終章・十三節 分水嶺
「説明しろ国枝ッ。返答次第では今すぐ撃ち殺すぞッ!」
怒髪天を貫くとはこのことか。
我に返った涼は憤怒の形相で国枝の胸倉を掴み上げるなり、近場の本棚に叩き付け銃口を国枝の額に突きつけた。その拍子に国枝の眼鏡が外れ、地面を打つ。
心臓を脅かすほどの憤りもそうだが、それ以上の困惑に涼は襲われていた。
培養ポッドで眠っているのは、間違いなく宮藤カイだ。
例え当時の記憶が曖昧であろうとも、彼女に染みついた赤服の呪いが本物であると雄弁に語っている。
間違いない。遺体のは呪いは四年前のハイジャック事件で、制御を失った呪いの暴走で他ならぬ涼が辱めたものだ。
何故ここにその亡骸がある?
もしこの彼女が本物なら、銀幕の内側で対峙したカイは一体誰だ。
「答えろッ。それとも無理矢理吐かされていか! 俺が人体に慣れ親しんでいることは貴様もよく知っているはずだッ!」
「ぐっ……おち、つけ……!」
「生憎と余裕はないっ。だから俺の理性が無くなる前に白状することだッ!」
「……はっ、そう言うが、大体の予想はついてるんじゃないのか……?」
──あの日死ぬべきはお前だった。
いつだったか吐きかけられた呪いが脳裏に蘇る。
未来が無数に枝分かれしていても、それを証明できなければ唯の虚言だったが、あの銀幕の内側ではそのIFをまざまざと見せつけられた。
ほんの僅かな運命の掛け違いで、死後さえ弄ばれるのか。
心臓が空っぽになったような冷たさに、全身が強張った。
カチカチと、愛銃が微かに震える義手の中で凶器を孕む。
半ば我を失い、まるで相応しい咎を求めるように引き金に掛る指に力がこもる。
「お、おいおい! 待て宵波っ! 話を──」
──ガウンッ!
銃声が轟いた。
膝から崩れ落ちた国枝の額はしかし無傷だ。最近後退の著しい生え際を多少掠めたが、弾は背後の本棚に穴を開けたのみ。
見れば涼は由良に背後から抱きかかえられ、国枝から離されていた。
間一髪、上で待機していた由良が駆け付け、発砲寸前に涼を国枝から引き剝がしたのだ。
「これはっ、一体どういうことですか!?」
その彼女も、培養ポットに浮かぶカイの亡骸を目にし、困惑を隠せない。
監視カメラの映像とはいえ、由良も羽田空港に現れた宮藤カイを確認している。生前のカイとの関わり合いは少なかったが、由良の眼から見てもあれは間違いなく本人だ。
青ざめる涼を気遣いことすら忘れ、否応なく両刃短剣に手が伸びる。
「状況は、何となく察しました。貴方は何者ですか、国枝忠隆」
「ゲホッ、ゲホッ……まあ、見ての通り悪趣味な中年だよ。それでも一応弁解するが死体を辱める趣味はない」
刺し貫くような由良の視線を受けて、国枝はもろ手を挙げて敵意がないことを示した。
「遺体の窃盗はれっきとした犯罪だ。それに飽き足らず、ここで何をしている。正直弟子を止めたことを私は半分後悔している」
「なら少なくともアンタは冷静に俺の話を聞けるわけだ。俺としちゃ朗報だ」
国枝は白衣の埃を叩きながら立ち上がると、落ちた眼鏡を拾い上げてる。そのまま部屋の隅に設置してるコーヒーメーカーに近寄るとスイッチを押した。
豆が挽かれるやかましい音の後、黒い液体がカップに並々と注がれ、コーヒー独特の香りが研究室に漂う。
「まず結論から先に言うと、そこの遺体こそが本物の宮藤カイで、魔術翁を名乗りこの街に現れたのは、俺が造り上げた人造人間だ」
「…………つまり貴方が吸血鬼の祖、真祖だと言いたいのですか」
「話を急ぐな。俺は真祖じゃなくバツイチだ。実の娘の心無い一言に傷付く男だよ。精々が黒幕の歯車ってところだろう。……お前らも飲むか?」
「遠慮します」
