二章・一節 三人が共にする朝
トントントン、という包丁の音と出汁の良い匂いがここ最近の雨取照の目覚まし代わりだ。
眠気が圧し掛かる身体を照は毛布から苦労して引き摺り出すと、厚手のニットガウンを羽織って部屋から廊下へ出る。
埃一つないフローリングの廊下を横断して洗面所で顔を洗う。アスファルトが溜め込んだ熱を抱いた水道水は酷く温かったが、照にとっては寧ろ好都合。冬場と違いお湯が出るまで待つ必要もない。
丁寧に時間を掛けてマッサージするように顔のむくみを取っていく。次第に眼も醒め、ぼやけていた感覚も明瞭になっていく。今日は少し体調が良いようだ。
自分用にあてがわれたタオルで水気を丁寧に拭き取ると、洗面台に設置された鏡に映る自分が眼に入る。
「……」
十六年も付き合えば見間違う事もない、雨取照の鏡像。
西洋人形に例えられる容姿はまさしく均整の取れた造形美。卵型を描くフェイスラインは肩口で切り揃えられた深い色合いの黒髪を従え、やや勝気ながら確かな知性を秘めた双眸も漆黒。小ぶりな唇は鮮やかな朱色を見せ、肌は日本人離れした色白。秘かに物足りなさを憂う胸元は慎ましやかに服を押し上げるが、同性から見ても流れるようなボディラインは非の打ち所がない。
余人は口を揃えて羨むものだが、照本人は自身の容姿をあまり好きになれなかった。嫌が応にも容姿を通して見る因果に忌避感を覚えているのだ。
嘆かわしい事に、この心底嫌った因果さえ自分という人間を構成するのには欠かせない要素だったりする。
これで鏡魔術を専門分野に持っているのだから、自虐もいいところではないか。
歯を磨いてから部屋に戻り、昨晩の内に用意しておいた着替えを手に取る。体質上あまり軽装は好まないが最低限季節感を損なわないよう、買い物時から同居人にコーディネートを手伝ってもらった。その同居人は隣室を根城にしているが、まだ起きた気配はない。時計を見れば時刻はまだ午前六時を回ったばかり。
手早く着替えた照は再び部屋を後にし、短い廊下を抜けて居間へ足を運んだ。
三十畳ほどの居間は調度品の類は最低限に抑えられており、食事用のテーブル、三人掛けのソファーと向かい合うようにして真新しい32インチの液晶テレビ、女性雑誌が仕舞われた本棚がある程度。バルコニーへ続く一角は開放的な全面ガラス戸になっており、昼間は電気無しで十分に生活できる採光能力を発揮するだろう。
ここは五輪駅から徒歩三十分の場所に建てられたマンションの一室。
今から二週間ほど前に照は王陵女学院での四か月ほどの短い寮生活に区切りをつけ、ここ五輪ハイツへ引っ越してきた。理由は彼女が魔術師である事や取り巻く環境が四月を境に変化したことなど、守秘義務等々で世間には軽々と口に出来ない理由が殆ど。
ただここの部屋主は彼女ではない。部屋を借りようにも仕送りで生活する女学生にはマンションでの生活は些か無理がある。
照ともう一人の同居人は部屋主の懇意で住まわせて貰っているわけで、その部屋主は居間に入ってすぐのキッチンにいた。
「おはよう、雨取」
声の主は長髪を束ねる赤いリボンがトレードマークの青年。照以上に季節感の無い服装で、薄手の手袋まで着用した一切肌を見せない出で立ち。おまけにシャツからスラックスまで全身真黒で統一されているものだから、赤いリボンばかり印象に残る。
「御機嫌よう、宵波君。相変わらず早いのね」
「まあ一年も君達の生活サイクルに合わせて監視役を務めてきたからな。任は解かれたが身体が覚えている」
「そう。なんだか癪ね」
「そうか?」
