一章・十五節 死んだはずの人間
視点は再び建人へ戻る。
目を覚ました彼は既に補講の事など一切合切忘れ去り、消えた那月を探していた。
しかしながら当てはないに等しい。
最初に学校に向かったが那月は部活動を終えて行き違いになっていたらしく、無駄足に終わってしまった。たまたま残っていた水泳部の部員が去り際に何やら注意を促していたが、礼だけ残して建人は学校を後にしていた。
他、思いつく限りの場所を探し回ったものの、一つの街から人一人を見付けるには些か迄に情報が少ない。
連絡を取ろうにもスマートフォンは紛失しており、ならばと思い立ち公衆電話に飛び込んだものの、個々の電話番号を暗記している現代人が果たして何人いることやら。ボタンに伸ばしかけた指を力なく下ろし、すごすごと電話ボックスから退散。
仮に連絡手段を確保出来たとしても、果たして今の彼女がまとも取り合ってくれるか疑問だ。
「クソ……なにがどうなってんだよ」
思わず悪態をつく。
つい先日那月と談笑を楽しんだ公園のベンチにどっかりと腰を下ろす。息つく暇もない展開の連続に、いい加減説明が欲しい頃合いだった。
既に日は傾きはじめ、鉄棒ぐらいしか遊具の無い公園が橙に染まっていく。
一日中走り回ったはずなのに、何故か疲労感を全く感じず汗一つ搔いていない。心とは相反して身体は活力に満ち溢れて、体力とは異なる何かを持て余している感覚。市中を駈けずり回っている間、それは明確に身体機能に現れていた。
驚くほど軽快に動く脚は恐らく百メートル自己ベストタイムを軽々と越えていたはずだ。五感は機能拡張されたように感覚が鋭敏になっており、時間を追うごとにそれは顕著になっている。
(それにこの感覚……)
見上げれば夕日色に染まる空を遮って、薄い揺らぎのようなものが視えた。空だけではない。揺らぎは害意こそないが街全体を覆っているようで、建物内部や地下にまで浸透している。かなり意識を集中しなければ視えることの無い揺らぎは人も透過し、骨まで伝播し身体が直接理解するような感覚を覚える。
即ち、魔力である。
薄く塗り広げられたように満ちる魔力は霞の如く。
当然建人は今まで生活していた中で気付かなかったわけだが、一度自覚してからは小さな棘が刺さったように心が乱れる。微熱を発する身体が昂り、乾いた喉が飢えを訴えてくる。まるで身体の奥で得体の知れないものが疼いているようで不気味だ。
身体の変調に一抹の不安を覚えつつも、頭を振って雑念を飛ばした彼はベンチから立つ。
兎に角、那月を探さなくては。
あまり気のりはしないが、大橋に向かおうと建人は公園を後にする。
当然と言えば当然だが、建人は自分が何か良くないことに首を突っ込んでいる自覚を持っていた。
もしかしたら既に引き際を誤っているのかも知れない。
だが同時に、眼を背けてはいけないという直感もあった。
それは天文台で響いた誰かからの警告が原因なのか、あるいは那月との一件が彼を突き動かしているのか。彼女に突きつけられた剥き出しの怒りは、確かに建人に眠る“何か”を呼び起こそうとしている。忘却した“何か”を。
「でも、なにがあったって言うんだ」
投げやりな独白はか細い。
心境と反して快調に飛ばす脚はどんどんスピードを上げていく。
大橋へ着いた頃には既に日は堕ち切っていた。
閑静な住宅街を抜けて見えた光景に息を飲む。
規制線が張られ、多くの警察官と共に厳重な警戒態勢が敷かれた向う。変わり果てた大橋の姿に呆然とした。
砲撃を受けたような陥没と一本の轍を残す道路。引き千切られたワイヤーは力なく垂れ下がり、破壊された欄干は今も破片を川へ落としている。
さらに眼を惹くのは対岸の川岸。
すり鉢状に陥没した川岸は完全に原型を失っており、加えて原油をぶちまけたような有様だった。テカテカと照る黒に変色した対岸は細い白煙が所々で上がり、有毒なガスが発生しているのか付近には防護服姿の作業員も見える。
心の何処かで夢という幸せな結末を期待していた建人は、ついに現れた揺るがぬ事実を前に呆然と立ちつくす。
魔弾の射手と人龍との戦闘。その結末の末、自分が那月を庇い押し潰されたこと。
現実だ、全て。
では――なぜ砂純建人は生きているのか。
急激に現実感を失いガラガラと足元が崩れ去ったような感覚に襲われ、蒼白になった建人は知らず後ずさる。目的を忘れ逃げ出だそうとした時だった。
「君、どうしたの?」
「……ッ」
反射的に肩に置かれた手を払いのける。
声を掛けたのは若い警官だった。最初こそ驚いた様子だったものの、血の気の引いた建人の顔を窺うと直ぐに柔和な笑みを浮かべる。
「大丈夫かい。まあこんな戦争映画みたいな光景を見たらそりゃあショックだろうけど、近づかなければ危険はないよ。あの防護服も一応って感じらしいしね。そうだ、飴あるけどよかったら食べなよ。落ち着くから」
