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二章・二十一節 編纂魔術

【前節のあらすじ】

影を内包する涼を要石に照は編纂魔術の空間へモルトレ教の工房を引き摺り込んでいた。

照と別行動する涼と雀は工房を目指そうとするが、そこは氷点下二十度の雪が散る極寒の世界。

重傷を負う涼はそんな状況でありながら雀を気遣うが、雀は無理矢理涼の腕を取り、貸し与えられた傘の下に引き摺り込んだ。


 その戦闘は蹂躙に等しいパワーゲームだった。


 雪原の支配者たる雨取照に対し、七榊翡翠が如何に強力な樹影を操ろうと、それは児戯に等しい。

 何せ立ちはだかるのは世界そのもの。個人相手に脅威に成り得ようとも、世界そのものを相手取ろうなど滑稽だろう。


「ああああああああああああああッ」


 何度目とも知れない樹影の一斉射出が、押し寄せる雪像のヘラジカの群れを薙ぎ払う。


 ヘラジカは偶蹄類最大級の動物であり、巨人の手を思わせる巨大な角と1tに迫る巨躯を有する。

 自動車さえ軽々とひっくり返すヘラジカの突進を、しかして樹影は正面から撃破。魔力で編まれたヘラジカは雪になって霧散するも、樹影の数本が凍結している。


「パージッ……」


 凍り付いた樹影から魔力が逆流するより早く、樹影を切り離す。

 術者から離れた樹影は忽ち雪に覆われ、凍結していく。


 翡翠からすれば悪夢のような光景だ。十数人のアストレア構成員を一方的に嬲った術式がまるで歯が立たない。


 補助役のシスター・オノデラは極寒から身を守る術を持たず、偶蹄類らの突進を前に簡単に蹴散らされた。叡治が遺した調律の魔導書はその際に咀嚼されてしまった。


 何十頭と屠ってきたヘラジカも、翡翠を嘲笑うように雪中から無限に湧き出る始末。


 この世界で人以外の唯一色を持った生物は、暢気に体毛の雪を振り落としながら主の命令を待っている。


 その内の一頭に腰掛けるはドレスから着替えた照。

 学院の制服にモッズコートにニットのダーバンという取り合わせ。


 コートは涼から買い取った特別性。周囲から取り込んだ霊気で着用者に快適な温度を自動でお届けする冷暖房機能搭載。防弾、防刃、防火性能保証済。御値段¥59800円。当然値切った。


 元々涼が義弟にと調整した代物だったもので、採寸は当然照に合わず。余った袖は留め金で捲っているが、丈はどうしようもなく。ハーフコートが彼女の背丈ではロングに見える。


 しかしどうだろう。

 極寒の世界で泰然とある彼女の出で立ちは、嫌が応にも魔女を彷彿とさせ、地上を睥睨するその眼はまさしく支配者のそれだろう。


 まるで命の価値を推量れられているよう。


 ――あの眼だ。


 あれは祖父が翡翠に、双子の響に向けていた眼。

 外では天才と持て囃されそうとも、家では凡百の才でしかなかった翡翠らに降り注いだ、あの眼だ。


「……な」

「?」


 耐えられない。耐えられない。

 才能の優劣一つで敷かれたレールで一生を終えるなど、耐えられる筈がない。


「その眼で、私/僕を見るなあああああああああああ!!」


 翡翠の咆哮に重なる別の声。

 常軌を逸した劣等感は万感の怒りとなり、内臓が蕩けるような灼熱を退ける。


 膨れ上がる樹影。

 内包する魔力量が跳ね上がり、その規模を増していく。

 名高き術師たる照にしても、あまり対峙した経験の無い魔力量と圧。


(……心音……?)


