終章・十七節 解呪の徒花
遠隔呪殺の手応えはあった。
人形を使用する場合とは異なり、自らの肉体を人形の代替にすると、少なからず相手の感覚が雪崩れ込んでくるからだ。恐怖や苦痛は勿論、死に近づく寒気まで。
目玉を真っ先に潰したのは正解だった。誰だって視界を唐突に奪われれば、動揺は避けられず、痛みが冷静さをさらに奪う。
一度に複数人を呪うのは得策ではない。呪詛が分散するからだ。
故に一度目はもっとも体力を残しているだろうカイを狙い、両眼を治療し二度目は赤服を通じて雀を呪った。
自分の身でやるのは初めてだが、二度もやればコツを掴むというもの。三度目は更に呪詛を強化し、照を狙った。流石に距離が開いているために呪詛の減衰が激しいが、一度でダメなら何度もやればいいだけの話。
お陰でクラッキングが緩んだまではよかった。
全身を襲っていた寒気が急速に失せて、安堵を覚える暇もなく涼は激しい困惑に陥った。
「蓮鶴、なぜ戻ってこない」
視界の吹雪は収まり、体温も正常に戻りつつある。雀と照のクラッキングが失敗に終わった証左だ。いかに彼女たちと言えど、赤服を御することなど出来るはずがない。
そのはずだ。
「蓮鶴! おい、蓮鶴ッ!」
いくら呼びかけても式神からの応答がない。
意識を集中すれば、涼の中から赤服が消えたわけではないのは確認できるが、気配が希薄だ。形代の糸切り鋏も壊れていない。
嫌な予感に駆り立てられるように涼は両眼を治療すると、外へ飛び出し、直ぐに異変に気付く。
「やはり鏡海が閉じていない」
依然として五輪市を覆う銀幕は保持されたままだ。雀たちが赤服に屈したのなら、何らかの変化があって然るべきだというのに。
空を見上げれば、文明の光に埋もれず輝く凶星。もう隠蔽術式で隠せる段階は過ぎ、月すら欺こうというあれこそがアストレアの秘匿兵器、通称を『剣』だ。
もはや最大出力を待つ猶予はないとみたか、由良が起動させたか。
スマホから『剣』の状態を確認すると、やはり照射シークエンスに移行している。準備が整うまで約三十分。
願わくばあれの威力が実証されるような事態は避けたい。
理論上、あの『剣』は世界中のどの地上も焼き払うことが出来るのだ。
その戦略兵器としての価値は言うに及ばず、下手をすればアストレアは国際社会から危険視されかねない。
『剣』はあくまでも最終手段。
ただ事によってはその最悪の切り札を切らざるおえない。
再装填を済ませたコルトSAAを構え、涼は雀たちの血痕を頼りに森へと飛び込んだ。
本格的に冬が到来し始めたことで、足元は真新しい落ち葉に覆われているために、接近を気取られないよう木の根や岩を足場にして駆ける。
赤服の影響が希薄だからか、身体が軽く、戸惑う。
もう十年近くこんなことはない。赤服を継承する前の七榊家で過ごした幼少期でさえ、絶えず涼の身体は悲鳴を上げ続けてきた。
一時的にせよその宿命から解放されたというのに、こうも心細く感じるものなのか。
気配を消しているというのに、つい煙草に手が伸びてしまう。
それも倒れる人影を発見した途端、緊張に押し流されたが。
直ぐには近づかず、距離を保って確認した。
「宮藤か」
木の根元で倒れるカイは完全に気を失っているものの、遠目からでも呼吸は確認出来る。血で汚れた前髪の下から大量の血が流れ、小さな支流が幾つも形勢れている。
その直ぐ傍。
ペンキをひっくり返したように、赤い水溜りが月の光を反射している。
馴染み深い呪いの気配。他に人影はない。
慎重に近づき、やはりカイが気を失っていることを確認してから、赤い水溜りへ。
