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終章・十節 ハイジャック

 同時刻。


 五輪市内、神崎邸。ロビーにて。


『応援要請は棄却する。そちらで対処するように』


「そんな……どうしてですか、直嗣(なおつぐ)のおじ様!?」


 支援要請が却下され、宮藤カイは電話相手の上司に叫んだ。


「聖王協会がこの街に大攻勢を仕掛けてきたんですよ!? そのうちの一人は魔族です。正直に言って私の手には余ります」


『その聖王協会の術師たちは市内に侵入直後に自滅したんだろ? 報告じゃ神崎家の仕業でなければ、命を代償とした呪詛という線もなさそうだ。確認された魔族も戦闘能力が低い夢魔らなら、【魅了】にさえ警戒を払えば大した脅威にはなりえない』


「しかし現に照ちゃ……神崎照が昏倒している。加えて四十八時間後には街を殲滅するとの犯行予告までしている。これは明らかな戦略的侵攻です。何かがあってからでは遅い!」


『君の危惧は最もだ。それを踏まえて応援は送らないと言っている』


「何故です!?」


 予想だにしなかった反応にカイは困惑を隠せない。


 彼女の心境とは裏腹に上司──宵波直嗣は冷淡に現実を突きつけた。


『仮に聖王協会が五輪市民の殲滅を計画していたとしよう。なら具体的な手段は? 殲滅の目的は? 要求は? 戦力は? 君はどれか一つでも把握しているのかい?』


「……っ、それは」


『大規模な戦闘になるなら確かに応援は必須だよ。でも敵の脅威が曖昧なうちじゃ、適切な応援を送れるわけないだろ』


「…………っ、」


 矢継ぎ早に放たれる正論に、カイは反論できない。


 昨晩、二十人もの聖王協会の術師が五輪市に侵入したのは揺るがぬ事実だ。その侵入者も間もなく絶命し、時を同じくして照が昏倒してしまった。


 カイは命をリソースとした呪詛により遠隔狙撃と睨んだが、当の照から呪詛は検出されていない。いまだ目を覚まさない事だけが気がかりではあるが、少なくとも命に別状はない。


 言い換えれば、カイたちが明確に脅威にさらされたのはその一件のみ。


 直嗣が応援を拒否するのも当然だ。


 一応、カイは報告を受けた魔族の特徴から人物の特定ができないか、諜報部にデータベースを洗わせているが、期待はできない。


 夢魔は魔族ではあるが、吸血鬼と異なり人間社会に溶け込んでいる個体が多い。


 特筆すべき能力といえば【魅了】と【生命喰い(ライフイーター)】のみ。どちらも戦闘向きとはいえず、基本的に弱い彼らに人を殺めるメリットはない。


 実際、カイが交戦したという夢魔も応戦せずに、意図は不明ながら警告とも捉えられる言葉を残すのみ。


 これでは脅威と捉えるには二歩も三歩も足りない。


「……なら、せめて医療術師だけでも。照ちゃんは今も目を覚まさないままだ。敵術師の呪詛によるものじゃないなら、せめて原因だけでもハッキリさせておきたい」


 増援は諦め、カイはせめてもの情けを求めた。


 聖王協会の戦力は不明だが、敵を迎え撃つことに変わりはない。


 街には照の『鏡の眼』の監視網が張り巡らされている。土地に敷かれた探知結界と併用すれば、街のほぼ全域を視界に収めるも同然。それこそ雀の狙撃が加われば、一方的な蹂躙劇となるほどに。


 情報が出揃っていないならば、せめて戦力は万全にしておきたい。


『ダメだ。許可だけない』


「なっ……!? なぜですか!?」


『君は自分の役割を何か勘違いしていないか? 君の任務は神崎姉妹の監視であり、対象が市民に仇成す魔女であったならば、これを撃滅することだ。聖王協会の介入は確かに由々しき事態だが、神崎姉妹のお守りは君の役目からは逸脱している』