 静に満ちた此処では、それは存外大きく響いていた。

 耳に掛かる髪を掻き明け、音の出どころを探り、直ぐに捉える。


 疑いもなく心音は禍々しい圧を放つ黒い劫火の如き樹影からのもの。


 信じ難い事に翡翠から伸びる一際大きな樹影の一つに、ドクン、ドクン、と蠕動する臓器のようなものが視える。更に薄っすら浮かぶ樹状の赤は血管か。


 羽化の時が――小野寺叡治の転生が近いのか。


「アアアアアアアアアアア――――――!」


 狂える少女が雄叫びに応え、数十の樹影が空気を引き裂き射出される。


 亜音速に迫る影は軌道上の雪を魔力の余波のみで蹴散らす。瞬きの間に照へ殺到する樹影は、直後に届く魔力を帯びた一際大きな蠕動に歓喜する。


 僅かに身を捩らせるような挙動を見せた樹影が、無数の針となって爆裂した。


 銃弾の速度で飛来する数千の黒針は、もはや質量爆弾だ。

 仮に止めたとしても後続の第二波、第三波が鉄槌のごとく打ち寄せる。


 白銀の世界に反逆の轍を刻む黒き魔針群。


「コレなら――」


 勝利すら確信し翡翠に壮絶な笑みが零れる。


 対照的に照はその場から一歩も動かず、雪原に相応しくない色に眉を顰める。まるで落書きでも見たかのような反応。


 慌てるでもなく、身構えるでもなく。

 照は視界という窓の汚れを拭き取る様に、影に向けてただ腕を一薙ぎする。


 それだけで何の前触れもなく、一片残らず黒は消え失せた。最初から無かったかのように、あっさりと。


「なっ……」


 あまりにも現実味に欠けた光景。


 辛うじて影の魔力残滓が微かに漂うのみ。もし第三者にいまの光景を説明しようにも、証明するには証拠に乏しい。

 術式の行使と消滅。矛盾にも似た感覚に苛まれる翡翠に何度目とも知れない疑問が零れる。


 どうして、と。


「時間の無駄ね」


 ヘラジカの背から腰を上げた照が空中に一歩踏み出す。

 カッ、と空に硬い音を響かせ照が歩き出す。街中を歩くように、ただ当然の如く。


 人形めいた容姿の魔術師の歩みに迷いはなく――自分が脚を降ろした場所こそが道。そう言わんばかりの光景だ。


 彼女自身が雨取照という魔術師の在り方を疑うことの無い、確固たる意志を滲ませる立ち振る舞い。コートの雪を払う何気ない動作でさえ、凡百の術師は心を掻き乱される。


 ただ彼女が上に立つだけで、言い知れぬ不安に支配されるようだった。


 半歩、無意識のうちに翡翠の脚が後ろに下がる。


 気圧された自分に気付き、焦燥に駆られた翡翠は術式に魔力をくべる。

 駆動する烙蛹魔術を通して、翡翠の頭の中に声が聞こえ始める。


『妬ましい、恨めしい』

『なぜお前はお前に疑問を持たず、そうも堂々と立っていられるのだ』

『比肩する者の無い才能がそうさせるのか。神が如き魔術が傲慢を正当化するのか』

『僕も魔術師になれば、大家の血と名を得ればそう在れるのか』

『それともお前を殺せば、僕の方が優れた才能を持っているって、証明出来るのか』


 頭の声を翡翠はいつの間にか自分に投影し、雪崩れ込む感情のまま照へ叩き付けていた。

 産声にも似た胎動を打つ影に人形が形成され始め、孔だけ空いた口腔から怨嗟が這い出る。


『僕も魔術師になれば、大家の血と名を得ればそう在れるのか』

『それともお前を殺せば、僕の方が優れた才能を持っているって、証明出来るのか』


 過程はどうあれ結果の追求を至上命題に掲げる術師は、存外珍しくはない。

