終章・十一節 並行世界
真夜中の屋敷の中庭に小さな火が灯る。百円均一のライターの火だ。
ベンチのひじ掛けに積もる雪を払い、そこに行儀悪く腰かけながら、雀は見様見真似で加えた煙草に火をつけて、慎重に吸った。
「うっ……げほっ! ああもう、これだから……」
子供の頃は何かと憧れたものだが、初めて口にしたことで雀は一層煙草が嫌いになった。
咳込んで吐き出された紫煙が目に染みて痛いし、新鮮な空気を吸い込んでも気道の残り香がしぶとく残り続ける。
おまけにクソ寒い。屋外なのだから当たり前ではあるが、泣きっ面に蜂と言わんばかりに雪の勢いも少し増してきた気がする。コートを着込む手間を省いた数分前の自分が心底恨めしい。
『意外とサマになってるぜ。特に目つきが』
もしここに百瀬智巳が居合わせたのなら、そんな風に雀をからかったことだろう。極道の息子がよく言うものだ。
「はあ……まっず」
寒さに震えながら今度はより慎重に紫煙を吸い込んで、その味の酷さに眩暈がした。
不味いなんてものではない。不愉快の極み。雀の怒りの琴線をギターのようにかき鳴らし、いっそ感動さえ覚えてしまう。
特に悪さをしているのが、煙草に込められた得体の知れない呪詛だ。
術式を起動しなければ人体に無害なことは入念に確認したものの、あると認識してしまえばやはり気持ちが悪い。安全と分かっていても硝子越しにゾンビを眺めるようなものだ。
莫大な呪詛を蓄積し、携行するならば煙草は悪くはない。毒素を多分に含んだ煙草は呪詛との相性は言うまでもなく、霊力に置換して身体に還元するのも喫煙という手段はうってつけ。
機能性だけを評価すれば間違いなく合理的。しかしセンスは時代に即さず大いにマイナス。
付け加えるならこの【ブルークラブ】という銘柄の特徴なのか、やたらと甘い着香も気に食わない。
「…………」
はしたないと思いながらも、雀は煙草を咥えてかじかむ両手をポケットに突っ込んだ。
降り続ける雪は器用に煙草を避けて、細くうねる紫煙もまた雪片と戯れるように上る。
自然と見上げる空は相変わらず重く蓋がされている。
いつから街はこんな様子だったか。
もしかしたら世界そのものが静かに燃え尽きつつあり、この薄鈍色の雪片の群れは灰なのではないか。
『──三日後だ。今から数えて七十二時間後までに、この街が正常に戻っていなければ五輪市は日本地図から消滅することになる』
あの夢魔の少女が提示したタイムリミットまで、残り四十八時間弱。
「……いっそ、空にぶっ放してみようかな」
右手を空に伸ばし、人差し指と親指を伸ばして銃を象り、そんなことを嘯く。
雀の本気の魔弾ならあの分厚い雲にも風穴ぐらい開けられるだろう。
いい加減洗濯物の部屋干しも限界が来ているし、カイの手を借りなければ日用品の買い出しさえ支障をきたしている。
人差し指の先にちかちかと無数の光が瞬き、凝縮し、クルミサイズの魔弾が形成された。
魔力は火薬だ。無尽蔵ともいえる雀の魔力を湯水のように注ぎ続ければ、魔弾は大きく成長し、威力は比例して高くなる。
ここに術式による弾道補正や弾頭形成、射撃制御を用いればより高度な射撃が望める。
ほんの戯れのつもりだったが、いつの間にか雀は本気で雪雲を吹き飛ばそうと術式を起動していた。
自身を完全な固定砲台とする術式陣を足元に展開し、莫大な魔力を注がれたそれは眩い光を放つ。
屋敷を揺るがすほどの高魔力は中庭を青白い光で埋め尽くし、雀が掲げる魔弾が単純な球形からより威力を重視した形状へその姿を変える。
──ジュ、という音で雀は我に返った。
術式の制御が雀の手から離れ、中庭に満ちていた魔力が急速に霧散していった。
魔力光の残滓と雪が交わるほんのひと時を挟み、再び中庭に静寂が戻る。
煙草から伸びる紫煙は消え、代わりに大粒の水滴がへばりついていた。
