一章・十八節 オルトロスの獣人
「どうだ。少しは何か思い出したか」
冷やかな詰問が背後から投げかけられる。冷淡な言葉と共に五指を突き破る破壊の爪が捻じれ、硬質化し一本の巨槍を形成する。同時に無数の牙が螺旋状に飛び出し、新たに造られた血管が腕を網目状に覆い、増強された筋肉が引き絞られる。
先程までの骨鎗がリーチと切れ味に特化したものであるならば、こちらは一撃の威力を追求した突撃鎗。廃墟とはいえ鉄筋コンクリート造りの工場を破壊した力を一点集中したその威力は、人間など掠っただけで致命傷だ。
建人は、動かない。
数歩後ろに絶対的な死を感じながらも、俯き膝を着き、視線を床に落としながら虚ろに開かれる眼は現実を見ていない。穿たれた記憶の穴から溶け出した悪夢は砂純建人が忘却した確かな“過去”、剥がれ落ちていた“自己”に他ならない。
自分は人影の誘惑に屈し、苦しむ彼らを見捨てたのだろうか。思い出せない。仮にそうであれば、断罪の刃を此処で受ける義務と責任があるのではないか。
大和屋鉄平の憤怒で捌かれるべき、大罪人ではないのか。
彼が異形の姿に転じてしまった原因が、あの場で魔術の類による人体実験によるものであり、他人の命を売り渡し自分一人が難を逃れているのであれば。正義がどちらにあるかなど議論の余地さえない。
「俺が、憎いのか……?」
しわがれた声で俯いたまま訊ねると、後ろから息を飲む気配を感じた。
三年間。殺そうと思えばいつでも殺せた。チャンスなど幾らでもあったはずだ。それは現状でも同じはずであり、本来であれば鉄平は反撃の隙など与えず一息に決着を付けられたはずだ。それが、どうしても解せない。
「いいや、俺は別にお前を憎んじゃいないさ」
建人を背後から覆う狼男の影が、膨れ上がる怒気に逆立つ体毛で肥大化する。
「今も昔も、皐月を見捨てた事が赦せないだけだ」
バキン、バキンッと記憶の檻に罅が入っていく。
――皐月。
何故だろう。泣きたくなるほど懐かしい、狂おしいほど愛しい、名前。
破れた檻の隙間から視える、大切な人。
いつも手を伸ばせば触れられる距離にいた、髪を肩口で切り揃えた少女。
何かを致命的に間違っている予感が去来した直後、後ろから髪を掴まれ力づくで地面に叩き付けられる。
「お前なら皐月だけは絶対に守り通すと、俺は信用していたッ」
何度も何度も、呻く暇さえ与えず地面で建人の顔面を叩き削る。前歯と鼻骨が折れ、ダラダラと血が流れる。
「だがお前は逃げた。好いた女を捨て、仲間を売り、俺を撃ってただ一人逃げた!!」
ボロ雑巾の様に投げ捨てた建人の頭部へ、鉄平は脚を振り下ろす。何度も何度も、執拗に。頭骨が軋みを上げ、鈍い亀裂音が響く。泥と混じった血の味が口一杯に広がり、死の匂いが濃厚になっていく。
「お前が逃げたと知った皐月は酷いもんだったよ。誰よりも先に心が折れて、奴らに屈しちまった」
再び頭を鷲掴みにされると狼男は肩口に喰らい付いた。二つの口腔から肉と骨を噛み砕く咀嚼音が奏でられ、絶叫が地下通路に響き渡る。
肩を半ばまで喰らわれた建人は地上へ無造作に投げ飛ばされ、瓦礫の山に墜落する。受け身など取れるはずもなく、呻き声さえ満足に上げられない。半ばまで喰われた肩は腕が殆ど千切れかけており、骨が露出し、神経が垂れ下がっている。堰を切ったように夥しい量の血が瓦礫を艶めいた赤に染めていく。
「俺達は、いや皐月は使い減らしの屍人形さ。道具として都合よく酷使され、壊れれば代用が効く消耗品。なまじ潜在能力が高かったせいで、簡単に死ぬことも出来ない。あいつには、死という救いすら遠い!」
血肉を嚥下した鉄平の傷が癒えていく。新たに生えた牙はより強靭な光を宿し、ドス黒い瘴気を立ち昇らせる体躯が更なる変化を示す。獣化が更に深まり腰からは荒縄のように締まった尾が生え、亀裂が入った顔が左右に裂けていき二つの人相が独立していく。
双頭の人狼――ギリシャ神話の怪物オルトロスにも似た姿。尾を含めれば五メートルに迫る巨躯と全身から放たれる禍々しい魔力は、まさしく神話の獣。
「もしお前に償いの機会があるとすれば、それは今だ」
瓦礫に沈む建人の心臓に突撃鎗が向けられる。
失血による意識の混濁が始まっている建人は、もはや指一本まともに動かすことも叶わない。瓦礫に落下した際に無事だった手足も機械部品に突き刺さり、疑似的な張り付け状態。その構図は極刑を待つ囚人と処刑人そのもの。
「お前には右京の分も合わせた呪詛がたっぷり溜め込まれているはずだ。ここであいつの分まで死ね」
引き絞られていく鎗。一つの命を終わらせるには過剰と言える破壊力を秘めた一撃は、槍先に触れた瞬間に建人を無数の肉片に引き千切っていくだろう。
