終章・九節 蛇と蝙蝠
時は戻り、深夜の五輪市近郊。
山肌を切り開いて整備され、しかし今は廃棄された山道から涼は遠方の五輪市をじっと見つめていた。
背後は壁に等しい斜面。眼下には手付かずの原生林。ガードレールは錆びて朽ち、街灯の類いは何もないこの地は、夜になれば頼れる光源は月と星明りのみ。
それも今だけは例外だ。
五輪市を囲う銀幕の光で普段から謙虚な星々は姿を隠してしまった。
まるで神でも降臨してきそうな光景だ。
何も知らない一般人、あるいは信心深い者であればそう信じても何ら可笑しくはない。
「本当に出て来るかもしれないがな」
僅かに視線を上げ、涼が注視するのは五輪市の上空。
銀幕から発生する強力な力場と光によって肉眼では確認しにくいが、あの銀幕にはとある術式が下地となっている。
瞼を閉じると同時に、右目に霊力を注ぎ込むと、仕込まれていた術式が起動を開始。
眼球の奥底でガチャリと、レンズが入れ替わるような感覚を合図に右目のみを見開いた。
視界に飛び込んでくるのは、緑一色の世界だ。
僅かな光量を増幅して、暗闇を見通す暗視ゴーグルと似たような視界だが、右目の術式が増幅するのは霊力と魔力の波長。
シズの眼の研究で得た副産物。式神技術で疑似的に魔眼を再現し、実験的に右目に施した霊視の千里眼。
突貫工事のために微調整は諸々後回しにしてしまったが、焦点を遠方に合わせると視界が拡大されて、数キロ先を目の前の事のように捉えられる。
銀幕──つまり鏡海は術式由来の産物ではない。涼の右目は銀幕を黒い壁として写し、その上。上空に展開される三重環の術式をハッキリと確認していた。
「天使……」
過去に二度、遭遇した人知から逸脱した術式。
神の御業の運び手。権能の象徴。降臨の儀式。
魔術翁が復権のために発動した術式で間違いないだろう。
あの天使の術式で器を吸血鬼から天使へと昇華させ、鏡海から権能を器に降臨させる算段だったのだろう。
術式が待機状態になっていることから、その目論見は失敗したようだが。
原因は言うまでもなくあの銀幕だろう。
「飯だぜ、涼」
頬に熱いものを押し付けられ、思考の海から意識が急浮上する。
途端、鼻と食欲をくすぐる香ばしいスープの匂いを覚えた。
千里眼を停止させ振り返ると、そこには大和の姿。両手には蓋の隙間から湯気が細く伸びるカップ麺が握られ、一方を涼に押し付けている。
「食わんと死ぬぜ病み上がり。義手のリハビリも兼ねて腹ごしらえしとけ」
「……ありがとう」
カップ麺を受け取りながら、涼は大和の出で立ちに無意識に眉根を寄せてしまった。
服装はスラックスにワイシャツというラフなものだが、その上からアストレアが独自改良した防弾ベスト。背中には負い紐でアサルトライフルを背負っている。耳には無線機が装着され、腰には拳銃、呪符を納めたホルスター、ナイフといった副武装がズラリと連なっている。
厳重な武装状態。
大規模な戦闘こそ起きていないが、いまや五輪市周辺は戦場となんら変わりない状況だ。
「そんな嫌そうな顔すんなよ。俺のうなぎ味と交換すっか?」
「今は味覚をカットしてる。食事に対する不満は発生しない」
「おいおい、長丁場になりそうだからせっかく地方の変わり種をかき集めてきたのによ」
テント下の折りたたみいすに腰を下ろした大和は早速カップ麺を勢いよくすすり始めた。
ここに仮拠点を構えてから、既に数日が経過していた。
本当であればもう少し街へ近い場所が望ましかったのだが、現在五輪市は聖王協会の監視網の中にある。
市内へ続く主要道路と鉄道は完全に封鎖され、銀幕を囲うように探知結界まで張られており、迂闊に近づけない。
幸いにもアストレアが張った人払いの結界と幻術は除去されておらず、しっかりと補強と維持もされているために、今のところ大きな騒ぎにはなっていない。
