終章・十九節 権能降ろし
鍵盤を涙が叩いた。
照の頬を滑り落ちて、次から次へと零れ落ちる水滴がピアノを震わすことは無い。
「ごめんなさい……ごめんなさい、宵波君……」
華奢な身を包む、緋色のマントコートを抱き締めようとして、どれほど自分が卑しいか思い知る。
雀を通じて、寒がりな照に合わせてデザインされた赤服の権能だ。
複製品に過ぎなかった照の魂が確かな強度を獲得し、鈍かった感覚の明度が上がる。
いまの彼女であれば、銀幕が解除されても街の修正に巻き込まれ消滅することはないだろう。
全ては赤服の権能によるもの。
その気になれば人形にさえ命を吹き込むばかりか、人間の魂の階梯を上げることさえ可能となる、正に神から与えられた力だ。
魔術翁が、そして結果として照と雀が欲して止まなかった超常現象。
いずれ今日が歴史上の出来事と処理される頃には、彼の犠牲は献身へと美化されるのだろうか。
「それは、絶対に嫌」
鏡海から出力された照はどことも知らない雪山に放り出された。
わけも分からず雪山を彷徨い、案の定生き倒れたところを運よく登山者に発見され、一命を取り留めた。
神崎照として、自分が生まれなかった世界に出力された事を思い知らされ、怒りに任せて日本へと飛んだ。
復讐といっても過言ではない。自分を創り出しておいて、碌な寿命も与えず、何処とも知れない土地に捨てた神崎家を本気で憎んだ。
振り返れば、やろうとしたことは魔術翁と大して変わらないのだから、救いようがない。鏡海を手中に収めて、生き永らえようとは浅はかな考えだ。
よく知った初対面の姉と殺し合い、同じ屋根の下で暮らすことになったがそれだけ。姉妹だからといって特別意識することもなく、むしろ他人に近く、その頃の照はとにかく生に飢えていた。
焦った結果リスク管理もままならず、七榊響を招き入れるという最大の失態を犯す羽目にもなった。
いたずらに時間だけを浪費して、結局は活動限界を迎えたのが昨年の十二月。子供の癇癪のように雀に喧嘩を吹っ掛け、自力では何も解決できず、何も成せず、彼の手で生かされた。
同じだ。あの頃から雨取照は何一つ成長しちゃいない。
そればかりか、小娘のように泣きじゃくるばかり。
大嫌いだ。
照は、甘えてばかりの雨取照が心底嫌いだ。
慟哭を続ける心を壊すように、胸を握り締めた。爪が肌を傷付け血が滲んで痛かった。生きているのだから当然だ。
生きているのだから、いつまでも蹲ることなど許さない。
許すものか。
「…………ッ」
涙を振り払い、魔道具を兼ねるピアノを弾いた。
鍵盤の上を照の細い指が踊り、滑り、時に大きく跳ねる。
仕込みは事前に済ませている。
街は変わらず彼女の『門』から出力されたままだ。ここは彼女の領地。土足で踏み入る不埒物は容赦なく叩き潰してくれる。
✝ ✝ ✝
「寒い」
カイが銀幕を越え再び五輪の街に踏み込むと、空は飽きもせず雪を吐き出し続けていた。
黙々と街を白に塗りつぶしていく雪片はカイの太ももを優に飲み込むほど降り積もり、止む気配は一向に見られない。
「スー君は雀ちゃんも照ちゃんも殺せなかったんだねぇ。赤服の呪いも案外だらしないね」
そのお陰で計画に大きな修正はなかったわけだが、失敗したところで同時並行で進める一つに過ぎず、この身体もそのうちの一つ。
誤算があったとすれば、随分と背丈が縮んだことか。
魔術翁の肉体に致命的な欠陥が生じた際に、人格と記憶を隔離された胚に写し、新生させる仕込みはどの個体も共通だ。しかし子供の姿で生まれ出たことは今回のケースが初めて。