「そうよ。改めて思い起こしても、朝は必ず貴方が先に居間にいたもの。それに監視役と言っても屋敷では家政婦みたいに働いていた記憶が殆どね」
「そうか」
一瞬だけ思案顔になった部屋主の青年──宵波涼は直ぐに表情を元に戻すと棚から小鍋、ココア、砂糖、冷蔵庫から牛乳を取り出す。その様子を照はテーブルに付いて何の気なしに眺める。
涼が小鍋に開けたココアを煎り始めると、直ぐに香しい匂いが届く。三月まで毎日のように鼻腔を擽っていた匂いだ。
やがて照の前へ湯気を立たせるマグカップが差し出される。ブラウン色のココアがたっぷりと注がれており、丁寧に濾されきめ細やかな液面が揺蕩っている。
すぐに口に出来るように温度調節されたココアを照はゆっくり一口、二口と含むとじんわりと舌に甘さが広がり、ココア特有の苦みが後味を引いてくる。
身体が欲してやまなかった温かみ身体へ浸透したことが照の頬に現れると、涼が少しだけ小言を挟んできた。
「君、寮でもずっと朝食抜いていただろ。血色が悪い」
「朝は食欲がないもの」
「少しでも何か口に入れないと身体に悪い」
「王陵の朝食は宗教的で質素過ぎ。温かみの無い食事はあまり口には入らないわ」
「……シスターに少し話を通しておくべきだったな。今朝は血色がいいから、もうこれ以上は言わないが」
溜息交じりに涼もココアを飲む。
どちらにせよしばらくの間照は涼の部屋を生活拠点とするので、朝食に関しては涼に一任している。
照の発言から伺える通り去年まで彼女はあまり朝食を取れず、貧血でしばしば保健室のお世話になる事があった。涼が試行錯誤と妥協の末に辿り着いたのがホットココアなわけだが、こうして用意しないと照は自発的に飲むこともない。
自己管理が甘いことは照自身も承知の為、最低限この甘味だけは摂る事にしている。表情にこそ出さなかったが寮生活では朝が兎に角辛かったのも事実だ。
テレビを付けることもなく、暫く二人でマグカップを傾けていると廊下から人が動く気配がする。
それを合図に涼は再びキッチンに戻ると、冷蔵庫から味噌や卵、野菜といった食材を取り出しテキパキと二度目の朝食作りに掛かり始めた。
涼がコップに牛乳を注いで間もなくして、廊下と居間を隔てる扉が開きこの部屋最後の住人が如何にも寝起きといった容貌で現れた。
「……はよ~。あんた達、相変わらず早起きね」
「おはよう、神崎。飯はもう少し掛かるから待っていてくれ」
「雀、ちゃんと着替えてから顔出して。だらしないわ」
三人目の住人──神崎雀は涼から牛乳を受け取りつつ、照の小言を受けて自身を見下ろす。
平均身長よりやや高い雀のボディーラインは凹凸に富んでおり、いわゆるモデル体型のプロポーション。普段は不機嫌な色を称える瞳は切れ長であり、シャープに整えられた形の良い眉と合わさって彼女の端麗な容姿を引き立たせている。
そんな彼女が身に着けているのはホットパンツと叩き潰せという意味の《hakkaa päälle!》とロゴが入った簡素なTシャツのみというラフな服装。本来であれば季節に応じた格好であるが、如何せん色々と目に余る。
下着こそしっかり着けているようだが二十歳未満の男女が混在する中では些か、いやかなり無防備。若さを持て余した少年がいれば間違いがないとも限らない。
慎み深い修道女の様な制服に日々身を包む照からすれば、あまりにも危機管理がなってない。
「別にいいでしょ。涼は獣性に任せてその辺の手順をすっ飛ばすような不埒者じゃないし」
「信用を置いてもらえるのは結構だが、今日はしっかり着替えてくれ」
「なんでよ、今更じゃない」
「最近この辺で覗き魔が出たらしい。此処は8階だから大丈夫だとは思うが、危機管理は徹底しておいて損はないだろう?」
