終章・終節 不変の噂
「火をくれ、シャノン」
「どうぞ」
差し出されたライターの火で線香に束ごと火を点け、香炉へと供えた。
仏花も線香も全てシャノンが用意したもので、涼の担当は供え物の瓶コーラのみである。
ジャバジャバと墓石に遠慮なく炭酸飲料をぶっかける。つるつるとした石肌に炭酸が弾けて、泡が名前の彫りをなぞるように流れていく。
宮藤家之墓。
未だ中身は伽藍洞の形だけの弔いの場。
《鏡の争乱》と名付けられたあの五輪市での戦いから二年半もの月日が流れていた。
国枝忠隆が秘匿していたオリジナルの宮藤カイの遺体はアストレアに回収されたのち、灰すら残さず焼却処分され、未来永劫目の前の墓が真の意味を持つことはない。
東京への用事がある度に時間を作ってはこうして墓参りに来ているが、この姿でここを訪ねることはいい加減考え直さねばなるまい。手を合わせることさえ躊躇ってしまう。
「火を」
「はい」
着物の袖から煙草を取り出し、咥えたそれにシャノンが直ぐに火を点けた。今日は春先にしては日差しが強いので、半歩後ろに控えた従者の片手は日傘を手放せない。
必要ないと言っているのに、お陰でここ最近は紫外線とは疎遠となっている。
必然、二人の距離は近いわけで。
和洋折衷な美女の取り合わせは、偶然墓場に居合わせた来訪者たちの目を大いに引いた。
一人はシャノン・コーデリオン。日傘の内側であっても輝くような金髪に、憂いを帯びた碧玉の瞳。白のワンピースドレスに薄手のテーラージャケットを羽織っている。地味な装いと落ち着いた振る舞いに整った容姿が引き立てられるよう。
そしてもう一人は典型的な日本美人。肩口で整えた濡羽色の黒髪は誰であれ、指を通したいと欲求を掻き立てられるよう。ピンと伸びた背筋は袖を通す菊柄の着物とよく似合っているが、桜色の唇に加えられた煙草が全てを台無しにしている。
「はあ……ダメだな。ここに来るとどうにも吸いたくなってしまう」
「日頃から吸っているではないですか。特にご機嫌が優れない時などに」
「呪詛の備蓄は別だ。というか苦言を呈するなら止めるのが従者だろう」
「ご友人との語らいに私が水を差すわけにはいきませんので」
「聞こえるとしたら恨み言だろうよ。その姿でなんの嫌味だってな」
蓮鶴の機体である自らを見下ろし、涼は溜息交じりに紫煙を吐いた。
《鏡の争乱》と呼ばれるあの事件以降も、涼は蓮鶴の機体のままだ。というより事後処理や治療、アストレア本部で調査や人事処分等々で忙しく、元の肉体を復元する時間を確保できないまま、蓮鶴に魂が完全に固定されてしまったのだ。
元々涼から生み出された機体故に別段不自由があるわけでもなく、赤服の呪いからも解放されたとあって快適なぐらいだが、周囲は大変戸惑った。
特に目の前で死なれた由良と大和の困惑と怒りは凄まじく、泣いているのか喜んでいるのか分からない二人に涼は揉みくちゃにされた。
元々蓮鶴として復活する計画を涼は最初から用意していたが、万一にも魔術翁に悟られてはならないと黙っていただけに、非常にバツが悪かったが。
『義弟が義妹に早変わりか。悪くない。俺は好きだ』
『普通にいけばどこかに嫁ぐことになりますけど』
『やっぱダメ。おい涼、何とかしろ』
『……まあそれはともかく、貴女には傍で支えてくれる従者が必須だ。生活面でも、任務でも。あくまでもその機体は式神なのですから』
最終的には大和は乗り気、由良は安心とはいかずに涼の今後を案じていた。
それもそのはず。普段は幻術で見掛けだけ元の男性として取り繕っているが、それなりの霊力を消費してしまう。赤服の呪いから解放されたとはいえ、霊力運用でハンデを背負ってきた涼だ。その彼がかなり特殊なものとはいえ式神の身となったのだ。