 しかして叡治の行動原理に理性の介在の余地はなく。矢継ぎ早に誇示する支離滅裂な理論は、涼が呆れ果てるのも無理はない。


「叡治……」


 辛うて意識はあったのか、シスター・オノデラが雪の中でもがいている。這ってでも息子の元へ寄り添おうという狂信的な母性には感服しよう。

 だがその息子もまた眼を狂気で濁らせ、献身的な母の愛に背を向けたまま。


『僕はあの人に認められたんだ。信仰を授かった、知恵を与えられた。血族に恵まれただけの小娘とは命の価値が違う。翡翠ッ』


 激が飛び、翡翠が取り出したのはチョコ菓子によく似た魔薬。一ダース分はあるそれらを、翡翠は躊躇なく喰らい付く。


 一つ接種するだけで一時的な強化を得る代償に、経絡系に甚大な負担が掛かるはず。

 それをあの量だ。

 もはや涼の手を持ってしても翡翠は助かるまい。


『「あははは、ハハハハハハハハハ!!」』


 真っ当ではない、絶大な魔力が迸る。


 蛹という変貌の入れ物になった少女の中身は、もう別物に成り代わろうとしている。

 母胎を切り崩し、へその緒の様に繋がる影に注がれる養分が、新たな生命を育む。


 形成された上半身が影から垂れ下がる。雌雄の判別が付きにくいマネキンの様な体躯だが、埋もれた四肢と下半身も急速に形成されつつある。


「ああ、遂に。叶う。あの子の夢が……」


 生命の理を超越した生誕は近い。

 眼も耳も鼻も無いのっぺらぼうの叡治は、しかして照を真っ直ぐに捉えていた。


『殺せ翡翠。奴の肉体を取り込んで、僕らの礎にしろ』

「――OGAAAAAAAAA!!」


 半ば抜け殻になりつつある翡翠から噴出する漆黒の炎。

 高濃度に圧縮された魔力の熱量が冷気を押し流し、周囲一帯の雪化粧が蒸発する。いまや舞踏会での十倍に匹敵する総魔力量を誇っていた。仮にこの場に誠明が居合わせていたとしても、受け流す事すら困難であろう。


 魔術空間である雪原に微震が奔る。


 肉体限界超過した翡翠の身体は経絡溶融(メルトダウン)直前。

 皮膚が溶け落ちる顔を引き裂いた翡翠の壮絶な笑みが、引き金だった。


 影が急速に萎んだかと思った次の瞬間、空間を震撼させる大砲撃が放たれる。

 爆轟によって生み出された雪崩がシスターを飲み込み、取り巻きのヘラジカの巨躯さえ押し流す。


 神崎雀のお株を奪う魔弾。

 速度、威力、範囲共に本家の比ではない。


『死ねえええええええええええええええええええええ』


 たった今形成された目玉に飛び込む光景に、叡治の胸中が喜色に染まる。


 終わりだ。

 これほどの力を前には、魔術師とて屈服する。


 霊能力者では絶対に成し得ない圧倒的な力。

 さあ。死に様を曝せ。小野寺叡治の生誕を飾る贄となれ。


 過剰な魔薬が体感時間を延ばす視界で、叡治は、そして翡翠は見た。



「無駄」

 照の腕の一薙ぎでガラス細工のようにあっけなく散る、渾身の一撃を。

 魔針群の再演だ。まるで最初から無かったかのように、前触れもなく魔弾は消滅した。


 確かに速度も、威力も、範囲も、本家の比ではない。


 そう。神崎雀の魔弾にはこの程度(・・・・)、比較の対象にすらならない。


 以前この空間に引き摺り込まれた雀は馬鹿げた威力の魔弾で空間に罅を入れ続けた、正真正銘の火力馬鹿だ。

 雪化粧を剥した程度で悦に浸るようでは論外。


 それ以前に、翡翠らは魔術戦の何たるかをまるで理解していない。雀の様な火力お化けは例外としても、仮にもこれから魔術師の卵に成ろうとしている輩が心得を最低限すら弁えないようでは道化と何が異なろうか。


