一章・十七節 砕けた記憶の檻
「だからお前は此処で、死ねぇッ!!!」
「――ッ!?」
咆哮轟く骨鎗の一撃を建人は倒れ込むようにして回避した。余人からは奇跡的ともいえる回避だったが、建人は違うと断じる。反射的な行動ではなく、身体が骨鎗の一撃を憶えているかの様。
憶えている。砂純建人は確実にこの一撃を憶えている。
しかしながら、回避は不完全だった。
超高速で頭上を擦過していった骨鎗が生み出す衝撃波は建人を捉え、容赦なく襲い掛かった。
木端のように吹き飛ばされた建人は瓦礫と地面に身体を滅茶苦茶に殴打。天地の境を見失い、遠のく意識を辛くも繋ぎ止めたのは痛みでそれどころではないから。転げ回る身体がようやく止まった頃には、全身から苦痛と悲鳴の連鎖が始まった。
「ぁ、ガぁあ……」
額から流れる出血のせいで視界が赤い。歯を食いしばり両手を突き、叫び声を上げながら起き上がる。
一体どれだけ吹き飛ばされたのか。
乱暴に血を拭い、顔を上げた建人はあたりを見渡す。
恐らくは廃棄された繊維工場。紡績と呼ばれる生地の元となる遷移を引き延ばす機械が所狭しと並んでいる。骨鎗で吹き飛ばされた瓦礫が少なくない範囲で紡績機械を破壊している。
かつて五輪を支えた英霊たちに謝罪の一つでも捧げたかったが、生憎と時間と余裕がない。
とにかくここから距離を取らなくては。
燃えるような痛みを懸命に堪え、よろよろと歩きだしながらコンディションをチェックする。
全身打撲に擦り傷、額の裂傷、三半規管へ軽度のダメージ。
あれだけの破壊的衝撃に巻き込まれてこの程度の負傷で済んだのは運が良かった。骨鎗の一撃がかすりでもすれば間違いなく命に関わっていただろう。無論、直撃ならば即死だ。
「オオォ――――――――――――――――」
遠吠えが夜を震わせる。
遠い、が建人は既に走り始めていた。
見た目通りかは不明だが、変貌した鉄平が本当に狼男であるならば人一人の追跡など容易いだろう。
種類にもよるが、狼は人間の百万倍近い嗅覚を有し、千五百メートル離れた獲物の匂いを嗅ぎ分けるという。加えて走力は動物界でもトップクラス。チーターは最速を得る代わりに持久力を犠牲にしたが狼はその逆。時速三十キロメートルほどのスピードで数時間得物を追い回す持久力を備え、トップスピードでも二十分は走る。
狼男の鉄平がそれらの能力を受け継いでいるかは定かではないが、生物としてのスペックを比較すればどちらに軍配が上がるかなど考えるまでもない。
戦うなど論外。潜伏してやり過ごすには地の利がない。あの骨鎗で手当たり次第に工場を破壊されれば脆弱な人間など瓦礫でぺしゃんこだ。
残された選択肢は逃走の一択のみ。
狭苦しく入り組んだ工場内を縫うようにして必死に進む。如何に骨鎗の一撃が凄まじくとも、乱発すれば魔力の枯渇も早まるはず。攻撃を外せば必然的に降積った埃や瓦礫で視界も悪くなり、捕捉も難しくなるはずだ。
そういった諸々の期待は直ぐに打ち砕かれる事になる。
「「タケヒトオオオォォォォォォォォォォォ―――――ッ」」
魔力を伴った叫喚。
先程の遠吠えとは異なり、今回は高く広範囲に響き渡っている。
捕捉された、と思うと同時に直感に従い近場の階下へ続く階段へ飛び込んだ。
横薙ぎの赤光が走り、一拍遅れて再び破壊の嵐が巻き起こる。
滑空するように階下へ落ちた建人は落下の衝撃に呻くも、土煙の先に現れた人影を視界の隅に捉え死に物狂いで飛び退く。
一瞬前まで建人がいた場所を、土煙を破った狼男の骨鎗が深々と貫く。