しかし《鏡の争乱》から二か月後。シャノンが従者として仕えたことで、由良の懸念は払拭された。シャノンは涼の身の回りの世話を一手に引き受け、仕事のスケジュール管理も文句なし。おまけに今となっては同性である。
敵対したGHC出身ということもあり、最初こそ疑っていた由良の態度もすぐに軟化した。
五輪市の管理者となった涼には無くてはならない存在である。
「旦那様。一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「鏡海の存在を知りながら、なぜ貴女は鏡海を求めなかったのですか? ある意味では魔術翁以上に貴女が鏡海に近かったはずなのに」
「不躾だな」
「……申し訳ございません」
「いや、もっともな疑問でもある」
魔術翁として戦ったカイはあくまでも複製体だったとはいえ、墓石の前で語るには随分と攻めた話題でもある。
魔術翁が吸血鬼からの脱却を目論んだように、鏡海を利用し赤服の呪いを解こうとは思わなかったのか。あるいは生き返らせたい人間はいなかったのか。
自問すれば、答えは直ぐに出た。
「考えたこともなかったな」
煙草の火を消して、木桶の水で墓石のコーラを洗い流した。
「鏡海から生み出されたばかりに死が身近だった者……本来人を死に至らしめる呪いで生き永らえた者。どちらも知っていただけに、分かりやすい希望を疑っていたのかもしれん」
愛して、と先代の赤服の継承者は乞うた。
もし魔術翁にも寄り添ってくれる人がいれば、その身に受けた罰を清算する道があったかもしれない。
鏡海という無限の可能性を内包した領域であるならば、その答えはあるかもしれないが。カイが監視官として生きた世界があったように。
ただ──
「少なくともこの墓地だけでも何十というIFがある。誰もが不幸な死や人生を歩んだわけではないが、もしあの人がいまも生きていれば……そういう幸せな夢想を描いた人は多いはずだ。だが実現してしまえば皺寄せは必ず周りに現れる」
自然と思い起こすのは砂純健人や有澤皐月だ。
世間からは死んだ者と扱われ、しかし生物兵器としての役目を強要された不条理そのもの。鏡海とは違うが、失ったものが存在するというのは必然的に歪を産んでしまう。当然その逆も然りだ。
「まあ鏡海なんてものを欲するのはキスの味を知ってからでも遅くはない」
「経験談ですか?」
「無論。死にかけてたり死んだりしたが。ああ、そういえば手の甲に貰ったこともあったか。暫らくして器量良しの従者を雇えた」
「光栄です。ではその出来る従者からの苦言ですが、いい加減キチンと下着を着用していただきたい」
「え~、着物だからいいだろ。見た目だって幻術で誤魔化しているし」
「駄目です。そろそろ慣れて頂かないと。所作は十分な水準ですが、やはり無防備……ほら、言った傍から襟がはだけています」
甲斐甲斐しくシャノンは涼の着物を直した。
二年半。いつの間にか長い付き合いになっていた。主従関係ではあるが、お互いの距離は近く良い意味で遠慮がない。
最初こそシャノンは蓮鶴となった涼に面食らっていたが、思えば会って間もない頃に涼は式神・常磐津で女性の姿を披露している。抵抗はそうなかったのだろう。
男性の機体は式神として用意しており、たまにシャノンの要望でそちらに戻ることもあるが。
「旦那様、そろそろ出立しなければ新幹線に遅れてしまいます」
「そうだな。諸々の手続きも済ませたし、五輪市に戻ろう。ではな宮藤……また」
去り際に墓石に手を合わせ踵を返した。
春先だというに今日は暑い。桜前線はいよいよ本州に現れ始め、今朝は全国各地で満開の吉報がニュースを賑わせている。
この時期のどこか浮つき、不安が入り混じった空気がそうさせるのか。
何かが起こりそう。そんな予感がした。
その変化の使者は思いのほかすぐに表れた。
霊園を出てすぐに、軽快にクラクションを鳴らして黒塗りのミニバンが幅寄せしてきた。
