終章・十五節 狙われた赤服
宵波涼と対峙したものは皆程度の差はあれ、必ず赤服の呪いを警戒してきた。事前情報で呪いを把握していれば近接戦闘は避けるか、入念な対策をもって挑むかのどちらか。
例え赤服の呪いを知らずとも、肌でその脅威を感じ取れるはずだ。
「正気か君たち!? こいつがどういう代物か分かっているのかっ」
青天の霹靂だ。呪いを奪おうとする輩など涼は考えたこともなかった。
ましてや内側からの対策など想定外もいいところ。
涼が気付いた時にはかなり奥深くまで侵入を許してしまっており、遅延させることも儘ならない。呪いの器である蓮鶴にこそ万一に備えて緊急の封印術を備えているが、彼女相手にそれもどこまで持つか。
「雨取ッ! どういうつもりだ。君がこれに触れれば即死だぞっ」
たまらず叫ぶが、やはり返答は得られず。
代わりとばかりに身体の深部から容赦なく体温が奪われ、息を吸うだけで肺が凍り付きそうだ。
ここが地下室でなければ、視界に舞う雪が幻覚の類とは信じられない。
かじかむ足先も、乱暴に頬を叩く風雪の冷たさも全部本物だ。
あるいは彼女の編纂魔術で、そう作り変えられているのか。
「神崎雀、貴女の仕業か」
「ご名答。正確には私は中継器なわけだけど」
「では討ちます」
交渉の余地はないとみたか、ナイフを抜いた由良が雀に詰め寄り、一気に緊張感が高まる。
慌てて涼が制止を叫ぶ、その前に国枝が由良の肩を掴んで止めた。
「何の真似です?」
「病気持ちの男が唾つけた女には不用意に近づかん方がいい。移されんぞ」
国枝の皮肉通り、雀は奪うと豪語した赤服の呪いを全く御しきれていない。
肌は焼けただれたように赤く染まり、指先は血管が破裂して爪は腐り落ちる寸前。汚染が激しい右目は既に見えていないだろう。
類い稀なる魔力量で無理矢理浸食を遅らせているが、ハッキリ言って焼け石に水。放っておけば一時間と待たずに雀は呪いに呑まれ、髪の毛一本すら残さず消えるだろう。
赤服とはそういう呪いだ。
涼には伏せられている事だがアストレア内でも以前、兵器に転用しようとした馬鹿が同じようにして呪いを採取し、そのまま消滅した事件が起きている。
呪いと称されてはいるが、適合者でなければその身に宿すことさえ不可能な力なのだ。
しかし、そんなことは雀たちとて重々承知のはず。
「先輩」
呼びかけと同時に、涼は懐から金属製の十字架を取り出し、由良に投げ渡す。
危なげなく受け取ったそれを確認し、由良の表情は微かに強張る。
「『剣』の起動鍵です。まだ溜まり切っていないが、最低限の出力はもう出せるはず。使うタイミングは任せます」
「…………分かりました」
やや返事に時間を要したが、由良は十字架を服の中へ落とすと踵を返した。
「国枝。非常口はありますか?」
「ああ。こんな研究してるからな、用意してるぜ。爆破装置こそないがな」
軽口を叩きながら、国枝は培養ポッドの足元に巧妙に偽装された非常口を開いた。人ひとりがようやく通れる狭い道に国枝が身を滑り込ませ、由良も後に続く。
ただ雀たちがそれをみすみす許すはずもなく。
「その十字架なんだか嫌な予感がするね、行かせないよッ!」
動いたのはカイだ。
ダンッと床を踏み鳴らした足を起点に、水晶の津波が培養ポットを迂回して二人に迫る。
「それはもう見た!」
まるで鏡合わせのように、一拍遅れて涼が踵を鳴らした途端、由良たちに殺到した水晶が唐突に見当違いの方向へ逸れ、壁や天井に衝突し無数の結晶をまき散らした。
無論、由良たちには毛先程も届いていない。
「うっそっ、『避雷針』!?」
いとも容易く自分の攻撃を捌いた涼の技に、由良は目を剝いた。
──『避雷針』。アストレアでも戦闘中に組み込める者は極僅かな防御技術だ。
仕組みは落雷から建造物を守る避雷針とほぼ同じであり、相手の術式を誘導し逸らす。
理屈は単純であるが、相手の霊力の波長を瞬時に把握し、尚且つ干渉しなければならない。成功すれば最小限の霊力で攻撃をいなせるが、失敗すれば防御や回避も間に合わずに直撃をもらうだけだ。
「ご武運を」
由良たちが脱出口へと消えるには十分すぎる時間だ。
国枝は雀たちの目的のアキレス腱だ。彼がアストレアに確保されてしまっては、五輪市を覆う術式そのものが解除されてしまうかもしれない。
咄嗟にカイは懐の拳銃に手を伸ばすが──
「遅いッ」
彼女より早く抜銃を終えた涼が地下室の照明を全て撃ち抜いた。
「しまっ……!」
暗転。
計器の僅かな光を残して地下室が暗闇に呑まれる。
人間を含め、動物というのは突然の環境変化に直面した際は必ず一瞬硬直する。
天才と称されるカイとて例外ではなく、雀に関してはこの暗闇は更に強烈に効いた。
「ぐっ、眼が……!」
自ら装填した魔弾の輝きを至近距離から直視してしまい、眼が眩み、反射的に顔を反らしてしまった。
不味いと、直感的に感じるより先に雀は凄まじい衝撃に身体を折り曲げていた。
