終章・一節 監視官
本当に本当に、お久しぶりです。
一年近く更新が滞り申し訳ありませんでした。
サブタイトル通り今回のお話でこの作品は完結となります。
どうぞお楽しみあれ。
昨夜の未明から降り出した雪はどこか灰を思わせた。
一匙の銀を加えたような冬の化身に五輪市は丸一日で覆い尽くされ、空は絶間なく灰雪を吐き出し続けている。
降雪自体はそう珍しい地域ではないものの、今年はまだ十一月に突入して間もない。冬支度を済ませていない人々が多いのか、その日の深夜の街はいつにも増して静かだった。
居酒屋やスナックの賑わいは随分と少なく、駅前には夜遊びを楽しむ若者の姿も見えない。終電はとっくに過ぎている。
街灯やコンビニエンスストアのぼうとした明かりが、まるで世界から見放されたよう。
一刻ごとに白と寒さに沈んでいく街並みはいっそ病的で、街そのものが人間を拒絶しているようだ。
故に、無人の街中を闊歩するその人影は異物に他ならない。
真っ赤なパラシュートスーツを着込んだ二人組。一方はベイカーハットで顔を隠し、もう一方は狐を模した仮面で顔を隠している。どちらも見た目からは性別の判別は付かないものの、身長は日本人の成人男性の平均とそう変わらない。
二人の間に会話はない。頭や肩に降り積もった雪を気にする素振りすら見せず、ギュッ、ギュッという規則的に雪を踏みしめる音だけがあるだけ。
深い足跡が向かう先は地方電鉄が走る高架下、その小さなトンネル。
雪の侵略を阻む小さな穴蔵は、普段であれば浮浪者の寝床になっていることが多いのだが、先客の姿は見当たらない。
高架下に踏み込んだ二人組の靴音が狭い空間に反響し、ちょうど中央の位置でピタリと歩みが止まった。
二人の内、狐面がしゃがみこみ、手袋をした手で地面に触れる。
途端、掌を中心に幾何学的な模様が浮かび上がり、薄暗い高架下に光が満ちた。
幾何学模様の正体は五輪市に敷かれた結界、それを維持するために霊脈からエネルギーを吸い上げる起点の術式。
一般人であれば認識することすら出来ない代物であり、術師であっても暗号化された術式を解析しない限り干渉は不可能。
それは狐面も承知済だったのだろう。仮面の奥で盛んに両目が動き、術式を隅々まで観察し、時折シャッター音が聞こえてくる。
──ハンド・フォックスより調査報告。
──第27目標地点に到達。
──α世界との結界起点座標──一致。結界術式の同一性──86%。
──式神・玉天集の痕跡は認められず。
──記録暗号化開始……完了。
──レッド・ベルへ報告書を送信……失敗。再送信……失敗。再送信、失敗。
──電波通信を断念。空間断絶が原因と判断。規定に基づき帰投を開始する。
──追記。高密度魔力の接近を確認。最重要人物Kと断定。報告書をブラックボックスへ封入。
──予備電源を霊力に変換開始。システムを戦闘モードに移行。記録開始。
狐面が振り向いた先。
高架下の入り口にいつの間にか雪のベールを背にして、一人の少女が立っている。
「妙な気配が入り込んだから来てみたら、あからさまに怪しいわね」
勝気な印象の少女だ。不機嫌さを隠そうともしない厳しい目付きと、年相応の愛らしさが不思議と両立している。
トレンチコートにキュロットスカートという出で立ちは大人びた少女とよく合っている一方、彼女の手元は物騒極まりない。
回転弾倉を思わせる術式陣が展開され、装填された弾の威力を物語るように眩い光を放っている。
「大人しく投降するなら何もしないわ。ついでにアンタらを送り付けた術師の居場所を吐いて貰えると手間が省けるんだけど」
言っておきながら、少女の声音には最初から期待などこれっぽっちもない。面倒事を嫌うただの愚痴のようなもの。
大方の予想通り、狐面とベイカーハットから期待した反応は得られず。
大きく嘆息した少女──神崎雀は眦を鋭くし、仕掛けた。