側に寄ってから気付いたが、女性服が沈んでいる。
真っ赤に染まっていて分かりづらいが、間違いなく雀が身に着けていたものだ。
彼女が愛読するファッション誌でよく取り上げられている有名ブランドだったはず。流行りのメンズファッションも取り扱っており、何度か薦められたことがある。
銃を仕舞い、服を回収しようと手を伸ばす。
「この服が遺体代わりか……」
赤服。その名に相応しい最後だ。
「──とでも言うと思ったかッ、神崎雀ッ!」
「っ!?」
叱声と共に涼の両腕が何かを大きく引き寄せた瞬間、幾筋もの稲妻が地面を駆け抜けた。
稲妻の正体は超極細のワイヤーに通された雷気。
ここまでの道中に這わせていたこれを、一気に巻き取る。
ピュンピュンと鋭い風切り音を立て暴れるワイヤーは雷気を纏っており、道中の樹木など意に介さず全て切り刻んでいく。
削岩機さながらに森の一部がズタズタに引き裂かれ、たまらず彼女は潜んでいた大木から飛び退くことを強要される。
「そこかッ」
随分と気配が探りにくかったが、炙りだしてしまえば問題ない。
コルトSAAを抜銃から構えを経由せず、薙ぎ払うように発砲。
術師であっても飛行や空中歩行は至難の業。
弾丸は吸い込まれるように人影に迫り、しかし人体を貫くことなく無数の糸となって弾けた。
──やはりかッ!
弾丸は防がれたのではない。強力な呪いに弾そのものが耐え入れず、呪いとなって砕けたのだ。
奇襲を潰したつもりが、誘われたか。
『剣』の凶星を背に、頭上に躍り出た彼女は待機させていた術式を解放。掲げられた腕を中心に術式陣が広がり、広がり、更に広がる!
「ば……ッ!?」
目算でおよそ直径二百五十メートル。
神崎雀お得意の絨毯爆撃。
「なんてね」
逆光で陰る雀の指が下から上へと振るわれ、本命の術式を起動。
頭上を仰ぐ涼をあざ笑うかのように、地面から飛び出した魔力の縄が涼を捉えた。
上手い。神崎雀=火力という印象を巧みに利用して、足元への警戒を逸らした。
彼女は地面に降り立つと、規模が大きいだけで碌に魔力も籠っていない術式陣はさっさと消された。
「カイがいるからね。考えなしに爆撃なんてしないわよ」
「……おい」
「離せっていうならお断り……って、あれ? 解けてるんですけど」
「熟知した相手の魔術なんぞ、暗号化されてなければ解除は造作もない。覚えておけ、大馬鹿者。ハッタリでも上の術式は維持しておくべきだったな。そんなことより──」
油断なく銃を構えたまま、目の前の少女を改めて足元から観察する。
横に並べば涼の肩辺りにあるはずの彼女の頭が随分と低い。
「随分と愛らしい姿になったな、神崎雀」
どういうわけか、再び邂逅した雀は若返っていた。
未だ十代の雀には似つかわしくない表現だが、恐らくは小学生高学年あたりの姿か。
長い黒髪と眼つきはそのままだが、背丈は二十センチ以上縮み、女性らしいボディラインも成りを潜めている。
極め付きは彼女が袖を通すゴシックドレスだ。黒を基調とし大胆に肩を露出させながら、大きく膨らんだジャンパースカートにはこれでもかとフリルがあしらわれ、蜘蛛の巣状の網目のストッキングで脚を包んでいる。同色のつば広帽子には彼岸花が咲いていた。
何もかもが涼の知る神崎雀の背格好と異なる。
「へえ。愛らしだなんて。あんた実は幼女趣味なわけ?」
「ああ、なるほど。その姿は君の意思ではないか。ならムマか」
簡単な誘導尋問に引っ掛かり、雀は面白くなさそうに眉間にしわを寄せた。
いまの反応で確信した。目の前の少女は間違いなく神崎雀その人だ。同棲同然の生活の中でずっと観察してきた経験に裏付けられた確信。
