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一章・十六節 怨嗟の鎖を今手繰り寄せ

 逃げて逃げて逃げて。


 一体自分は何から逃げているのか分からなくなったところで、建人はようやく脚を止めた。

 どれだけ走ったのか。


 無尽蔵に湧き出ていた体力は底が見え始め、肩で息をする自分に安堵した。顎から滴る汗が地面にシミを残していく。


「……工業区域。こんなところまで」


 知らずに辿り着いたのは廃墟となった伽藍洞の建物群。


 静寂と退廃に満ちた、温度を失った光景。建物の一棟一棟がまるで死骸のような異様な存在感を放ち、割れた窓から覗く暗闇が幽谷への門を想像させる。


 ふと雲に遮られていた月光が降り注ぎ、青白く染まる人工物の陰影を際立たせる。此処はかつて栄えた町工場跡。


 繊維産業と染物を中心とした地元産業が集約されたこの地区は、バブル崩壊と時を同じくして坂を転がり落ちるように潰れていった。それなりに質の良い製品を出荷していた一方で、大量消費大量生産の時代に寄りかかった経営方針で運営されていた工場の末路は言うまでもない。


 品質と技術で戦う力が培われていなかった工場は一つ、また一つと倒産し、やがて一つのゴーストタウンが作り出された。予算が確保できない関係で取り壊しも出来ず、こうして放置されているのだ。


