二章・十八節 生まれ持った求道の資格
【前節のあらすじ】
紫涅和泉の治療を無事に終えた涼、照、国枝の三人は彼女から得られた情報を元に、影の術式の正体を探っていた。
類稀なる高度な術式を前に考察が行き詰まるも、紫涅が遺した手掛りによって魔薬と大物政治家らを初めとする人物らとの癒着、主犯と思われるシスター・オノデラの息子である小野寺叡治の存在が明らかとなる。
無音の黒風が舞踏会場に吹き荒れる。
その風は濃密な魔力の波動を撒き散らし、軌道上にある生命は一切の存在を許容されない。
血痕一滴に至るまでのその存在を抹消され、貪欲に、無慈悲に、ただ喰らうのみ。
数人分の黒風──魔力で編まれた影を従えるはドレス姿のうら若い少女。
日本に七榊在りと謳われる霊能力者の大家・七榊家が五子、七榊翡翠。
かつて双子の兄と共に神崎雀、雨取照の前に現れ、彼女たちを敗北寸前にまで追い込んだ術師の一人。
ただ同じように雀らと共に翡翠と対峙した青年、宵波涼の咆哮は驚異的な術理を秘める翡翠を通り越し、その後ろに控える老女に降りかかっていた。
「堕ちたな、シスター・オノデラ! アストレアを離れて耄碌したか」
失望と、それを遥かに上回る涼の激しい怒り。
確信に満ちた叱責を受けてシスター・オノデラは静かに眼を伏せると、正面から涼の視線を受け止める。
規律と戒律を体現したその佇まいはアストレアでの講師時代と何ら変わらず、涼の記憶にあるシスター・オノデラそのもの。
つまり彼女の根幹は不変であり、この場に立つ彼女自身の明確な意思を突き付けていた。
「最初から気付くべきだった。紫涅の失踪を知らせる電話で、貴女は俺に魔薬の存在を知らせた。アストレアに所属していたとはいえ、一般人の貴女が知るはずの無い情報を何故知っていたのか。あの薬は外見だけならただのチョコ菓子だった」
ヒントは最初からあった。監視官の失踪というミスリードに簡単に引っ掛かり、涼は随分と引っ掻き回された。
行方を眩ませた紫涅の捜索網を広げるために涼を利用したようだが、なるほど。シスター・オノデラに問われれば、涼はある程度の事は打ち明けていたかもしれない。
職務を放棄した誠明の懇願でそれは回避されたが、あまり誇れる成果ではないだろう。
「何故何も言わないのです。釈明も、弁明もありませんか」
「必要ですか? 貴方も霊能力者なのだから、おおよその動機は掴んでいることでしょう。それとも三等監視官の貴方には分かりませんか?」
粛々と、そして突き放すようにシスター・オノデラは涼の推測を肯定していく。糾弾めいたその言葉が刃のように涼に突きつけられる。
荒れ狂う影の切先が涼の頬を掠める。
肉が抉られ、毒に侵されたように傷口が崩れていく。頬を滴る血は顎に達するより先に霧散していく。
放って置けば崩壊は顔全体へ進むだろうに、しかして涼は意に介した様子もなく煙草に火を着ける。
確かに涼には動機の心当たりがある。だが本音としては否定して欲しかった。
彼女の指導は一挙手一投足、一言一句にまで激が飛ぶ厳しいものであったが、爪先程の妥協さえ許さないその姿勢に敬意を払っていたのだ。
そんな彼女が、こんな動機で人の道を踏み外すなど認めたくはなかった。
クソ不味い煙草がいつにもまして酷い味に感じる。
舌に残る躊躇いを煙草の香りで断ち切る様に、涼は確信へ触れる。
「亡くなった息子さんは魔術の稀覯本の蒐集に熱心だったそうですね。直接の関わりがない俺にまで噂が届くほどまでに。霊能力者でありながら」
「なっ……」
紫煙と共に涼の舌鋒が突きつけられる。
動揺を見せたのは小野寺叡治と同じ攻城官であった誠明であった。
否定しないシスター・オノデラに呼び掛けようと口を開くが、一言も発する事無く沈鬱な面持ちで髪を掻き乱す。
この場に集う人間はシスター・オノデラを除けば全員が術師。霊能力者が魔術の研究を行うことの無知など語るべくもない。
「霊能力者は魔術師に成り得ない。性別と同じくしてこれは霊力か魔力、どちらを持って生まれたかで決定される。叡治さんはこの大原則を承知していなかったと?」
「そうですね。私でさえ知っている知識です。ですが、今ここにその大原則は否定されました」