だが議論するまでもなく雀は高校生の女性だ。小学生ほどの少女ではない。
抜け殻となった赤い衣服と、目の前の少女を交互に見やり、涼はギリリと奥歯を鳴らした。
「赤服か。今の君は」
「正解。流石に理解が早いわね」
どうりで赤服が涼へと帰らないはずだ。蓮鶴に与えていたはずの人格の器を、雀に奪われ、主導権を乗っ取られたのだ。
信じがたいことに、肉体を捨ててだ。
つまり、抜け殻の服を抱いたあの赤い溜まりは、間違いなく雀そのものだということ。
それでも肉体を差し出したところで、到底彼女の独力で赤服を掌握出来るはずもない。
やはり先代の赤服継承者であるムマが手を貸しているのは確定だ。
「言いたいことも聞きたいこともあるだろうけど、訂正と謝罪が一つずつ」
銃口を突きつけたまま、涼は視線で続きを促した。
「まず彼女……ムマって名前なの? 彼女が私をこういう風にデザインしたのは間違いないけど、別に寝返ったわけじゃないわ」
「ならあいつを出せ」
「謝らなきゃならないのがそこ。自分をリソースにして、赤服に適応するこの身体を組み上げたみたい。だから、ごめん」
「…………」
彼女ならそういうことも可能だろう。何しろ涼の人形制作のスキルは元々は彼女のものだ。
どういうつもりでムマが雀を生かしたのか。それは聞くことはもう永遠に叶わない。
雀たちを通して察しろ、ということだろう。
「まあでも、経緯はどうあれ赤服は私たちが手中に収めた。そこに異論はある?」
「……なにが言いたい?」
「赤服の呪いを解けば、正常化した権能で照もカイも救える」
「君らの計画には何の保証もなければ裏付けもない、ただの希望的観測だ。何が起きるか分からない以上、街の住人を巻き込むような真似は絶対に許さない」
「なら天使化の術式を使わずに呪いを解けたら、話は違うでしょ」
「……なに?」
戯言と口走りかけて、雀の眼差しで言葉は押し止められた。
見栄でも虚勢でもない。
どんな難題も強敵と対峙しても、無茶と無謀を力づくで押し通して、結局は最もスマートに納めてきた神崎雀の眼だ。
しかし今回は事が事だ。
「言っている意味が分からんな。そんなことが出来れば苦労はしない」
「なら今ここで解いてやるわよ」
「正気か?」
「マジだけど」
益々困惑してきた。
本当にこの場で赤服の呪いが解けたのなら、確かにこれ以上ない結果だ。魔術翁の脅威や赤服の権能の扱いなど、問題は残るが街の住人を巻き込む憂いが無くなるのは大きい。
出来るはずがない。
だというのに、雀は妙に自信ありげだ。
信じるべきか、それともこれ以上判断を鈍らされる前に討つべきか。
「まあ、解く前に少し確認しておかなきゃならない事があるんだけど……いや多分正確には必要無い気もするし……まあ、心の整理が必要というか」
涼の葛藤とは裏腹に、雀が急に落ち着きを無くす。
視線があちこちに泳ぎ、やたらと歯切れも悪い上に、帽子の位置をせわしなく直している。
「君らしくないな。ハッキリ口にしたらどうだ」
「う、うっさいわね! こっちは散々ムマにイジメられた後で傷心の身なのよ。ちょっと今から清水の舞台から飛び降りるんだから待ちなさいよね」
「…………」
物凄い剣幕で怒鳴り散らされ、涼の困惑はいよいよ極まりつつある。若干気圧されたことを誤魔化すように、無意識に手が煙草に伸びた。
「…………その、涼」
「なんだ」
「ぶっちゃけ、私のことその……どう思ってるの?」
「質問の意味も意図も分からない」
また睨まれる。今度は若干眼が潤んで頬もやたらと紅潮している。