 直嗣は終始達観していた。部下を預かる上官としては正しいのだろうが、今はその正しさが何より恨めしい。


「なにか、あってからでは、遅いんですよっ……」


 結局、カイから絞り出されたのは、そんな負け惜しみじみた非難だけ。直嗣の決定を覆せない。


『君個人の能力が及ぶ範囲であれば、幾らでも姉妹に協力するといい』


「──御子息のように、魔族に奪われるかもしれない命を、おじ様は見逃すのですか!?」


 叫び終わってから今のが失言であったことに気付き、青ざめた。


 例え血が繋がっていなくとも、『彼』は直嗣が愛した息子だったというのに。


 他ならぬ『彼』に助けられたカイがそれを口にするのは卑怯だと分かっていたのに。


『死者を……私情を押し通すための理由に使うんじゃない』


 ミシリと、受話器が軋む雑音が混じった。


『報告は以上かい?』


「…………はい」


『なら次は定期連絡の日に。さっきはああいったけど、君の危惧が現実味を帯びたなら、その時は要請に応じて応援を送る。君の健闘を祈っているよ』


 通話が切れ、スピーカーは押し黙った。


 スマホを仕舞う気力さえなく、立ち尽くすカイを支配するのは激しい後悔だ。


 やってしまった。


 四年前に偶然居合わせた『ハイジャック事件』以降、魔族が関わるとカイは判断能力が著しく鈍る悪癖を抱えてしまった。


 教官であり師である倉橋にも散々咎められ、矯正に努め、任務の場数を踏んで多少マシになったと自負していたが、結果はこのザマ。


 自分が無様を晒すだけなら納得できるが、他人の傷口まで抉ってどうするのか。


「そんな背中してると、悪い男に付けこまれるわよ?」


「……雀ちゃん」


 頭上からの軽口に振り替えると、二階に続く階段から雀が下りてくるところだった。


 冗談を口にしてはいるが、全容の見えない事態に肝の据わった彼女といえど、流石に疲労の色が濃く浮かび上がっている。髪の艶は衰え、荒れた肌は青白くいかにも栄養が足りていない。


 そこに追い打ちを掛けるような真似をしなくてはならないことが、カイは心苦しくて仕方がなかった。


「その様子じゃ直談判は失敗したようね」


「うん……取り付く島もなかった」


「別にアンタが責任感じることじゃないでしょ。神崎(うち)のシマの問題なんだから」


「傷付くなあ。僕ってそんな薄情な人間に見える?」


「責任の所在の話。電話の相手からも釘刺されたんじゃないの?」


「う……」


 鋭い洞察にカイは分かりやすく狼狽える。


 戦闘での駆け引きは間違いなく一級品だが、内心を見透かされやすいのは弱点だ。一皮むけばやはり最年少監視官といえども年相応の少女ということだろう。


 それが親しみやすさを生んでもいるのだが。


 融通の利かないお堅い仕事人よりずっといいというのが、雀の忌憚のない感想だ。


 しかしその弱点が常に露出するとなれば、話は別だ。


「部屋を出る時に聞こえちゃったんだけど、あんた魔族と因縁があるの?」


「あ、うん…………因縁というより、トラウマかな」


 言葉を濁そうとして、出来そうにないとカイは諦めた。


 夢魔の少女と邂逅した時、無様なほど平静を欠いていた。


 相手の動向を伺うことすらせず、自らの視界さえ奪う全力の波状攻撃。


 近接戦と中距離戦を高いレベルでバランスよくこなせるのが、自他ともに認めるカイの強みだ。雀のような思い付きの付け焼刃とは次元が違う。


 だがあの時はまるで近づくことさえ嫌悪するように、遠距離攻撃一辺倒。


 まったくもってらしくない。


 雀が訝しむのも当然というもの。


 壁に身体を預け、カイは吹き抜けになっているロビーの採光窓を見上げ、しかし降り積もった雪で空は望めない。


「……すぐに報道規制がかかって大々的に取り上げられることはなかったけど、四年前に僕はハイジャック事件に巻き込まれたんだ」


 雀は咄嗟に言葉が出てこなかった。


 日本国内でも航空機のハイジャックは数こそ少ないが、そのいずれも空に忌々しい歴史を刻んでいる。


 搭乗前の厳重な審査が徹底されたことで、日本国内のハイジャック事件は二十世紀で途切れ、空の旅は長らく脅威とは無縁だった。


 それも四年前に終わりを告げた。


 当時中学生であった雀にもその事件は少なからず衝撃を与えていた。


 何しろたった一つしか歳の違わない少年が唯一の犠牲者として、ニュースに報じられたのだから。

 その当事者の一人がカイとは思いもよらなかった。


 彼女も当時は中学生だったはずだ。忌々しい記憶に苦しめられるように、胸を掴む手で服に皺が走っていた。


「当時の僕はもう監視官候補生として訓練を受けていて、自分で言うのも何だけどかなり順調だったんだ。先輩の任務に同行もしてたし、簡単な仕事なら単独でも成果は出してた」


