終章・六節 歓喜
──遡ること一週間前。
気が付けば、宵波涼は彼岸花の絨毯の中にいた。
仰向けに倒れる彼の視界一杯に飴細工のような、あるいは精緻なリボン飾りを思わせる赤い花弁がこれでもかと主張してくる。
鮮やかな花畑とは対照的に背景となる空は黒一色。まるで真っ黒なペンキで塗りつぶしたように、静謐な闇。
夜ではない。都会のど真ん中であっても星のない空などありはしないのだから。宵闇に関係なく彼岸花をハッキリと視認しているのがその証拠。
上半身を起こすと涼の目覚めに歓喜するようにザアと花畑がさざめいた。
三百六十度、地平線の彼方まで続く赤い平原と、押しつぶされそうな漆黒の空。二色に分かれたシンプルな空間に涼がただ一人。
これだけ広大な空間でありながら彼以外に人間はおろか、生物の気配は一切感じられない。
当然だろう。何しろ此処は現実ではないのだから。ある日を境に、彼が生死の境を彷徨うと決まって現れる異空間。あるいはその身に宿った呪いが生み出す深層心理の具現。
故に、宵波涼以外の人間がこの場所に現れたのならば、その人物は彼とその呪いと浅はかならぬ縁の持ち主に違いない。
花たちを掻き分ける足音に振り返ると、彼女は微笑んだ。
絵に描いたような和服美人だ。仕立ての良い菊柄の着物姿と、それを引き立て役に下がらせる濡羽色の黒髪。影を落とすほど長いまつ毛の下で憂いを帯びた黒い双眸。形のよい鼻梁を通った先に紅が引かれた唇が咲いている。
よく知った女性だ。
何しろ宵波涼が最も信頼を置き、実体化させずとも常に付き従え、そして呪いの器として造り上げた式神に他ならないのだから。
だがここに至って、その認識に些かの語弊が生じた。
幼少期に延命と引き換えに受け継いだ呪いに、涼が制御と理解の為に人としての容姿を与えただけ。それは同時に、元々宿っていた人格を無視して、強引に涼が用意した枠に当てはめてしまったことも意味していた。
滑稽にも程がある。赤服の呪いへの理解を深めるどころか、実際は真逆の手段を取っていたのだから。
こうして改めて女性と対峙したことで、忌々しくも今となっては懐かしい恩人の気配が伝わってくる。
男を惑わす魔性の眼差しに、本能を否応なく刺激する甘い匂い。首筋に薄っすらと浮かぶ血管さえ欲情をそそらせるようだ。
以前は漠然とした認識に過ぎなかったが、身体が成熟した今、本能を絡めとるこの《魅了》の脅威が身に染みる。
なるほど。記憶を失っていても宵波涼は彼女を完全に忘却していたわけでは無いらしい。彼が手掛ける人形が異様に男性受けが良いのは、つまるところ多少なりとも魅惑の呪いが再現されていたのも要因なのだろう。
「ムマか」
「記憶。ようやく戻ったのね」
名前も兼ねた種族名を呼ばれ、女性は柔らかく微笑んだ。
それが引き金だったのだろう。
心臓が、いや魂が脈打ち、熱い何かが迸った。
麻痺していた四肢に一気に血液が雪崩れ込んだような感覚。頭の天辺から爪先の細胞の全てが歓喜し、打ち震えているようだ。
生誕する。あるいは再開といった方が正しいか。
宵波涼が驚異的な封印術で造り上げた彼女との境界が取り払われ、九年越しに成される継承。
涼が両手を広げると、彼女は躊躇うことなく身を委ねた。
抱き留められる彼女の姿は着物の女性のそれではなく、七榊硯を宵波涼へと変えた運命の少女。白髪蒼眼の夢魔。
魂の在り方が根本から覆る。呪いという罰の汚泥に沈んでいた『赤服』の本質が刻まれ、唯一絶対の機能として昇華された。
身体を蝕む呪いは解かれ、手中に収まった強大な力がもたらす全能感。
──それら全てが、涼にはどうでもよかった。
胸中を満たすのは後悔の念に、夢魔を抱く手が強張る。
「砂純健人には随分な恩返しになってしまったわね」
「…………恩返しなんて言葉で美化するな。あれは俺のエゴだ」
生死を彷徨うたびに、赤服の呪いに浸食されるのはいつもの事。その結果命を長らえてきたが、実際は涼が呪いへ取り込まれつつあったに過ぎず、肉体の修復はその副産物。
魔術翁・宮藤カイに敗北したことで呪いの浸食が一線を越えたことで、涼と同化した先代赤服の夢魔の記憶を呼び水にして、失っていた七榊硯としての記憶取り戻した。