察しろと言うことだろうが、人の心境を読み解けるほどの余裕がいまの涼にはない。
雀も遅れてそのことに思い至ったか、少々バツが悪そうにもごもごと口を動かす。
「だから、その……異性として意識してるかって……そういう意味」
「君を男だと思ったことは無い」
「性別の話じゃないってのッ!」
会話が噛み合わず雀は地団太を踏んだ。この辺りは外見年齢通りか。
常磐津で女性に変身した涼にも身に覚えがあるが、肉体に精神が引きずられるのは良くあることだ。
その経験に乗っ取るならば
「別に赤服に感化されたとか、そういうのは無いから」
「自分の内情を正確に把握している人間は少ない」
「だから拙くても言葉に出すんじゃない。言葉も感情も結構曖昧なものだけど、感じ取れるものはあるでしょ」
「なら早く言葉にしろ」
「……余裕ないわね」
「あるものか」
「ええい、もう……!」
小さな握り拳を作って、やけくそとばかりに雀は大きく身を乗り出した。
「──私を彼女にしたり、抱いたりしたいかって聞いているのよッ!」
叫び声が夜の森に反響する。
シンと静まり返った空気が震え、直ぐに凪いでいった。
耳が痛いほどの沈黙が横たわり、どれだけの時間が経っただろうか。
伸びた煙草の灰が重みに耐えかねて、崩れ落ちた。
「君をそういう目で見たことは無い」
短くも、確かな拒絶の意思が込められた言葉。
「……理由は?」
「その赤服の威力は君も知っているだろう。触れただけで家族を傷つけたことも、捕縛するはずの犯罪者を殺してしまったことだってある。本音を言えばいまだって人通りがある場所を歩くときは緊張する。恋人など以ての外だ」
普段から涼が極端に肌の露出を嫌っている理由でもある。
雀たちの身の回りの世話をしていたのは、ある種の願望だ。触れられないからこそ、焦がれてしまった。
「恋愛感情や性欲が皆無といえば嘘になるが、やはりその手の意識はしていない。鞘に納めているとはいえ、刃物を手にしながら恋愛ができると思うか?」
「……それは」
「無理だろう。それに、子供のころに七榊家で散々人体実験紛いのこともされたし、治療とはいえ夢魔の食い物にされた時期もあった。治療や戦闘以外で誰かの身体に触れるのも、触れられるのも苦手だし、怖い」
「……ごめん」
「別に君に謝られることじゃない。それらを抜きにすれば、神崎のことは魅力的だとは思っている」
「……なんか、最後は含みがある感じ」
「殺すかもしれない相手だ。感情は切り離せても、無くすことは出来ない」
コルトSAAの銃口はいまもピタリと雀を捉えたままだ。冬の冷え冷えとして月光が、銃に刻まれた無数の傷跡を浮き彫りにする。
引き金を引けば相手が誰であろうとも、銃は弾丸を走らせる。最後には撃ち手の感情すら置き去りにして。
同じ射手であっても、一発に込められた覚悟と、切り捨ててきた迷いはきっと雀とは比較にならない。
呪いを奪おうなどと、浅はかな考えだ。どういう経緯で継承したにせよ、宵波涼の人生は赤服の呪いと隣り合わせで、彼の人間性を育てたものの一つ。
だからこそ、ムマは雀を生かしたのだろう。
結局は返さなくてはならないのだから。
これはそういうものだ。
「涼」
意を決して雀は一歩踏み出した。
我儘を言えば両想いであって欲しかったが、それも良いだろう。
この先のことを思えば楽しみですらある。
「動くなッ」
「撃つなら遠慮しないでどうぞ。腕でも足でも、お腹でも。当然の仕打ちだし。抵抗はしない」
更に一歩距離を詰める。
銃は吠えず。射手は表情を険しく歪める。