「…………」
新しい煙草を咥え直し、ライターのやすりを回すも、火花が散るばかりで火が付かない。
やすりをこする虚しい音が何度と続き、オイルが切れていると気付いたのは随分と後。
「……ねえ、照」
「なに?」
「火、持ってる?」
いつの間にかベンチに腰かけていたトレンチコート姿の妹にそう尋ねると、照は懐から取り出したマッチを擦った。
一瞬激しく燃え上がり、直ぐに落ち着く小さな火。
長い髪を抑えながら差し出される火に雀が近づくと、照のマッチを摘まむ逆の手が煙草を攫ってしまう。
「何すんのよ」
「貴女未成年でしょ」
「そんなの承知してるっての。いいから返しなさい」
「ダメ。これは私の」
奪い返そうとする雀の手が届くより先に、照は懐に煙草を隠してしまった。
流石の雀も服を剥いでまで奪い返す気にもならず、渋々と引き下がる。
「体調はもういいの?」
「最悪よ」
「ならまだ寝てなさいよ」
「知っていて? 人間は強い光の傍では眠れないのよ」
「それはごめんあそばせ。でもここしばらく日光浴とは無縁だったから、雲を吹き飛ばしても誰も文句は言わないでしょ」
「そうね。本当に、うんざりする景色」
憂う照の呼気が白く濁り、溶けるように消えていく。
体調が最悪というのは、何の誇張でもないようで、実際に色白の肌は更に赤みが失せ、コートの重みで今にも潰れてしまいそう。
病み上がりであれば別段不思議なことではない。
しかし照の場合、倒れた原因が判然としない。
「昨日、アンタの身に何があったの?」
「……………………いつもの貧血」
僅かに目を伏せるだけで、照は答えを濁した。
嘘と切り捨てることは容易い。ただの貧血程度で昏睡状態に陥ることなどあるわけがないと。
何らかの異常をきたしているのは明白だった。
「だった身体冷やすのはまずいでしょ。おかゆぐらいなら作ってあげるから、中に入りましょ」
雀は照の嘘に乗っかることにした。妹を案ずる気持ちは本物なのに、息が詰まるような嘘で合わせた。
合わせたつもりだった。
「……、……」
「──……」
姉妹は動かない。動けない。
たった数メートル先の扉を潜れば、いつも通りの日常が待っているのに。
なんら特別なことではない。
魔術の才能に反比例するように虚弱な妹、莫大な魔力量と慧眼が噛み合わない姉。
何もかもが異なりいがみ合うことも少なくない姉妹だが、お互いを労り、不器用に慈しむ。
ずっとそうしてきたはずだ。
「……ねえ、照」
「なに……?」
そのはずなのに、どうしてだろう。
「あんた、神崎照よね?」
確かにあるたった一人の姉妹との記憶が、いまの雀にはどこかピントがズレて見えて仕方がない。
まるで自分ではない自分を通して世界を見ているような違和感。
要領を得ない雀の疑問は、照が否定すればただの戯言。妄想の類いだ。
視線を交えない、沈黙は時間にすれば僅かなもの。
照が顔を上げる気配がした時だった。
ふっと、降雪が途切れ、完全な静寂が世界に訪れる。
全てが雪に覆われ、たった二人のみが取り残されたような世界の中で、彼女はいっそ薄情なほどに、あっさりと告げた。
「ここは、無数に存在する並行世界の一つ、その記録。私という『門』を通じて、この街に投影されているIFの世界」
同時にそれはここ数日間、幾度も雀が覚えた既視感の正体。
「この雪は私の編纂魔術の名残でしょうね。神崎照ではなく、あちらの世界に鏡海から出力された鏡像」
固く握られた雀の拳から血が零れ、雫が足元の雪を小さく溶かす。
血に溶け込んでいた煙草の呪詛が限定的に解き放たれ、雪を押しのけて咲いたのは深紅の彼岸花。
「──雨取照。私はそう名乗った個体よ」
「………………そっか」
その一言を絞り出すのに、雀は随分と時間を要した。
