二章・三節 不快と忌避と快楽に蕩ける
七榊翡翠はぼんやりとした意識のまま、緩慢に身を起こした。
身体が酷く熱く頭がぼんやりする。そのくせ奥深くから泉の様に湧き出る幸福感が心地よい。
「ああ……」
熱く艶めかしい吐息が漏れる。
下腹部から広がるこの熱が愛おしく、脳が蕩けるような快感。
ああでも、いけない。まだこの熱に身を委ねるべきではない。
自然と手が伸びるのは、彼女の隣で横たわる見慣れた青年。
翡翠が身を預けていた青年からは温もりが消えうせ、虚空に投げられた眼は二度と翡翠に焦点を結ぶことは無い。空気が抜けたゴムボールの様にへこんだ頭部からは、既にドロドロに固まった血が照っている。
周囲を見渡す。
コンクリート壁で囲まれた殺風景な広い空間。太い柱が一定間隔で建ち並ぶそこは真新しい地下駐車場。
まばらについた蛍光灯が暗闇を点々と払い退けている。
段々と意識が明瞭になっていき、闇に慣れ始めた眼が周囲の景色を正確に捉え始める。
ここは駅前に建設されている商業施設、その地下駐車場。来年の春にオープンを予定しているが、ここは既に工事は完了しており後は待ち人を迎えるばかりであった空間。
地下独特の滞留した寒々いした空気とコンクリートの温かみを感じない無機質な壁面に囲まれた此処はさながら巨大な石室。
であれば、彼らの有様も意外にもミスマッチとまではいかないか。
周囲に散らばる奇妙に人型を保ったスーツら。
ネクタイを首元まで締めたたシャツ。ベルトを締めたまま中身を失うズボン。
どれもまるで中身が突然消失したように脱がれた衣服ら。そのどれもがもがき苦しむ様に、あるいは必死に逃げ出そうとしている様にも見える。庇うようにレディースに折り重なったスリーピースも見受けらえる。
幽鬼のような足取りで翡翠は一人、また一人と衣服の数を指折り数えていく。
その数は、全部で十人。
おかしい。もう一度数えるも、やはり十人だ。
ああ、なんていう事だろうか。
「一人、足りない」
それはとても困る。
──御実家へお戻りになられるか、此処で果てるか。
男たちが突きつけた二択が蘇る。
どちらも御免だ。ようやく手に入れた“自分”を、また他者に縛られてなるものか。
拒否の先に権力の後ろ盾を得た搾取が翡翠に降り懸かろうとも、その結論は変わらない。翡翠が生まれ落ちた生家、世界とはそういうものだ。
青年を殺したのは半分は翡翠。
しかし残りは男達であり、世界だ。
虚ろな眼で動かぬ想い人の元へ戻る翡翠の胸中は、敵討ちを成した感慨など欠片もない。
ただただ虚しく、服が血で汚れるのも構わず冷たい青年に寄りかかる。
涙を溜める視界の端に陰の気を捉えたのは、単なる偶然だった。
注意しなければ見落としてしまいかねない、残り火のような揺らぎ。
いる。
この場にはまだ男達以外にも協力者がいたのだ。
陰の気。即ち女性の霊能力者。
それもとても見覚えがある波長と乱れ。
「貴方たちの敵が、まだいるようですね。榎本さん、叡治さん」
育ちの良さを伺わせる儚げな独白。
青年の唇にそっと口付けを交わすと、未練を断ち切る様に翡翠はその場を後にする。
遺体はそのまま。いずれこの場で起きたことは知られるだろうが、事は大きく動かない確信が翡翠にはあった。
何しろ皆が皆社会の影で生きる住人。いざこざは表に持ち出せない。
外はまだ夜に没している。
夜道を一人血塗れの姿で歩く翡翠。
時折擦れ違う人々はしかし翡翠の姿に驚くことなく──否、気付くことなく擦れ違う。いまもまた巡回の警官が横を通り抜けていく。
翡翠もまた彼らを気に掛けない。
駐車場で捉えた霊気を手繰り寄せ逃げ出した獲物を追っていく。
青年を殺した奴らを逃がしはしない。許しはしない。
あと二つの首級を以って復讐を成し遂げ、あの家との決別の楔にしよう。
そうしたら、今度こそ自由になれる。
ああ、気持ち悪い。またこの身に血を浴びなくてはならない。
だが仕方がない。奪われないためには、先に奪わなくては。
殺せ殺せと、自分ではない誰かの声が脳に染み込んで来る。
どうしようもなく、それが愛おしくてドクドクと拍動を奔らせる下腹部から多幸感が溢れるようだった。
復讐の大義を身に宿し、血潮を流せと欲する女神の名を唱える。
季節外れの寒夜に身を曝す翡翠の口元は背後に浮かぶ月の様に弓なりに歪んでいた。




