一章・二十一節 宵波涼
それからさらに数日が経った。
誠明が洋館を出てすぐに振り始めた雨は止むことを知らず、川の水は随分嵩を増していた。午後には台風が直撃するらしく、雨脚は強まる一方。過ごしやすい気温ではあるが、必然的に室内に閉じこもる事になる。
館内の清掃は既に昨日であらかた終了しており、雀から下される命令はとうとう打ち止めとなってしまった。
こうなるとやる事の無い建人はただひたすら時間を持て余すだけだ。
ネットサーフィンで暇つぶしをしようにもスマホは紛失し、入室を許可されている書斎にある本はどれも弁当箱のように分厚く、持病の活字アレルギーで眼を通すだけで煙が出そうだ。館内の散策をしようにも行動が許可されている範囲は狭く、外出にいたっては禁止されている。
ちなみに勉強という選択肢はない。留年が決まったいま、益々勉学への価値は過去最低レベルまで下落している。いっそ教科書諸々を燃料に芋でも焼こうかと本気で思案するが、勿論雨の中出来るわけもない。そもそも街へ繰り出さないと食料がヤバイと今朝方雀が嘆いていたばかりだ。
外出が出来ない建人は言うに及ばす、雀も腕以外の怪我も癒えておらず買い物は出来ない。誠明はいまだ帰っておらず、借り物である淑艶を眼の届かない場所へ行かせることは少々不味い。
現代であればネット注文で解決できるはずだが、この洋館は新聞の勧誘すら来ない場所に立っているためか、配送の類は諸々範囲外指定を受けているらしい。住宅街から外れている上に胡散臭い噂が立つ洋館に近づけば、信用が砦となる商売人が犬猿するのも無理はないが。
ここでの唯一の楽しみである食事も朝食を終えたばかりであり、建人はサロンに向かう事にした。
台所を拝借し自由に使える紅茶と茶菓子を適当に見繕うと、二階へ上がり長い廊下を南側へ進んでいく。ちなみに一階の廊下を同じようにして進めば庭園へ出ることになり、サロンはそれを一望できる位置にある。
サロンは小さいながら拘りが伺えるクラシカルな内装に仕上がっており、特に家具はわざわざヨーロッパから取り寄せたものだという。部屋の隅にはグランドピアノが鎮座し、埃一つ見当たらない天板は鏡のように磨かれている。
天気が良ければ階段からテラスに出て花々を愛でる選択肢もあったのだろうが、生憎と天気も悪く、花達からすれば建人は女王の命令一つで虐殺を敢行した狂人だろう。
適当に座ると窓を打つ雨音をBGMに善し悪しが曖昧な紅茶を口に運ぶ。慣れ親しんだ一式屋とは違う時間の流れ方。一式屋では鉄平とダラダラと下らない話題を楽しみながら茶菓子を頬張っていた。和やかだったが時間はあっとう言う間に過ぎ去り、茶菓子がなくなればまた今度と惜しみながら店を後にした。
だが此処では建人以外何もない。横たわった時間が意識に乗りかかり、どうしようもなく重たく、息苦しい。
自然と考えてしまうのは鉄平の事だ。
建人が淑艶に運ばれた後、廃墟で雀と鉄平が交戦したことは知っている。聞かされたわけではないが、勝者がどちらで、敗者がどのような結末を辿ったのかのかも想像がつく。
それは憶測であって何の根拠もない。当事者を前にしても確かめる事をしなかったのは、彼の死を悔やむ事は赦されず、その資格がないと思ったからだ。
――今も昔も、皐月を見捨てた事が赦せないだけだ。
鉄平が強く刻み込んだ言葉の楔。
「皐月」
言葉にすれば強い頭痛と共に少女の幻影が視え、手を伸ばせば霧散していく。影を落とす彼女の表情は伺い知れず、無理に思い出そうとすれば発作を引き起こし水中に堕ちたように息苦しい。失った記憶を探ろうとするといつもこうなる。
深呼吸を繰り返し、痛みが引くまで雨音に意識を傾倒させる。規則と不規則に揺らぐ雨音は荒涼とした建人の心を撫でていき、ほどなくして頭痛の波も引いていった。
「あちゃ……」
頭痛に襲われた時にカップをひっくり返してしまったのか、飴色の紅茶がテーブルに広がっていた。幸いあまり量は淹れていなかったので絨毯を汚す事態には至らなかった。、テーブルの染みになる前に拭き取ってしまう。
そこでふと、窓の外に眼が行く。
庭園を越えて更に向うには洋館へ続く道路があり、そこを一台の車が走っている。直ぐに木々に隠れてしまったが、サイドボディーに描かれた意匠には見覚えがある。
天秤と剣を携えた女神。ギリシャ神話に語られる正義と裁定の女神、アストレアを表すシンボル。