「じゃあ、双方合意ってことで力づくね!」
踏み込みと同時に雀は術式を展開した腕を振り抜いた。
放たれるのは高密度の魔力塊である魔弾。有り余る魔力にものを言わせた魔弾は弾というよりレーザーに近く、高架下の暗闇を一直線に貫いた。
十メートルもない彼我の距離を一瞬で埋める魔弾を、しかし狐面とベイカーハットは左右に別れ飛び退いて躱すも、それ以上は壁に阻まれ逃げ場はない。
首尾よく二人を分断した雀はベイカーハットに狙いを定め、牽制射撃の魔弾を撃ちつつ一気に懐に潜り込んだ。
逃げる隙を与えない速攻。加えて相手の動きは鈍い。
どてっ腹に拳ごと魔弾をぶち込む直前、ガシャンという音に背筋に悪寒が走った。
反射的に跳ね上げた脚がベイカーハットの腕を弾いた直後、耳を聾する銃声が轟いた。
鼓膜の痛みに目を眇める雀が見たのは、パラシュートスーツの袖口を破いて現れた長い銃身と、特徴的な前後スライド式の持ち手。
散弾銃だ。隠して持っていたのではない。腕そのものが銃身。
更に銃撃の余波を受けてベイカーハットが吹き飛び、隠れていた大きな単眼レンズを備えた無機質な頭部が露わとなる。
薄々感づいてはいたが人間ではない。
ならば少々派手に壊したところで良心は痛まないだろう。
「映画泥棒の親戚なら銀幕に帰れッ」
もう一方の腕が差し向けられるより早く、雀は踵落としの要領で振り上げた脚をそのまま叩き込んだ。
派手な破砕音を響かせ単眼レンズが砕け散り、頭部がひしゃげる。
背中から倒れる機械人形が沈黙していく中で、霊力が霧散していく様を雀は捉えていた。
頭の片隅にこの機械人形の送り主が霊能力者である可能性を認識しつつ、意識は残る狐面へと向けられている。
やはりこちらも人形。差し向けられた両手の掌からは手袋を突き破って銃口が覗いている。
機械人形らしく一切の躊躇いを感じさず、銃撃を浴びせに掛かった。
こちらはアサルトライフルの類なのだろう。リズミカルな射撃音を認識した時には無数の弾丸は群れとなり雀に襲い掛った。
しかし野蛮な鉛弾は雀の髪の毛一本捉えることはなく、身代わりの壁の落書きを虫食いにしていく。
「やっておいて何だけど、結構古臭い手よね」
急制動をかけ激しく靴底を擦る雀の姿は、狐面の真横。
薄く白煙を上げる彼女の足元には魔弾の術式陣が展開されていた。脚で撃った魔弾の反作用を利用した高速移動で銃撃を回避してみせたのだ。
加減を間違えれば自らが生み出した推進力でコンクリート壁に叩き付けられ自滅しかねない荒業。内心で肝を冷やしていることなどおくびにも出さず、雀は魔弾を叩きこんだ。
意趣返しの連続射撃。威力を抑えた代わりに速射性と連射性に優れる六等星の魔弾は狐面に次々と着弾。青白い小さな火炎の花々が咲き狂う。
しかし敵も然るもの。痛みを感じない機械仕掛けの身体にものを言わせて、爆炎を突き破って雀に飛び掛かる。
「遅いっての」
捨て身の特攻に一瞬面を喰らったが、けれど雀の身体は人形の懐へ滑り込んでいる。
むしろ無意識に身体が反応していたことに自分で驚きつつも、トドメの一撃が最優先。
上半身と入れ替えるようにして鋭く突き上げられた踵が、狐面の下顎に突き刺さった。
成人男性を優に超える重量の人形が軽く浮くほどの威力。頭部を大きく損傷した人形はノイズの呻き声を漏らし沈黙した。
「取りあえず駆除完了ね」
自爆を警戒しながら念のために銃を完全に破壊しておき、雀は満足げに小さく笑う。
完勝と言って差し支えないだろう。人形相手とはいえ数の不利を全く問題にしなかった。
何より自分でも驚くほど身体が良く動いた。大袈裟に表現するならば別人になったと錯覚するほどに。
「でも妙ね。なんで今日に限って近接戦闘なんてしたんだろ?」
雀は自分を見下ろし、首を傾げた。