しかしながら、最寄りのアストレア関西支部もまた本部と同じく協会派の対応で、五輪市に戦力を割けずにいる。
現在付近に駐留しているのは、涼たちを含め二十にも届かない。聖王協会を排除するには心もとない戦力だ。
「しかしまあ、未だに信じ難い話だ」
「何がだ?」
「雨取嬢だよ。鏡海から再現された人造人間……いや、異邦人か。並行世界の住人とは恐れ入るね」
「説明しておいてなんだが、信じるのか?」
「全部信じちゃいない。でも可愛い義弟に力を貸すには、俺が兄貴ってだけで理由は十分だ。
多分由良も似た理由だと思うぜ」
ここにはいない同僚の名と共に、大和は涼の味方だと宣言した。
「ただまあ、お前の語ったことが全て本当だとしたら、運命ってやつを呪いたくなるね」
食事の手を止め、天幕を仰ぐ彼は行き場のない呪詛を持て余していた。
涼の生い立ちを知ったとき、大和は大きなショックを受けたものだが、照の経歴も同じぐらいの衝撃だった。
「異邦人……それだけで驚きだってのに、まさかこっちの世界じゃ生まれなかった神崎雀の妹とはな」
そう。雀には本来二つ年の離れた妹がいるはずだった。
ただし戸籍上において照は存在しておらず、また出産の記録もない。
理由は単純。妊娠初期に流産してしまったのだ。
この事実は神崎家内でも一部のものしか知られておらず、外部に残された記録は産婦人科の僅かな経過診察の資料のみ。
まだ生物としての形すら確立しないままに、名前すら与えられず、この世を去った神崎家の次女こそが照なのだ。
この世界に本来雨取照は存在しない。昨年の四月からアストレアが照の経歴を調査するも、その足跡を殆ど掴めなかった理由がこれだ。
恐らく、彼女がこの世界に放り出されたのは雨取家の養子となる三年前あたりだろう。
鏡海に記録された、ここではない別世界で真っ当に生まれた神崎照の情報を元にして、この世界に出力されたのだ。
この事実を涼が悟ったのは昨年の七月だ。
七榊響との戦いで鏡海の一端に触れ、夜鷹の証言から裏付けが取れてしまったIFの存在。
「事象の羊水……鏡海か。噂に違わぬ超常領域だな。魔術翁が欲するのも頷ける。それが街一つを飲み込んでいるとはね。馬鹿からしたらあそこは宝島か?」
「下手に踏み込めば別世界に適応できずに死ぬけどな」
「拒絶反応みたいなもんか」
「表現としてはそれが一番的確かもしれない。拒絶されるのは別世界の自分にだろうけど」
大和の所感に涼は実体験と皮肉を交えて補足する。
涼が鏡海に関して知りうる全ての情報を開示した事で、涼への処罰はひとまず保留となった。
情報隠匿の罪が許されたわけではないが、現状において最も鏡海に精通している点から、事態収拾が最優先された形だ。
涼を小隊長に据え、大和と由良の独立小隊を編成。三人は五輪市に急行し、聖王協会との接触を避ける形で郊外に仮拠点を設け、現在に至る。
依然として涼の体調は万全ではない。東京で最低限動ける状態にまで何とか持ってきたが、戦闘となればどこまで戦えるか。
それを差し引いても涼を五輪市に急行させたフランの判断は妥当といえよう。
聖王協会が銀幕内部への侵入に手をこまねいている内に、涼は五輪市内に足を踏み込み、内部の人間と接触しているのだから。
「ま、市民の安否が確認できたのは大きな進展だよな」
「……そうだな」
現在確認されている唯一の吉報を口にする大和に、涼は言葉少なく肯定する。
市民は健在。街は平穏。
涼が銀幕内から持ち帰った情報は表面上は胸を撫でおろせるものではあった。
アストレアも聖王協会も越えられなかった銀幕を突破出来たのは、五輪市の霊地、そして照の編纂魔術に精通している涼だからこそ。
銀幕が外部からの干渉を完全に拒絶するのは、涼も現地で真っ先に確認したこと。
次に調査したのが五輪市に流れる霊脈だ。