『きさ――』


 口汚い言葉を待つ意義はなく、中空の照がカツンッと踵を鳴らすと、術式ごと叡治が氷漬けになる。文字通り、生まれ堕ちる影と繋がったまま氷の彫像と化す。


 憎悪に歪み半端に肉体が出来上がったその姿は悪魔的だ。フランシス・ベーコンならそれなりの画を仕立てるだろうか。


「ああ!」


 悲痛の叫びを上げる翡翠もまた凍り付いていく。

 中身そのものが術式となっているいま、完全に凍結してしまえば即死故にほんの少し手心を加えて生かす。


 温情ではない。

 ただ彼らが分不相応にも雨取照に対等以上を自称し、投げつけてきた泥を返すだけだ。


「あまり良い印象は無かったけど、此処まで盲目的だと救いようがないわね」


 自身の術式に絶対の信頼を寄せる事は可笑しな話ではない。

 何事にも共通することだが、自身の技術に信が置けずに集中を欠けば、諸刃の剣となって身を傷つける。才能に胡坐をかいたツケだろうが、強力な武器を手に強くなったと錯覚しようが同じこと。


 だがそれとは別に、第三者に手札を曝した場合は問われるのは危機管理能力と対処能力。いま自分が身を置く状況を正確に認識する教養だ。


 つまるところ、翡翠らにはそれらがまるでなっちゃいない。


「烙蛹魔術は切り札(ジョーカー)足り得たけれど、紫涅さんがこっちに渡った時点で、タネは大体割れているのだけれど。どうして無邪気に其れに頼れたのかしら?」


 純粋に理解に苦しむと、照は小首を傾げる。


 ごく当たり前の指摘に、この日初めて翡翠は狼狽を露わにした。


「私が貴女達の術式に干渉出来た理由もそう。全容の解明はまだだけれど、基盤となる術理さえ理解していれば対処は簡単。燃焼の化学式を知らなくても、蝋燭の火を消せるように」


 火には水。魔法には現実を。眠り姫には王子のキスを。


「さっきの影を消去したのも原理は同じ。齎す結果に処理速度が追いつけば此処では過程に意味はないの。此処で“現象”になるのは未知だけ」

「そん、な……」


 氷雪の幻想に閉ざされたこの地において、小野寺叡治の転生は成し得ない。

 下された審判に拒絶を示す翡翠の背後で、氷像が静かに崩れ落ちる。


 翡翠の足元に転がった叡治の破片が、音もなく無数の氷粒となって散る。

 皮肉なことにそれは影に侵食された術者の最後に酷似していた。


「身体が、いやぁッ……」


 転生先を失った翡翠もまた崩壊が始まる。

 元々羽化と魔弾の反動でボロボロだった彼女の崩壊はことさら早い。


「因果応報ね。幸白君との縁談は貴女にとってもそう悪くない選択肢になったでしょうに」


 似たような経験があるのか、地上に降り立つ照の小言は存外に含蓄に富んだ響だった。


 しかし、この結果はある意味自滅に近い。


 翡翠と同じく烙蛹魔術をその身に刻む紫涅が照たちに渡る以前の初動。裏切者の始末をしくじった時点で天秤は大きく傾いていた。


 シスター・オノデラは涼に紫涅と魔薬の癒着を知らせることで、彼に自分達の失態の尻拭いをさせようよした様だが、詰めが甘い。

 結果だけ見れば涼の温情で紫涅は救われた様な形だが、彼の捜査に対する姿勢は徹頭徹尾変わる事は無かった。


 アストレアには遺体解剖の専門部署も存在している上、涼自身も人体への造詣の深さは折り紙付き。治療で負傷しなければ、彼は既にモルトレ教ごと翡翠らを潰しているだろう。


 外部と隔離された王陵女学院の性質と資産家のコネクションを最大限利用し、照の監視体制の偽装に舵を切っておけば、少なくとも転生までの時間稼ぎの方法は幾らでもあったはず。