モルトレ教の十字架を握りしめ、愛おし気な眼差しを翡翠の影に送るや、シスター・オノデラは祈る様に語り出す。
「叡治は、息子は父方の血を濃く引いた子でした。私が嫁いだ小野寺家は小さいながら代々神職に付く占星術師の家系です。もっとも夫は家督を継がず、家と袂を分かち術式の研究に勤しむ研究者でしたが。夫は無理が崇り早世でしたが、幼い頃から叡治の性格は夫によく似ていました」
研究に打ち込む夫と息子を支える妻。
そんな情景が思い浮ぶような穏やかな口調も、一転して固くなる。
「ですが息子の研究意欲もアストレアへ務める頃には眼に見えて減衰していました」
「ええ、でしょうね。研鑽は出来ても研究に乗り出るには霊術はあまりにも発展性が乏しい」
当然の帰結だ。そう言わんばかりに冷淡に言い放つ涼。
古今東西、霊能力者と魔術師に絶対的な埋めがたい差が二つ存在してきた。
一つは霊力と魔力の純然たるエネルギー密度。
個人差にもよるが魔力は霊力と比較してそのエネルギー密度が凡そ十倍近い差がある。
もし仮に同量の力で術式を打ち合ったとしても、霊能力者に軍配が上がる事はまずない。
例外的に誠明の迦楼羅炎のように特殊な恩恵を授かった血筋でもない限り、純粋な術力では霊能力者は魔術師に遠く及ばない。
そして二つ目の要因が、霊能力者と魔術師の格差を絶対的なものとし、烙蛹魔術を生み出した原因。
「現代においてあらゆる霊術は行き止まりの技術。革新的な技術発展はここ百年で一度として起きていない。末広がりの魔術とは根本的に在り方が違う」
栄枯盛衰。
小野寺親子の研究意欲は霊術の研究が最盛期を迎えていた二百、いや三百年前であれば普遍的なものだっただろう。哀しきかな、現代ではその多くが夢想、空想と断じられる。
霊力と魔力の隔たり、その二つ目が属性の有無だ。
地域や流派によって解釈は多少異なるも、魔力は基礎となる火・水・風・地の四大属性に区分され、更に無数に枝分かれしていく。
数世代に渡って確認された属性は正式に確立・記録されており、アストレアが把握しているだけでも二百近く存在している。
これはそのまま魔術の発展の可能性そのものを表し、同時に属性を持たない霊力との致命的な隔たりであった。
翡翠の【傾倒】のように霊力にも例外もあるにはあるが、長い歴史の中でもほんの一握りだ。
霊術も陰陽五行の術理に基づけば木・火・土・金・水と属性を扱う事は可能だが、この世に循環する霊気を意図的に偏らせたに過ぎない。
長い歴史の中で人類は霊術を開拓し尽くしていた。
涼のように精巧な式神が造られようとそれは技術の精度向上に過ぎず、誠明の恩恵は稀有であっても既存の技術。
「精神論ではなく。霊力という性質そのものが示す発展の果て。我々が生きる時代はそういうものです」
雀でも、照でもなく。他ならない霊能力者である涼がそう断じる。
霊能力者の誰もが受ける洗礼。
未知は解体され、かつての栄華へは果てた。まだ見ぬ叡智に手を伸ばす資格すら持ちえない、置き去りの術師。それが霊能力者だ。
研究者にとってそれは死に等しい残酷な通告だ。
叡治がこの事実に絶望し研究意欲を失ったとしても、無理はない。
「息子さんは袋小路の霊能力者から脱却しようと魔術の研究を始めた。その為の組織がモルトレ教であり、王陵はその為の隠れ蓑。娯楽に飢えた金持ちどもを薬で抱え込めば、資金繰りもやりやすい。貴女はその為の工作員でしょう、シスター・オノデラ」
「ええ、そうです。王陵に工房を構えることは私が息子に提案致しました。ですがその口振りでは客観的な証拠を掴んでいないようですね」
「いいえ。俺とチームを組む諜報官がモルトレ教と癒着している売人の一人と現物を既に押さえている。貴女が偽名で作った口座も既に凍結済だ」
「流石に手が早い。義理とはいえあの直嗣さんの息子なだけはあります」
狼狽えるでも誤魔化すわけでもなく、シスター・オノデラは淡々と受け答える。
余裕から来る冷静さではなく、ただ何時かこうなるだろうと覚悟していた者の在り方だ。
下手な揺さぶりや駆け引きは意味を成さないと判断した涼は、影を指差し単刀直入に切り出す。
「一体何人を犠牲にした。一人や二人を実験体にしたところで、霊能力者が此処までの術理を構築出来るわけがない。あんたは息子に何人献上した」