照の編纂魔術はある程度の大きさの霊脈上でなれば展開できないという発動条件がある。これは世界を一時的に書き換えるほどの大魔術を維持する動力を霊脈から吸い上げるためだ。
銀幕の発生要因が編纂魔術であれば、近い性質を有していると涼は睨んだのだ。
読みは的中した。
銀幕が霊脈から動力を吸い下げる流れに乗じる形で、涼は内部への侵入に成功していた。
安全性の確認と検証のために、一度目は機械人形を投入し、未帰投のまま失敗と判断。
二度目は涼自身が突入。赤服の呪い纏った式神体を操り、直接調査を敢行した。
奇しくも、痺れを切らした聖王協会が秘蹟にものを言わせて突入するタイミングと同じであった。
そこで目にしたのは、彼が親しんだ五輪市とはどこか異なる街。
馴染みのタバコ屋の外装が異なる。駅前に展開する飲食チェーン店が見当たらない。建設中だったはずのマンションが完成している。
地形は同じ。けれど街並みの様相が自分が知るものと少しずつ違う。
決定的だったのは、彼女との出会いだった。
魔術翁ではなく、監視官として対峙した宮藤カイ。
彼女は自身が吸血鬼とも、魔術翁とも認識していないだろう。再会を同じくした雀もまたカイを監視官と認識し、疑っていない。
そういう歴史のもとに、あの世界は運営されている。
「…………」
空を仰ぎ見れば、銀幕が光をまき散らしながらも散々と輝く星々。
気付けば季節は冬の星座が主役となる時期に移ろいでいる。一年の中で最も多くの一等星が集い、夜空を彩る。
その中でひと際強い輝きを放つ、名も知らぬ星が一つ。昨夜よりも輝きを増していた。
「それでどう動くよ。住民の無事が確認できても、銀幕を解除できなきゃマジであの街は焼却処分だ。洒落にならんぞ」
「だからいま氷杜先輩に偵察に行ってもらっている」
右目の疑似魔眼で観察して確信した。
銀幕は確かに編纂魔術を引き金としているが、あの魔術は街全体を飲み込むほどの規模は有していない。
別の要因であれだけの範囲に拡大してしまったと考えるのが自然。
涼が知る限り、鏡海に影響を及ぼすほどの大規模術式など一つしか心当たりがない。
言うまでもなく、銀幕直上で待機状態にある三重環の術式。即ち天使の術式。
いかなる偶然か、それとも必然か。この街にはこれを研究する魔術師が一人いる。
「戻りました」
噂をすれば影か。
気配遮断の術式が付与された外套に身を包んだ由良が、背後の岩壁から飛び降りて現れた。
「ご苦労様です。早速ですが、どうでした?」
「貴方の読み通りでしたよ。どうやら魔術翁は保険をかけていたようだ」
報告を求める涼に、由良は簡潔に凶報を告げた。
由良に向かわせた偵察先は、ギリギリ銀幕の範囲外である郊外の天文台。
そこには神崎家に隠れ、天使の術式を研究する魔術師が一人いる。
国枝忠隆。五輪高校の後輩、有澤那月の父親だ。
最初はさして気にも留めていなかったが、ここに来てあの男が如何に異端であるかを再認識させられた。
他人が管理する霊地に人知れず寄生する術師は、数こそ少ないが実例は何件もある。
だが国枝場合、魔術師としての経歴が不明である上に、研究対象が極めて異質だ。
三重環を用いた天使の人造──権能の研究だ。それも人獣の魔力を用いていたことが後になって判明している。
恐らくは国枝の研究は完成の段階にかなり近づいているはずだ。オークション・ラヴュリンスで実際に権能の一端に触れた今の涼には断言できる。
魔術翁との因果関係は不明だが、状況証拠だけでも疑うには十分。
今すぐにでも拘束したいが、
「数は?」
「確認できただけでも三十は下らないかと。恐らく多くがGHCの手練れですね」
簡潔に旗色が悪いと由良は告げる。
既に天文台は魔術翁の息がかかった聖王協会によって守りが固められている。