「彼さえ騙し通せば、どうにかなったかも知れないわね」


 最初の躓きは其処だろう。

 猛省すべきことに照も雀も、昨年から燻っていた火種に殆ど気付いていなかったのだから。


「また、またか……」

「?」


 風前の灯火であった翡翠が激しい憤りを露わにしたのはその時だった。


「……二度ならず、三度までも。お前は私達を貶めるのかッ」


 どれだけ叡治を貶されようとも見せることの無かった剥き出しの感情だった。

 半身が崩れ去り雪に沈んでも、翡翠は恩讐に猛る。


 今までと異なり彼女の劣等感に由来する憎悪ではない。

 純粋に、宵波涼への殺意だった。


「許さない。断じて許さない。禍殃の悪魔め。お前さえ、お前さえいなければ、御父様は……七榊は安泰だったのに。どうして御父様が死ぬ、響が死ぬ、私がいま死のうとしているんだッ!」


 あれほど生家を憎んでいたにも関わらず、なぜその矛先が涼へ向かうのか。


 二度ならず三度までも? 御父様? 彼と七榊の安泰にどう関わりがあるのだ。


 涼が七榊の因縁を臭わせたことは七榊響との戦いでも無かった。


「置き土産に教えてやる魔術師。精々貴女も呪われないよう気を付けるんだな。奴は、宵波涼は……」


 砂礫のように崩れ去ろうとする彼女が何を語ろうとするのか。

 疑問は残る。興味がないと言われれば嘘になる。しかして──


「必要ないわ」


 理性的に照は好奇心を排除して翡翠が遺そうとする呪詛に拒絶を突き付ける。


 構わず喋ろうとする翡翠だったが、パクパクと口が動くだけで声が出ない。

 消去したのだ、この世界から翡翠の声を。


 訊いてはならない予感がした。踏み込んではいけない境界線が見えた。何より翡翠の呪詛は祓う事の出来ない禍根を植え付けられる予感があった。


 だがそれらは盲目的な拒絶ではなく、客観的な観点から導いたただの論理的帰結というやつだ。人様の事情を無遠慮に探るのははしたないというものだ。

 聞くなら本人に直接問いただせばいい。


「私達は馴れ合いではないしお互い隠し事も多いけれど――信用はしているつもり」


 忌憚のない正直な想いがそこにはあった。


 はじまりは監視官と査察対象の極めて事務的な関係性。


 利害関係の一致で成立し得た間柄だったが、お互い必要以上の不干渉を暗黙の了解とした裏で、腹の探り合いなど日常茶飯事。


 一般常識に()らし合わせれば信頼関係など芽生えるはずもなく、ましてや霊地の統括組織を謳う組織の監視官など、利害の一致を踏まえても数多の術師からしてみれば邪魔者でしかない。


 どのような魔術師と言えども組織の後ろ盾無くしては、政治と金であっと言う間に研究も資産を食い潰されてしまう。


 編纂魔術という固有魔術の保有した小娘など格好の的だ。


 書類審査と少なくない納付金、そして定められた監視期間をクリアすれば晴れて組織の後ろ盾を得られる。目障りな監視官との関係もそれまで。


 照は担当監視官に付いた涼を唯の外交窓口程度にしか認識していなかった。思えば半年以上事務的な会話しかしなかっただろう。それもほぼ一方的に。


 最初は他人ですらなかった。終わりが来ればあっさり別れるだろう関係だった。

 一年の監視期間が反故にされ新しい監視官が着任しようとも、彼との繋がりを維持したのは、きっと居心地が良かったからだろう。


「実を言うと貴女達の言う“不安”は理解できる部分もあるの」


 予想だにしなかった告解に翡翠の眼が見開かれる。


 ある日突然。ガシャリとレールが切り替わって、気付けば照は終わりが約束された道に迷い込んでしまったのだ。


 後戻りは出来ず刻一刻と迫る雨取照にラベルされた終焉の足音に怯えながら、理不尽に放り込まれた鏡の国からの帰り道が分からないでいる。


 イギリスから日本に渡り、雀に侵略まがいの殺し合いを仕掛けてまで五輪に居を構えたのも、全ては運命に抗う為。効率を求め余分を削ぎ落とし、研究室に籠り夜の街へ繰り出す毎日。