直ぐ傍にいる照は、妹であって、姉妹として生まれ育った『神崎照』ではない。
神崎雀が次期当主としてこの屋敷に住み始めて間もなく、突然現れ殺し合いを演じた、産まれるはずだった妹の『雨取照』だ。
忘却していた、いや、上書きされていた記憶が徐々に蘇ってくる。
「ならカイも」
「ええ。魔術翁ね。いまはアストレアの監視官であるけれど」
僅か五日前の出来事だ。
オークション・ラヴュリンスから雀が五輪市に帰還して間もなく、雀と照は魔術翁と名乗る宮藤カイから襲撃を受けた。
勝負の趨勢は一瞬で決してしまった。
魔術翁は事前に、それこそ何十年も前に事前に仕込みを済ませていたのだ。
神崎家が土地に敷いていた結界は即座に破壊され、霊地の管理権を奪われたばかりが、街一つ覆いつくす程の巨大術式陣の展開を許してしまう始末。
複雑怪奇な術式の根幹は、ラヴュリンスで目撃した天使の三重環。即ち権能降ろしの術式。
魔術翁は権能の雛型を用意し、鏡海の権限を奪う算段だったのだろう。
事故によって二つに分かれてしまった鏡海の権限。神崎雀に残された『鍵』と、鏡海から出力された鏡像の核となった雨取照の『門』の権限。
『鍵』は鏡海へのアクセス権限。
『門』は鏡海から情報を出力する権限。
予想外だったのは、魔術翁に対抗して雀の莫大な魔力を使い照が展開した編纂魔術が、権能降ろしの術式とせめぎあった結果、暴走したことだ。
五輪市は術式の暴走に巻き込まれ、最悪の結果さえ覚悟した雀たちは、この街に立っていた。
現実という銀幕に鏡海から投影された、延々と雪が降りしきる別世界の五輪市。
ここは一つの可能性。
雀と照が姉妹として生を受け、魔術翁に堕ちず監視官へと成長したカイが訪れた世界。
領域内全ての人間はこの世界の歴史に乗っ取り、記憶も肉体さえ上書きされ、誰もが元の自分を認識できない。
投影元の世界で生きてさえいれば、死んだ人間さえ蘇る。
ちょうど、『雨取照』が『神崎照』を参照して出力されたように。
雀たちが元の記憶を取り戻せたのは、煙草の呪詛が鏡海の力を打ち消しているからだろう。
「この世界……β世界とでも呼ぶけど、アンタの生まれ故郷ってわけ」
「いまは貴女もそうでしょ?」
「まあね。あっちの世界……α世界とβの記憶がごちゃごちゃになってる。どっちも自分なんだし、当然ちゃそうだけど」
一人娘として育った自分と、長女として妹がいた自分。
混在する記憶はどちらも本物であり、優劣を付けられるものでもない。
途切れていた雪はいつの間にかに戻っていた。
肌に触れば氷の結晶はたちまちに溶け、僅かであれ体温を奪っていく。
全て現実。夢や幻ではなく、雀たちはβ世界の住人そのもの。
外部から侵入した聖王協会の術者たちが死亡したのは、β世界から拒絶されたことが原因だろう。
最早この地はβ世界として定着しつつある。
β世界の構築時に巻き込まれた雀たちや五輪市の住人と異なり、彼らは明確に外部の人間。遺物だ。鏡海からの干渉を防護術式か何かで無理矢理跳ねのけていたことで、真逆の結果を招いてしまったのは皮肉だ。
言い換えればこの別世界の五輪市が雀たちから脅威を退け、同時に脅威を呼び込む要因でもある。
鏡海を閉じること自体は今すぐにでも可能だ。
雀が『鍵』の権限を行使すれば、鏡海の『門』は閉じ、五輪市は元の世界に準拠した形を取り戻すだろう。
街一つを飲み込むほどの『門』ではあるが、いまならまだ対処は十分に可能。
だが実際のところ時間がどれだけ残されているか。
聖王協会が強行突破を図り、更にはアストレアまで早急の対処を進言してきたほどだ。街一つが異界化しているならば、正常化は早いに越したことは無い。
それは雀とて承知している。
──しかし、それは躊躇われた。
「あまり時間はないわ」
