終章・十八節 赤いウェディングドレス
「──その権能、ここで砕いてあげる」
甘く耳元で囁くのは赤目の宮藤カイ。
その細腕は深々と涼の胸を貫き、悪趣味な一輪の花を咲かせた。
「 」
心臓を潰された。
致命傷だ。
霊力が足りない。修復は間に合わない。
分かる。これは助からない。
──死ぬ。
「ッ!!」
だが今すぐではない。
義手が跳ね上がり、心臓を貫くカイの腕と首を噛みつくように掴む。凄まじい握力に加え、掌の仕込みスパイクを打ち込み、逃がさない。
「す──」
「離れろッ!」
顔を青くする雀を問答無用で蹴り飛ばして遠ざける。
「健気だね、スー君。自爆でもするつもりかな?」
「そんな下品な仕留め方を許す人たちではない」
「んん?」
直後。真横から打ち出された巨拳と掌底にカイの頭部が爆散した。
純粋な膂力と達人の発徑に加え、瞬間的に流し込まれた霊力によって一気に水分が沸点を超え膨張。外部と内部から一瞬で頭蓋を破壊しつくした。
駆け付けた大和はすぐさまカイの腕を肩から切断し、倒れる涼を由良が抱き留めた。
「俺の霊力を使え! 直ぐに心臓を直すんだ!」
「術式で直接血中に酸素を送りますっ。ゆっくりでもいい。確実に治療しなさい! 神崎雀、貴女も協力しろッ!」
「わ、分かってる!」
カイの死体になど目もくれず、大和と由良は緊急処置の態勢に入った。
しかし二人には応急処置の技術はあっても、心臓を修復するだけの医療技術は習得していない。この中で涼を治療できるのは彼本人のみ。
幸いカイの腕は抜けていない。出血も見た目ほど派手ではなく、心臓さえ修復してしまえれば延命は可能だ。
「ダメだ……まだ終わって、ないっ」
一気に呼吸が苦しくなりがらも、涼が懸命に大和たちの背後を指差す。
「なッ!?」
「馬鹿なッ」
「カイっ」
大和、由良、雀が三者三様に驚愕を露わにし、我が目を疑った。
首を粉砕され、腕を切断され、壊れた蛇口のように夥しい血を噴き出しながらも、カイの身体はさも当然とばかりに直立している。
「ダメだねぇ。頭を壊したぐらいで油断しちゃ。僕は魔術翁だよ? 灰にするぐらいは念を入れないとね」
あざける声の出所はカイの体内から。
もったいぶるつもりは無いらしく、カイの臍を突き破るように小さな掌が飛び出し、両の手で引き裂くようにして、一糸纏わぬソレは現れた。
子供だ。カイをそのまま幼くしたような背丈と容姿。
だが明らかに別人だ。
吸血鬼特有の赤目と牙に同じだが、頭髪は艶のない白髪に変色し、こめかみの位置から角が生え、身体の至る所に蛇のような刺青が這い回っている。
何よりの特徴は体内に流れる禍々しい魔力か。
対峙しているだけで、まるでざらついた触手に舐められているような生理的な不快感に見舞われる。
似たような感覚を涼と由良は国枝の地下室で味わったばかりだ。
──《セラフィム》。正確に創り出された天使の器そのもの。
なぜあれがカイの中から出てくるのか。
「ダメだね、スー君。天使を警戒しているなら、僕が《セラフィム》をモデルに造られたって知った時点で問答無用で破壊しなくちゃ」
「……っ、作者は、お前かッ」
「ピンポーン。まあどの魔術翁かは知らないけれどね。あの人形に見初められた人間は強制的に僕の働きアリになるんだ。だってよく考えてみれくれよ。それまで魔術の教養なんて一切なかった中年が、僕を造り上げられると思うかい? 出来る訳がないだろう」
確かに不可解とは思っていた。
どれだけ調べても国枝忠隆という男には魔術の教養はおろか、魔術師の家系ですらない一般人だった。
ただ運命の悪戯か。一生埋もれるはずの才能が《セラフィム》によって強制的に開花させられたのだろう。
実際、国枝の魔術師としての技量は平均を大きく下回るが、天使に関しては逸脱している。
「本人に洗脳されている自覚はないだろうから、自分が創り出したものの全容は理解していないよ。まあ、流石に鏡海の編纂は計算外だったけれど、こうして保険は生きていたし、忌々しい赤服を潰せたのは正に僥倖だ」
「ダラダラと話が長ぇぞロリ痴女がッ! 御託は死んでからにしろッ」
激昂した大和が飛び出す。
地面が爆ぜるほどの強烈な踏み込みで瞬きの間に間合いを踏み倒し、巌の如き拳をカイへと叩き付ける。
隔世遺伝で鬼の体質を発現した大和の拳は重機と何ら変わらない。単純な右ストレートだが、直撃すれば戦車さえスクラップにする威力を誇る。そこに常人を逸する踏み込みが加算され、避ける暇を与えない。
拳が振り抜かれ、肉が弾け、骨が砕ける。
──大和の右腕が。
「な、に……!?」
直撃している。確実に。
大和の右拳はカイの顔面に直撃しているが、壊れたのは彼の腕の方。
カイに至っては鼻血すら流しておらず、頭から降り注ぐ血に舌を出していた。