パワーウィンドウが下ろされ、顔を出したのは見知った人物。
「やあ、やっぱりここにいたねお二人さん」
「義父さん」
涼の義理の父、宵波直嗣だ。顔を合わせるなり直嗣は涼とシャノンを交互に見やり、相好を崩した。
「ニマニマと、何か嬉しいことでもあったか?」
「いや、仲良くやってるなあってね。あとは目の保養」
「そうか。じゃあ存分に見ろ。豚箱に行く前の情けだ」
「え」
「立派なセクハラ発言だからな。悲鳴を上げれば義父さんを容疑者に仕立て上げることなんてわけない」
「冤罪じゃないかっ!?」
「実は事件の容疑者っぽい奴をこのやり方で何度か強引に確保している。証拠は後でゆっくり集めればいいから、意外と効率的だ」
「なんてあくどいやり口だ! 父さんは心配だ」
蓮鶴の身になってからというもの、街中で声をかけられることなど日常茶飯事だ。大抵は下心が透けている軽薄男。たまに何処かの御曹司や成り上がりの若社長というパターンもある。
直嗣との前半のやり取りは冗談だが、後半はその辺りの鬱憤とストレス発散の実体験だ。
「そういえばこの前、警視総監のお孫さんが何故かアストレアの事後処理部隊に出向されてたけど、もしかして……」
「誰だ?」
「旦那様。確か数日前に招待された神戸のパーティー会場で」
「ああ、あれか。爺様に頼らず出世したいとかで、紹介したんだったか。死体とご対面する部隊だから、出世より出家が先かもな。いや坊主通り越して仏になっているか」
「洒落になってないから、それ……」
《鏡の争乱》の終結後、魔術翁が破れたことで聖王協会とGHCは内部分裂が度々発生した。それだけならよかったが、組織から脱却した術師が犯罪者に堕ちる例も少なくなく、アストレアも対応を余儀なくされていた。
ただでさえアストレアは慢性的に人手不足なので、総監の孫を生の現場に引き込んだのは、考え方によっては警察との連携を強化するいい機会かもしれない。
「あの部隊は百瀬の指揮下にある。アイツならよっぽどのことがない限り下手は打たないさ。細かいフォローは義父さんに任せる」
「事前に相談してほしかったな~。まあ信用されていると受け取っておくけど。あ、出世といえば、お祝いがまだだったね。一等監視官への昇格おめでとう、涼ちゃん。ホントは昨日の式典に出席したかったけど、どうしても時間が作れなくて。ごめんね」
「別にいい。一度は監視官を降ろされた身だしな。そう誇れるものではない」
「……降格処分は組織の示しがあるから、止む無くってやつだよ」
涼は肩を竦め、上層部の一員である直嗣は複雑な面持ちで頬を掻いた。
二年半前。涼は神崎姉妹と鏡海の関係性を意図的に伏せ、魔術翁への対応に齟齬を生じさせた責任を問われ、監視官の資格を剝奪されていた。
だだ同時に魔術翁を殲滅した功績も認められ、再試験をパスし監視官へとすぐに復帰した。
功績を積むための仕事は売るほどあるために、先日最高等級である一等監視官へ昇格し、昨日がその式典だったのだ。同時にシャノンも三等監視官へと昇格しており、単なる付き添いだけというわけでもない。
もっとも五輪市を管理している以上、一等監視官へと昇格したところで新たに与えられる権限はあまり意味をなさないが。
由良だけは涼が監視官を続けることに難色を示したが、五輪市の管理者が主な任務に据え置かれると知り、最終的には納得した。シャノンの存在も大きいだろう。
いまの涼の最優先任務は、彼女たちの代わりにあの街を守ること。功績のほとんどが季節問わず寄ってくる馬鹿共を追い返すか、ひっ捕らえたものだ。
そういった意味では、半ば強引にあの二人を街から引き離したのは正解だった。
「お義父様、雀と照は息災でしょうか」
「勿論。学生とアストレアを両立させてるよ。本部じゃ《舌切り雀》と《迷鏡》の名を知らない人はいないくらいだ……ま、悪名の意味合いが大分強いけど」