別に苦手分野ではないが、普段の自分なら豊富な魔力量に頼った戦い方をしていたはずだ。魔弾の弾種を変えることはあっても、基本的に雀は射手だ。距離を詰めるのは本来悪手であり、それは自分でも弁えている。
疑問を抱く一方で、違和感はなかった。
まるで身体に染み込んだ経験を脳だけがすっぱり忘れてしまったようだ。
『──せっかくの馬鹿火力も攻撃一辺倒じゃ魅力半減だ。使い方の幅を広げな』
不意に脳裏に女性の声が過った。それを呼び水に再生される記憶。
視界一杯に板張りの天井が見える。少し映像が上下しているのは激しく息を乱しているからだろう。芋ずる式に汗で全身に張り付く衣服の不快感と、打撲の鈍い痛みも呼び起こされる。
対照的に声の主は憎たらしいほど涼しい顔をしていた。湯気が上る湯呑に口を付けている余裕ぶり。
重い疲労を訴える身体を無視して、雀はどうにかしてこの女に一泡吹かせたいという憤りに駆られていた。
だがどうしてだろう。それだけ強烈な体験であるはずなのに、何故か女性の容姿が上手く思い起こせない。
女性だけでなく、雀の他にもう一人弄ばれている奴もいた気がするのに。
しかしどれだけ記憶を探っても結果は同じであり、逆にどんどん記憶が薄らいでいっている。気付けば起き抜けの夢の残滓に似た、記憶とも呼べない曖昧な感覚だけが残る。
その時、ポケットのスマートフォンが震え出し、雀は相手も確認せずに通話ボタンをタップした。
『深夜だというのに白昼夢でも見ていたの?』
「……似たようなもんよ」
開口一番嫌味。予想通り相手は勝手知ったる妹であった。
いつも通り屋敷から高みの見物を決めていたのだろう。高架下の出口に設置してあるカーブミラーに淡い魔力光が見て取れる。
妹の鏡魔術にかかれば街中の鏡とガラスは全て監視カメラに成り代わる。雀と機械人形の戦闘もあのカーブミラーを通してバッチリ観察されていたことだろう。
『幻惑の術式でも頂戴したの?』
「そんな器用な人形じゃなかったわよ。まあ分解するなりして詳しく調べる必要性はあるけど」
『そう。なら詰めが甘さはいつも通りというわけね』
呆れたとため息をつかれた、まさにその瞬間だった。
沈黙したはずの二体の銃人形が突然跳ね起き、猛然と走り出した。
「やばっ、逃げられる!」
『おバカ』
「見てるだけの奴が偉そうにっ……!」
腹立たしいがこれは言い訳のしようもない。人形に精通しているわけでもないのに、碌に確認もせずに動けないと高を括ったのは明らかな怠慢だ。
そうでなくとも拘束するなり脚を破壊しておけばよかったものの。
まずいことに銃人形はそれぞれ左右別方向へと逃げ出している。更に追い打ちをかけるように人形たちの姿が景色に溶けつつある。野蛮な武装に反して、光学迷彩機能を搭載しているのだ。
これではどちらかを追いかけても、もう一方を見失う。魔弾で両方撃ち抜こうにも姿が消えつつあっては確実性に欠ける。
対応を迫られ、加速度的に増していく焦燥感に行動が抑制されてしまう。
「ええい、なるようになれ!」
やぶれかぶれに雀は術式を展開した両腕を左右に突き出した。速攻で練り上げた魔力を術式に叩き込み、魔力転換効率にものを言わせた速射でとにかく人形たちの足を止めようというのだ。あわよくば光学迷彩が解ければ万々歳。
無理な術式行使に悲鳴を上げる腕を無視して、雀が魔弾掃射を強行するその直前。
相方よりも一足早く外に到達しようとしていた狐面を、雪の帳を割いて去来した白銀の風が撫でた。
真冬の突き刺すような寒風ではない。
しかし狐面の躯体に氷のようなきらめきが生じている。
壊れた仮面の隙間から。服の間から。関節から。淡い月虹を宿した微細な結晶が生え、人形の自由を奪っている。
それはベイカーハットの人形も同じ。違う点はこちらはいつの間にかに現れた少女によって、直接結晶化されていることか。
「ふう、危ない危ない。間に合ってよかったよ。油断しちゃ駄目だよ、雀ちゃん」