雀の心の内を見透かしたように、照は刻限が迫っていることを告げる。
「このまま鏡海からの投影が続けば、取り返しのつかないことになる。この土地の情報は急速にαからβのものに書き換えられているはず。土地も、歴史も、人も例外なく。『門』を閉じるのが遅れれば、五輪の全ては世界から異物と認識されて、存在を保てなくなる」
照が語るのは推測ではない。
対処を間違えれば確実に訪れる最悪の未来だ。
それは雀とて承知している。
「……分かってるわよ、そんなこと」
静寂が、微かな声の震えを浮き彫りにする。
「でも今閉じれば、カイは魔術翁に戻る。癪だけど年季も手札も桁違いで勝ち目は薄いでしょ。よくわかんない術式を土地に打ち込まれているし。でもいまのアイツはアストレアの監視官なんだから、どうにかして今のまま……」
記憶上、雀たちがこの一年半を共に過ごしたあの監視官は魔術翁ではなく、宮藤カイだ。
魔術翁となった経緯を不明だが、碌でもない事だけは確かだ。
そのくそったれな過去を覆せる千載一遇の機会が今だ。それは同時に事態の終結も意味している。
ギリギリまで足掻く価値は十分にある。
「駄目よ」
しかし姉の選択を妹は真っ向から切り捨てた。
「その方法を求めて、雨取照は神崎雀の元を訪ねて、答えをついぞ見つけられなかった。忘れたわけじゃないでしょう、去年の十二月のこと」
「…………っ、」
淡々と告げられたのは、運命に挑み、そして敗北した事実。
雨取照という鏡像人間は本来α世界には存在しない異物だ。
いま五輪市にも働いているであろう世界の修正力によって、彼女の存在は徐々に劣化し、摩耗し、崩壊はあっさりと訪れた。
散々手を尽くして、たった三年弱の稼働時間。
脆いのだ。鏡海から出力されたありとあらゆるものは。経験した時間、構成された物質、思想思念すら完璧に再現しながらも、所詮は夢幻と言わんがばかりに。
魔術翁が求めた権能の奪取は叶うことはない。吸血鬼の王がその烙印から解き放たれる最悪の結末は、最初から存在すらしていなかった。
裏を返せば、最も可能性に満ちた鏡海をもってしても、雀たちの望む最善には手が届かないということ。
消滅するはずだった照が生き永らえられたのは、『彼』の類い稀な式神技術の賜物。
四十八機からなる霊地制圧用式神・玉天集によって、照は鏡海と深く結びつく五輪の土地に縛り付けられたことで、辛うじてだが消滅を免れた。
「だったらどうにかしてアイツと連絡を取って──」
「無理よ」
「何で分かんのよ!? 現にあいつはアンタを助けてみせたでしょ。だったら──」
「私と宮藤さんとでは状況が全く違う」
感情的になる雀の言葉を遮って、照は淡々と事実を突きつける。
「神崎照という鏡像人間は大雑把に言ってしまえば、鏡海という術師が生み出した式神のようなものよ。術師がいなくなれば式神が消滅するのは道理」
だからこそ、照は式神技術によって延命が可能だった。
照とカイで最も異なる点がここだ。
αの照はβ由来の人物であるが、カイが違う。彼女には魔術翁という明確なαでの回帰元が存在している。鏡像人間という、式神技術で付け入る隙がカイにはない。
世界の修正力と個人の技量。どちらに軍配が上がるかは議論するまでもないだろう。
魔術翁を倒すならば、宮藤カイのまま彼女を殺めなくてはならない。
「なによ、それ……」
硬く握りしめられた雀の拳からは、いまや小さな赤い氷柱が伸び始めていた。
納得など出来るはずもない。してたまるものか。
手に入るはずのなかった幸せな未来を見せておいて、運命とやらは彼女たちを嘲笑うかのようにまた奪っていく。
そんな理不尽認めてなるものか。
「なんで、どいつもこいつも割り喰ってんのよ……」
世界の修正の波は、辛くもこの世に留まった照にも容赦なく襲い掛かるだろう。