 雨風に曝され緩やかに死んでいく様はまるで病に侵されているよう。


 当然ながら人が寄り付く場所ではなく、建人も脚を運んだのは初めてだ。


 古い耐震基準の時代に建てられた建物が殆んであることから、崩落を危惧して市内では近づかないよう立ち入りを制限されている。もし警察にでも見つかれば面倒ごとになる。


 そうなるまえにこの場から離れようとした時だった。


 足音が響いた。


 カツン、カツンと鳴る靴音が廃墟に木霊してやけに大きく響く。


 足音は一定した歩調を刻み、それが確実に近づいていると気づくのに時間は掛からなかった。


 誰が、どうして此処に。


 そのような疑問は最早ここに至って抱かなかった。


 依然として巻き込まれた事態を飲み込めずとも、度重なった異変は確実に建人を絡めとっている。ならば、これから邂逅する人物がその例外という事はあるまい。


 建人は意を決して足音の人物を待つことにする。


 恐怖がないわけではない。早鐘を打つ心臓と逃走を訴える本能を無理矢理押さえ付け、腹を決めた建人は靴底を意思の力で縫い付ける。


 どうせなら全てを明らかにしてもらおう。


 噛み切った唇の痛みで先程までの動揺と狼狽をかなぐり捨てて、汗が滲む手を固める。足音はもうすぐそこだ。


 永遠とも思えた時間の末、十メートルほど先の曲がり角にそれは現れた。


「へぇー。待ち構えてるのは意外だったよ、建人」


 軽薄な笑みを浮かべて姿を見せた人物を眼にして、建人の固めた覚悟はいきなり揺らいだ。


 何せ相対する人物は建人もよく知る人物。那月と同じく高校入学からつるみ親友と言っても過言ではない存在だ。ましてやこのような状況で顔を合わせるはずはない。


 しかし実際に現れた彼は紛れもなく親友であり、驚愕から呆然と名が零れる。


「鉄平」


 その声を受けてニヒルな笑みを向ける大和屋鉄平は芝居がかった動作で腕を広げて見せる。


「ああ、大和屋鉄平だぜ。幾らお前が壊れているといってもまさか、高校時代からの親友まで忘れたわけじゃないだろ?」

「何を……」


 言っているんだ、と続けようとした言葉を、建人は寸断した。


 刹那、拡張された感覚が親友の異変を克明に示す。


 姿形は最後に会った夏祭りでの彼と全く同じ。


 だが中身はまるで別物だ。


 鉄平の身体から逆巻くように放たれる、魔力の波動。


 彼が変わったのか、それとも建人がそうなのかは定かではないが、今まで残滓すら感じられなかった濃密な魔力が確かに鉄平から流れている。


 それも覚えのある魔力の質感。冷たく、虚ろで、血の臭い漂わせ死人を想起させる。国枝でもない、魔弾の射手でもない。そうまるであの――


「鉄平、お前……っ」


 友人と大橋で見た怪物の姿が、一瞬重なる。


 信じられないと首を横に振り、うわ言のように「嘘だ」と繰り返す。その様子はまるで子供のそれで、固めた覚悟が無残に砕け散っているのは言うまでもない。


 当然だろう。


 誰も隣にいる友が化物と同類かもしれないなどと、疑う事も想像することもしない。


 那月に敵意を向けられ、自分を見失いかけ、最後には友にすら裏切られるのか。


 極度の混乱に襲われる建人とは対照的に、鉄平は軽薄な笑みを浮かべ友人の様子を眺めていた。小さく笑いを零す彼の姿は、まるで建人の狼狽を楽しんでいるかのよう。あるいは、待ち望んでいたとも取れる。


 鉄平の微笑はやがて勢いを増していき、最後には声高く哄笑へ発展していった。静寂の帳を引き裂く哄笑が工業区画に響き渡る。


「そう、それだよ建人。俺はずっと、裏切者のお前のその顔が見たかったよ! ああこの瞬間の為だけに泥水を啜る想いで親友をもう一度演じたさ」


 身振り手振りを交え宣う鉄平の言葉を、建人は半分以上理解出来ずにいた。那月と同じく、建人を裏切者と蔑称する彼の狂気に当てられてか、彼らの言葉を脳が拒否しているのかは分からなかい。


 ただハッキリとしているのは、視線の先の友人は大和屋鉄平であって、もう彼ではない。


「裏切者って、どういう意味だよ……」


 麻痺した思考で如何にか絞り出した問いを投げ掛けると、振り撒かれていた哄笑がピタリと止んだ。天を仰ぎ髪で隠れた鉄平の表情は伺い知れないが、纏う空気は明らかに温度を下げている。


 建人は鉄平の豹変に息を飲むものの、ギリリと奥歯を鳴らし早口に言う。


「那月もお前も俺が裏切者って言うけど、一体なんだって言うんだ。なにを裏切ったって言うんだよ。こっちはさっぱり覚えがないんだ!」


 胸中の蟠りを吐き出し、押し黙る友人をなけなしの気力で睨み付ける。


 鉄平は答えない。


 もう一度呼び掛けようと一歩前に出た時だった。


 一条の光線のようなものが高速で建人の頬を掠めた。


 反応を置き去りにした光線の正体は、振るわれた鉄平の腕から伸びていた。指の肉を根元から割る様にして伸びるのは、刃物の如く鋭く伸長した指の骨。以前映画で見たミュータントを想起し、背筋が凍り付く。


 あの映画は正確には手の甲から鉤爪状の鋼鉄製の爪を伸ばし、刃渡りも鉤爪と同程度だった。


 だが鉄平の指の骨――骨鎗はものが違う。


 爪の厚みは同程度だが射程があまりにも長い。


 建人の頬を擦過した爪は勢いままに突き抜け、背後のガス管を安々と貫いている。骨鎗の中間に建人が位置している事から、その射程目算で凡そ二十メートル。射出速度に関しては呆然と立ち竦む建人が証明している。


「覚えがないだ?」


 ハッとなって声の主へ振り直る。


 骨鎗を突き立てたまま面貌に影を落とす親友の肌が変質していく。


 身体中の皮膚に幾筋の亀裂が入ったか思うや、ひとりでにめくり上り、足元へ剥がれ落ちていく。剥き出しの筋肉から夥しい量の血が溢れ、瞬く間に血溜まりが形成されるが、建人の眼を奪うのはそこではない。