あのじゃじゃ馬たちの噂は嫌でも耳に入ってくるだけに、シャノンも本気で心配していたわけではないが、直嗣の苦笑から噂以上に現場を引っ搔き回していることは容易に察せた。
五年間。それが神崎雀と雨取照にアストレアが下した教育と護衛を兼ねた懲罰期間。
《鏡の争乱》では姉妹は被害者であったが、あの事件で十四万人の住人が巻き込まれたという事実に加え、結果的にとはいえ宮藤カイへ加担し、更に涼を始めとしたアストレア構成員への被害を無視するわけにはいかなかった。
更に厄介なことに、雀と照はいまや赤服の権能の保持者でもある。魔術翁の脅威は去ったとはいえ、五輪市に留まらせる事は危険と判断したのだ。
同時に神崎家の五輪市の霊地の所有権を凍結したことで、全権代理者に指名されていた涼に所有権が渡った。
その為、事件以降涼だけが五輪市に留まり、雀と照は現在都内の大学に通いながらアストレアでコキ使われているのだ。
接触が禁じられているために、事件以降涼は雀と照に一度も会っていない。電話やSNSでの連絡さえ禁止されており、許可されているのは古式ゆかしき手紙のみ。しかし最近ではその手紙も返事が来ないでいた。
噂が絶えないので元気なことは疑っていなかったが、こうして直嗣から話を聞くまで涼の中では不安の影が差していた。
表情には出さず、そっと安堵の息を吐いた。
再会が叶うのは、彼女たちが残りのお役目を果たしてから。
この二年半も忙しかったが、やはり彼女たちと過ごした一年と半年には及ばない。
「む。シャノン、いま何時だ。新幹線」
「そうでした。まだ余裕はありますが、少し急ぐ必要がありそうですね。お義父様、宜しければ最寄りの駅まで送って頂けますか?」
「いいよ。元々そのつもりで来たんだし。さ、乗って」
突然の申し入れにも。直嗣は嫌な顔せずに応じた。
早速後部座席へ乗り込もうとし、涼は遅れて気付く。
後部座席の窓にスモークが張られており、中の様子が伺えない。
アストレアでは護衛任務を請け負うことも珍しくないため、この手の処理はおかしなことではないが、常用するものではない。襲撃を受けた際などでは、後部座席に座る者の対応が遅れてしまうためだ。
「義父さん。これは不味いだろ」
「空きの車がこれしか無くてさ。まあ防弾仕様でもあるから、大目にみてよ」
「……はあ。義父さんじゃなかったらタクシーを呼んでいたところだ」
呆れつつドアノブに手をかける、その直前。
突然勢いよくスライドドアが開け放たれ、中に潜んでいた何者かに襟を掴まれた。
予想外の奇襲に反応が遅れた涼は強引に中へと引きずり込まれ、口を塞がれてしまった。
覚えのある弾力と……やはり経験のある前歯への衝撃。
半ば自動的に引き抜いていたナイフが涼の手から零れ落ちる。
最も鮮烈に刻まれた記憶。
宵波涼の全てをひっくり返したキスの味だ。
ゆっくりと唇を離す。誰かなど確認するまでもない。
「こんな不意打ちに引っかかるなんて、一等監視官様は大したことないのかしらね」
「……そういう君は進歩がないな」
「煩いわね。ファーストから二年半も間が空けば上達も何もないでしょうが」
「最もだが、やはり勢い任せは君の悪癖だぞ。……元気そうで何よりだ、神崎」
呼び慣れた、馴染み深い名前を呼ぶ。それだけで心の内に吹いていた隙間風が凪いでいくようだ。
以前より大人びてパンツスーツが良く似合う神崎雀がそこにいた。
「蓮鶴のままなのね、宵波君。違和感があるようで、無い。不思議」
「君、朝食ちょいちょい抜いているだろう。もしくはゼリー飲料で済ませているか。顔色を見ればわかる」
「激務に忙殺された人間が最初に削るのは睡眠か食事と相場は決まっているわ。要するに私たちの自炊スキルは全く伸びていないし、伸ばす気もない」
「……まあ、君らしいといえばらしいがな、雨取」