雀に振り向く少女の髪からパッと白銀の光粒が散ると、柔らかい栗色と真っ赤なリボンが現れた。ここ一年半で何度か見た光景だ。
本人曰く、エーテルに近い超高密度の霊力を纏ったときに余剰エネルギーの放熱を髪から行っているために、一時的に銀髪になるのだとか。
──と、以前に説明されたが、疑似的とはいえ星の息吹であるエーテルを纏うとは相変わらずこの監視官は末恐ろしい。
約一年半もの付き合いになるが、いまだ彼女の底は知れない。
それはそれとして──
「やー……助かっちゃった。ちょっと調子が良すぎて、油断しちゃった」
魔弾の術式を消した雀が少女に近づきながら、少しバツが悪そうに苦笑を浮かべた。
「もう、照ちゃんを困らせたら後が怖いよ? 今回は僕が勝手にやったことだけどさ、神崎家としてもアストレアに借りを作るようなことは避けたいでしょ?」
「なら一緒に照のお尻を叩くの手伝って頂戴。ご存じの通り私は基本的に戦闘は火力専門。他への配慮は苦手分野なのよ。細々とした仕事は照の領分」
「え~。僕が照ちゃんに嫌われてるの知ってって言ってるでしょ? 意地が悪いな」
カラカラと笑う雀とは正反対に、少女はふくれっ面だ。
嫌われていると言った通り、先ほどまでカーブミラーにあった鏡魔術の魔力光は失せている。
どこかしらからは視ているのだろうが、間接的であっても視線を合わせる気もないということだ。
一年以上もの間、照はこの監視官の少女を頑なに拒み、屋敷にすら近寄らせようとしない。そのせいで監視期間が無駄に延長されているというのに。
彼女の何が気に障るというのか、雀には理解しかねる。
「ま、照のことはどうでもいいとして。この人形について意見を聞かせてよ」
いまや人型の水晶体となった人形に近づきながら、雀は少女に助言を求めた。
「結界の起点に干渉しようとしていたんじゃないの?」
「そんなことは分かってるのよ。いきなり偽装を無視して起点を暴かれたのは不可解だけど。この人形の製作者とか使われている技術とか知らないかってこと」
「う~ん……霊能力者の作品ってこと以外には表面的なことしか……。頼ってもらえたのは嬉しいけど専門外だし……」
「何言ってんの。私たち女の前であれだけ完璧な式神を連れ回している癖に、稀代の式神職人様は随分と謙虚なのね。それとも嫌味?」
「式神職人? 何のことだい?」
尚も首を傾げる少女に雀は呆れ果てた。
「ちょっと何? ホントに嫌味ってわけ、涼──」
不意に雀の声は萎んでいった。
振り向いたそこには監視官の少女がいるだけ。
一瞬、同じ赤いリボンを付けた黒衣の青年の姿が監視官と重なるも、瞬きを挟んだ後には見慣れた少女がそこにいた。
やはり幻術の類を受けてしまったのだろうか。
もう朧げにしか覚えていない青年と目の前の少女は似ても似つかないというのに。
共通点といえば髪に編み込んだリボンとレザージャケットの胸元の刺繍くらいだろう。
監視官の身長は平均をやや下回る程度。比較的スレンダーな身体つきである一方、強い光を宿す双眸とその立ち姿からはか弱いといった印象は皆無。綺麗に整った目鼻立ちは同性であっても将来を期待させる。
昨年の春から少なくない苦労を共にしてきた仲だ。
今更、誰かと見間違えるなどあるはずないのに。
「スズ? 誰だい? っていうか少し顔色が悪いよ。大丈夫?」
「…………ごめん。何でもないの、カイ」
心配そうに顔色を窺う監視官の少女──宮藤カイに雀は笑って見せた。
カイも深くは追及せずに引き下がり、話題は再び人形へと戻った。
とはいえこの場で新たに得られる情報は既にない。
雀は起点に異常が無いことを入念に確認したのち、カイと協力しては人形を回収してその場を後にした。
──スズ。
屋敷へと戻る道中。無意識に口をついた誰かの名前がしぶとく雀の唇に残り続けた。