幕切れが迫る。
事の真相を知らず果てることに、既に建人は未練を感じていない。
先行きの目途が見えないまま立ち往生し、友人たちの苦痛を悪戯に伸ばすことは避けたかった。
(いや、違うか……)
自嘲の笑みが零れる。実際は唇を動かす事さえ苦痛で、ただ引き攣っただけに終わったが、建人は自身を卑下していた。
真相を知る事が建人は怖くて仕方がないのだ。鉄平の言葉通り、正しく多くの人達を生贄に捧げて助かったのなら、砂純建人は未来を生きる権利は無かった。今の建人は分からないことに蓋をして、眼前の処刑人が下す処罰を受け入れ、真実から眼を逸らす安易な救いに縋っているだけの卑怯者。向き合う機会はいくらでもあったはずなのに。
ならせめて、最後だけは真正面から受け入れなくては。
死に際に固めた建人の小さな覚悟を感じ取ったのか、双人狼はほんの少し槍先を揺らした。それも一瞬の出来事であり、動揺を憎悪で塗り潰した双人狼は唸りを上げて突撃鎗を突き出す。
狙い違わず心臓に迫る鎗。
槍先が皮膚に触れるまでの零に近しい僅かな時間に、それはまさしく流星の如く飛来した。
繰り出された巨大な鎗と尾で死角となった側面と背後から迫る──三条の魔弾。
これ以上ないタイミングで迫る不可避の魔弾が突き刺さり、双人狼に蒼翠の華を咲かせる。
苦悶を上げる双人狼の槍の軌道が逸れ、建人の僅か数センチ横を抉り込む。双人狼は野生の直感に従い魔弾は三発中二発を尾で防いだものの、残る一発の威力は軽くはない。着弾した背中からブスブスと焦げ臭い白煙が上がり、焼けた血肉が足元をべったりと濡らしている。
喀血し膝が崩れ落ちる直前、割れんばかりに牙を食いしばった双人狼は叩き付けるように踏み出すと、そのエネルギーを利用し魔弾の飛来元――魔弾の射手へ飛び掛かる。
咆哮轟く双人狼の突撃は迅雷の如く。地面を砕く疾走は視認すら難しく刹那の間に魔弾の射手へその凶刃を迫らせる。
「――ッ!?」
対して魔弾の射手はこれを真っ向から受けにたった。
双人狼も眼を疑うことに、魔弾の射手もまた同じく駆け出す。正気を疑う暴挙を前に虚を突かれた双人狼の突撃鎗は、這うようにして駆けた魔弾の射手の頭上を空打ち。それでも常人相手であれば双人狼は瞬く間に追撃を仕掛けただろうが、魔弾の射手は一枚上手だった。
攻防は一瞬にして入れ替わる。
数本の髪の毛が千切られるも魔弾の射手は伸びきった双人狼の腕と胸倉を取ると、素早く身体を反転させると同時に足払いを掛ける。狼の突進の勢いも加算された背負い投げは、しかして不完全に終わる。
受け身を捨てた双人狼はすぐそばを通過する魔弾の射手の首元目掛けて噛み付きにかかる。二頭ある一方の頭が牙を剥き、殺傷のみを目的とした咬み殺しの凶器。超至近距離の一撃が魔弾の射手の首へ吸い込まれる。
「ぎゃッ」
木霊したのはイヌ科特有の甲高い悲鳴。
背負い投げとほぼ同時に、予定調和の如く技をキャンセルした魔弾の射手の裏拳が過たず犬頭を打ち抜く。魔力が籠った一撃は建人のマグレの代物とは比べ物にならず、頭骨を粉砕し熟れた果実のように犬頭を叩き潰した。
「どっ、せい!」
女性の声に似合わない気合いと共に振り抜かれた拳は威力を殺さず、もう一対の犬頭を撃ち潰さんと迫る。
だが敵も然るもの。頭を潰されたにも関わらず無理矢理突撃鎗を地面に突き刺すと、膂力にものを言わせた力技の蹴りを魔弾の射手へ撃ち込み、強引に距離を取る。
籠手を嵌める腕でガードした魔弾の射手の華奢な身体も弾かれ、両者とも靴底を激しく擦りながらノックバック。魔弾の射手は建人の直ぐ傍へ、双人狼は崩落した壁際で睨み合う構図となった。
「「邪魔をするか、魔術師ッ」」
威嚇の声が二重に放たれる。驚いたことに頭部の半分以上が失われたにも関わらず、半壊した犬頭は問題なく機能していた。脳漿が撒き散らされ、頭骨が覗く頭から真紅の液が吐き出され続けているものの、注視すれば内側から真新しい体組織が競り上がってきている。
「うわっ……なにそれ。もしかしてどっちかの頭が無事なら再生するの?」
意外と機能的ね、口にはしながらも表情は嫌悪感に満ちている。しかし顔を背けず油断なく構える様子からは実戦を重ねた確かな風格を伺わせる。
長い髪を揺らし、華奢な身体に不釣り合いなほどの圧倒的なまでの魔力。細くしなやかな腕に充填される魔力は青白い光を瞬かせ、闇に沈んだ廃墟に魔弾の射手の姿を浮き彫りにする。
その後ろ姿を急速に狭まりつつある視界に捉えた建人は、驚きつつも彼女ならそういう一面もありえるだろう、と何処か納得してしまった。
「生徒、会長……」
奇しくも建人を救う形で現れたのは“舌斬り雀”の異名で恐れられる生徒会会長――神崎雀だった。