由良の拒絶にさして機嫌を損ねることもなく、国枝は一人コーヒーを味わい、湯気で眼鏡を曇らせる。
「宵波。お前は疑問に思わなかったのか? 死亡が確認され、遺体が回収されたのにも関わらず、宮藤カイが魔術翁として現れたことを」
「それは……」
それは確かに涼の中で引っかかっていた事だ。
ハイジャック事件は涼の赤服の呪いが暴走し、犯人の吸血鬼は呪いによって消滅している。暴走のトリガーとなったカイの遺体も呪いに汚染で酷い状況だったという。
当時の涼は正気を失っており記憶がかなり曖昧であるが、駆け付けたアストレアの事後処理部隊によって、カイの遺体は確実に回収されている。呪いが深く根づいていた為に、火葬は望めず封印処置という形で満足に弔われないままに。
吸血鬼化したことでどこかのタイミングで蘇ったとばかり思っていたが、現に遺体はここにある。他ならぬ赤服の呪いという証拠を残して。
少なくとも、羽田に現れたカイと培養ポットの遺体は完全に別個体であることは間違いない。
「どうやって彼女を手に入れたッ」
涼が調べた限り、国枝博士には協力者やどこかの組織の援助を受けていることは確認できなかった。
だがカイの亡骸は特一級呪物に指定されている上に、アストレアが厳重に封印処置を施し、管理されている。国枝単独で盗み出すことは現実的に不可能のはず。
協力者がいるはずだ。それもアストレア内部に、恐らくは協会派の人物。
未だ銃を握り締める涼の問いに対し、眼鏡を曇らせた国枝の表情は伺い知れない。
「遺体はある日、匿名でここに送られてきた」
「その戯言が本当だとして、アンタは誰とも知らない亡骸を利用して、魔術翁を造ったというのか」
「良心を失っていることは否定せん。……少し話は変わるが、お前らは《セラフィム》ってブランドの人形を知っているか?」
「私は聞いたことがありません。涼、貴方はどうです?」
「…………滅多に市場に出回らない作者不明の人形の総称です」
由良が知らぬのも無理はない。国枝が持ち出したのは殆ど都市伝説に近い人形のことだ。それも制作されたのは十七世紀の中頃であり、現存しているのは片手で足りるだろう。
現代になっても作者は判明しておらず、作品に名も与えられていないために、題材から取られた《セラフィム》という通り名がいつしか定着していった。
その名が示す通り、人形はいずれも《天使》を模している。そのの名を確固たるものにしたのは時代を超越した技術力でも、精巧な躯体でも、美しさでもない。
むしろ対極にあるものだ。
「俺が見たのはレプリカですけど、《セラフィム》は俺の式神のように骨格や臓器まで作り込まれているが、その中身は人間とは別物なんです」
「別物とは、どういう意味です?」
「少なくとも、十七世紀以降の地球上に存在するいずれの生物の体構造とも異なる。……強いていうなら、昆虫で作った機械が一番近いかもしれません」
「ですがそれは特異な作品というだけで、創作物なのでしょう?」
「…………そのはずだ」
涼も由良と同意見なものの、その歯切れは悪い。
ここに来て、天使。
嫌な予見がした。
「国枝。あんたあの人形に魅入られたか」
「まあな。海外出張先のバザーに紛れててな。一目で虜になっちまった」
それがこれだと、国枝が本棚の後ろに隠された金庫から、カバーが被せられた鳥籠を取り出し、ゆっくりとカバーを外し中身を見せる。
「!?」
「……っ、ぅ」
中の人形が視界に入った途端、涼と由良は一瞬意識が遠のいた。
いや、引きずり込まれたのか。
直ぐに踏みとどまったものの、視界が揺らぎ、眼球が酷く痛む上に、強烈な吐き気が込み上げてくる。
拒絶反応?
目視しただけで?