伸ばした髪の一房を赤く染め、女性として成熟しつつある雨取照が涼を出迎えた。
再会の喜びが込み上げてくると同時に、懐かしさと、それ以上の安堵に自然と口元が綻ぶ。湿っぽさとは無縁とは思っていたが、久方ぶりの再会でも涙の出番はなさそうだ。
「それで義父さん、これはどういうことだ。立派な命令違反だぞ」
「昇格祝いのサプライズだよ。僕が彼女たち拉致っただけだし、気にしない気にしない。ま、五輪市に帰すのは不味いけど、駅までならね。正直本部でも手に余りまくっているから、連れて帰って貰っても別に良いんだけどね。っていうか拉致ってよ。一等監視官は人事異動の優先決定権があるんだからさ」
「あら直嗣の叔父様。それって私たちの仕事ぶりに不満があるわけ?」
「部下の功績は上司の評価に直結するわ」
「ソダネー。差し押さえるはずの物件が吹き飛んでたり、解体するはずのカルト教団の全教徒が誰かの私兵に洗脳されたりしてなければ、もっと鼻が高かったと思うよ」
「即断即決」
「諸行無常」
あまりにも灰汁の強い姉妹を制御するのはベテランといえど不可能であったか。直嗣はがくりと肩を落とした。
涼たちを乗せ車はゆっくりと発進する。
事件以前は雀も照も自らの運命に抗うためにどこかで余裕を欠いていた。しかし寿命という憂いから解き放たれたことで、それまでの鬱憤を晴らすかのごとく暴れまくっていた。当然、故郷から引き剥がされ、涼との接触を禁じられた不満もここに含まれている。
仕事はきっちりとこなすが、戦闘に関してはやること成すことが全てオーバーキル。監督役が胃痛で病院送りになるたびに涼の評価が鰻登り。図らずも涼の異例のスピード出世を手助けしていたことを、もちろん本人たちは知らない。
「雀、照。あまりお義父さまを困らせないように」
「私らなりのスキンシップよ。アンタはアンタですっかり従者が板についてるわね、シャノ」
「旦那様の身の回りのお世話は私の役目ですから。貴女たちの部屋も埃を被らない程度に手入れはしています」
「宵波君。彼女とは同居しているの?」
「まあな。土地の管理があるから、君たちの屋敷に住まわせて貰っている。だからじゃないが、あの不名誉な噂はそのままだ」
――あの丘の上の洋館には魔法使いが住んでいる。
女性へと転身した術師にその従者。むしろより噂に近くなったともいえるか。
直嗣が運転する車の中で、会話が途切れることは無かった。
新幹線の発車時刻に間に合うギリギリまで、ワザと遠回りしてくれた直嗣には頭が上がらない。
やがて駅に着き、涼とシャノンは五輪市へ帰るため、雀と照は見送りのために改札を通り抜け、プラットホームへと上がった。
ちょうど電車の到着を知らせるアナウンスが入り、電車の先頭車両が見え始める。
涼は雀と照に向き直り、シャノンは一歩引いた。
「さて、名残惜しいがまたお別れだな」
「宵波君。権能を使えば、貴女を元に戻すことも出来ると思うのだけど」
「うん。たぶん出来る。やろうか?」
一度は消滅したはずの雀を蘇生したほどだ。権能を突き詰めれば、鼠を人間に仕立て上げることだって可能だろう。
事件以降、権能を振るったことは一度として無いが、相手が涼であるならば絶対に成功する自信が雀と照にはあった。
いや、恐らくは涼でなければならないのか。
「厚意は受け取っておくが、遠慮しておく」
しかし涼は首を横へ振った。
間もなく電車が来る。黄色い線の内側へ下がれとのアナウンス。
「これも俺だ。過去の清算も残っているし、何よりこの人は恩人でもある。夢の世界で会ったことあるだろ?」
涼の眼は美しい蒼玉色を示す。その身命をもって涼を救った大恩人の瞳だ。
「そっか。野暮なこと聞いちゃったわね。まあ、その姿なら他の女を垂らし込むこともないか。ん~でも女同士かぁ」
何やらぶつぶつと呟く雀の顔は赤い。
そんな姉を無視して、照は涼へ一歩近づく。
「宵波君、屈んでちょうだい」