先程影を破裂させた生徒は十人は下らない。失敗作である彼女たちを流用しているのなら、それ以前にも犠牲者はいたはずだ。王陵の生徒では足が付く。共犯者が身寄りのない孤児たちをシスター・オノデラに卸していた筈だ。その証拠も既に押さえている。
「七榊さん達を含めてこれくらいです」
老女が皺のよった指で犠牲者の人数を立てて見せる。
その数を眼にし、誰もが我が目を疑う。
「なんてこと……」
愕然とした雀がそう零す。
予想上回る犠牲者の数を耳にし、涼は思わず脇の銃を意識した。もしこの義手が満足に動いていれば、シスターの手足を撃ち抜いていたかも知れない。
シスターは正気だ。確固たる意識の元でこの犯罪に加担し、涼と対峙している。
それでも問わずにはいられなかった。
「嬉しかったですか。研究に打ち込む息子さんを眼にして?」
「ええ、そうですね。烙蛹魔術の構想に着手してからのあの子は見違えるように生き生きとしていた。研究という生き甲斐を取り戻す前の息子は死人も当然でした。
研究に光明が見え、あの子自身が転生に備え術式の核となる子種になってからは、幸いにも魔力を宿していた私が全てを引き継ぎました」
いまの証言には引っかかるものがある。
紫涅が残した資料の中にミイラの写真があった。証言から照らし合わせるに小野寺叡治で間違いないだろう。
そして“転生”というキーワード。
涼と共に烙蛹魔術の解析に携わった照は涼とほぼ同時に理解に至り、吐き気を堪えるように口元を押さえる。
ずっと疑問だった。
少女という蛹は一体何へ羽化するのか。
「――紫涅たちの中で育っているのは、魔術師としての小野寺叡治か」
泥の胎児は間違いなく魔力を宿している。母胎と細胞レベルで入れ替わったのならば、それは最早霊能力者ではない。
国枝が変幻魔術に準えた様に、霊能力者は魔術師へと羽化するだろう。
それが烙蛹魔術。小野寺叡治が目指した未知への躍進なのか。
「いいえ、違いますわ宵波監視官。私と叡治さんの意識が溶け合った子供に成るのです」
涼の問い掛けに答えたのは翡翠だ。
叡治の転生そのものは、否定しない。
「そんなこと出来るの……っ!?」
「拒絶反応さえ無ければ、血縁関係にある胎児との肉体適合率は高いはず。母胎に転生元の記憶を入力しておけば、胎児の脳の形成段階でバックアップも、ハードルは高いけど可能。理論だけなら多分間違っていない」
その身を別物へ入れ替え、人格を他者と交える。
雀は怖気立つ様な不快感に半歩後退り、照は推論を披露し無自覚に追い打ちを掛ける。
俄かには信じ難い話ではあるが、泥の胎児に摘出した涼には不可能と断じる要素を持ち合わせなかった。影の驚異的な侵食能力が肉体の再構成に由来するのであれば、頷ける部分もある。
魔術師への転生。
夢物語の様な翡翠らの言葉は、涼の体内でいまも息づく影が齎す痛みが確かな証左となって突き付けて来る。
「なんて、ことだ……」
顔を覆う涼の言葉が擦れて消える。
背を丸め、小刻みに震える肩。
未だかつてこれほど奇跡に近い術式に立ち会った人間は、過去を振り返ってもいないだろう。
「ご理解頂けましたか、宵波監視官。息子の偉業を」
「……ええ、全く。確かに偉業でしょう。死さえ克服しかねない術式は人類史の秘宝となり、小野寺叡治の名は永遠に語り継がれる」
突然称賛を口にする涼に、雀たちに少なくない狼狽が奔る。直接術式に触れていた分、おかしくなってしまったのかと疑うほどに。
「大変懸命な判断です」
過ちを犯した罪人の告発を赦す様に、シスター・オノデラは穏やかに涼の言葉を受け止める。
「ご理解頂けたのならば、宵波監視官。貴方は私達の――」
「シスター」
パキッ、と煙草が折られる。
顔から退けられた手に隠れていた双眸には、焼け付いた様な侮蔑の色。
「なるほど、それが確かならまさしく転生だ。実に実に──実にくだらない妄執だ」
押し殺してきた憤懣を吐き出すように、涼は叡治が求めた全てを土足で踏みにじった。
誰もが未だかつて成し得なかった大魔術を前に、現実の直視が出来ずにいる中、彼だけが酷く落胆したかのように不味そうに二本目の煙草に火を着ける。
一体どんな化物が生まれるのか、ずっと張り詰めていた自分が馬鹿々々しくなるほどに、叡治が求めた魔術師像は致命的にズレている。