 自惚れではない。実際、カイは優秀だった。


 射撃、術式、近接戦闘、諜報、潜入、語学……いずれもそつなくこなし、現役の監視官と比較しても能力に遜色は無かった。


 天才の名を欲しいままにし、将来を有望視され、期待通りにこうして監視官となっている。


 誰もが羨む軌跡、理想の経歴にも暗雲が立ち込めた時があった。


 ある日のことだ。尊敬の対象であり、上司でもある宵波直嗣から直々に予行演習と称して監視任務を与えられたのだ。


 対象はなんと同じ中学に通う彼の義理の息子だというから、カイは大層驚いた。


「身内を監視するって、どういう意図?」


「訓練プログラムにもあるんだよ。素行に問題がある人を監視して、対象の動向を正確に報告するっていう訓練が」


「へえ。じゃあそいつは訓練道具に指定されるぐらいのバカ息子だったわけ」


「いやまあ……確かに大分特殊ではあったし、素行も普通の人とは何馬身もかけ離れてたけど……。う~ん……どう言ったらいいのかな」


 フォローを試みようとするもカイにしては歯切れが悪く、適切な表現が見当たらないのか視線を彷徨わせる。


 極道の倅にすら狼狽えることなく、秒で打ち解ける程度にコミュニケーション能力がカンストしている彼女を知るだけに、雀は逆にそのバカ息子に興味が湧いた。


「ふうん。質実剛健、光風霽月の如きアンタでも天敵はいるのね」


「あれは仕方ないもん。会ったことある? 視覚も聴覚も自発的に閉じてて、うっかり触れるとおっかない美女の式神が飛び出てくる男の子なんて!」


 想像以上の曲者だった。RPGの特殊キャラでももう少しマイルドに仕上げてるだろうに。


 しかし監視するだけならば比較的楽な対象でもあるのではないか。


 監視対象のプロフィールを確認した直後はカイも楽観的に捉えたものだが、やはり訓練というだけあって甘くはなかった。


 監視官が対象の脅威判断するには、その人物の習得術式や兵装は勿論、人となりや思想も把握しなくてはならない。遠巻きに眺めているだけならば式神で事足りる。


 その点を宵波直嗣は任務中の課題としてカイに与えた。


 つまり──


『お友達になって欲しい。彼学校じゃ孤立してるらしいからさ。ちなみにこれ任務扱いね』


「──って言われたけど、言葉も手話も肉体言語も封じられたら普通はお手上げだから! おっかない式神が憑いてるからイジめっ子から華麗に救って高感度稼ぎも出来ないしッ」


 思い返している内に当時の不満とストレスが蘇ってきたのか、カイの口調が荒れてきた。


 ついでに打算的にコミュニケーションを取っていたことも判明したが、武士の情けだ。雀は聞かなかったことにする。


「よく一般の学校に通ってたものね」


「ああ、そこね。僕も最初は不思議に思ってたんだけど、彼の盲ろうは半分自発的なものらしんだ。だから授業はちゃんと受けてたし、成績だって上位の方だった」


「難儀な男ね。……っていうか盲ろうが半分自発的?」


「そ、半分」


 常識的には不自然な表現に雀が引っ掛かりを覚えると、カイは神妙な面持ちで頷いた。


 盲ろうとは先天後天問わずに、視覚も聴覚も機能していない身体障害のことだ。


 生きていながら完全な暗闇と無音に支配された世界など、想像を絶する。


 普通であれば近づくこともせず、理解に努める物好きなど皆無だろう。


 出会いの良し悪しに関わらず、人間関係というものは最終的に自身にとって心地よい形に落ち着くものだ。


 任務でもなければ、カイも彼に関わることはなかっただろう。


「呪われてたんだ、彼。それも相当強力な呪いだった」


 一歩間違えれば周囲に激甚な被害を与えかねないほどの、特級の呪い。


 専用に開発された強力な封印術に注ぐ霊力を捻出するために、彼は生命維持には直接関わりのない身体機能を極力カットしていた。


 半分自発的な盲ろうとはそういうことだ。


 その事実を知ったとき、カイが抱いたのは強い興味だった。


 憐憫や同情を覚えなかったといえば嘘になるが、なぜ彼が周りを頼らないのか不思議でならなかったからだ。


 霊力は血液と同じだ。波長が適合すれば輸血のように他者に分け与えることは可能だし、技術はとっくの昔に確立されている。


 それにも拘らず、彼は暗闇での孤独を選び、人並みの生活には見向きもしない。


 カイにとってそれは知らない人間だ。未知と言い換えてもいい。


 人となりは、その人物の歴史が造り上げるものであるならば、彼の過去は尋常ならざる過去であることは想像に難くない。丁寧に過去を抹消され、彼の足跡を全く追えないことのがその証拠。