涼がこの場所に仮拠点を構えたのは、三十年近く前に仕込まれた人獣の遠隔起爆術式を警戒したためだが、優先順位を誤った。
先に抑えるべきはこちらではなく、国枝の方だった。
「天文台を強襲して、国枝氏を抑えるべきかと。我々三人ならば十分に可能だ」
「だな。応援を待っている暇もない。いいな、涼?」
過信ではない。お互いの実力を熟知したうえで、由良は少数精鋭の電撃作戦を提言し、大和はこれに乗った。
「いや……」
思案に耽っていた涼の顔が険を帯び、視線が横合い……岩壁下の森林へと向けられた直後。
一瞬だけ木々の合間に何かが瞬いたその刹那。凄まじい魔力と風を伴い、巨大な何かが崖下の森林から伸び上がり、その毒々しい白肌の長躯を露わにした。
風で暴れる髪を抑えつける涼は、白い柱の先端、空高く長躯を旋回させる頭部を確認し、思い切り舌を打った。
間違いない人獣だ。それもこれまで涼が遭遇したどの個体よりも巨体であり、完成されていると一目でわかる程の。
ベースとなった生物は蛇だろうが、本来つるりと美しい鱗は刃物のように逆立ち、胴部からは鱗が進化したと流線型の羽が何対も伸びている。なにより特徴的なのは、一本一本が人間大ほどの牙の中で更に鋭く長大な一対の牙、いや犬歯。
間違いない、吸血鬼の人獣だ。その証左に蛇の目は血のように赤く、瞳孔は人の目のそれ。
「おいおい、マジか。これ別の世界の案件じゃねーか。誰か光の巨人を呼んで来い。それともフラグか、お約束のパターンか、もしかしてこれ」
「軽口を叩いている暇はない、来ます!」
若干、興奮気味の大和を由良が叱咤する。
旋回を終えた白蛇がその有り余る巨体と膂力にものを言わせ、凄まじい勢いで大口を開けて突っ込んできた。
散開し危なげなく三人はこれを回避。勢いそのままに岩壁に嚙みついた大蛇は砂糖菓子のようにその咢で嚙み砕き、崖を抉った。
たまたまその位置にあった標識の鉄柱さえ、小枝のように圧し折られている。
スケールの大きさは言うまでもなく人間の尺度を超越しているが、濛々と立ち込める砂煙の中からギョロリ巨大な目玉が動き、正確に涼たちを補足している。
巨体故、初動は鈍く涼たちからしてみれば回避は容易ではあるが、そんなことは大蛇とて承知済みだったか。
変化ついでの一撃を終えた大蛇は追撃は仕掛けず、回頭して崖沿いに山道を猛進した。その行く先は──トンネルだ。
「しまったっ!?」
トンネルへと突っ込んだ大蛇は、自身が通るにはやや狭い道をその巨体にものを言わせて、強引に押し進んでいく。
狙いは間違いなく、魔術翁が残した術式だろう。
厳重に封印術を施した上で岩盤を崩落させ封鎖したが、あれでは数分と持たずに突破されてしまう。
しかし止めようにも、迂闊に近づけばあの刃鱗に引き裂かれて絶命は必至だ。
だったら──
「先輩! 義兄さん!」
「はいッ」
「あいよ!」
対処は迅速だった。言葉もいらない。三位一体の阿吽の呼吸で三人は各々の銃を引き抜き、間髪入れずにぶっ放した。
弾種は涼も愛用するインドラの鎗弾であるが、雷撃は生じていないが、三発の銃弾は吸い込まれるように全く同時に、同じ場所に命中した。
穿孔する大蛇の最後列の翼の付け根、強靭な刃鱗の恩恵が及ばない鎧の隙間に、三発の銃弾は易々と侵入した。
無論、大蛇からすれば知覚すらならない針の一刺し以下の傷。故に起爆を後回しにした。
「ボンッ!」
翼がトンネル内部へ完全に侵入したタイミングで、真っ白な歯を剥き出しにした大和が印を結び、銃弾に込められた莫大な霊力を解き放つ。
直後、山に衝撃が走った。
体内で生み出された高圧電流の大瀑布が大蛇の内部に迸り、筋繊維ズタズタに引き裂き、内臓を焼き焦がしていく。
トンネルという閉鎖空間に加え、大蛇の躯体が二重障壁となり、余すことなくその威力を発揮した。暴れようにも満足にのたうつことさえままならず、地震のようなもがきは数秒と経たずに止まった。