それほどまでの強い忌避感が両者を襲った。
人形のサイズは一般に流通している十六インチと同程度か。砂金の輝きを持つ金髪は籠から溢れそうなほど長く、天使の特徴である両翼はモルフォチョウをモデルにしたものか。衣服は黒を基調としたゴシック調のドレスを宛がわれ、華美な装飾を嫌ったか。
異様なのはその両眼か。螺鈿を施された虹彩は合わせ鏡を覗き込んでいるように果てがない。
そしてやはり身体の造りが人間とは根本的に異なるのか。服の上からでは分かりずらいが、四肢の関節は通常の倍以上あり節足動物のそれに近く、排気口のようなものも確認できた。体幹や皮膚や肉の厚みから読み取れるだけでも、やはり胴体の中身も人間とは大きく異なる。
外見こそ人間に寄せられているが、似て非なるものだ。
もしこれに相応しい命が吹き込まれたのなら、権能と同義とされる《天使》とは、もはや人間の思考に収まる存在ではないのではないか。
じわじわと足元から這い寄る底知れぬ恐怖に絡めとられていた時だ。
──スゥ、と僅かに、しかし確実に涼を捉えた。
「…………っ!?」
錯覚ではない。
生きている。
「やはり感化されるか。お前の呪いはつまりそういうことか」
カイの亡骸から抽出した呪いでは起きなかった現象に、国枝は興味深そうに涼を観察する。
本人と感化したためか、それとも解かれつつあるのか。
いずれにしてもこの《セラフィム》以上の器を有しているのだから、さして意味はないが。
「宵波。さっきお前が言った通り、俺が《天使》の研究をしているのは、こいつに魅入られたからだ。真っ当な人間ならさっきみたく当てられるものだが、俺はそのまま頭の螺子が壊れちまった。こいつの正体を知るために家族も仕事も放り出して、方々駆けずり回る程度にはな」
「……成果はあったのか?」
「魔術の存在を知り、俺みたいな人形狂いと伝手が出来た程度だな。日本に帰国して直ぐに元女房からは離婚届け突きつけられて、両親からも勘当されたよ。自業自得だがな」
家族から見捨てられ、住居も失い、仕事もクビになった。残ったのは僅かな金と人形のみ。
そうして路頭に迷い、ホームレスに成り下がってしばらくした頃だ。
突然援助の話が舞い込んできたのだ。
接触を図ってきたのは代理人を名乗る若い男。
男は離婚に伴う損害賠償や養育費を肩代わりし、更には国枝に職と家さえ提供すると持ちかけたのだ。代わりに提示された援助条件は僅か二つ。
一つ目は、《セラフィム》の研究。方法は問わず、代理人を通して半年に一回の報告を義務とする。また研究内容を一切外部に漏らさないこと。
生活に追い込まれていた国枝は願ってもいない話に飛びついた。
無論、代理人を通す支援者が何者なのか、目的すら不明瞭であることは大いに不安であったが、金の問題が一気に解決するならば断る選択肢はなかった。
その時は二つ目の条件は明かされなかったが、現在の職に就き、《天使》の研究に没頭する生活に慣れ始めた頃。
──四年前に、二つ目の条件が明かされるとともに、とある遺体が運び込まれた。
「それが宮藤だということか」
「まあな。薄々気づいちゃいたが、ヤバいことに首を突っ込んでいると再確認したよ。支援金には当然口止め料も含まれているから、通報も出来ん。……まあこんな事態は流石に予想外だったがな」
「家族が巻き込まれるとは思わなかったのかっ」
「罪の意識を問うているなら無意味だな。引き返すタイミングは幾らでもあったが、結果はこの通りだ。どうしようもない欲望の傀儡なんだよ。──魔術翁とかいうとびきりの厄ネタを自分から作り出すほどにな」
魔術翁の人造人間の製造。これが国枝に課せられた二つ目の支援条件だった。
ふざけた話だ。カイの遺体は素材として提供されたということだ。
術式による人造人間の製造技術は、短命という欠点に目を瞑れば既に確立されている。設備と材料、そしてある程度のノウハウさえあれば技術的には比較的容易な部類に入る。ざっと確認した限りではここの設備はかなり高水準であるようで、少なくともカイの複製体を造る程度は容易だろう。
問題は魔術翁の血と記憶だ。
魔術翁とは真祖の分霊だ。権能を失い、吸血鬼へと堕ちた真祖が再び権能を手にするために、己の霊核と思想を植え付けたエーテル使いの総称。逆に言えば、魔術翁を魔術翁たらしめるのは、肉体ではなく中身なのだ。