だが避けられたのは此処まで。
狼男は腕の骨鎗を引き抜かず自ら圧し折ると、二対の眼光を引きながらまさしく狼のようにたたらを踏む建人へ喰らい付きに掛かる。
建人が首筋に吸い込まれる牙へ腕を割り込ませることが出来たのは、単なる偶然。
激烈な痛みが腕を駆け巡る。サーベル状に発達した犬歯が腕を貫通し、食い千切らんと咬合力が増していく。否、それよりも早く新たに精製された骨鎗に引き裂かれるが先が。
「く、っそがああああ」
死地を前にして建人の選択は反撃だった。
気炎万丈。はじめて雄叫びを上げる建人は腕を突き破る牙を掴むや否や、狼男を全力で地面へ叩き付ける。
図らずも魔力で強化されたその一撃は凄まじく、インパクト面に放射状の罅が入り、破片が飛ぶ。反撃の手は緩めない。軽い脳震盪を起こした鉄平の顎の力が一瞬緩んだことを見逃さず腕を引き抜くと、鉄平の腕を踏みつけ上下の牙を鷲掴みにすると顎を閉め上げる。
どのような生物であれ、口というのは閉じるよりも開く力は弱い。生物界最恐の咬合力を有する鰐でさえ、人間の力で容易に抑え込めるほどだ。
建人の狙いはここに更に一手加えること。
顎を閉めた勢いそのままに牙へ渾身の力を加えに掛かる。
狙いを察した鉄平が無茶苦茶に骨鎗を振り回すも、ここに来てアドレナリンに麻痺した建人の力は緩むどころか増す一方。
腕の傷から噴き出す血潮を浴び血走る眼光は修羅のそれ。狂ったような雄叫びが上がり、バキンッという破壊音と共に一対の牙が根元から圧し折れた。
「「がああああああああああ!??」」
二つの口腔から絶叫が上がる。牙を捥がれた狼男は唾液と血液で顎を濡らし、激痛にのたうち回る。
決定的な隙に建人は距離を取ろうとするが、上手く脚に力が入らない。血を流し過ぎた。過剰分泌されたアドレナリンで痛みは麻痺しているが、意思に反してその足取りは遅々として進まない。魔力行使による反動か、身体が錆び付いたように軋みを上げ、一歩進むだけで疲労感が身体に圧し掛かるようだ。呼吸が乱れ喉からは喘鳴が漏れるばかり。
鉄平が脳震盪から回復すれば今度こそ建人に勝ち目はない。都合よく発揮された火事場の馬鹿魔力も自身を傷つけて余りある諸刃の剣。頼るにはリスクが大きすぎる。
急げと己を叱咤しパイプと計器類が這う通路を懸命に進む。逃げなければ。
「奏栗は四年前に東京で撃ち殺されたぞ」
ピタリと、建人の歩みが止まる。一刻も早く逃げなければならない状況にも関わらず、憶えのないはずの名前に金縛りにあってしまう。逸る鼓動も状況も忘れ、カナグリという名前を舌の上で転がす。何故だか馴染みがあり呼び慣れた気がしてならない。ズキズキと痛みだした頭でその答えを探し求める。
不意に視界がブレ、ここではない教室のような場所に視界が映り替わり、柔和な笑みを浮かべる青年が何かを差し出してくる。
『よう建人。前に貸す約束した映画、ダビングしてきたぜ。ヒロインが有澤に似てるやつな』
一際激しい頭痛の波が映像を押し流す。再び地下通路に意識を戻した建人は頭痛に呻き、頭を抱える。今しがた過った映像を思い起こそうとすると、何度も針で突き刺されたような痛みに襲われてしまう。
ダメだ。考えるな。
必死に頭を空にしようと努めるがそれは裏目だった。思考を逸らそうと強く思う程、映像の――否、忘却した記憶の正体を考えてしまう。
あの青年は誰なのか、あの場所は何処なのか。彼は自分とどういった関係なのか。何故、自分は懐かしいと感じている――