腹を殴られたのだと理解したのは、胃の内容物が逆流してきた後。戦闘前はゼリー飲料しか口に入れないために、汚物をまき散らすことはなかったのが慰めだ。
「女を、殴るとか最っ低……!」
「クラッキングを止めろッ、今すぐに!」
「お断、がっ、ああああああ!?」
拒否を口にする前に、雀の全身が激しく痙攣し、悲鳴が上がる。
電流だ。神経を殺さないよう調整された拷問用の電気。
「拒否したな神崎ッ! いまのが最後のチャンスだったぞッ!!」
涼の言葉には激昂と焦燥が同居しており、彼のみならず雀の状態が相当危険であることの裏返しであった。
涼でさえ大半の霊力を赤服の封印に宛がわなくてはならないのだ。何の抵抗も持たない雀がこれに触れ続けてしまえば、無事では済まない。軽く観察しただけでも非常に不味い状況だ。
雀達にクラッキングを止める意思がないのなら、無理矢理引き剥がすしかない。後遺症は度外視。
これ以上クラッキングが進行すれば、それすら出来なくなる。
「させない!」
「お前は黙っていろッ」
背後から止めに入るカイに、振り向きざまに涼は雀を突き飛ばした。
カイは咄嗟に受け止めるものの、失策だ。人ひとり、ましてや電撃で身体が痺れた人間など拘束具と同義だ。
加えてこの暗闇が判断を鈍らせ、状況把握を遅らせる。
霊視の疑似魔眼を有する涼だけが例外であり、暗視ゴーグルを装着しているようにハッキリと二人を捉えている。
再装填が必要な銃を放棄し、予備の銃を抜銃──躊躇なく引き金を引いた。
暗室に咲く五輪の火花。
弾丸に付与された術式は《貫通》。折り重なった人間二人程度なら容易く貫く。
急所は避けならがも、撃ち込まれた五発の弾丸は二人の右側の肩と膝関節を砕き、左の脇腹をまとめて貫いた。
「ああっ!」
「ッ、いぎ……!」
悲鳴が重なり、小さく咲いた血の花々が倒れた二人の流血で塗り潰される。
小口径ながら、穿たれた十の銃創から壊れたように血が零れ、激痛をもたらす。血溜まりの熱が傷口を焼いてしまいそう。
直ぐに身を起こそうにも、右側の手足には力が入らず、左に重心を傾ければ脇腹に激痛が走り、反射的に傷を庇ってしまう。
折り重なっている状況がこれを悪化させた。藻掻くことしか出来ない彼女たちは、お互いの傷口を広げあってしまい、痛みを助長する。
無論、そうなるように涼が撃った。手心を加えてどうにかなる相手でもなければ、そんな余裕もないから。
涼が雀たちを熟知しているのなら、その逆も然りというわけか。
視界の吹雪は更に勢いを増していき、身体に雪が落ちるたびに体力と精神力がガリガリと削られていく。猛烈な倦怠感と眠気まで去来しはじめ、意識が遠のく。
予想外なのは照のクラッキングが力任せなのではなく、的確に赤服を掴んでいることだ。
いや違う。赤服そのものが照の元へ自ら行こうとしているようだ。
「蓮鶴……この浮気者が! お前は色仕掛けを仕掛ける側だろうがッ」
たまらず怒鳴り散らすも、いつもはあるはずの返答がない。
所有権を奪われつつあるということか。ならば急がなければ。
感覚が失せつつある脚に鞭を入れ、倒れる雀に駆け寄った涼は手を伸ばし──すり抜けた。
「クソッ!」
やられた。いつの間にかに幻覚を見せられていた。
内部に侵入されているのだ。この程度の小細工は照ならば息を吸うようにやってのける。
まんまと時間と体力を削られたというわけだ。雀たちを追跡しようにも、身体はもう冷え切り、意識は朦朧としている。膝から力が抜けて、何とか両手をついて倒れることはなかったが、それすらいつまで出来るか。
手を打つなら今しかない。
「神崎、雨取、やめろ……そいつは君たちが思っているような力ではないっ!」
赤服の呪いは罰だ。償うべき罪を清算しないままに権能に昇華する道理などあるものか。
鏡海と天使化の儀式を併用したとしても、罪が消えるわけではない。
しかし、涼の訴えはまやかしの吹雪にかき消された。
「……ああ、そうかい。とことんの喧嘩がお望みか」
今の涼は文字通りの這う這うの体だ。仕留めるも拘束するも容易いはず。にも拘らず放置したということは、雀たちを痛めつけたのは間違いないと推察できる。
逃がした由良たちの動向も気になるのだろう。涼は時間の問題と見切りをつけ、放置したか。
「これは宮藤、君のミスだぞ。こういうのは意識を狩って裸に剥いて拘束するものだ」
お陰で装備は全て無事だ。例え感覚を失ったところで、それは宵波涼にとって大した損失ではない。真っ先に封じるべきはむしろ装備の方だ。
「義手がこんなところで役に立つとはな」
生身の身体と異なり、電気信号さえ伝わってくれれば比較的義手はよく動いた。クイックリローダーから銃弾を外し、握り込んだナイフを取り落とさないよう義指の関節を固定した。
感覚が死んでいる分、その後のことに些かの躊躇いもない。
──振りかぶったナイフを勢いよく自らに振り下ろした。