叔父である薄羽影朗の復讐に利用され、命を落とすはずだった涼を生かしたのは夢魔であったが、彼を七榊家から逃がしたのはもう一人の恩人。
砂純健人。八月に涼が彼の想い人共々に葬った英雄。
あの時の判断を涼は後悔していない。間違いだったとも思わない。
互いに記憶喪失。いや、もしかしたら健人だけは思い出していたかも知れない。死ぬ間際に彼は記憶を取り戻していたのだから、そうであっても不思議ではない。全てを承知で涼に殺される選択肢を黙認し、委ねた。
もしそうだとすれば永遠に返せない大恩が二つだ。従者となるシャノンの恩を加算すれば更にもう一つ。
願わくば、これ以上恩を仇で返していた事実が判明しないことを祈るしかない。
ただでさえ宵波涼は人に恵まれ過ぎているのだから。既に一生を費やしても到底足りないほどに恩を受けているのだ。
「少し苦しい」
「……悪い」
知らず力が入っていた腕を緩めると、胸に顔を埋めていたムマと視線が絡まる。
身体を重ねることは初めてではないが、以前と異なり涼はあの頃から背丈が伸びた。小柄なムマがすっぽりと涼の腕の中に納まるほどに。
一方で夢魔は依然と何ら変わらぬ容姿。理性を蕩かす匂いも、切なげに細められた双眸も、髪の毛の柔らかさも。
夢魔の『魅了』に対して然したる不快感を覚えないのは、赤服となった彼女を受け入れたからか。
あるいは涼にあった女性の身体を式神・蓮鶴の材料にして、切り離したためか。
「どちらも正解」
「思考を読むな」
「懐に潜り込むのは夢魔の専売特許。精神的にも肉体的にも」
するりとムマの細い手が涼の背中に回される。服越しであっても直に触れず、指先で肌に糸を引くようなフェザータッチを交えた抱擁。愛情表現ではなく、獲物を誘い込み捕らえ魅了する蜘蛛の巣だ。
不快感は抱かずとも、反射的に身を引こうとした涼を制するように、ムマは身体を密着さてて言った。
「砂純の坊のことはあまり悔やむものじゃないわ。貴方やあの坊やみたいに、とことん間の悪い人間はいるものよ」
「不要な気遣いだ。あの件については割り切っているし、こちらのエゴで奪った命であることに変わりはない。背負った十字架が多少重くなっただけだのこと」
「弱みを晒そうとしないのは昔のまんまね。神崎雀の我儘を少し見習った方がいいわ。それとも雨取照の虚弱体質を肩代わりすれば、昔の可愛げが戻るかしら」
「ならお前は神崎の苛烈さと、雨取から淑女としての立ち振る舞いを学ぶことだ」
「酷い人。私との蜜月の最中に他の女を真似ろだなんて」
思わず涼の口からため息が零れた。
ムマの独特な会話のテンポに乗せられると、いつも話が脇へと逸れていく。真面に付き合えばそれだけで生気が奪われていきそうだ。
しかしこれは裏を返せば、目の前のムマは記憶と何ら違わぬ女性であることを示す。
容姿、背格好、口調、指の長さや香水のような匂いに至るまで。
何故蓮鶴からムマへと成り代わったのか。
「それは貴方が私を呼んだからね」
再び思考が読まれる。
抱擁を解いてムマは立ち上がると、ドレスの裾を摘まんで改めてその姿を涼へと示した。
「俺が呼んだから?」
「そうよ。より正確に言えば、貴方が赤服に与えていた人格が蓮鶴から私という人物に再定義されたのよ。いま私がここにいるのは貴方の意思」
「ならお前はムマであると同時に、赤服の呪いということか」
「そして貴方という女でもある」
貴方の女、ではない。宵波涼という女だ。
涼は元々両性具有。つまり生まれながら男性と女性の身体を併せ持った特異体質であった。それだけならまだしも、本来相容れない霊力と魔力を同時に宿してしまったがために、自家中毒に陥ってしまう程に危うい身体であった。
だからこそ不完全ながらも、赤服を高レベルに制御しえたとも言える。
「理解していると思うけど、赤服は貴方の女に宿っているわ。貴方が自分の女を元に式神・蓮鶴を造り上げたからこそ、貴方は赤服の呪いを存分に振るうことが出来た。私は赤服であり、他ならぬ貴方自身」
涼とムマの決定的な差がこれだ。
両性具有であった涼はいわば男性と女性という二つの器を有していたのに対し、ムマ以前の赤服継承者の器は当然一つのみ。