「え、あ、どうも……」
現場に似つかわしくない溌剌とした口調に建人は狼狽する暇もなく飴を握らされる。美味い! と自身も飴を舐める警官に倣ってひとまず口に放ると、危うく吐きかけた。
包装紙を見れば【酢昆布味】と表記してある。
どこで売ってんだこんなもの! と叫びたい気持ちを押さえて、酢昆布飴に意識を傾倒させる。砂糖の甘さと酢昆布の酸味の激しい自己主張が口一杯に広がるが、味は兎も角として不思議と心は凪いでいった。
「どう、落ち着いた? まだ一杯あるから食べるといいよ」
「い、いえ。もう大丈夫です」
「そうかい、遠慮することはないよ。こうやって誰かにあげる為に沢山買っているんだけど、同僚や先輩達にも配っても何故か不評でね。大抵は吐き出されるか捨てられるかだ」
だろうな、と心中で納得する。
「ところで君、こんな所までどうしたの? わざわざ走ってきたところを見ると、何か用があると見たけど」
「え、ええと……」
警官の問い掛けに建人はどう答えるか迷う。
ここへ来たのは那月を探すためだが、このような事故現場へ人探しなど怪しさ満点だ。かといって正直に「なんで生きているのか分からない」と打ち明けた所で、哲学的な質問と捉えられるか精神病院を紹介されかねない。それに下手な事を喋って当時ここにいたことを知られれば、少々厄介だ。
迷った挙句絞り出したのは当り障りのない、質問だった。
「その、ここで何が起きたんですか? ちらほら噂は聞こえてくるんですけど、実際何があったかあやふやで、なら現場を見てやろうって来たんですけど」
「へぇ~、そうなんだ。今はネットで何でも分かる時代だけど、君みたいに足で稼ぐ子もいるってわけだ。ハハハ」
愉快気に笑う新米警官は酢昆布飴を新しく口にすると「ま、業務上話せることは少ないけどね」と前置きをしてから建人の質問に答える。
「三日前の事ね。日付が変わる頃にあの橋で大爆発が起きたんだ。一応ガス管の事故って処理になりそうだけど、身内からも懐疑的な意見が殆どだよね」
「三日前……」
「ん、どうかした?」
慌てて首を振って誤魔化す。三日間も意識を失っていた事実に愕然とするものの、この件は一先ず棚上げする。確認したいことはまだあるのだ。
「それであの、起きたのは爆発だけですか? 死傷者は」
「仏さんは出てないよ、っていいたいけどちょっと微妙でね。ほら、君も例の噂を耳にしてない?」
首を傾げる建人をみて新米警官は苦笑して言葉を続ける。
「死んだはずの人間が実は生きていて、後を追ったら変死体があったって奴さ」
ドクン、と心臓が跳ねあがった。
確かにその噂はつい先日鉄平から聞かされていた。大昔に亡くなった人間が当時と変わらぬ姿で遺族の前に現れたという噂。変死体の下りは初耳だったが、なぜ警官は此処でその話を持ち出す?
子細は異なるが大和と同じ噂を語る警官の声が、やけに遠かった。
死んだはず人間が生き返った――
蘇った死者は数十年前の人物だったが、生きているはずのない状況に陥った建人と奇妙に一致する情報。関係ないと叫ぶ理性を、足元を揺るがす恐怖心がジワリジワリと侵食していく。
背中に伝う冷や汗が恐怖心を煽り、肌を撫でる夜気の熱気がどんどん遠くに感じられる。そのくせ湧き上がる活力は恐怖に助長されるように沸き立っていく。
もし此処に第三者がいれば、あるいは周囲に街灯がもっとあれば建人の顔色が蒼白を通り越し白蛇のような肌色へ成り変わりつつあることに気付いただろう。
興が乗り始めたのか警官の舌は回る。
曰く、死んだはずの人間は数十年前の人物。家族ないし知人が呼び止めると逃げるようにその場を後にする。
曰く、目撃された死者は後に身体の殆どが歪に変質した状態で発見された。全国各地で数体発見された死体はどれも人間の名残を僅かに残すばかりで、肌は奇妙に白く、身体の大部分がオイル状に融解していた。
曰く、今も尚死者は目撃されている。
「まあ噂自体は眉唾ものだと思ってたんだけど、まさしくその変死体がここで出てきてね。いよいよもって笑いごとじゃないかもって……ちょっとどうしたの君!」
呼び掛けを振り切って建人は逃げるように駆け出していた。これ以上警官の話を聞いていられなかった。
今ここで、建人はハッキリと自覚した。
目覚めてからこのかた身体に溢れているのは魔力に他ならない。国枝から建人には稀有な魔力が流れている事は先刻承知済。それが刻一刻と建人を作り替えているのだと、直感的に理解した。
では、何に。砂純建人は何に成り代わろうとしている。何が起きようとしている。
天文台で幻視した人影が再び脳裏を過り、耐え難い恐怖心を建人は叫び散らすことで必死に誤魔化した。
その様子を離れた場所から観察していた人影の口元が、あざ笑うかのように三日月形に歪む。