どれだけ精査しても術式に欠陥は見つからず、起動自体も実に滑らかなものだった。
「まあ追々調べるとしよう。歩きにくいけど」
強制的に成長することも出来るが、やたらと喉が渇いて仕方がない。強制成長のみならず、規模に関わらず魔術を行使すれば必ず渇く。
厄介なことに水では癒えず、人の生き血を口にするまで渇きは治まらない。家畜では駄目だ。かといって人間なら誰でもいいわけでもなく、経験上一番収まりがいいのは病人だ。ここにも注文が付き、なるべく死期が近い人物に引き寄せられる。屈辱だった。
はじめは少しでも己を慰めようと健康な若い女を求めたが、逆に症状は悪化する一方だ。
吸血行為に快楽を覚えたことなど一度としてない。道具を拵えるために眷属を増やすことは必要に迫られるが、好んで自分から吸血鬼に成り下がる奴の気が知れない。
しかし今日でこの忌々しい因果とも縁を絶つ。
厄介な赤服の呪いも解呪された上に、術者である涼を殺した。最早脅威ではない。
そう思えば胸が弾む思いだ。
足元が雪で塞がれていなければ、年甲斐もなく踊りだしたいぐらいに。
「ふふ……ふっふふふ、あははははは──ん?」
カイの歩みがふと止まる。
向かっているのは神崎家の屋敷だ。目的は勿論、鏡海の『門』である照。
逃げずに屋敷で待ち構えていると踏んでいたが、やはりそう馬鹿正直な迎撃はしないか。
少なくとも五か所から照の魔力を感じる。
五輪高校、王陵女学院、河川敷、駅前商業ビル、そして五輪ハイム。
あからさま罠だ。もしくは全てブラフで時間稼ぎが目的か、あるいは両方か。
いずれにしても無視という選択肢はない。
照の偽装は魔術翁から見ても舌を巻くほどの技量であり、この場で気配の真偽を見極めるのは至難の業。
もたもたしていては鏡海の干渉を受け、カイは再び監視官の宮藤カイへと書き換えられてしまう。いまは術式で防いでいるが時間は限られている。
「仕方がないなぁ、もう」
大きな溜息が零れる。
渇くからなるべく魔術は使いたくないが、場所も時間もカイの味方ではないのなら、多少の出血はやむなしだ。
ぶん回した魔力に呼応し、蛇の刺青が蠢く。まるで意思を持ったように刺青が肌を這い、肩甲骨のあたりに達すると、筋肉が激しく波打つ。
やがて肌を突き破り現れたのは一対の翼だ。
鳥類のように羽根で覆われたものではなく、皮膜で風を掴む蝙蝠のそれに近い。
広げれば優に三メートル以上はあるか。自身の倍以上ある翼の感触を確かめるついでに血糊を払う。
「ああ、喉渇いたなあ」
火照る身体を冷ますことには事欠かないが、血が欲しくてたまらない。
獣に成り下がる自身への嫌悪感など吹き飛ぶほどに。
目玉が赤熱し、牙が疼く。
──血が欲しい。
「よい、しょっ!」
次の瞬間、カイの姿が掻き消え、一拍遅れて地面が爆ぜた。
高速で空中に躍り出たことで、バチバチと音を立てて雪粒が身体で弾けるが、カイは意に介さない。
最も近い照の気配は駅前の商業ビルへ向け、加速し続け、あっと言う間に目標が迫るが、カイは速度を緩めない。適当な窓から正面切って突っ込む。
「一つ目ェ!」
ガラス片を派手にまき散らし来店したのは、生活雑貨の店が軒を連ねるフロア。非常灯のみが灯る暗闇の中であっても、外国色の強い雑貨屋から気配を発せられ、迷わず発生源を砕いた。
やはり空振りだ。鏡魔術で偽装されたものだろう。
発信源はいまでは珍しい瓶コーラの自販機。
「なんのつもりかな」
こんなものでは慰めにもならない。