「おや。腕が潰れて悲鳴を上げないのは男前だけど、味はイマイチだね。夜遊びに子慣れてる感じがマイナスかなッ!」
「ッ、しま──」
未だかつてない悪寒を覚え全力で飛び退こうとするが、遅すぎた。
意趣返しとばかりに鳩尾に打ち込まれた掌底の出鱈目な威力に、大和の身体が滑空同然に吹き飛んだ。勢い衰えず緩い斜面に叩き付けられ、舞い上がった大量の土砂と土煙がその威力を物語る。
「がはッ……!? なんだ、この馬鹿力はっ」
夥しい量の血が大和の口から零れ落ちる。身体がバラバラになっていないことが不思議なほどの激痛の嵐。意識を保つことが精一杯だ。
「頑丈だね、まだ人の形を保っているなんて」
感心したような口ぶりだが、最早カイから興味は失せていた。魔術で編んだ薄布で胸と腰回りを隠し、その上からショールを羽織るとそのまま立ち去ろうとする。
その足元に飛来した魔弾が着弾して爆ぜる。
言うまでもなく、雀が放ったものだ。
「待てカイ。逃がすと思うかッ」
「いいの、僕なんかに構って? まあ、追わないと照ちゃんが危ないもんね」
「ッ、お前ェッ!」
自分でも信じられないほどの激情に駆られた叫び声。
今ここで、その二択を突きつけるのか。
耳元まで裂けていると錯覚するほどに、カイは口の端を吊り上げ、街へ向けて飛び去った。狙いは無論、照と街に敷かれた天使化の術式だろう。権能を取り戻した赤服には興味も示さないか。
「待てカイ!」
「止めろ神崎雀! それより手を貸せッ、早くッ!!」
切羽詰まった由良の怒鳴り声に、雀は我を取り戻し、次の瞬間には顔面を蒼白にした。
由良に抱えられた涼の胸がどういうわけか白く染まっている。
飛びつくように駆け寄って、直ぐに気付く。
塩だ。貫かれた胸を中心に、体組織が塩に似た物質へと変質していき、白化現象は更に波及していっている。
いまは何とか由良が血液を無理矢理回して凌いでいるが、白化が他の臓器に達すれば生命機能を保てない。
「何よこれ、何したのよアイツ!?」
「魔力を霊力に変換しなさいっ! 無理なら私に注ぎ込め、加減はいらないから急いで!」
言われるまでもなく全力で魔力を注いだ。由良が驚異的な速度でこれを霊力に変換し、涼に注ぎこむが、白化現象に歯止めが利かない。
眼に見えて涼の呼吸が浅くなり、顔から血の気が引いていくばかりか、白化した組織が次々と崩れ落ちていき、小さな山ができ始める。
もう先程から目も開いていない。
「俺の心臓を使え! 好きなだけ持っていけ、遠慮なんてするなっ。おい涼! 兄貴の言うことが聞けないのか、オイッ!!?」
重症の身体を引きずって大和が必死に呼びかけるも、涼の瞼は重く閉じたまま。
「生きなさい、これは上官からの命令だッ。背けば規律違反になることは貴方も重々承知しているでしょう!?」
否応がなく伝わってくる死の感触に由良の声が震える。
「どうしてよ! 権能を取り戻したんでしょ、どうして自分を救えないのよ!? 嫌よ、こんなの、ねえっ!? 私らに生活能力がないの知ってるでしょ!? 好きって言わせるって、約束したばかりじゃないっ!?」
流した大粒の涙でさえ彼が崩れていく現実が受け入れられず、雀は形振り構わず叫び散らした。
白化は──止まらない。
止められない。カイが仕掛けた魔術なのか、霊術なのか、それとも呪いなのかすら雀たちには理解すら叶わない。
もう半分以上が白化に喰われた。
衣服と義手を残して、無情にも宵波涼を壊していく。
だから、最後に彼女に触れられるのだから、義手も悪くはない。
「かん、ざ、き」
「涼!? 早く権能を使って、まだ間に合う!」
それを許す魔術翁ではない。心臓と同時に霊力の製造工場である経絡系を破壊した上に、涼と権能の繋ぎを切り離された。白化はほんのおまけに過ぎない。
だが権能を振るうことは出来ずとも、渡す権限は生きている。
愛した人に着せることが出来ずに、人の生き血を啜る吸血鬼に堕とされたのだ。その真髄を理解しているはずがない。
眼を開ける。義手を持ち上げる。いまの彼にとってはそのどちらも途轍もない苦行だ。
義手の重みに耐えかねて身体が崩れるが、知ったことではない。
必死に伸ばして触れた雀の頬は濡れていた……と思う。やはり義手は駄目だ。
視界は随分とぼやけて、水で滲んだ水彩画のようだった。
「いいひとを、みつ……け、て……」
ざあ、と宵波涼だったものが崩れた。
砂とも塩とも分からない何かに変わり果てて。
好いた人に、とびきり美しい朱のドレスを渡して。
「あああ、あああ……!」
赤服の権能──継承。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああっ!!?」