間章三・八節 九年後へ
建人は全身に無数の傷を負いながら、全力で疾走していた。
忌々しい人獣の膂力を遺憾なく発揮し、七榊家の追手からただひたすらに。
「はあ……はあっ! く、くそ……!」
後ろを振り返れば追手の姿は見えないが、殺意だけは肌に突き刺さっている。
囮となってもう丸二日以上は経過している。その間、碌な休息も取れていない。
なるべく人気のない場所へと、出鱈目に逃げてきたために自分が現在どこを走っているのかも分からない。
ただ彼が適度に注意を引きつけていれば、その分だけあの子が助かる可能性も上がる。
「ごめんな硯君。カッコ付けておいて、傍で守ってやれなくてよ」
奥多摩の何処かへと隠した硯へ建人は謝罪を口にする。
あのホテルでの結末を直に目にした者は、この世には建人唯一人となった。
その彼とて事の詳細を正確に理解している訳ではない。
赤いドレスを纏ったムマと同化したことで、硯が息を吹き返したこと。
そして息絶える間際に幽連が何らかの術式を放ったこと。
『──我ガ子ラヨ。俺ヲ受ケ継ゲ!』
奇しくもあれは建人ら人獣の『渡りの呪詛』に酷似していた。
建人が追う魔術翁と七榊家が繋がっているという情報は得ていないが、だとしても質が悪いことに変わりはない。
無理矢理背負わされた呪詛というのは、人生の終点を捻じ曲げ強要する。
莫大な呪詛を内包する建人ですら、寒気を覚えるほどの幽連の呪詛だった。あれを浴びた子供たちが果たして真面でいられるか。
硯のことが幽連の呪詛を受けた様子はなかったが、気掛かりでならない。
しかしここで引き返すわけにもいかない。
こうして七榊家を長く動かし続ければ、例えばアストレアにも少なからず知れ渡るはずだ。
建人に出来ることは可能な限り時間を稼ぐことしかない。
かといっても闇雲に逃げ回ってもいずれ捕まる。その前に手を打たなくては。
「下水道に入るしかないか……っ!」
追手の気配に注意を払いながら、建人は手近なマンホールへと飛びついた。
重い蓋を苦も無く持ち上げ、素早く身体を滑り込ませ、数メートルの落下を挟んで着地。
発電所の熱水排出用の下水道か何かか。生活排水特有の悪臭は想像よりも少ない。
照明は最低限だがその分視界も悪く、足音も反響音で誤魔化せる。
古典的であるが、それだけ逃走手段として優れているということだ。
裏を返せば、最も予測され易い手段でもある。
乾いた破裂音が轟いた瞬間、建人の肩が弾け飛んだ。
大口径銃を喰らったと認識した時には被弾の衝撃で倒れた後。
「鼠め。逃げ回るのもここまでだ」
振り向いて、建人は激しく舌を打った。
七榊の追手だ。回り込まれていた。
忌々し気に構えられた大型拳銃が更に咆哮を上げた。銃弾は何の術式も込められていないが、弾頭は恐らくは対魔族用の銀弾だ。大口径の純粋な破壊力に銀の浄化能力が乗算され、建人の身体を容赦なく削っていく。
銃声が轟く度に血肉が弾け、人の輪郭が歪な虫食いのような有様になる。
「おい、それ以上は止せ! こいつからは聞かなくてはならんことが山ほどある!」
「ちっ……!」
仲間が強引に銃を抑えつけたことで、銃撃はようやく止んだ。
しかし一歩遅かった。
変身後ならいざ知らず、今の建人は脆弱な人の姿。
命の危機に瀕したことで、人獣に仕込まれた炸裂術式が起動し始めた。
建人の全身から噴き出す瘴気に追手が気付いた時には、臨界点はすぐそこ。
咄嗟に展開した防護結界の向う側で、建人の肉体の一部が膨張。次の瞬間、破裂した。
吹き荒れる高圧の呪詛の嵐を至近距離から受け、結界は数秒と待たずに瓦解。吹き飛ばされる追手の身体は高濃度の呪詛に破壊され、処理水へと沈んでいった。
しかし、本来の威力には程遠い。
「ぐっ……だめ、だ…………抑えろッ」
辛うじて意識を保っていた建人は死に物狂いで呪詛を抑え込んでいた。
完全に炸裂させてしまえば、大規模な土地の汚染が発生するだけではない。
呪詛が渡ってしまう。何処にいるとも知れない、大切な人達に、想い人に。
それだけはダメだ。
幸いにして炸裂したのはまだ一部。負傷で制御を離れた分の呪詛だけだ。
だったらこの際、漏れ出した呪詛を逆に利用してやる。
やったことなど無いが、呪詛を消費して人獣へと変身の要領で身体の損傷を無理矢理修復させる。もうそれしかない。
「────オ、オオオッ、グオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
咆哮する。
己の全てを賭けて、弄ばれたこの身体を御し切る。
荒れ狂う呪詛の影響で付近の下水が沸騰し始め、壁にも罅が入り始めた。
呪詛を通じて、蓄積された人獣たちの想念が雪崩れ込み、記憶が入り乱れる。
痛み、恐怖、恨み、狂気────すべて全て建人もよく知る負の感情。
だったら制御できる。いや、受け入れられる。
皆、同じ被害者だ。破滅しかもたらさないこの呪詛でさえ、建人と同じ魔術翁の毒牙にかかった人々から生み出されたもの。
否定せず、反発せず、受け入れ、循環させる。
果たして、一世一代の大博打に建人は見事勝って見せた。
荒れ狂っていた呪詛は再び爆弾という危うい形ではあるが、元の鞘へと戻ったのだ。
ただし、代表はやはり大きかった。
不完全とはいえ一度は炸裂したのだ。爆発した爆弾を、熱や爆風ごと強引に抑え込んだようなもの。
周囲への被害や呪詛の渡りこそ防げた反面、建人自身のダメージは深刻だ。最低限身体を保持しているに過ぎず、指一本真面に動かせない。
「さ、つき……」
その時、爆裂の影響をもろに受けていた建人の真下のコンクリートが崩れ、下水へと建人は投げ出された。
弱々しく足場に伸ばされた手は水を掻くだけ。
照明すら破壊された下水道は再び静寂へ没した。
後日、爆発原因の調査で管理局の人間がこの場に踏み込んだものの、誰かが発見されることは無かった。