足元に転がる瓶コーラを踏み砕き、壁を突き破って再び外へ。
途端に凍てつく空気が容赦なく肌に刺さるが、構わず次の五輪高校へ進路を取る。
駅前から五輪高校までは徒歩であっても十五分ほどの距離にあるが、いまのカイにはこの程度は眼と鼻の先のようなもの。
ジェット機さながらに街を横断し、目的の建物は直ぐに見えた。
気配の位置をすぐさま割り出すと、微かに眉間に皺が寄った。
構わず突っ込んだ先は、何の変哲もない三年生のとある教室。教壇の前に学校机が整然と並んだ、宮藤カイが一年だけ過ごした場所だ。
「いい趣味してるね」
生徒か教員の趣味か。囮のガラス花瓶を砕き、再度外へ飛び出す。
どうせ他も囮だろう。なら馬鹿正直に一つ一つ潰すのも面倒だ。
屋上の向かうと、フラッグボールの根元を蹴り壊すと、更に適当に二等分する。
数百キロは下らない鉄柱を両手に上空へ飛び上がると、遠視の魔術で強化した視力で王陵女学院、そして神崎邸を見据えた。
王陵女学院では、舞踏会で慣れないドレス姿で照のダンスパートナーを務めた舞踏場のシャンデリア。
河川敷では、雀と持ち寄った花火でぼやを出しかけた橋の街灯が、各々の囮の発信源。
いずれも宮藤カイの記憶に刻まれた場所だ。
「趣向が古いよ!」
投擲。
人間を遥かに凌駕する膂力と複合魔術をもって、ただの鉄柱をミサイルに化けさせる。
間もなくして轟音が二度、火柱と共に夜気を震わせる。同時に囮の気配も沈黙。
残りは一つだ。
「さて、じゃあ神崎邸に……あれ?」
無意識に丘の上の洋館へ向かおうとして、違うと気付く。気配がするのは賃貸マンションの五輪ハイム。
カイが五輪市に派遣される際、仮住まいとしてあそこが候補に挙げられたが、立地の悪さから直前で入居を取りやめた場所。完成から数年たったいまも空き室が目立ち、ゴーストマンションなどと揶揄されている。
あそこだけはカイとは殆ど縁がない。だというのに発せられる気配が強くなり、更に一定のリズムまで刻み始めた。
短点と長点の組み合わせで文字を表す、モールス信号。使用される符号はアルファベットだろう。
投げかけられる言葉はごくシンプル。
──Here.
「……ふうん?」
イマイチ照の狙いが読めず、カイは首を傾げた。
迎撃の用意は間違いなくあるはずだが、いまのところそれらしい動きは見られず。
時間稼ぎにしたって中途半端な上に、あのマンションが迎撃に適した場所とも思えない。神崎邸を捨ててまであそこで迎撃する意図が不明だ。
「まあいいか。行けば分かる」
念のために道中警戒は怠らなかったが、無駄骨であった。拍子抜けするほどあっさりと目的地についてしまう。
やはり何の変哲もない賃貸マンションだ。人払いは済ませているのか、不気味なほどに静まり返っている。
気配を辿りとある一室の玄関前に辿り着き、思い出す。
数日前に雀がここを訪れていたはずだ。入居者はおらず、空室の部屋の中で危く凍えかけていた。
偶然ではないだろう。
ドアノブに手を伸ばす前に、扉がひとりでに開いて来訪者を招き入れる。
長らく人とは無縁の部屋が溜め込んだ無機質な匂いが吐き出される。
「ごきげんよう、宮藤さん」
短い廊下の向う。リビングの中央で目的の人物は堂々と身を晒していた。
真っ先に目に付くのは彼女が纏う緋色のマントコート。忌々しい赤服の気配だ。
「いいお召し物だね。どこのブランドかな?」
「オーダーメイドよ。ついさっき届いたばかり」
「少し煙草の匂いがするね。返品した方がいいんじゃないの?」