実際、羽田でカイは自らを魔術翁と名乗り、魔術翁として聖王協会と吸血鬼を動かしている。
ではその中身はどこから。
決まっている。ハイジャック事件の時にカイに植え付けられたものだろう。エーテル使いは希少だ。殺してしまえば魔術翁の手駒が減ってしまう。涼という最大の誤算で繁殖は成されなかったが、素材はは丸々残っている。
複製さえ成功してしまえば、宮藤カイは魔術翁として復活する。
到底許されるような所業ではない。
およそ考えられる限り最大の死者への冒涜、そして人としての尊厳を踏み荒らす大罪だ。
本音を言ってしまえば、涼は今すぐにでも国枝を撃ち殺してしまいたかった。激情に身を任せて暴れ狂いたい衝動を、涼の中で生じたある疑念が踏み留めた。
「……おかしい。今の話が本当なら主犯は魔術翁じゃなく」
「ええ。国枝氏の支援者はつまり、アストレアの人間ということになる。しかし、そうなると状況が少し変わってくる」
涼の言葉を引き継いで、由良が同意を示しつつ首を傾げる。
カイの遺体はその状態から厳重に封印され、保管場所を知るものはアストレアの上層部でも極僅かだ。涼であっても知らされていない。逆に言えば保管場所を知り得るのはアストレアの人間に限られるということ。
情報漏洩の可能性も否定できないが、希少なエーテル使いのものとはいえ、解呪が困難な赤服に汚染された遺体を外部の人間が欲しがる理由が見当たらない。もっと重要な内部情報は幾らでもあるはずだ。
実際に日本各地に散らばっている監視官たちが、一斉にGHCに実質拘束されている状況だ。こちらの方がよほど情報価値は高く、事実としてアストレアは現在戦力を欠いている。
勿論、魔術翁という最大級のジョーカーが内部から発生したことは由々しき事態に変わりない。
だがその事実を踏まえたうえで現状を振り返ってみれば、やり方がどうにも稚拙だ。
例えば魔術翁がアストレア本部を襲撃すれば、即時陥落とはいかずともかなりの損害を与えられるはずなのだが、実際は協会派が動いただけで随分と手ぬるい。
傍からみればついに魔術翁が鏡海の強奪に動き、聖王協会とGHCがこれを支援するという画になるのだろうが、国枝という新たな要素が加わったことで、現状がガラリと変化する。
今この状況はアストレアの誰か、つまり国枝の支援者の脚本通りの展開であると。
目的は不明だ。なぜこのような回りくどいやり方をするのか。
だがこのふざけたシナリオを実現出来る人物など、涼が知る限り一人しかいない。
「……あの狐男か」
「でしょうね。これ見よがしに吸血鬼まで引き連れていましたし、間違いない」
最有力容疑者として同一人物が涼と由良の思考に浮上する。彼ならば遺体を盗み出す程度は造作もないだろう。腐ってもアストレアでも最古参の一人であり、歴代最高の諜報官としてその名を刻んでいるのだから。
協会派の先導者にして、魔術翁の傀儡兵器。
伊調銀治だ。彼こそが全ての黒幕に他ならない。
ある意味では当然の帰結だろう。
問題は彼を倒したところで事態は収拾しないということ。
以前として解決すべきはやはりあの銀幕にある。
「アンタらの目的は……いや、宮藤を魔術翁に仕立てた目的はなんだ?」
やはり行きつく疑問はそこだ。
銃を握る義手に力が籠る。軋み、小さく悲鳴を上げたのはコルトSAA。
国枝は眼鏡の位置を微調整し、表情を消した。
「伽藍の墓標を本物にする」
「なに?」
「憶測だがな。魔術翁とはその成り立ちから単独ではなく複数人存在する。一人二人屠ったところで大した意味はない。やるなら殲滅だ。あれはそのための起爆剤であり、導火線として造らされてたんだろうよ」
殺されるために生み出された。国枝は言外にそう告げているのだ。
「俺は研究から得た全ての知識をあれに注ぎ込んだ。完成には程遠いが……いや、不完全だからこそ意味を成す天使の器だ。最終調整は宵波、お前の式神を参考にさせてもらったぞ。この意味が分かるな?」
「俺の式神だと…………──ッ!? まさかっ!」
刹那、涼の脳裏に再生されたのはO・Lでの一幕。
権能の魔眼の正当後継者ではないアルベルトがこれの起動を試み、まるで天罰が下ったかのように醜悪な姿へと変貌してしまった。権限を有さない人物が権能に触れたことで、権能は手に入らないばかりか、全く別のモノへと堕とされ、呪われた。