「鉄、平……」


 疑念は現実の肉を得て、悪夢へ成りあがる。


 やがて鉄平の皮膚の下から白い肌が現れた。身体中が蛆のような白い肌に覆われ、脈動する血管が浮き出る外見は生理的嫌悪感を抱いて余りある。頭髪は全て抜け落ち、新たに生えたのは灰褐色の獣毛。荒々しく逆立つ毛並みから二対の尖った耳が飛び出し、口を割る犬歯が片側だけサーベル状へ形成変化している。変化は止まらず身体からギチギチと筋肉が引き絞られていく音を伴って、体躯が一回り大きくなる。獣臭を放つ口は大きく裂け、体躯に不釣り合いな発達していく大顎はまさしく獣のそれ。


 その姿、世界各地で語られる最も有名な獣人。呪い、悪魔、異端、黒魔術、時には神秘や豊穣と共に語られる伝説的生物の代表格。


 即ち狼男。


 建人が既視感に小さく身を震わせていた。鉄平の変身は確かに驚愕的であるが、それ以上に彼の姿は、あまりにも大橋でみた“人龍”と似通った部分が多い。姿形は異なるが生物としての温かみを失い、均整を崩した外見は人龍との共通点があまりに多い。その事実を受け入れず、何度も我が目を疑う。


 やがて異形と化した鉄平がゆっくりと顔を上げる。


 もう何度目とも知れない戦慄。


 親友の顔に浮かぶもう一つの面相。例えば異なる人間の顔を無理矢理重ねれば、きっとこうなるのだろう。


「醜いだろう?」「これが砂純建人が産み落とした咎の具現だよ」


 二つの口が別々の声音を発す。歪んだ音は声が重なっている事も相まって聞き取りにくく、別々の感情を含んでいた。一方は憤怒を、もう一方は憐憫の色を含ませて。


 変身に身体が付いていけてないのか口の端から絶えずトス黒い血が零れている。それは身体全体に見て取れ、浮き出た血管が所々で破れ血を噴き出し、腹部が内出血を起こしたように赤黒く染まっている。加えて、先程から漂う腐敗臭。間違いなく狼男と化した鉄平からだ。


「あの日、俺達は全員残らずいかれた魔術師の玩具にされた」「薬と魔術で身体を弄られて今じゃ使い捨ての人間爆弾もどきだ」「人としての尊厳も何もあったもんじゃない」「だが右京は立派に勤めを果たした」「可哀想に、裏切者を殺しきれなかった」


 ――右京?


 以前にも感じた引っ掛かりを覚え、それが何かを掴みかける前に鉄平の声が重なる。


「無念だったろうよ」「裏切者め、裏切者め」


 一歩、鉄平が踏み出る。


 頬を抉る骨槍が傷を抉るが、建人の脚は意思に反して動かない。


「俺を見限り」「右京を見捨て」「クラスメイト全員と引き換えに」「一人保身に走った奴隷商人が今更あいつを庇うとはどういった了見だ」

「何を言ってるんだっ」


 なぜそこで那月が出てくるのか、言葉の真意を読み取れない。あるいは本当に何かを忘れてしまったのか。


 その時、骨鎗に一筋の割れ目が入った。


 割れ目から漏れ出る赤光が魔力と気づくより早く、頬の傷口から魔力が侵入。神経を伝って電撃に似た痛みが脳に達した時、頭の中で何かが砕け、記憶が流れ出してきた。


 土砂降りの中、何処かの山道でいまのように鉄平が怒りを剥き出しにしている、古い記憶。


『今のお前にアイツを守る資格は無ぇ』


 記憶の鉄平と眼前の彼の言葉が重なる。


「だからお前は此処で、死ねぇッ!!!」


 最後の言葉と共に骨鎗が横薙ぎに振り抜かれる。


 凄まじい噴射音を振り撒く赤光の魔力を纏う骨槍は、音の壁を突き破り廃工場を安々と破壊した。


 瓦礫と砂塵に混じる血潮を浴びた狼男の咆哮が、夜闇に轟く。


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