「私はキスマークも見せつける位置につけてもらうわ。襟と鎖骨の境目に大胆に」
「……ふうん。君、彼とはそういう関係だったのかい?」
「肌は元より、内臓と骨まで見られた仲よ」
「それはそれは、なんとも情熱的だ」
軽口を叩きながら、カイは室内に視線を走らせた。
嫌な感じだ。なんら脅威は感じないのに、踏み込むのを躊躇う自分がいる。生理的な嫌悪感にも似た感覚。照の赤服がそうさせるのか。
「ここは宵波君が住んでいた部屋よ。内装の九割は雀が持ち込んだものだったけど」
パンっと、照が手を打ち鳴らすと殺風景だった部屋にテレビやソファといった家具が現れ、観葉植物の彩りが加わる。
調度品は必要最低限ではあるが、テーブルに投げ出された雑誌や、バルコニーで干された洗濯物が揺れ、キッチンからは食欲をそそられる匂いが漂ってくる。
それらは直ぐに薄れ、霧散し元の空き部屋に戻ってしまったが決して幻の類ではない。
確かにあった営みだ。
「なるほど、君がここを選んだ理由がなんとなくわかったよ」
宮藤カイとこの部屋には縁がない。
鏡海が展開されている五輪市はいま、αの街を下地にしてβ世界の五輪市を張り重ねているような状態だ。現実に映し出されているのはβではあるが、αが消滅しているわけではなない。
場所によっては、α世界が顔を覗かせることがあっても不思議ではない。
例えば強力な呪いの持ち主が長らく住み着いていれば、十分にその可能性はある。
逆に監視官としても魔術翁としても、カイはこの場では異物だ。他の場所と比べても存在強度が揺らぐ。
「で? 罠だと分かっていながら僕が踏み込むと思う?」
直接触れずとも照を捉える手段など幾らでもある。
カイの目的はあくまでも鏡海の『門』であるため、手足がもげようが機能さえ無事であればどうでもいい。
「思うも何も──」
すぅ、と照の目線が下がる。
「──もう入っているようだけど?」
「っ!?」
指摘され、気付く。いや気付かされた。
いつの間にかに敷居を越え、框に踏み込んでいる。
幻術だ。一体いつ掛けられたのだ。照を相手取ることに備え何重もの幻術対策を施してきたというのに。
その上で掛けられた瞬間さえ分からず、自覚さえさせななど、照の技量はそこまで異次元なのか。
──いや違う。掛けられたんじゃない。僕が掛かりに行ったんだっ。
恐らくは先程の囮がやはり罠だったのだ。
手段を問わずカイが自らアレを破壊することが幻術をかける条件。カイと所縁のある物や場所を選んだのは、注意を逸らすためのブラフ。
慌てて離脱しようとするも、遅い。
勢いよく玄関扉が閉まり退路を断たれる。
「たった一歩分騙すだけでも重労働」
次の瞬間、五輪ハイムの敷地内に存在する全ての鏡とガラスが一斉に砕け散った。窓ガラスは無論、各部屋の鏡やLED照明、ペットの水槽に至るまで悉く。
まるで世界が砕けたような破砕音の共鳴を皮切りに、空間が歪み、照へと落ちていく。
咄嗟にドアノブに掴まり、翼を打って抵抗するが、子供の矮躯がぎちぎちと悲鳴を上げる。
「なんだっ、これは、まさか重力!? 編纂魔術なのか!?」
「半分正解。重力でもあるし、編纂魔術だけれども、もう一次元足りないわ」
かの物理学者、アルベルト・アインシュタインは自身が発表した相対性理論で、空間と重力の相対性を提唱した。
論文の内容をざっくりと説明すると、空間とはピンと張られた布のようなもので、重力とはここに置かれた物が作り出す穴だという。この穴に物質が落ちていく現象が万有引力。