涼は女性の器を自ら切り離し、蓮鶴という赤服の器を造り上げたことで、本来宿主を蝕むはずの呪いを式神として使役し、制御と掌握を可能とした。
単に式神に赤服の呪いを宿したこととはわけが違う。
強大な呪いを一種の生命と再定義し、ここに人格を与え、仮初ではあるが肉体を宛がい、一人の人間に仕立て上げた。
蓮鶴はもう一人の宵波涼と称しても過言ではない、式神の枠を超えた新しい人だ。
ムマは無論、歴代の赤服の呪いの継承者の誰もが成しえなかった領域。
「でも皮肉ね。貴方が用意した器は完璧すぎた。呪いを掌握するつもりが、逆に深く根を下ろされてしまうなんて」
宵波涼が蓮鶴と同義であれば、その逆もまた然り。
主従関係の縛りも幾重にも張った封印術さえ超えて赤服の呪いは涼を飲み込もうと増長してきた。
偏に蓮鶴という式神の成り立ちが、涼に起因しているが故。
主従関係の縛りがあろうとも、強大な力を有している方が主導権を握るのは道理。
今更になって七榊時代の記憶が戻ったのは、赤服の浸食がいよいよ危険な領域に達したためだろう。だからムマへ繋がり、記憶が蘇ったともいえるが。
「で、アンタは俺を喰うつもりか?」
「性的な意味で?」
「自分に欲情するほどナルシストではない」
「それもそうね」
最も危惧する事態を涼は問うも、ムマは惚けて返した。
顔を突き合わせてはいるが今の彼らは一心同体。色っぽい展開とは無縁だ。
「私は貴方のものよ。だから貴方を脅かす力も権利も、その気もない。というよりまだ自覚していないのね」
「自覚?」
「言ったでしょ。赤服は貴方自身だって。本当は制御も掌握も必要ないのよ」
「…………!」
すぅと、再びムマが身を寄せてくる。
涼の頭を抱き寄せ、慎ましくも確かな膨らみへと誘う。
「分かる? 私の心臓の鼓動」
耳元の囁きに導かれ、意識がムマへと潜り込んでいく。
衣服を隔てた更に奥。規則的なリズムで脈打つ心臓の音色。
ドクン、ドクンという筋肉の収縮が生み出す生命の証し。
涼と蓮鶴は同一人物といっても、肉体構造は根本的に異なる。それは心臓も同じ。
蓮鶴にも心臓は搭載されているが、それは涼自身のものではなく人工的なものだ。筋肉量や形が異なれば、音色にも多少の差が生じるのは道理だが。
「…………俺の、心臓?」
小さな驚嘆の声が零れた。
耳から伝わる音の波が自身の鼓動とピタリと重なり、大きく膨らむ。
「そうよ。全て貴方のもの。私の心臓も肌も四肢も、毛髪から爪の先まで貴方自身。本来なら呪いの制御は必要ない」
「アンタが赤服を制御出来なかったのはそのためか」
「そう。器を二つ有する貴方は赤服を従える資格がある」
一つの身体を赤服の呪いに汚染されれば、魔族であろうとも防戦一方。その威力は誰よりも涼が理解し、何よりも多くの敵を葬ってきた事実が証明している。
二つの器を有する涼だからこそ、赤服を自在に操れる。
しかし──
「何故、使われることを選ぶ? 今のアンタなら俺を操り人形にすることぐらい造作もないだろう」
最早、涼と蓮鶴の力関係は逆転している。
その最たる要因がオークション・ラヴュリンスで受けたアルベルトの一撃だ。
偽物とはいえ権能の刃に貫かれた涼のダメージは深刻だ。外傷こそ式神・常磐津で強引に誤魔化したが、あれは生命の在り方そのものを削る異能。赤服と同質の呪いだ。本来であれば涼は消滅していもおかしくないのだ。
ギリギリでこの世に踏みとどまったが、宮藤カイとの戦いに敗れたことが最後のダメ押しになった。
再び現実世界で目覚める保証もなく、仮に覚醒したとしても涼が涼である保証もない。
ムマがその気になれば涼は抗う間もなく容易く肉体を乗っ取られ、この世に蘇ることが可能となるのだから。
「生きることに執着なんてないわ」
涼の疑念を、生物としての根源的欲求をムマは否定した。
顔を上げれば、蒼玉の瞳と視線が交わる。
記憶と違わない美しくも、儚げで、何処か影が差しているような眼差し。
──ああ、そうか。
どうやら涼は未だ完全に記憶を取り戻していたわけではないらしい。
生前の彼女に助けを請われた。
増長する呪いを抑えきれずに、苦痛に喘ぐムマが縋ったのはまだ幼かった涼。