更に一歩。
子供の歩幅ではたった数メートルの距離でも遠く感じる。
違うか。必死だったとはいえ、雀が自ら開いてしまったのだから。自業自得だ。
涼はまだ撃たない。
本当に呪いを解く術があるのか、罠なのか、判断がつかず、引き金にかける義指が震える。
撃つべきだ。これ以上彼女に赤服を持たせるべきではない。赤服の呪いの恐ろしさを一番よく知っているのは誰だ。
つい先ほど呪いと同化した小娘が、解呪など出来るはずもない。
奪い返すべきだ。今すぐに。
四年前のように、傍観すら出来なかった過ちを繰り返すならば、奪って罪を背負え。
もうあと数歩の距離だ。
貴様は監視官だろう。背負った正義は嘘だというのか。
撃て。何を躊躇うことがある。
──既に一度、神崎雀を殺したようなものだろう。
「 」
ふっ、と腕から力が削ぎ落ちた。
掌からコルトSAAが滑り落ち、落ち葉の上へ沈む。
「……ごめん」
「………………何に対してだ」
気付けば、手を伸ばせば触れられる距離にいた。
いつの間にかに雀は元の年齢に戻っており、先程よりも目線の位置はずっと近い。
けれど視線は絡まず。
鎖のような沈黙に縛られる。
「涼」
呼び慣れ、聞き慣れた名前。
「避けたければ、避けて」
言葉の意味を問う暇もなく、最後の一歩はこじ開けられた。
勢いよく、強引に、飛びつくように重ねれた唇。
柔らかさを感じる前に、歯と歯がぶつかってしまいロマンも何もない。余韻と称するには強すぎる衝撃。
初めてなのだ。仕方がないだろう。
それでも二度と訪れないこの瞬間を魂に刻み付けて、名残惜しくも唇を離す。
「好きよ、涼。アンタにその気がないなら、その気にしてみせる」
だから、この力は返す。
解呪の時。
涼へと返還された赤服の呪いが罰としての役目を終え、本来の機能を取り戻す。
その名の通り、彼の使い古しのコートが鮮やかな朱に染まり、権能を宿す。
呪いで傷付いた身体が癒えていき、生まれて初めて全身で世界を感じた。自分の鼓動さえ知らなかったと思えるほどに。
「 ああ」
無意識に唇を撫でる。
クリアになった全身の感覚の中で、焼けつくような熱の余韻。
ファーストでこそないが、拙くも最も鮮烈な甘さがそこにはあった。
この衝撃をくれた当人は澄ました表情を作ろうとして、けれど顔色がありありと心情を語っていた。
「一応、ファーストだから」
「そうか」
「……アンタは?」
「二回、死にかけている時にされた……と思う」
どちらも曖昧な記憶しか残っていないが、キスの感触など覚えていない。あるとすれば死に際の這い寄るような寒さか血の味だ。
このような強烈な刺激、経験したことなどない。
それより──
「本当に解けたのか?」
身に起きた情報を処理しきれない。
確かに赤服は返還された。
しかし、間違いなく呪いではない。
身体の内に宿る力の鼓動は暖かく、それでいて覚えがある。
──シャノンだ。彼女が起動させた権能の魔眼と同種の高次元の気配。
未だ信じ難いが、紛れもない事実が涼に宿っている。
「キスで呪いが解けたと? そんなお伽話のようなことが……」
「何よ、不満?」
「そういう話では」
「じゃあ、どうなのよ。言っておくけど、返答次第じゃただでは済まさないから」
銃を象った指先に魔弾を装填し、雀は突きつける。
顔は相変わらず羞恥に染まっているが、眼は血走っている。返答を間違えれば本気で撃たれるだろう。
身長に言葉を探るも、慣れない情報処理に思考回路が熱暴走を始めかける。
雀もここは譲れない。
「……一生に一度の味だった」
ようやく絞り出したのは、そんな他愛のない感想。
