一章・二十三節 空席の墓石
涼が用意した昼食は美味かったのか、不味かったのか。そもそも口にしたのかすら覚えていない。グラム二千を余裕で越えていた和牛ヒレ肉を心躍りながら籠に入れていたのが嘘のよう。
涼と雀は既に食後のティータイムに入っており、建人にも出されている精緻な模様が施されたカップを傾けている。
カップを満たす紅葉色の水面に映る見慣れた顔。ふと水面の自分が人龍と双人狼のものと重なる。誤魔化すように角砂糖とミルクを加えて、ティースプーンでかき混ぜる。普段なら気にならない小さな音も、静けさのせいかその音は大きく聞こえる。誤魔化すように口に含んでも、味なんて何もわからない。喉は潤った気がせず、それどころか乾くばかりだ。
「落ち着け」
大きめのグラスに注いだ冷や水を涼が差し出してくる。
感謝すべきなのだろうが、自分が思っている以上に精神的に参っているらしく、建人は乱暴にその手を振り払う。弾かれたグラスが床へ落ちる――前に実体化した淑艶が一滴も零さず小さな手で掴み取る。不躾な行為を前に雀の瞳に剣呑な光が宿るも、涼の目配せで収まりを見せる。
それがささくれ立つ建人の心中を一層かき乱し、隣に立つ涼を睨み上げる。
「……落ち着けだって? 何も知らないくせに、無責任な事をいうなよ」
「何も知らないのは君だろう?」
「っ……!」
涼の切り返しは簡潔であったが、建人の胸の内を容易く貫いた。
ずっと眼を背けていた部分を容赦なく曝け出され、否応なく直視される。
知らず噛み締めた唇から血が滲み、心は張り裂けそうなほど荒れ狂う。
そうとも砂純建人は“自分”を知らない。知らなかった事すら知らなかった。それが意味することから眼を背け、蓋を閉じ、逃げ続けてきた。
いまの建人は砂純建人の皮を被った別人に他ならない。
なればこそ、もう逃げるわけにはいかないのだ。記憶をなくし、果たすべき責任を放棄してしまった咎はいい加減清算しなくてはならない。一度は鉄平に命を差し出す事で放棄した責任だが、二度と手放してなるものか。
継ぎ接ぎの覚悟を噛み締め、建人は涼を睨みあげる。涼もまた建人の覚悟を量るように正面から視線を受け止める。
一分か、十分か、それとも更に長いか。永遠とも思える睨み合い。先に切り上げたのは涼だった。瞑目を挟んで視線を外すと、こう口にした。
「自分が何者か、なんて実際分かっている人間は本当にいるのか……」
赤いリボンに触れる涼は触れれば消えてしまいそうなほど頼りなく、雀も普段の毅然とした様相が崩れ少女の脆さが露呈しているよう。涼の独白が一体何を意味しているのか、建人が量りかねていると、瞬きの間に二人は元の調子に戻っていた。
まじろぐ建人を他所に涼は席に戻ると紅茶を淹れ直し始める。新たに注がれた二人分の紅茶の芳醇な匂いが薫り立ち、居間を満たしていく。
一口、二口。香りと味を楽しむように、ゆったりとカップに口を付ける二人。
急速に弛緩していく場を前に建人があっけに取られるばかりだ。
ちなみに建人の紅茶は給仕されず、先程払いのけた冷や水が置かれている。もう紅茶を提供するつもりはない様だ。
何となく誠明がこの二人、特に涼を苦手とする気持ちが分かったような気がした。
「さて、遠回りになったが本題に入ろう」
「食後の余暇は大事よ」
のんびりと切り出された建人の分水嶺に不満が無いわけではないが、一々反応しては切りがないのでグッと堪える。実際、重要であることには変わりないのだから。
手にじっとりと浮かぶ汗をズボンで拭い、なるべく涼の眼を正面から見据える。
改めてその覚悟を見定めた涼は雀に視線で問いかけると、彼女もまた一つ頷き静観に徹する。
「さっき君は俺にこう言ったな。『何も知らないクセに』……と。それ自体は間違いではないが、まるっきり正しいというわけでもない」
「……どういうことだ」
「記憶の欠落、あるいは忘却か。君を含め、大和屋鉄平や十鷺右京の身に生じている“何か”に対する解答候補は持ってきている、という事だ」