浮かび上がる疑問は激痛に拍車を掛け、天文台の時と同じく“何か”が思い出せと記憶の檻を叩き始める。
「篠苳と小金井はロンドンで聖王協会に火刑にされたぞ」
再び視界がブレる。
同年代の男女が二人、一つの傘に入り仲良く下校している。擦れ違った建人は二人に声を掛けると、慣れた様子で腕を組んで反撃してきた。
『羨ましいならお前もとっとと男を見せろよ。誰にとは言わないけど』
『幼馴染の壁はわりかし高いのかもね。誰とは言わないけど』
意味深なニヤケ面で冷やかすような焚き付けるようなことを宣う二人。おそらく男性の方が篠苳、女性が小金井。
そうだ。篠苳と小金井は中々想いを伝えられない建人をよく突いてきた。時には少し強引な手法で背中を押そうとしたこともあった。彼らは何事もストレートに自分を表現していたから、さぞ背中がむず痒かっただろう。
知っている。彼らを砂純建人は確かに知っている。実際に会い、会話を楽しみ、少なくない時間を過ごしているはずだ。それでも壁を隔てたような違和感を含んだ既視感の正体を掴めない。篠苳たちへ伸ばした手が彼らに触れようとすると、カップルは霞の様に消えていった。
「飯塚は中国の錬金術師に捉えられた」「葉山は自我崩壊を起こして処分された」「神無月は今も家畜同然の娼婦だ」「吾妻と大坂は魔力精製の代用品としてバラされた」「相馬は樹化して言葉すら交わせない」「渡良瀬は――」
羅列される人名と近況、そして辿った結末。
凡そ四十名弱。程度の差こそあれ全員の姿が思い浮び、声蘇り、過した時間をなぞる。共通して全員が同年代の若者であり、なぜか時代に逆行した装いだった。髪型は遊びを持たせた現代のものと異なりキッチリと整えられ、化粧も毛色が異なる。男子は傾いた形に制服を改造しているものが見られ、女子はスカートをやたらと長く伸ばしている。
垣間見た街並も、行き交う人々も、物も。
時を巻き戻した様な光景のどれもが懐かしく、それでいて抱く実感は他人事のような矛盾を含んでいる。忘れた記憶と理解した一方で、どれもが他人の眼を借りた幻のようだった。
だが最後に鉄平が口にした右京という名の青年の記憶が、建人の心に激震を走らせる。
同じ様にしてフラッシュバックする光景の中に“彼ら”はいた。この三年間いつも傍らにいた友人と想い人の姿。
激しさを一層増した頭痛が突如、バキンッと頭の奥で弾けると景色が暗闇に塗りつぶされる。叩かれ続けた檻の一部が破れ、ドロリと流れ出した記憶が暗幕に色を落とし始めた。
最初に視えたのは、血に沈む若者たち。地面に描かれた幾何学模様の中心に横たわる身体はいたる所から血を流し、肌が灰を浴びたように所々が不自然なまでに白くなっている。彼らが皆、つい先ほど垣間見た者たちであることに気付き、心臓が跳ね上がる。
地面を埋め尽くす幾何学模様が触手のように蠢くと、若者たちの身体へ侵入。激しい痙攣と喀血で悲鳴すら上げられない彼らの身体は文字通り、刻一刻と人ならざるものへ作り替えられる。捲り上がった内臓に爬虫類めいた頭部が形成されつつある少年。全身を半透明の腫瘍で覆われ異形の胎児を宿している少女。皆が皆、何かに成り代わり、養分になっているよう。その様は地獄絵図そのもの。変貌を遂げた異形の中には大橋で見た人龍の姿も見受けられる。
その様子を眺めている人影。三日月形に歪む口元を建人の耳元へ寄せ、甘い毒を垂らす。
『――裏切りを見せておくれ。そうすれば、君だけは助けてあげよう』