 だからこそカイは無遠慮に、いっそ清々しいまでに彼の元に足繁く通った。


 唖然とする周囲の視線も、引き留める友人の忠告も無視して、何よりも本人に認知すらされずとも。


「あんたが照との交友を諦めないのは、今に始まったことじゃないのね」


「照ちゃんはちゃんとリアクションがある分、全然マシさ」


 皮肉めいた雀の指摘に、カイは肩を竦めた。


 実際に忌憚のない批評だ。照は馴れ合いこそ好まないが必要な時にはキチンと対談の場に応じてくれる。


 しかし、彼の場合はカイからの一方通行な上に、話しかけてもそもそも聞こえていない。


 当時のカイは悩んだ末に、自分の存在を認識してもらう事から着手した。


 具体的には毎日欠かさず、昼休みにたっぷりと霊力を込めた瓶コーラを差し入れた。


 視覚と聴覚が閉じられていても、封印術の維持のために霊感は開いたままだろうと推測してのことだ。


 二人が通っていた私立中学は昼食は弁当持参か、購買での調達するかの二択のため、別段誰に咎められることは無かった。


 案の定、コーラは手付かず。霊力が消費された様子もなく、窓際によけれただけ。


 それでも懲りずに霊力入りコーラを届け、やはり放置され、届け、無視されを続け。


『しつこい』


 その一言を引き出すのに、半年を費やした。窓際の在庫はえらいことになっていた。


 不意打ちの非難にカイは開いた口が塞がらず、初めて彼の声にその場に居合わせた生徒が一斉に振り向いた。


 しかし目論見通り、彼が自分を認識していたことに気付き、カイの口元は自然と弧を描いていた。


『一口飲んでくれたら、明日はゼロシュガーにしてあげるよ!』


『…………』


 会話は続かず。


 けれども大きな一歩だった。


 少しずつ、ほんの少しずつ、言葉を交わすようになった。


 殆どカイが一方的に好きなことを喋るだけだった。行きつけの喫茶店、お気に入りのジーンズのブランド、学校帰りに見つけた雄の三毛猫、アストレア内の恋愛事情等々。


 相槌の一つも帰ってこないことが大半だったが、本当に時々だが短い雑談が成立するようにもなった。


 差し入れには頑なに手を付けようとはしなかったが、一緒に飲める日もそう遠くはない。


 毎日の昼休みを待ち遠しにしている自分に気付き、ある日よくわからない動悸に焦って夜を明かしてしまい、翌日にしっかりと寝不足を見抜かれた。


 友達と言うには足りず、けれど知り合いと称すには物足りない。


 水に一匙の砂糖を加えたような日々は、けれど呆気なく壊れた。


「──四年前、僕と彼は修学旅行であの飛行機に搭乗した」


 那覇空港行きの空の旅。たった三時間と少しの平和な時間のはずだった。


 生徒の中には人生で初めて飛行機に乗るという者も珍しくはなく、任務で旅慣れたカイは秘かに天狗になっていたりした。


 修学旅行期間は彼女もただの学生に戻っていた。直嗣もこの時ばかりは青春を謳歌して欲しいと、監視任務も解いた。


 飛行機が飛び立って間もなく、乗客の誰もが思い思いに時間を過ごしていた時。


 突然、機内前方で悲鳴が上がった。


 直ぐに確認に走ったカイが目にしたのは、客室乗務員(CA)の首筋に噛みつく痩身の男。


 赤い双眸、青白い肌、節くれだった指、そして血を啜る二対の犬歯。


 魔族──吸血鬼だ。


 吸血鬼はCAの血が口に合わなかったのか、CAを乱雑に放り投げると、無造作に近場の若い女性を引き寄せ首筋に喰らいついた。


 乗客はこの時初めて状況を理解したのだろう。人の形をした肉食獣が混じっていたと。


 狂乱がぶちまけられ、誰もが我先にと機内後方へ逃げ惑う中、カイは判断を迫られた。


 吸血鬼を捕縛しようにも直嗣の気遣いが仇となり、当時のカイは非武装状態。万一に備えての護身用の呪符数枚はあるが、それだけだ。