だが照の編纂魔術といえど、空間を歪ませるほどの重力は作り出すには出力が足りない。
カイを引きずり込んでいるのは重力の他に、もう一つ。
「赤服の権能か!」
「正解」
βの五輪市という不安定な布に落ちた、権能という巨大な星が作り出す穴が空間の歪の正体。
存在強度が脆い物質であればたちまちに崩壊し、形を保てなくなる地獄の渦だ。巻き込まれてしまえばカイといえど塵も残らず消え去るだろう。
「でもそれ、危いのはむしろ君の方じゃない? いくら権能で存在強度を補強したとはいえ、元が壊れかけの複製品だ。君の器はその赤服に耐えられるかな?」
「別に耐える必要はないわ。壊れたのなら、貴女には不都合でしょう? 私が欲しいのなら早めに召し上がれ」
最初から自滅込みで誘い込んだということか。仕込みがさっきの幻術だけでないのなら、迂闊に飛び込めば照の思う壺。時間はカイに味方をしない。
「なるほど、なるほど。そう言うことなら遠慮なく頂いてしまおう!」
直後、カイの魔力が再び唸りを上げ、呼応した蛇の刺青が枝分かれし、凍結されていた機能が解放されていく。
刺青は術式を描き出し、鼓動を強める心臓が解放された魔力炉と同期したことで、全身の経絡系の異常活性を促す。
同時に銀幕を生み出している、五輪市の上空に敷かれた術式がこれに伴い再起動。土地から貪欲にエネルギーを吸い上げ、吐き出され続ける雪が蛍火のように輝きだしゆっくりと逆流していく。
今この瞬間に、天使化の術式を発動させる気だ。
「ありがとう、スー君。君が情に流されたおかげで、僕は再び神の席に着く!」
元々儀式と編纂魔術が重なることで発生したのがこのβ世界の五輪市。
裏を返せば、術式そのものは待機状態にあり、お誂え向きに街を飛び回ったことで修正する時間も用意して頂いた。
五輪市上空に黄金に輝く三重環が描き出され、鐘楼の音が響き渡る。
鏡海の主権を奪い取り、人工権能へと昇華させ全能の座へ舞い戻る──はずだった。
「無理よ、お馬鹿さん」
「!?」
術式が突如として停止する。
カイと術式陣との接続が途切れ、再起動を試みても反応がない。
「しまった……!?」
遅れて重大な失念に気付く。
天使化の術式は、魔術翁が吸血鬼から脱し再び権能を手にするためのものだ。鏡海はこれを実行するためのプログラムを引き出すために利用されているが、真っ先に引き出されるのは魂の浄化に関するもの。
それは赤服の権能そのものであり、支配権は鏡海の魔術師である照が握っている。
どれだけ強硬手段に訴えようとも、カイの手の届かない領域へ隔離されたのだ。
魔術翁が忌み嫌う赤服が呪いであって初めて、人工権能は成立しえた。
「くッ、おのれ宵波涼……!?」
はじめてカイの余裕が崩れる。
青筋を浮かせ怨嗟を吐く相手はつい先ほど自分が殺めたばかり。涼に赤服を留めておけば、また違った運命があったかもしれないとは、何とも皮肉だ。
「なら君を直接操って」
「それが出来ないから、魔術翁は宵波君をただ殺したのでしょう?」
「くッ……!」
カイが離脱しようと翼を打つが、照がそれを許さない。
空間の歪みから撃ち出された無数の帯がカイを縛り上げ、重力空間に磔にする。
時間が経てば経つほど、重力によって何倍にもなった自重によって帯が肌に食い込み肉が裂かれていくが、それを待つつもりは無い。
彼女もいい加減泣きつかれた頃合いだろう。
「最後よ。けじめをつけて、雀」
「言われなくても、分かってるわよッ!」
玄関扉を蹴破り、涙で頬を濡らした雀が重力空間に躍り出る。
「雀ちゃんっ」