仕留めた。最低でも気絶までは持って行ったはずだろう。
最小限の消耗で、最大限の成果を得たが──最悪の選択であった。
「嵌められたか。デカい餌にまんまとつられちまったぞ」
「そのようですね」
「二十……三十……完全に包囲されたか」
迅速に集結した三人は互いに背を向けて死角をカバーしあう。彼らが大蛇を相手取っている僅かな隙に、包囲網を築いた闇夜に浮かび上がる一対の紅き双眸の数々。
吸血鬼だ。
繁殖能力を失い、吸血によって他者に呪いを伝染させることでしか種族を保てない魔族。
アストレアにおいては発見次第抹殺が推奨され、聖王協会では吸血鬼に関わった全ての人物さえ処分対象とされている。
必然的に長命の吸血鬼は身を隠す術に長け、尚且つ狩人から生き延び、逆に喰らってきた猛者ばかりとなる。
涼たちの前に現れた吸血鬼たちがまさにそれだ。
年齢も性別、装いも人種さえバラバラであるが、血のような赤い瞳と同じく共通しているのが並々ならぬ存在感。誰をとっても苦戦を強いらえるだろう大物が、涼たち一人につき、十人余人。
三人は真っ先に撤退を選択したが、先回りするようにして眼下の森林、崖上から先程と同じ大蛇が姿を現し、獲物を閉じ込める檻の役割を担う。
完全に包囲された。
「いや~、流石はアストレアでも十本の指に入る御三方。ここまで面子揃えてようやく足止めるとは、最近の子はおっかないわ~」
濃密な殺気に満たされる一触即発のこの場からは考えられない、緊張感に欠ける間延びした声が上がる。吸血鬼の背後から下駄を鳴らし、涼たちの前に現れたのは着流し姿で人を食ったような笑みを張りつかせた男。
アストレアを二分させた首魁。今回の事件の主犯の一人。
「伊調銀治っ! こちらに来ていたかッ」
「こんばんは、涼君。今日は女の子じゃないんやね、残念」
涼の殺気をサラリと受け流し、伊調はわざとらしく肩を落として見せる。
状況が悪化した。全てではないにせよ、涼たちの手の内を知る銀治が登場したことは『詰み』に近い。
特に乱戦になれば涼たちには銀治を意識から外れる瞬間が必ず訪れる。搦手に長ける銀治にその隙は致命的であり、その可能性を生んだ時点で涼たちから応戦の選択肢は無くなった。
「察しが良くて結構、結構。無益な殺生はこっちも望んでへんからな」
「何が望みだッ」
「なあに簡単なこと。大人しゅうしていて貰いたいだけや。特に涼君、赤服の君を自由にしとくのは面倒やからな。抵抗しなければ、危害は加えん」
「裏切者が抜け抜けと、どの口が言う!」
「まあまあ、ええやない。実は僕らも困ってんのよ。御覧の通り鏡海の奪取には失敗したみたいやし、肝心要の魔術翁の安否も不明。どうしたもんかと、頭痛めていたら──」
不意に言葉を切り、伊調は頭上を仰ぎ見る。
蛇に例えられるその目が捉えるのは、冬の空において輝く数々の一等星を退け、ひと際存在感を放つ凶星。宇宙の産物ではなく、遥か上空の成層圏で稼働している『超広域殲滅術式』、その稼働の輝きだ。
アストレア内でも極僅かな人物しか知らされていない兵器。伊調は噂程度に耳にしたことがある程度で、都市伝説程度の認識であったがために、初めそれを見た時大いに肝を冷やした。
「──まさか『剣』が実在するとは、参ったわ。聞きたいんやけど、まさかあれで最悪の場合全部消滅させて解決! みたいなナンセンスな結末を用意してるんか?」
「それは我々が想定する一歩手前の最悪だ。鏡海がアンタら外道に堕ちるのなら、街一つ消す方が安い。少なくとも、俺と上層部はそう判断した」
「かー! 正義が聞いて呆れるわ。どれだけの一般人を巻き込むかも承知しているから尚のこと質が悪い。僕が一番嫌いな反吐が出るほどのお利口さんの大局的利己主義者」