 加えて場所が最悪だった。機内は大勢の一般人に加え、高度一万メートルの上空。逃げ場がない。術式に頼ろうにも、打てる術式は限られた。


 徒手空拳で近接戦を挑もうにも障害物が多く、怪我人を庇いながら吸血鬼を捕縛することなど不可能だ。


 彼女の葛藤を嘲笑うように、吸血鬼は何かを探すように手近な人間を掴まえては、味見を繰り返す。


「逃げてッ!」


 破れかぶれに、カイは吸血鬼に飛び掛かった。


 肉体強化の術式で身体を強化し、短期決戦に全てを賭け──次の瞬間には敗北を喫していた。


 何が起きたのか、何をされたのか、理解が及ばなかった。


 殴打か、術式を喰らったのかすら判断できない。


 ハッキリしていることは吸血鬼の腕がブレたように見えた直後に、身体が痛みの塊になっていること。


 信じられない量の血が口から滝のように流しながら、吸血鬼の足元に崩れ落ちた。


 手足は震えるばかりで碌に動かず、自身の血で呼吸すら満足に叶わず、霊力を練っても身体に留められない。


 皮肉にもカイが果敢に立ち向かい、重傷を負ってしまった事で機内は恐慌状態に陥った。


 戦える者などいるはずがない。機内に居合わせたのは一般人のみだ。


 カイに許されたのは、悠然と歩みを進める吸血鬼をか弱く睨みつけることぐらい。


 逃げ遅れた乗客が毒牙の餌食になり、吸血鬼の喉が数回鳴れば手足は糸が切れたように重力に引かれる。


 生徒を守らんと勇敢にも立ちふさがった壮年の教師は、煩げに払われた平手で吹き飛んだ。


 一人、また一人と魔の手に掛かっていく。


 吸血鬼は血の味に酔いしれることもなければ、悲鳴の多重奏に笑うこともしない。


 淡々と、感情を露わにせず、機械的に乗客を口に運び、しかし決して満足しなかった。


 まるで最高の味を探すように、手当たり次第に。


 不幸中の幸いは、吸血は致命傷に至る前に終わるために死者はまだ出ていないこと。


 しかしそれも時間の問題だった。


 やがて吸血鬼は一人の乗客の前で歩みを止めた。


「すー……くんっ!」


 監視対象の彼だった。


 普段と同じく、眼も耳も閉じていた彼は状況すら把握していなかったのだろう。逃げ遅れ、孤立した彼は普段と何ら変わらず、窓際の席で視線を虚空に固定したまま。


「にげ……誰、か! ……誰か、かれ……ごほっ!」


 朦朧とする意識を必死に繋ぎとめて、カイの声にならない叫びは逆流する血で掻き消えた。


 吸血鬼の魔手が伸ばされ、指先が彼に触れた途端、ばね仕掛けのように跳ね上がった彼の手が吸血鬼の手を払った。


 その光景に、誰もが目を見張り、機内が異様な静寂に包まれる。


「貴様が今代の呪いの器か」


 初めて赤い双眸に感情の色が宿る。


「何度潰しても現れる、忌々しい虫よ。存在そのものが私を辱める」


 吸血鬼の腕が水平に持ち上げらえる。


 僅かな魔力の波動が駆けた直後、足元の影がせり上がり吸血鬼の手の中で長剣を象った。


 吸血鬼が得意とする魔術、操影魔術。己の影に実態を宿し、意のままに操る攻防自在の汎用術式。


 威力は術者の魔力量次第に依存するが、人間程度ならば簡単に切り裂ける。


「……っ、ま、て……!」


 厚みのない長剣が振り上げられる。


 這いつくばるカイは眺めることしか出来なかった。


 極限状態に陥った脳が時間を引き延ばしたように全てをスローモーションで見せた。



 ──ヒュっという風切り音がした。


 ──赤く、熱く、大きく、みずみずしい花火が打ちあがった。


 ──ゴトンと何かが傍に転がってきた。


 ──ボーリング玉大のそれは彼だった。

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