「うげ……そういえばそんなネットニュースを見たかも」
卵を溶きながらの涼の忠告に雀はそそくさと部屋へ引っ込んでいく。その様子を照はほんの少し面白くない思いで眺めていた。自分がいない三か月の空白期間は思いのほか大きい様を二人のやり取りから感じられたのだ。
政府公認特務執行機関アストレアから派遣された涼が監視官として雀と照に引き合わされたのが、去年の三月の終わり。
まだ若くフリーの魔術師でありながら霊地を持つ雀たちが諸々の利権の保証を立てる為、アストレアは一年間の監査期間を設け監視者として涼を送ったのだ。
始めこそ三人とも口数少なく最低限の接触のみであったが、紆余曲折を経て今では友人と呼べる関係に発展している。こうして同じ屋根の下で暮らしているのも、様々な事情故の結果ではあるが根幹にあるのは一年間の交友だ。
新年度を迎え照は王陵女学院の寮生として八月中旬まで過ごしたが、アストレアの内部事情による監視期間の延長を理由に先日退寮してきたのだ。
現在は涼の部屋に仮住まいしている身分だが、雀は以前から転がり込んでいた様子。
居間を見渡すと涼の私物はキッチンに殆ど集約されているのに対し、女性雑誌やらライブポスター、屋敷から持ち込んできたと思われるゲーム機等々の雀の私物が散在している。部屋の一室は既に雀色のコーディネートされており、ベッドや衣装ダンスといったものがあるあたり生活拠点が丘の洋館ではなくこちらに置かれていることは明白だった。
同棲。そういって何ら差し支えない。
食卓に朝食が並ぶと身支度を済ませた雀が再び居間に現れた。
ピカピカに炊かれた白米と匂いだけで出汁の旨味を想像できる味噌汁、一切の割れ目が見られないオムレツと瑞々しいトマトやレタスを初めとしたサラダ。
「いっただきま~す」
キチンと手を合わせて雀は食事を始める。
オムレツに箸を入れると断面からトロトロの卵が顔を覗かせる。それを雀はトマトケチャップをたっぷり乗せてから美味そうに口に運んでいく。
「……」
チラリ、と照は一瞬だけキッチンの涼へ視線を送る。
その意図を正確に読み取った涼はたった今作り終えたオムレツを照へ提供。雀のオムレツよりほんの少し小振りに作られたそれは、元々照用だったらしい。
見透かされていたようで癪だったが、美味に免じて不問にすることに。
二人のやり取りを終始観察していた雀の好奇の色に気付き、照はやや刺々しく突っかかる。
「……なにかしら?」
「別に。ただ視線一つで意図を伝えるってドラマでもよくあるやつだなって。王陵はその辺の立ち振る舞いも叩き込まれるわけ?」
「酷い偏見ね。貴女の俗物的な考え方は矯正されるべきね。この際だから【舌切り雀】なんて不名誉な渾名を払拭するためにも、王陵への体験入学をお薦めするわ」
「あら。私はそのあだ名結構気に入ってるけど。童話もそうだけど、何より五感がいいし」
一々挑発的な雀に粛々と言葉を返していく照。
一方は全生徒から畏敬を集め、一方は人形然とした容姿に人を寄せ付けない少女二人。
此処が街中であれば人が寄り付かず、ポッカリと空虚が生まれるであろうスペース。
その中で涼は慣れた様子で雀からお代わりの茶碗を受け取り、並行して照用のモーニングティーの用意をはじめていた。
執事というには些か家庭的であり、その動きは二人の少女に順応したものだった。
これもまた三月まで毎日のように繰り返された光景。
彼等は監視官と魔術師。一歩間違えば殺し殺される関係。
名残りこそ残っているが、今だけはそれも過去のものである。