「アンタも被害者には違いないだろうけど、歯を食いしばれ馬鹿カイッ!」
振りかぶった拳に魔弾を握り締め、友人であった少女との決別を叫ぶ。
深紅のドレスを翻し、振り抜かれた右拳がカイの顔面に突き刺さる。
手加減無しの魔拳の一撃。
炸裂した魔弾は咄嗟に展開された魔術障壁ごとカイの顔半分を吹きとばし、付与された権能によって魂さえ砕いた。
意識を手放したその身体は抵抗力を失い、重力場によって崩壊。身に纏う服さえ残さず霧散し、跡形もなく消滅していった。
術式が解除され、雀が降り立ったそこは元の殺風景な空き部屋。照明や窓が軒並み吹き飛んだことで、余計冷たい印象が強まってしまった。
「……」
「──」
雀も照も、言葉を発さない。視線すら交わさず立ち尽くした。
勝利の余韻などありはせず、ただただ虚しさだけが横たわる。
ジュっという小さな音が鳴り、部屋に小さな明かりが生まれる。
照が慣れない手つきでライターを擦り、咥えた真新しい煙草に火を点ける。細巻き煙草だ。
「……くらくらする」
「……私にもちょうだい」
咥えたものを手渡され、雀も口にして、直ぐにむせた。
やはり煙草は嫌いだ。
煙たいし、目に染みるし、美味しくもないし、何より服に匂いが染みつく。
折角の形見が台無しではないか。
ドレスを抱き締めると、また涙が零れフローリングを叩く。
子供みたいに大声で泣きわめきたくて、けれどそれをするにはあまりにも自分が惨めだった。
嗚咽を堪えるのが精一杯。
姉妹の涙は枯れることなくフローリングを濡らし続け、けれど永遠に枯れることのない涙もやはりなく。
「『門』を閉じる。永遠に」
「そうね……そうするべき」
鏡海を閉じ、街を元に戻す。
事態の元凶はいなくなった。二度と同じことを引き起こさないよう、『門』と『鍵』を破壊する。
「あいつの煙草、まだ持ってるでしょ?」
「ここに」
照が懐から取り出したのは、一本収納タイプのシガレットケース。
赤服の呪いを呪詛として封じ込め、蓄積された代物。現存する涼の煙草の最後の一本。
この呪詛で『門』と『鍵』を汚染し、誰も手出しできないように封印する。形見として湿気らせておくよりずっといいだろう。
雀が咥え、照がライターの火を点ける。
窓が砕けているので手で風よけを作りながら、姉妹は近づく。
「線香はこれでもいいかな」
「行けるの?」
「しばらくは無理、だと思う。行っても、まずはご家族になんて謝罪すればいいか、分からないもの……」
「……そうね。その通り」
火が点り細くうねる煙が立ち上る。
紫煙に溶け込んだ呪詛で舌が痺れるようだった。味は勿論最悪で、吸い心地もとにかく悪い。
すんなりと呪詛の手綱を握れたのはやはり赤服のお陰だろう。呪詛へと変換されていた最後の赤服の呪い。
「照」
「ええ」
これで最後だ。
二人の手が重なり、呪いが姉妹を繋げ──
「──やっぱりその煙草を使うとしたらここだよね」
死神の嘲笑が鼓膜を震わせた。
次の瞬間、影から湧き出た無数の蛇の群れが一斉に襲い掛かり、雀と照に次々と嚙みついた。
「なっ、どこから……!?」
「やられた……毒っ」
大量の神経毒が注入され、急速に身体が麻痺していった。華奢な照は無論、膨大な魔力量を誇る雀でさえ抵抗できない。魔術師専用に調合されたものなのか、魔力が上手く練れず、それは赤服との接続にまで影響を及ぼす。
雀の深紅のドレス、照の緋色のマントコートが陽炎の揺らぎ、そのまま霧散してしまう。
権能自体が失われたわけではないが、少なくとも能力は封じられてしまった。