五輪市が元に戻れば、隣にいる妹がそこにいる保証はもう何もない。式神の恩恵が戻ろうとも、街の修正に巻き込まれて消えてしまうかもしれない。
カイは再び魔術翁の烙印を押し付けられ、化物へと堕ちる。
納得なんてしてやらない。
たった二人の未来を諦めることが正解などと、神崎雀は断じて認めない。
認めなくないのに、服に染みた煙草の匂いで板挟みになってしまう。
いないのだ。
此処には、こちら側には『彼』だけがいない。
四年前。カイとはまた別の魔術翁の手によって、命を絶たれ、その身に宿した呪いをもって道ずれにした少年。
「涼っ……」
命を否定された世界を呪うかのように──宵波涼はいまこの世界を滅ぼす敵となっている。
『出来るなら味方でありたいが、それは君達の選択次第』
彼はこの状況を予期していたのだろう。
例え『鍵』を有する雀が何も選択せずとも、時が訪れれば五輪市を滅ぼす業は涼が背負う。
雀が彼を討つ大義名分が用意されている。
二つに一つ。どちらを選んでも犠牲と戦いは免れない。
αを選べば、少なくとも十数万の市民は事態に巻き込まれないが、照は消滅し、カイは討たれるだろう。
ベータを選べば、宵波涼との決別を意味する。アストレアと敵対し、五輪市を危険に晒しながら、僅かな時間の中で宛てのない奇跡を探す。
真っ当な理性を有していれば、どちらに天秤が傾くかは、火を見るより明らか。
「閉じなさい、雀」
「…………っ、アンタはそれでいいのっ!?」
天秤の傾きを決定付けようとする照に、雀は殆ど悲鳴のように叫んだ。
さっきから二人は顔も合わせられない。
合わせてしまえば、絶対に道を間違えてしまう。そんな予感があった。
「元々が奇跡のような時間だったなら、どこかでピリオドを打たないといけない」
彼には随分と我儘に付き合わせてしまった──雪に吸い込まれてしまうほど、小さく、小さく呟かれた独白は微かに震えていた。
ベンチから立ち上がり、身体に積もった雪を払った照は一人、静かに歩きだした。
「どこに行くつもり」
「貴女の決心がつかないというなら、私から消えるわ」
「……っ、!」
弾かれたように顔を上げた雀の制止の声が、喉元で詰まって咄嗟に出てこない。
照の背に伸ばした手が、直前で止まる。
一瞬、心のどこかで安堵した自分を自覚してしまったから。諦めがつくから。
誰も卑怯とは言うまい。臆病と誹る資格もない。
こんな過酷な選択を強いた運命が心底恨めしい。不出来な世界に仕立てた神が憎らしい。
しかし、しかしだ。
理不尽の渦中にいるはずの照は自ら道を選択した。
例えそれが最悪の結末に繋がっていようとも、運命なんてあやふやなものに操られたのではなく、自分の足で進んだのだと胸を張れるように。
「…………ッ!」
そう。結局何を選択したところでケチがつく。
ならばいっそのこと、全てを欲張ったところで大した差はないだろう。
腹を括ってしまえば、神崎雀はいつだって一直線だ。
腑抜けた自分を置き去りにするように、雀は駆け出した。
たった十数歩の距離しか開いていなかったが、何白メートル先にも思えた妹の脳天に、
「ふざけんな、この天才児がッ!」
──力一杯手刀を振り下ろした。
全く可愛げのない一撃だ。魔力さえ籠っていないが、ダッシュの加速と投石機のように振りぬいた腕の遠心力、そして全身をフルに使った手刀は凶悪な威力を誇った。
避ける間もなく直撃を頂戴した照は、そのあまりに衝撃に視界に火花が散ったほど。
頭頂部の鈍痛はこれまでの人生において無縁であり、彼女の類い稀な才能の源を傷つけるような真似をする輩も皆無であった。
頭を押さえながらうずくまる照は背後の不良女を睨みつけた。
「…………殺る気?」
「ああ、それもいいかもね。向うじゃそうやって始まったんだし」