「うん?」
言われたと通りに屈むと、照は涼の後ろ首に手を回すと、しゅるりと細長い何かを巻き付け、喉元で小さな花を模した結び目を作る。
首を着飾るのは、青と銀の糸で編まれたリボンだ。
「金を付け足すことは許してあげる。他は許さない」
「首輪と口約束だけとは、君にしては控えめだな。男も女も傷心に付け込まれると弱いものだぞ。最近自覚したことだ」
「…………」
やや躊躇って、照は小さく両腕を開いた。
その意味を察せぬほど、涼は鈍感ではない。彼女の人生はその短さに対してあまりにも環境の変化が激しすぎる。雀と共にいるとはいえ、照の心の拠り所はとても少ない。
壊れものを扱うように、優しく涼は照の華奢な肩を抱き寄せた。蓮鶴となり背丈はかなり縮んだはずなのに、照はこんなにも小さい。背中に回された照の手はなんと細いことか。
「何かあれば絶対に駆け付ける」
「ええ」
「義父さん達は死なない程度に使うといい」
「うん」
「朝食は、少しでいいから頑張って食べてな」
「……善処するわ」
最後の返事は少し湿り気を帯びていた。
電車が到着する。下車する人々が吐き出され、入れ替わるように利用客が乗車していく。
いつまでもこうしていたいが、時間だ。
抱擁を解いて、従者と共に電車へ。
「言っておくけど、あと二年半も大人しくする気ないからね、私達」
「君なら五輪市に本部を移すぐらいやりかねないな、神崎」
「おっと、その手があったか」
「言っておくがシャノンは割と肉食系だ。あまり遅いと骨までしゃぶられているかもしれんぞ」
「だ、旦那様っ。そのことはどうかご容赦をっ」
ドアが閉まり始める。
再び、暫しの別れだ。
「会えて嬉しかった。体調には気を付けろよ」
「アンタにだけは言われたくないっての。シャノ、涼のこと頼んだわよ」
「また、手紙を書くから」
「お二人とも。ご帰宅をお待ちしております」
ドアが閉まり切り、電車が動き出す。
電車はぐんぐんと加速し、あっと言う間に彼女たちの距離は開いていく。
「いつまでもお仕え致します、旦那様」
「……君は本当に出来た従者だ」
永遠の別れではないと分かっていても、心は追い付かない。
この日初めて、シャノンのハンカチはその役目を全うした。
✝ ✝ ✝
――あの丘の上の洋館には魔法使いが住んでいる。
五輪市の有名な噂話だ。
小高い丘陵地帯、うっそうとした林の中に隠れるようにして建っている古臭い屋敷。
真相を確かめようという酔狂な輩がいたのなら、きっと拍子抜けするだろう。
住人が彼女たちなら納得だと。
濡羽色の黒髪に菊柄の着物。
長い髪を翻し、自由闊達、大胆不敵を地で行く舌切り雀。
命を吹き込まれた西洋人形、あるいは鏡の国の住人。
月女神の寵愛を賜った金糸の髪に、宝石の瞳。
いずれか一人でも噂の信憑性には十二分。
勘の鋭い者ならたまに街を騒がせる奇怪な事件でピンと来るかもしれない。
そういう世界もあるのだと。
確かなのは街中で見かける彼女たちの表情には曇りがないことか。
勿論、人生に起伏がある以上常にではないが、少なくとも『もしも』を求めない彼女たちの笑みには確かな幸せが宿っている。
これにてこの物語はお終い。
術師界を騒がせた鏡海はその後二度と開かれることは無く。
権能もまた、時の流れに風化していくようにその力を失っていったという。
余談だが、ある時SNSでとある挙式の画像が話題を集めた。
真っ赤なウェディングドレスで着飾った花嫁を写した一枚だ。
【完】
これにて完結となります。
非常にのんびりとした更新ペースでありながら、ここまでお付き合い頂き本当にありがとうございました!
よろしければ感想や評価をいただければ、これからの創作活動の励みになりますので、どうかよろしくお願いします。
それでは改めて、最後までお読みいただき本当にありがとうございました!!