誠明の服にも同様の刺繍が施されており、彼の所有する車にも確か意匠があったはずだ。既に十八の誕生日を向けている誠明は社用車を乗り回しているらしく、此処へも車で通っているらしい。
最後に見た彼の顔を思い起こし一抹の不安を憶えながらも、ひとまず顔だけは出しておこうとカップ諸々をお盆に乗せてサロンを出る。
長い廊下を踏破している間に誠明も帰ってきたようで居合わせた雀との会話が聞こえてくる。台所は居間と隣接しているため、いまなら自然な流れで挨拶を済ませられるだろう。
露骨に建人を無視する誠明の事は正直好きにはなれない。彼には彼なりのプライドや立場があるのだろうが、しかしだからといってこちらも無視するわけにはいかない。不満はあっても口に出せる立場にはないのなら、最低限の礼儀だけは尽くして損はないはず。
らしくない理論もどきを構築してようやくドアノブに手を置いた建人は、なるべく平静を装って帰宅を労う。少なくとも、建人はそう試みた。
「よう副会長、おかえ……」
空に消えていく言葉。
居間で雀といたのは誠明ではなく、別の青年だった。
雨天とはいえ季節外れのロングコートに袖を通し、手袋まではめて徹底的に肌の露出を押さえた洋装。長く伸ばされた髪は赤いリボンで結われ、建人へ振り返ると遅れてリボンが揺れる。僅かな動作からでも伝わる教養の高さとそれを鼻に付かせない流麗な立ち振る舞い。写真で受けた泰然自若とした印象とは少しズレ、女性の様な嫋やかなエッセンスが同居しているような雰囲気だ。なるほど、涼を“りょう”ではなく“すず”と読ますのは彼の人となりに合っている。
那月が秘かに憧れ、雀との同棲相手と噂される人物――宵波涼だ。
「ただいま」
「え?」
「俺は幸白ではないが、一応」
「あっ、ええと……お帰りさない?」
ん、と短く頷いた涼は固まる建人を不思議そうに眺め「置いてこないのか?」と問いかける。お盆を持ったまま突っ立っていた事を思い出した建人は慌てて台所に引っ込む。どうしてだか一瞬で調子が崩れた事を動揺しながらも、何とか洗い物と片づけを済ませて居間へ戻る。
緊張しているのかその足取りは何処か拙い。
その様子を面白そうに眺めている雀に気付き、妙な羞恥心で揺れる自分を力一杯叱咤するように首を振ってそれらを振り払う。
「お帰りなさいませ、旦那様」
建人より百倍は優雅な挨拶と共に現れたのは淑艶だ。両手を組んで恭しく一礼する様は主君に使える淑女そのもの。頬が微かに桜色に染まっているのは、果たして建人の錯覚か。
一方で当の涼は返事こそしたものやや表情を曇らせている。首を左右に傾けては淑艶を頭から爪先まで何度も視線を往復させている。
「神崎。またこの子に何か仕込んだな? 口調も服装も変わっている」
「あら。いいじゃない、いかにも侍女って感じだし。なんであれ形は大事だと思うのよ」
「他に何を?」
「ケチャップ文字の書き方とか、朝の起こし方とか、ゴシップの集め方とか、お風呂でのマッサージとか」
「お会計は――円になります」
「…………………………………………すみませんでした」
家が建つどころではない値段を告げられ、信じられない程小さくなる雀。
口にこそ出さなかったが、建人も内心雀の俗物趣味に呆れるほかなかった。確かに立ち振る舞いから言葉使いまで誰もが理想とする侍女そのものではあったが、純朴だったはずの少女が欲望によって歪められた事実はあまりにショックだ。
雀の暴挙には慣れているのか、涼はそれ以上言及せずに淑艶を労うと彼女を簪の形代へ戻した。リボンと一緒に簪を差し込むと、改めて建人を向き合う。
「挨拶が遅れてしまったが、宵波涼だ。砂純建人君で間違いないな?」
「は、はい。初めまして」
「初めまして……大凡の事情は神崎から聞いている。記憶の欠落があるとか」
「欠落というか……何かを忘れているようで、断片的に思い出してもそれが何かも分からなくて……」
「ん……」
建人の言葉に何か思う所があるのか、涼は頤に手を当てながら思案顔を浮かべる。そのまま何も話す事無く押し黙るも、ぎゅるる~という間の抜けた音が居間に響く。
聞き間違いでなければ腹の虫を鳴かしたのは、涼だった。
思案顔を悲しそうな表情に一変させると、そのまま何も言わずに居間を出て台所へ向かう。
自然と顔を見合わせる雀と建人。
やがて戻ってきた涼は財布を建人の手に握らせると、こう言い放った。
「適当でいいから食材を買ってきてくれ」
「あ、じゃあついでにジャ○プもお願い」
ええ……。