 本来であれば雀との協定内容の開示要求をする義務が涼にはあった。


 最低限の外交姿勢の顕示の為に用意した表向きの協定内容と経緯で涼には通そうとしたが、それは無駄だった。何しろ彼は着任当初から聞こうともしなかったのだから。


『憲法、民法、刑法に抵触していないと判断している間は、現場権限で開示の要求は原則として行わない。規定内での観察経過から判断するので、悪しからず』


 暗に「触れたくない事もあるだろうから、眼につく範囲では上手に立ち回りなさい」という境界線の明示。


 監視官として涼が照らを観察してきた様に、照たちも涼という人間を見てきた。

 境界線を踏み越えてきたのは、たったの一度だけ。


 目的を焦るあまり照が手段と結果を間違えて、道を外しかけた時。


 鮮烈に憶えている。頬に散った鋭い熱。


『君がここにいる奇跡を呪うには“死”はあまりも曖昧で、世界に満ち溢れている』


 紅い華々に群がられ、照が初めて感じる死はそう言ったのだ。


 生涯忘れる事は無いだろう。

 鏡の国に迷い込んだ少女よりも、ずっと深い彼岸の森から現れた青年の慰めを。


 呪われないよう気を付けろ?

 それは聞けない話だ。


「――私はもうとうの昔に信用し(のろわれ)ているのよ」


 口元を綻ばせる少女は、彼には内緒で身体に隠し持っていた彼岸花を消えゆく翡翠に手向ける。


 塵となる寸前の翡翠に根を下ろした華は養分を吸い尽くし、半端な人形に群生した。


 消滅際に小さな口が一言、兄さん、と消えた声で呟いた気がした。


 再び、静に落ちた世界。

 戦闘痕は瞬く間に雪に覆われ、此処に散った命の痕跡さえ残さない。

 いずれ照自身も没する、無慈悲で何もない墓標だ。


 唐突にそれまで沈黙を守ってきた無線機がガーガーと喚き出した。翡翠たちが完全消滅したことで、阻害されていた電波が届いたのだろう。


「――あー、あー聞こえる、照。応答願う。メーデー、メーデー。無線ってこう言えばいいのかしら? こちら神崎雀、応答願う」

「何? こっちは済んだけど。そっちは滞りなく工房(アトリエ)に辿り着けたかしら?」

「証拠品の回収に祭壇の術式消去、諸々全部片付けた。もう用は無い。それより涼の容態が悪化して倒れた。もう呼び掛けにも応じなくて、正直不味い容態。急いでここから出して」

「……どうせ貴女が防寒術式を怠ったから、最後のダメ押しになったんでしょう?」

「う、うっさい。マイナス二十度の世界をホイホイ歩ける術式なんて簡単に構築出来ないわよ! それよりとっとと舞台解除しろ」

「もうやってる。現実回帰まであと百二十秒。外に国枝博士を待機させているから、治療は彼に任せましょう」


 下手に動かさない様に念を押してから、襟元に仕込んである無線を切る。


 急速に元の景色を取り戻していく世界。


 唯一極寒のこの世界において尚、白を寄せ付けなかった彼岸花だけが墓標のように咲き誇るのは、何とも皮肉なことか。


 奇しくも花言葉の一つは、転生。


 丁寧に手折った花をコートの内に仕舞い込んだ照は、後は一瞥すらくれる事無く国枝に連絡を入れつつ、踏み締める地面が雪原から板張りの床に変わる中を工房(アトリエ)へ向けて駆けていく。


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