魔術翁を生み出した真祖も同じ道を辿ったと、カイから明らかにされている。真祖が吸血鬼へと堕落させた天罰こそが──赤服の呪い。
可能だ。
シャノンが全ての魔眼に干渉したように、相応しい使い手と大規模術式さえあれば、全ての魔術翁と吸血鬼を呪い殺せる。
そして舞台も役者も既に用意されている。
術式は五輪市を覆う銀幕。天使と、この世全てを情報として吸い上げる鏡海。天罰を疑似的に再現し、鏡海を媒介し全吸血鬼を補足する砲門。
呪いを打ち込む対象は宮藤カイ。赤服という火薬を炸裂させる対象であり、魔術翁という縁を導火線とする砲弾。
かつて涼の実父、七榊幽連が子供に呪詛を撃ち込んだように、魔術翁に問答無用で呪いを返す。例え地球のどこにいようと。
赤服の呪いは元の鞘に収まるのだ。実現性は極めて高いだろう。
これが伊調銀治が思い描いた結末。
他の魔術翁に気取られないよう、街一つ巻き込み鏡海を奪いにかかる博打に等しいカモフラージュまで掛けた、一世一代の大博打。
成功すれば形成は一気に覆る。
史上最悪の魔導テロに加担したという大義名分で、聖王協会とGHCを弱体化させることさえ可能だろう。
例え複製といえど、今一度宮藤カイを殺すことで。
「…………っ」
無意識に涼はほぞを噛んでいた。
勿論、全ては状況証拠から推測される憶測だ。全く別のシナリオが用意されている可能性は否定できない。
確実に言えるのは、向かうべきゴールは何も変わっていないことだろう。
五輪市を解放し、雀たちを救出し、複製とはいえ今一度宮藤カイを葬る。
由良も同意見なのか、国枝を睨むものの口は挟んでこない。
逡巡の後、涼は銃を納めた。つくづく後手に回る自分に嫌気が差した。
「宮藤の設計図を寄越せ。それと遺体は全て終わり次第回収させてもらう。勿論、アンタの身柄も拘束する」
涼の命令に反発することなく、国枝は全ての研究データが詰まったデスクトップPCを指さす。由良が国枝に手錠をかける傍らで中身を改めて、その内容に吐き気を催した。
正しく涼に殺されるためだけの装置だ。赤服に対しての耐性は皆無もいいところであり、他の魔術翁を道ずれにするために寿命はことさらに短い。記憶に関しても余計な情報は与えられておらず、計画を感づかれないよう規制まで掛けられている。
呪いさえ打ち込めれば、仕留めることは容易だろう。
『──今度こそ、僕を殺してほしい』
羽田での別れ際の言葉が蘇る。
いい加減吐きそうで、何もかも放り出して布団に潜り込んでしまいたい。
気丈に振舞ってはいるが、唇を噛み千切らんばかりに噛んでいなければ何かが壊れてしまいそうだ。
傍目からみても今の涼は危かった。
「涼」
「……なんですか?」
「この戦いが終わったら引退しなさい。フラン様や御義父上は私が説得しますから」
貴方の心はもう監視官の任に耐えられない。
師に限界を見極められ、涼は自らを顧みて、何も反論することが出来なかった。
天才的な式神技術で誤魔化してはいたが、本来であれば両腕を失った時点で第一線から退くべきなのだ。理由はともあれ、銀幕の発生原因である照を処分しなかったことで、上層部は涼にそれなりの制裁を加えるだろう。ここが引き際だ。
「……そうですね。そうするべき──」
その時だ。
肌を炙るような濃密な魔力の波動が頭上から発生したその刹那、天井をぶち抜いて青白い柱が地下室を貫いた。
間一髪飛び退いた涼の身代わりに、コートの裾が焼け焦げる。損傷は僅かとはいえ、霊力で鍛え上げた繊維で仕立て上げられ、更に日頃から呪詛を吸いまくっている代物を、こうもあっさり貫くか。
こんなバカげた火力を持ち主など、涼は一人しか知らない。
間違いであって欲しい。淡い願いはしかしあっさりと裏切られ。
天井に開いた大穴から長い髪を翻して降りてきたのは、やはり彼女であった。
研究室に視線を走らせ、培養ポットに浮かぶ亡骸を認識した途端、彼らの道は決定的に違えた。
「盗み聞きするつもりはなかったし、こんなこと聞くつもりも無かったけど──」
銃を象った指先に魔弾を装填し、彼女は明確な敵意をもって涼に突きつける。
「アンタ、私たちの敵ってことでいいの、涼」
魔弾の射手、神崎雀が決別の問いを投げる。