数秒前の悲壮感はどこへやら。詫びる気など毛ほども持ち合わせずに、雀は殺し合いを歓迎した。
「でもどうせ拳骨をお見舞いするなら、私はもっと大物に喧嘩を吹っ掛けたい」
「…………一応聞いておくけど、誰に?」
開きおなってしまった姉に妹は大いに不安を抱いた。絶対碌でもないことを考えてる。
嫌な予感はやはり的中した。
「世界って奴よ」
「正気で言っているなら重症よ」
「上等結構。どうせ碌な結末がないなら、身勝手にやらせてもらうわよ。私はアンタもカイも諦めたくはない。それで地獄に堕ちるって言うなら上等ってもんよ」
「…………」
あまりにも向こう見ずな言葉の数々。呆れ果て、照はしばらく言葉を失っていた。
不必要な大きすぎる十字架を背負ってまで、雀はハッピーエンドを諦めないという。
利己的で、合理性を優先した典型的な魔術師である照には、雀は理解から最も遠い人種だ。
「アストレアを……宵波君を敵に回すことになるんじゃない?」
「多分ね。でも涼なら察してくれるでしょ。その上で戦うことにはなるだろうけど」
監視官と魔術師二人。最初の関係に立ち戻るだけ。
それはそれで粋なものがあると、雀は手を差し出した。
「世界を相手取るとは言うけど、具体的なプランはあるの?」
「ああ……それはまだぼんやりとしか」
「呆れた。魔術だけならともかく、生き方も大雑把で勢いだけなんて」
「五月蝿いわね。性分なんだから仕方がないでしょ。それより乗るの、反るの? 後者なら洲巻させてもらうから」
「はあ……どうしてノープランなのにそう強気なのかしら」
一瞬雀の手を取りかけて、照は自らを律した。
感情で突き走ったところで現状を覆せる要素がなければ無駄な足掻きだ。やはり照は雀を支持できない。
「あるよ。最っ高に我儘な、最悪なプランが!」
快活な声が聞こえたかと思えば、屋根を飛び越えてその少女は中庭に降り立った。
モスグリーンのミリタリーワンピースに袖を通し、アストレアの刺繍が施された片掛けマントを翻すのは宮藤カイだ。
「カイ」
「ごめんね、盗み聞きするつもりじゃなかったけど、話は大体聞こえてた。自分のことも含めて、状況は承知しているよ」
これのおかげでね、と火の付いた煙草をひけらかす。いつの間に掠め取ったのか、箱に残っているはずのラスト一本が消えていた。
赤服という強力な呪いを触媒にして、カイもまた魔術翁としての記憶を取り戻したのだろう。
警戒し身構える照を手で制し、雀は続きを流した。
「聞かせて」
「うん。そう言ってくれると思ったよ」
屈託のない笑みはやはりカイのそれ。この世界にいる限り、彼女は魔術翁ではなく宮藤カイなのだろう。
彼女もまた運命に翻弄された身。全てを覆し、自身を取り戻す好機をみすみす逃すつもりは無かった。
「といっても、恥ずかしながら計画は魔術翁のモノなんだけどね」
「要は奴の計画を乗っ取るってこと?」
「そ! 頓挫している魔術翁のプランを掠め取って、まったく新しいシナリオに書き換える」
魔術翁と思考を同じくするカイは宣戦を布告する。
「奴は吸血鬼という烙印から脱却するために、鏡海を利用して再び天使の座に復権しようと目論んでいる。天使とは権能、即ち、神から与えられた世界のシステム!」
「うんまあ、術師ならその辺は常識だけど…………え、アンタまさか」
「なるほど、これは確かに最高に最悪ね」
カイが言わんとすることを察し、雀は口元を引きつらせ、照は剣呑な眼つきを更に険しくした。
雀はつい最近、計画の実行例を目撃してしまっている。
α世界における、競売迷宮にて、失敗例として。
その場に居合わせたカイは、しかし臆病風など無縁とばかりに、不敵な笑みさえ浮かべて高らかに天を指さした。
「魔術翁が敷いた術式を乗っ取って、世界の影響力が及ばない存在に──天使になるのさ!」