
「いい雰囲気じゃないですか。対人潔癖症の先輩が触れるのを許すなんて、よほど気ごころ知れた仲だって証拠です!」
「……よく見てるな。いや別に対人潔癖症を肯定するわけではないが」
「男同士でも指一本触れさせんよな。俺は最初人間嫌いかと思ってたよ」
涼は夏場であろうとも普段から手袋を着用し、外に出ればコートを羽織っている変わり者だ。肌が露出している部分など、首から上が精々だ。
更に那月が指摘したように誰が相手であろうと接触を避ける悪癖がある。
やんちゃ者で知られた男子生徒の一人がふざけて涼に肩を組んだ結果、無数の机と椅子の檻にガチガチに閉じ込められた話はあまりにも有名。
その様子を絵にした美術部員が新人賞を受賞したりもしたが、それはまた別の話。
こういった経緯もあり《宵波涼は対人潔癖症》という微妙に誤った噂は瞬く間に学内に広がり、一つの真実として固着化している。
那月にも思い当たる節は幾つかあったりする。バイト先の会計で小銭を渡す際や、糸くずを取ろうとした時でさえさり気なく接触を避けられた。
別段、昨今では珍しい話ではないので那月自身は気にもしていなかった。
だからこそ、先の写真は結構な衝撃だったりする。
「あんな親し気な様子で何にも無いなんて到底信じられません! とういうかイチャ付いている風にしか見えない。恋愛未経験なんて嘘っぱち!」
「そうだそうだー」
「対人潔癖症の宵波涼に女の影あり、拡散求む。繰り返す。宵波涼に女の影あり。送れ」
「了解。緊急コール。全生徒会員に通達。耳の穴かっぽじってよく聞け。とびっきりのネタが入った。文屋への連絡も忘れるな」
「やめろやめろ。流石に怒るぞ」
ほんの少し涼が本気で感情を覗かせたところで、那月と智巳は悪ふざけを切り上げた。
涼も本気で二人が言い触らすと思っていたわけではないので、溜息一つ付いてそれ以上は口にしない。
那月もここを引き際と見極める。
「でも先輩。握手ぐらいは許容しておくべきだと思いますよ? 対人潔癖症なんて如何にもなコミュニケーションの壁です」
「んん……」
一理あると納得したのか、涼は逡巡した後に片方の手袋を外すと手を那月へ差し出す。
「お近づきの記しですね」
那月は笑顔を浮かべ、その手を取る。
肯定の意は帰って来なかったが、那月は勝手にそう心に落とし込んだ。
涼の手は男性にしては細かったが、けれど那月の小さな手が半分以上隠れてしまう大きなものだった。
「君もするか?」
「いんや。俺は別の機会にしておこう」
いいもん見たからな、と智巳は執務机に戻っていく。
「……あれ?」
体温の余韻を噛み締めていた那月は、ふと何かを忘れていないかと自問自答する。
いや。考えるまでもない。
いつの間にかに主題が《涼の恋愛事情》にすり替わってしまったが、本題は別の所にある。
そう。此処には恋愛相談を持ち掛けてきた男子生徒・大迫博之がいる。
「ご、ゴメンね大迫君。勝手に盛り上がっちゃって……」
本来の主役は今や項垂れ、表情は髪に隠れて見えない。大きな背中は心なしか小さく見える。
先程から微動だにせず、那月の呼び掛けにも反応が無い。
「大迫君……?」
流石に心配になり、那月が顔を覗き込もうと屈んだ時、震えるような小さな声が聞こえた。
「……ぃ」
「え?」
声は小さすぎて殆ど聞き取れなかった。
しかし那月が聞き返すより先に、博之はわなわなと震えながら擦れるような声で呟く。
「宵波先輩が……宵波先輩ですら、童貞……?」
「あの、流石に恥ずかしいからそれ以上は言わないでく……――っ!?」
涼が不意に言葉を詰まらせる。
ゆるゆると面を上げた博之の人相が、ひどく様変わりしていたからだ。
「お、大迫君!?」
那月もまた、彼の表情に咄嗟に涼の背に隠れたほどだ。
博之はいまや能面の様な表情を浮かべていた。
いや、能面の方がまだ表情があるだろう。
眼球が迫り出して見えるほど眼が不自然に大きく見開かれ、光が消えた瞳は何かぐるぐると黒い線が渦巻いている。もはや生気が一切感じられず、カッサカサに乾いた唇が「宵波先輩」「童貞」と何かに憑りつかれた様に繰り返し呟いている。
狂気すら感じるその光景。
昼休み五分前終了を告げるチャイムが場違いに鳴り響く。
「お、おお、落ち着け大迫君。話せば分かる」
慌てて涼はそう呼び掛けるものの、一体何が話せば分かるのか、彼にも全く分からない。
やがて博之が緩慢な動作でゆらりと立ち上がる。
ビクリと涼の背に隠れた那月が身を固くする。
もはや一挙手一投足が恐ろしい。
「ふ、ふふ、ふふふふ」
不意に静かに笑い出した博之を、三人は固唾を飲んで見守る。
博之の感情の堰が外れようとしている、そんな予感が三人にはあったのだ。
そして――それは的中した。
「料理が出来て、神崎副会長と渡り合って、美少女の幼馴染までいる宵波先輩ですら、み、みみ、未経験? 彼女すらいない。そんな、そんなんだったら……俺なんて」
何かを致命的に明後日の方向に誤解釈し始めた博之。
やばい。
那月は危機感を募らせ、涼は取り返しの付かない過ちに今更気付く。
だが、全てが遅きに失した。
「俺なんかが、彼女なんて作れるかよオオオオオオォォォォォォォォォォォ」
静から一転。
滂沱の涙を尾に引きながら、博之は喚き散らして生徒会室を飛び出していった。
後に残された涼と那月はその場で立ち尽くし、本鈴の音が虚しく響いている。
「……なあ、百瀬」
「なんだ?」
「この場合、俺は経験済みって嘘を付けば良かったのか?」
「まあそうかも知れんが、お前の場合対人潔癖症があるからな。今回の場合は大怪我を致命傷にした有澤が戦犯か?」
「くぅ……言葉が痛い」
虚しい反省会で得られたものは何もない。
ただ那月たちの五時限目への遅刻だけは確実だった。