「お、お粗末さまで……」
消え入りそうな声で何とかそう返すのが雀の精一杯。指先の魔弾は煙を上げて消滅した。
「服、だからね」
「?」
「赤服よ。服って言うぐらいだから、着るものでしょ。他の権能はどうか知らないけど、誰かに委ねて初めて効力を発揮するものなんでしょ」
言われて涼は自身を見下ろす。
目も覚めるような朱に染まる赤服の内側には、雀の存在を強く感じた。触れてもいないのに、繋がっていると分かる。
「それも多分、誰でもいいってわけじゃないでしょうけど。明確に好意を寄せている相手じゃないと駄目な気がする。要するに男女一組で扱う力なのよ」
──愛して。
幾度となく懇願されたムマの言葉が蘇る。
雀の仮説が正しいのなら、もっと早く呪いは解けたのだろうか。
赤服と同化したムマは、まだ両性具有であった涼の女性に宿った。記憶を失わずに、ムマに赤服を着せていれば権能は取り戻されたか。
だとすれば無様なほどの遠回りだ。
最初から涼が赤服を着せていれば、雀たちを救うことも、ムマが消えることもなかった。それ以前にカイが魔術翁に堕ちることもなかったか。
いや。どうあれ宵波涼には不可能だった。
全くもって、どうしようもない。
「……無様だな」
完敗だ。涼はこの事件の全責任を負う覚悟でいたが、解決への道程も間違えであれば、目指したゴールさえ見誤っている。現場を混乱させただけ。アストレア失格だ。
「いいじゃない、回りくどくたって。寄り道しなきゃ隠れた名店だって見つけられないし」
「名店なら隠れてないだろ」
「全部終わったら紅鹿亭に行こ。たまには奢るわよ」
「そうだな……全部終わったら」
解決へのの手段は得た。ならあとは実行に移すだけ。
「参った。君の勝ちだ神崎」
「そうよ。こんないい女に好かれたんだもの。光栄に思うことね」
「いい返事は期待するな」
「なにそれ、普通そこは逆でしょ」
「今日で自分のことが更に嫌いになった。面倒な男を好いたことを後悔しろ」
「もうしてるわよ」
「そうか。残念だったな」
「うそ。絶対アンタから好きって言わせやるから」
気付けばどちらも頬が緩んでいた。
じゃれ合うような会話に心が弾むが、やるべきことは山積みだ。
どちらともなく視線を合わせ、決意と覚悟、そして不安の欠片さえ共有した。
「手を貸してくれるか、神崎?」
涼から差し出された涼の手に、雀は迷うことなく応じた。
思い返せば、出会ってからこれまで手を取りあったことは無かった。
仕切り直しにはこれ以上なく相応しい。
二人の手が重なる、その瞬間。
──ドッ、と鈍い音が響き、涼の身体が揺れる。
時間が何万倍にも引き延ばされたようだった。
世界から音が消え、雀の眼前に不気味な蕾が映り込む。
開けば細くしなやかな五枚の花弁。毒々しい血と肉片に彩られた蕾の正体は手刀だ。
悪趣味な花が咲くのは、涼の胸部──心臓。
遅れて口から零れた赤黒い血塊が、雀のドレスを汚した。
「棚から牡丹餅とはこのことかな。まさか赤服の呪いが解けるとは」
涼にとっては未だ遠い過去。雀には耳に馴染んだ少女の声。
背後から涼の心臓を貫く彼女の変化は著しい。
爛々と輝くその両眼は鮮血よりもなお紅く、唇を割って鋭く伸びるのは犬歯。
顔に飛び散った血を親指で拭い、ベロリと舐め取ることに些かの抵抗も伺えない。
「みや、ふじ……お前……!?」
「ご苦労だったね、スー君。いい仕事をしてくれたお礼に──」
心臓を貫く腕を押し込むように背後から胸を密着させ、宮藤カイ──魔術翁は耳元で囁く。
「──その権能、ここで砕いてあげる」