ぐしゃりと建人はテーブルの下でズボンを握る。
涼が告げた事柄そのものは、それ自体は予想外のものではないが、人龍や双人狼と同列の“化物”である可能性を秘めていることを突き付けられ、少なからず動揺する。
無理もない。
誰であろうと、自覚がないまま化物である可能性を受け入れる事など不可能だ。
それでも建人は涼から視線を決して外さない。虚勢であろうと平静を装い、揺れる自分を騙し続ける。
建人が先を促すと、涼は人差し指を立てて見せる。
「あくまで現状では解答候補に過ぎない。だから、いまから君に一つ質問をしたいが、構わないな?」
「ああ……」
一つ頷きを返すと、涼はあまり間を置かずに質問を投げる。内容は――
「君の、生年月日を教えてくれ」
――誕生日の問い掛けだった。
一体どんな質問が来るのかと身構えていた当人には肩透かしもいいところ。雀もまた口こそ挟まないが胡乱気な目つきになっていく。
しかし、質問者は至極真剣な様子で「西暦でも元号でも構わない。あと年齢」と条件追加を提示しているではないか。
懐疑的に思いながらも建人は一応解答を頭に浮かべる。名前と同じくおぎゃあと生まれた時から付き合う数字の羅列。考えなくとも半自動的に紡ぐ生年月日は、しかして“今”の砂純建人を土台からぶち壊す呪詛であった。
「1975年9月22日。年齢は16……さ……」
言葉は、続かなかった。
何の疑問もなく、今も当然のように受け入れる生誕日。
本年は世界中で最も信仰される宗派の救世主生誕の翌年から数えて、二千と十九年。
建人が十六歳であれば、誕生日は2003年でなければ辻褄が合わない。そうでなければ、建人は現在四十四歳。外見年齢と矛盾する。
なのにどうして。
どうして、疑問を持てなかったのか。
「ち、ちが……いやでも……俺の、誕生日は、えっ、なんで……」
混迷状態に陥り弁明しようと必死に脳を動かすが、例の頭痛まで発症しはじめる。視界がブレはじめ、記憶の断片が過る。見覚えの無い、けれど懐かしい夫婦が誕生ケーキの前で笑っている。
「75年? ヒッピーの時代に生れたにしては、洒落っ気に欠けるけど……何かの冗談かしら」
軽い口調とは裏腹に雀が纏う空気がガラリと変わっていた。思考が完全に魔術師のそれに切り替わり、涼の出方を横目に伺っている。
苦悶の表情を浮かべる建人以上に、涼の様子は険しい。
拳を微かに震わせ、憐憫と憤怒が入り混じった様相は、最悪の予想が的中してしまった事を呪っているかのよう。
元監視役が初めて見せる激情に触れ、若き魔術師は息を飲む。
「砂純君」
「……ッ、ま、待ってくれ。これは、その、」
「いいや。確かに君は“砂純建人”本人だ。少なくとも俺が調べた戸籍情報と一致する」
「ッッ!?」
「神崎。雨取に連絡して街の結界を直ぐに強化するんだ。淑艶を残していくから、詳細はこの子から訊いてくれ」
「それはいいけど何処行くの? ねえ、ちょっと」
一方的に指示だけ伝えると、淑艶の簪を残して涼は建人の襟を掴んで部屋を出る。そのまま傘も差さずに土砂降りの外へ出ると、車の助手席に建人を押し込んで自らは運転席へ。エンジンを掛けると道路交通法ギリギリの発進で洋館を後にする。
「おい、何処に行くんだ?」
「死者の街だ」
「ふざけてんのかッ」
走り始めて数分後。
状況整理が出来る程度には平静を取り戻した建人は、しかしてその返答に激怒する。記憶の欠落を取り戻すどころか、全貌はいまだ形すら見えて来ず、悪化の一途を辿る現状に建人はもう耐え切れなかった。
「なんなんだ、くそっ……」
如何に覚悟を固めようと、こんなにもあっさり罅が入ってしまう。いっそのこと何も知らずに消えてしまいたいと自暴自棄に成りかける。
俯く建人を不意に、息苦しく臭い煙が覆っていく。
盛大に咳き込みながら煙を払うと、いつの間に火を付けたのか涼が煙草を吸っていた。不味そうに紫煙を吐きながら建人に器用に煙草を咥えさせると、百均ライターで着火。