「何とでも。しかしそうやって犠牲を厭う割にアンタは随分と怠け者のようだ。神崎家が鏡海に辿り着いたのは俺がこっちに派遣されるずっと前のこと。最小限の労力で最大限の成果を得られる時間も機会もあったはずだ。なぜそうしなかった、伊調銀治」
涼のその切り返しは予想外であったのか。伊調は一瞬呆け顔を浮かべると、ぷっと、吹き出し、次第にゲラゲラと笑い始めた。
「確かにその通りや。ぐうの音も出ん! 参った参った、ハハハハ!」
伊調は笑う。よほど痛快であったのか、それとも逆鱗だったのか。身を捩らせ、涙さえ浮かべて、最後には吠えるように上半身を大きく反らして。
涼たちのみならず、吸血鬼さえ呆気に取られた哄笑は、しかし唐突に止まった。
「僕が何で聖王協会への迎合を説いて、アストレアを二分するようなことをしでかしたか、知っとる?」
伊調の上半身が跳ね起きる。浮ついていた空気は凍てつき、前髪の影が落ちる両眼が淵から黄鉛色へと染め上がった。スリット上に延伸した瞳孔は蛇のそれ。呼応するように目元の皮膚が剥がれ落ち、皮膚の下に隠れていた鱗が露わになった。
「応えは単純。聖王協会はそもそも魔術翁が作り上げた組織だからや。そして彼の御仁の深淵に一端でも触れたなら、生物としての本能で屈服してしまう」
上半身をはだけさせた伊調は、完全に人ならざるものへ変貌を遂げていた。
首が長く延長し、異常発達した脊髄が体外へ飛び出し、二股に割れたこれを神経と筋繊維が包み込み、白い鱗が鎧となり新たな組織を形成する。形成された『首』の先端に蕾のような肉塊が形成されると、眼球がせり上がり、肉が割けて牙が飛び出る。
現れたのは三つ首六眼の蛇龍。
大きさこそ涼たちを囲う大蛇には及ばないが、体長は優に五メートルを超える巨体。
人獣だ。それも古豪の吸血鬼さえ怯むほどの圧力。
「なんじゃこりゃ。本部はこんなバケモン放し飼いにしてたのかよ。冗談キッツ」
「それが貴方の本性……いや、傷ですか、伊調銀治」
大和は軽口を叩きながら、由良は生真面目に変貌を遂げた伊調を見据え、いよいよ決死の覚悟を固める。
「傷か。言い得て妙やね、氷杜ちゃん」
「この姿は僕が魔術翁に屈した傷そのもの」
「下手に魔術翁に歯向かった身の程知らずの末路だ」
三つの頭はそれぞれ独立しながらも、思考を共有しているのか、言葉を継いで己の過去を嘲弄した。
「僕も腕には自信があった」「正義に酔っていた時期もあった」「しかし結果はこの様。絶対強者の前には成す術もなく、弄られ壊された」
「それが造反の動機か、伊調銀治!」
「隷属すれば化物に堕ちることはない」「聖王協会の術師がそうであるように」「人獣は見せしめと、ついでの使い勝手のいい生物兵器」
支配を免れるための隷属。それが伊調が聖王協会への迎合を強行した理由。
彼からしてみれば、神崎家の小娘二人を差し出す最小のリスクで、安寧の享受という最大のリターンが望める、最良の選択肢なのだろう。そこに忠誠は無い。
問答はここまで。
「「「──で、返答は如何に? 大人しくする気、ある?」」」
三つ首の伊調は最後にもう一度、まったく同じ声を重ねて投降の意思を問う。
「トラウマ自慢かよ。引くわ」
「一考の余地もありません」
「断る」
大和、由良、そして涼は三者三様に交戦の意思を叩き付け、その身に闘志と霊力を滾らせる。
交渉は決裂。
「そうか。なら──」
銀治は人の名残を残す手を掲げ、それを見た吸血鬼たちが俄かに浮足立ちそれぞれの好きな獲物に狙いを定める。
「力づくで、大人しくしてもらおう」
銀治の手が振り下ろされる。
解き放たれた血に飢えた吸血鬼たちが一斉に涼たちに襲い掛かる。
数的不利は元より、退路もない。涼たちは決死の覚悟で吸血鬼たちを迎え撃つ、
「──わけあるか。涼ッ、由良ッ!」
「「了解!」」
大和の力強い号令を合図に、三人は銃とは逆の手で何かを思いっきり引き抜くように横に薙いだ。