さらにはまるで意趣返しとばかりに束になった蛇たちが雀たちを縛り上げ、物理的に身体の自由を奪う。その間も何匹かの蛇に噛みつかれ、痺れに拍車が掛かる。
「うんうん。傷心の乙女に付け入るほど簡単なことは無いね。いつの時代も絶対に悪い男が絶えないわけだ」
上機嫌に、弾むように、左手の扇子を扇ぎながら宮藤カイは堂々と姿を現した。
赤熱した両眼に鋭利な牙。蛇の刺青には魔力が通い、全身に術式の網を巡らせている。
背格好は当然、肌に伝わる気配や魔力、声の質や高さまで全くの同一。
本物だ。間違いない。
「どうしてっ!?」
「確かに倒したはず、とでも言いたげだね。使い古しの反応だけど、種明かしをすればこっちも手垢まみれの手品さ。これ、なんだか分かるかい?」
勿体ぶることなく、カイは手にした扇子を雀の目の前で広げてみせた。
漆塗りの骨組みに、一目でわかる質の高い和紙には金箔で描かれた朧月と彼岸花。
この形代自体を見るのは初めてだが、間違いない。
「宵波君の……式神!?」
「大正解。きっと役に立つと思って、さっきついでに拝借しておいたんだ。銘は確か──『岩戸の鏡』だったかな」
その名には雀と照にも覚えがある。
昨年に起きた猟奇殺人事件の首謀者である、アストレアの元諜報官の倉橋を出し抜く際に涼が使役した式神。
その能力は同一人物。術者と全く同じ姿、身体能力、記憶、人格まで有するというものだ。
「でもそれは複製体が必要なはずじゃっ」
「おいおい、そんなコストが掛かる問題点をいつまでも放置している人じゃないことは、君達も知っているだろう? 肉体の材料と十分な霊力さえあれば、直ぐに分身を用意できるよう改良いているさ。いやホント、僕が殺したのがこっちじゃなくて良かった!」
逃がしてしまえば面倒だからね。
口を三日月形に歪め、カイは扇子を掌に叩き付け、破壊した。
「お陰でまんまと君達を騙し切れたわけだしね。愛しているよ、スー君」
「か、カイッ、アンタ──」
激昂する雀の頬にカイの裏拳が飛んだ。
拳は小さくとも吸血鬼の膂力で放たれれば、拘束された少女を痛めつけるには十分以上。
あまりの衝撃に雀の首の筋肉から嫌な音が鳴り、奥歯が二本ほど折れて飛んだ。
「心配しなくてもいいよ。君達にはこれからもうんとお世話になるからね。ちゃんとご飯も食べさせてあげるし、服だって着せてあげる。──まあ、一生薬漬けの人生だけどね」
カイは雀から視線を切るとその隣の照の服を掴み、力任せに引きちぎる。
「……っ」
抵抗力を奪われた照が出来ることといえば、精々が睨みつける程度。それすらも神経毒で満足に出来ない。羞恥心と無力感がどっと押し寄せ、眼の端から零れる。
「さて、いま君たちの身体には赤服の呪いと権能が同居している状態だ。麻痺毒で満足に権能が振るえない今、二つの力は拮抗しているはずさ。つまりは……」
空間が、いや街全体が振るえる。
しんしんと振り続ける雪が再び輝きを放ち、上空に展開された天使化の術式が放つ黄金の光が地上を真昼のように照らし出す。
「僕の望みを阻む力は今この瞬間、何処にもないということさ!」
「くっ……! 由良撃ってッ、私たちごと吹きとばしてッ!」
襟元に隠した雀の血を媒介した特殊無線機に叫ぶ。
微かな躊躇いの気配の後、引き金は引かれたのだろう。
術式よりさらに上空。銀幕越しでさえ視認できる断罪の光──《アストレアの剣》が全てを焼き尽くさんと振り下ろされた。
剣と術式が接触した瞬間、街の全てが光に塗りつぶされた。