状況に流され思わず吸ってしまうと、口から喉、そして肺一杯に煙が蹂躙していく。憧れたことはあっても当然煙など経験が無い。盛大に紫煙を撒き散らし溺れた人のように酸素を求め喘ぐ。まったくもってダサい。
クラクラする頭を押さえ無言で隣を睨むが、窓の外へ紫煙を靡かせる様は悔しいがキマっているではないか。
――それでも吸って落ち着け。言外に主張しているのだろう。
やけくそ気味にもう一度咥えてみるが、数秒と待たずに噎せ返る音が車内に響く。
雨脚は強まる一方で車内ラジオは台風が予報より早く列島へ上陸することを伝えてきた。
既に大雨洪水警報、暴風警報、土砂災害警報が発令され不要不急の外出を控える注意喚起が流れる一方、それに逆らうように涼の車は五輪市を離れ市外の山沿いへ向かっていく。
以前建人が耳にした話ではこの辺りは地盤が緩く、過去に何度も地滑りを起こしていたらしい。今では閉鎖されている国道もあるとか。
やはり慣れない煙草を早々に切り上げた建人は雨で歪む景色に視線を投げていた。会話が生まれない事も理由であるが、ぼんやりとこの景色に見覚えがある気がしたからだ。
既視感の正体が欠落した記憶にあることは想像に難くない。頭痛を引き起こさない事からあまり重要なことではないようだが、胸の内に湧く郷愁で喉がつまりそうだった。
やがて山が近くなり、民家が少し疎らになってきたあたりで涼は脇道へ入っていく。
古い家が目立つ住宅街を通り抜けていくと寺院が姿を見せ、隣接する狭い駐車場へ車を止める。
「ここだ」
短く告げると涼は建人にだけ傘を渡すと、自分は手ぶらで降車してしまう。見ればいつの間にか彼の隣には着物姿の女性が寄り添い、朱色の番傘で涼から雨を弾いていた。
彼女も式神なのだろう。淑艶とはまた異なる女性の美しさを体現した着物の女性を、どうしてだろう。建人は恐ろしく思えて仕方が無かった。
「何をしている」
呼び掛けにハッと我に返ると、涼は寺院ではなく隣接する霊園の扉前にいた。
ドッと汗が噴き出す。喉がカラカラになり、全身を撫でる悪寒が心の何処かで甘い結末を望んでいた自分を溶かしていく。
台風の影響で門扉には鍵が掛けられているが、事前に事情を説明しているのか袈裟を着込んだ坊主が門を開けにきた。
「霊園は常世と幽世が重なる、いわば狭間の様なものだ」
猛り狂う暴風雨の中、霊園に踏み込む涼の声だけがやけに明瞭に聞こえた。後を追う建人の後ろで門扉が重々しい音と共に閉じていく。
敷地自体はさほど広くなく、視界が悪くとも全体を見渡せる程度。嵐の只中で尚静謐を満たす霊園はなるほど、確かに結界であろう。
「生者と死者を結びつける場のようだが、その本質は決別にある」
涼の煙草から揺蕩う紫煙は風に消えることなく残り続け、式神のカラコロと木霊す下駄の音が一本の道を記していく。まるで死者を導く香と鐘。
「死に形を持たせ生者と死者を明確に別つ境界線。遺骨と墓石は魂と常世を断つ楔」
やがて一つの墓石の前で涼が止まる。
お盆の時期が近いからだろうか。花立てには真新しい献花が添えられており、苔むした墓石は故人の若さを物語っているようだ。
「死者が生き返ることは無い」
刻まれた名前は涼に、墓誌は女性に隠れて見えない。
「だがこれも一つの事実」
後退る。
「……やめろ」
必死に寄せ集めた覚悟が、自我が、音を建てて崩れ始める。
ああ、そんなのは嘘だ。受け入れたくない、認めなくない。
「君にとって、覆ることの無い現実だ」
墓石の前から二人は一歩横へ。
空席の墓所を暴き出す。
「嘘だ……」
そこに立っていたのは“砂純家之墓”。
最後に墓誌に刻まれた名前は、とても見覚えのあるものだった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
砂純建人
平成三年十一月七日没 享年十六歳