上質な魔力を提供出来るわけでもなく、高度な封印術で苦痛を緩和してやれるわけでもない涼に何故助けを請うたのか、当時は理解が及ばなかった。
赤服の呪いを継いだ今ならば、少し分かる気もする。
ひとたび解き放てば魂まで消滅させる赤服は、僅かな制御の狂いで傍にいる人間を殺害しかねない。誰かに触れることさえ恐ろしい。
周囲に知られれば厄介者扱いか疫病神か、あるいは人間とみなされるかさえ怪しい。
涼は幸運にも人に恵まれたが、本来であれば人間関係は悉く壊れ、消滅していくだろう。
あるとすれば合理的な契約・約定に基づいた利害関係が精々か。いかなる人物も必要以上に懐へ踏み込んでは来ない。ましてやムマは魔族。
孤独。
世界から切り離された心の砂漠。
放浪者が水を欲するように、ムマもまた求め、そして願った。
「──愛して」
甘えるような、泣きつくような、縋るような細い声。
涼が両腕を背に回すと、ムマは全てを委ねる。
身も心も投げ出し、瞼を下ろして欲しかった温もりを噛み締めながら、ほんの少し不満を漏らした。
「本当はキスして欲しかったのだけど」
「碌な恋愛経験もない餓鬼に高望みしすぎだ」
「酷い人。傷心の女を慰められないなんて。女たらしが聞いて呆れる」
「生憎とメンタルケアより外科的な治療の方が得意だからな。今はこれが精一杯だ」
軽口を交わしながら、涼はムマの頭を撫でた。
柔らかく指通りが滑らかな髪は天鵞絨のようで、触れているだけで心地が良い。
クレームを付けた本人も成されるがまま。時折猫のように身を捩って自分から撫でられる。
穏やかに過ぎていく時間の中で、お互いが相手に溶け合っていくような幸福感を噛み締めた。
これもある意味では呪い。
打算も利害もなく、心を無防備に曝け出して求め、求められるこの快感は何物にも代えがたい。愛されたいという、生物の根源的で尊い欲求。
剥がれていく。
二人を覆う、赤く濁った衣が解け、呼応するように花たちが騒めく。
重く空を閉ざす黒天に星々が煌めき、その輝きは瞬く間に地平線の彼方まで波及する。
彼岸花の花弁はいまや淡い燐光を放ち、待ちわびたこの瞬間に震えるがごとくさざ波立ち。
花たちの祝福の光がひと際強まり、名の由来となった衣が織られる──
「心配? あの二人が?」
その問いは涼の心に掛かる影を暴きだした。
祝福の光は嘘のように失せ、世界は再び暗天と彼岸花に二極化される。
「それとも三人かしら?」
「…………」
肯定も、否定もしない。
涼が無意識に触れたのは、髪を結うリボン。魔術翁と名乗った宮藤カイの形見。
およそ考えられる限り最悪の形で再開を果たし、千々に乱れた心はもう凪いでいる。
『──今度こそボクを殺して欲しい』
涼とカイが二度と同じ道を歩むことはない。
一度は口走り、望んでしまった都合の良い『もしも』を完全に否定するために、戦わなくてはならない。
ましてや魔術翁の目的は鏡海──神崎雀と雨取照にある。
かつての友を否定しようとも、涼は今を取る。
「まったく……最近は過去の清算ばかりだ」
ぼやく涼は抱擁を解いて、ムマの手を取りながら膝をついた。
そう。過去の清算だ。
涼も、雀と照も、カイも。
誰も彼も失った過去に捉われ、採算の取れない今日まで来てしまった。
いい加減、終わりにしなければならない。
「あの魔術翁に最も相応しいお仕置きは『俺たち』だろう? だからもう暫らくこのまま力を貸せ、蓮鶴」
己が式神の名を呼ぶ。
応えるのは着物の女性ではなく、古風なゴシックドレスの少女。
僅かに驚いた表情を見せた後、唇を綻ばせた。
「確かに。身に覚えのない罰を背負わされたのだから、報復は当然の権利ね。なら──」
言葉を切ったその直後。
ぐいっと強引に手を引かれ、反射的に堪えたその間隙を突くようにして、涼は唇を奪われた。
「上書き。愛してるわ、涼」
甘い囁きを耳元に残して、ふっと折り重なるようにしてムマは涼の中へと姿を消した。
遅れて口元に残った鮮烈な熱に襲われ、意味もなく咳払いを繰り返す。
カイのキスに対する最初の報復のつもりだったのだろうが、覚えていることなど血の味しかないというのに。
意識が浮上していく。
くそったれな現実へ。