監視官として少なくない魔術師を傍で見てきた涼には分かる。術師として研究に携わるすべての者へ常に敬意を抱くべきモノがある。そこには霊能力者も魔術師も関係ない。
「シスター。アンタの息子は魔術師になって何処を目指す? 何を成すつもりなんですか?」
「……どういうことですか?」
「意味なんて言葉通り。で、実際の所は何か語っていたか? 翡翠でもいい、答えて見せろ。小野寺叡治は何処を目指し何を成す為に魔術師となるのか」
そこで初めてシスター・オノデラと翡翠の気勢に陰りが生じた。
「はっ、無いのか! ただ魔術という未知への嫉妬で眼を曇らせただけか。下らない。小野寺叡治は術師を名乗る資格すらない」
「涼……?」
いつの間にか敬語が外れ乱暴な言葉遣いになる涼に雀は訝しむ。
それに気づきながら涼の舌は止まらない。言ってやらねば気が済まない。
「小野寺叡治が蒐集していた稀覯本と著者を幾つか当てようか。そう例えば『疑似神格の三次元術式』を提唱したハンス=クリストファー、『星辰粒子体の存在実証』に初めて成功したエンリケ・F・モードン、『ヒュドラ毒のレシピ』を完全再現してみせた葛理真純、十九世紀末期に現れた――」
「……ッ」
つらつらと涼が挙げた人名は全員一つの魔術系統を世に認めさせた高名な術師だ。不可能と断じられてきた分野を開花させた者、あるいは発展性が見込めない系統を光へ導いた者、代々一族が培った魔術系統を解体し全く新しい分野に芽吹かせた者。
未開の地を切り開いたことで脚光を浴び、魔術師として花開いた人物。
「確かに貴方がいま述べた稀覯本は息子が蒐集していたものです。ですが、それがなんだというのです」
「ええ、ええ。別段何かおかしい訳でもない、有名どころばかりだ。ただね、彼等は皆天才と称されると同時に、それ以前はまったくの無名だった。意味が解るか、老体」
どんな煌びやかな成功であったも、その土台には相応以上の苦難がある。そしてそれはいまだ陽を浴びない研究であってもそう。
涼は語る。発展性を失った霊術であっても同じだった。
今日より明日へ、今代から次代へより優れた技術を繋ぐ気の遠くなるほど長いバトンリレーの末、未知は技術の系統樹となり辿り着いたのがこの時代なのだ。
先の天才たちは開拓の最終地へ先駆者らが背を押していたに過ぎない。
アストレアは果ての無い苦難へ飛び込む彼等へ、微力でも力添えをと設立された組織だ。
切り開かれた道に敬意を覚えず、研鑽と研究の果実だけを羨む者には彼らの真似事すら叶わないだろう。
小野寺叡治には術者が挑む未知の本質を理解していない。
嫉妬で眼を曇らせた叡治がそれを失念しているのであれば、もう彼に見るべきものは無い。
「失せろ粗悪品ども。貴様らは術理に触れることすらおこがましい」
舌鋒を突き付ける涼に、ほんの刹那の間だけ監視官の顔が覗く。
「「「――ッ!!」」」
シスター・オノデラと翡翠は叡治へのこれ以上ない侮辱に支配され、それに気づく事は無かった。
一方少なくない時間を涼と過ごした雀、照は涼の殺気に当てられ身を凍らせたまま脂汗を流し、誠明は死を悟った本能故か何やら生臭い。
涼はそんな三人の様子に気付き自制心の甘さを猛省しつつ、ワザとらしく呼気を立てながら大きく紫煙を吐いた。
金縛りから解けた雀は気圧された恥紛らわしに涼の背をつねり、逆サイドからは恨みがましい照の視線が突き刺さる。
雀たちからすれば、もし自分たちが道を踏み間違えれば先の涼に処分された未来もあった訳で、その本当の意味に理解が及んでいなかった事に面白くないものを感じていた。
左右それぞれで針の筵になる涼からは既に憤慨はおろか侮蔑すら綺麗に削がれている。
だが涼が一切の興味を失う事に罵られた翡翠たちが黙るわけもない。
「理を覆す術理に触れた、他ならぬ貴方がそれを言いますか」
いままで沈黙していた翡翠の影が破滅的な魔力を振り撒き涼へ殺到する。
傍にいた雀と照は横へ飛び退くも、涼は動かない。いや動けない。いまの涼は無理な治療が崇り文字通り死に体。まともな回避運動など望めない。
人一人を殺すには過剰を越えた破滅の影は舞踏会の一角を吹き飛ばした。
瓦礫に混じり、一本の煙草が力なく落ちる。