真実、彼らの手には隠形術でいまの今まで隠していた霊力で編まれた綱が握られており、役目を終えて綱はたちまちに霧散。
直後、数十の落雷が立て続けに落ちたような轟音が轟き、落石防止用のフェンスで保護された崖に巨大な亀裂が走り、それは瞬く間に周囲一帯に伝播した。
「「「は? いや、まさかこれ」」」
伊調は呆け、吸血鬼の脚が一瞬止まる。
それが致命的な隙であった。
伊調らの悪夢をそのまま体現するように、広範囲に渡って山道が崩れた。
「「「なにいいいいいいいいいいいいいいいい!?」」」
三重の悲鳴はたちまちに土砂の濁流に呑まれ、吸血鬼たちもまた落石と地滑りで成す術もなく擦りつぶされて行く。高層ビルと見紛う大蛇でさえ、数百万トンの質量爆弾をもろに受けて逃げる間もなくその巨体を消していった。
「飛んで火にいる夏の虫……いや蝙蝠と蛇か」
「こんな見晴らしのいい場所に拠点を設けていれば、罠と考えるのが自然でしょうに」
「……完全に地形が変わってしまったな」
天災と称して相違ない光景を上空から眺めるのは、軍馬の式神を操る大和と、同型の式神の手綱を取る由良と相乗りする涼。自分たちが仕掛けた罠の威力を目の当たりにし、三者三様の感想を口にしていた。
濛々と大量の土煙と今なお轟音が鳴りやまないこの地滑りは、彼らが仕組んだもの。
その範囲、距離にして五百メートル以上。人為的な災害としてはギネス級か。
この地の龍脈に精通する涼が土地からエネルギーを供給し、大和と由良が発破術式を地中に仕込んでいた。
まさしくこのように、吸血鬼を一網打尽にするために。発案者は大和である。
普通なら即死。運よく土砂の隙間に恵まれ生き残っても、少し振動を与えてやれば圧死か窒息死は免れまい。
それでも油断なく土煙の向こうを観察する三人は、その赤い輝きを確かに見止めた。
「ま、流石にしぶといな」
まるでその言葉を裏付けるかのように、土砂から一柱、ニ柱と火山噴火のように魔力の柱が立ち上る。その噴出孔から這い出てくるのは血と泥に塗れた吸血鬼たち。
四肢がもげた者。腹が潰れている者。頭蓋が削れ脳が露出している者。誰もかれもが致命傷でありながら、ゆっくりと、しかし確実に再生をはじめ、壊れた身体に殺意を持て余す。
「涼。由良連れて引け。天文台を抑えろ。俺は少し遊んでいく」
「分かった」
「即答かよ! ちったあ心配しろよ、いまの結構なフラグよ?」
「心配はしないが、信用してるし信頼してる。それとも義兄さんは引き際を誤るような人か?」
「いや全然。一度こういうの言ってみたかっただけ」
「だろ? 頼りにしている。この先ずっと」
茶目っ気たっぷりのウインクを残し、涼は馬の腹を蹴って駆けていった。由良といえば義弟とは異なり、「本当に油断しないように」的な厳しい目配せを残していったが。酷い温度差だ。
「まったく……陸奥と伊予もあれぐらいお兄ちゃん子だったらなあ」
絶賛反抗期の双子の弟と妹の塩対応に兄としての尊厳を失っていたところ、涼の全幅の信頼──由良のことは早くも忘れている──は大和の心に染み渡った。
「うっし、それじゃま」
気合十分。アサルトライフルに対魔族用の銃弾を込めたマガジンを叩き込み、鞍の太刀を引き抜き様に大和は躊躇なく飛び降りた。
色気よりも血の気の半分ゾンビ状態の吸血鬼が相手というのは大いに不満だが、義弟に免じて目を瞑ろう。
その代わり、全力で遊んでもらうまで。
風が髪が逆立ち、普段は隠れている額の角が大きく成長し、宵波家のルーツの一つをお披露目する。
何の術式も介さず、両脚のみで着地してみせた大和の肌は赤褐色に染まり、唐草模様に似た入れ墨が浮かんでいた。
日本固有のモノノ怪──鬼だ。
「お鬼ちゃん頑張っちゃうぞ!」
嫌味なほど白い歯を剥き出しにし、大和は吸血鬼に飛び掛かった。