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間章三・四節 お迎え

 季節は移ろい、本格的な冬を迎えた師走の月。


 今年もあとひと月を切り、世間は年末調整やクリスマスといったイベント、その後に控える新年に向かって老若男女問わず誰もが忙しなく時期。


 七榊邸もまた新年の祝いの席に備えて使用人たちは多忙な日々を送り、年始に集う親戚らの迎え入れの準備も着々と進んでいた。


 自然、幽連の子供たちへの稽古も普段に増して厳しくなる。一年の集大成として、親戚筋に無様な姿を晒すことは許されないからだ。


 時には殺し合い一歩手前の試合を強要され、子供たちは生傷が絶えず、霊力の酷使で四肢の末端は火傷のような痛みを訴える。


 全ては幽連という到達点を過不足なく継承し、更なる高みに押し上げるため。


 今年で十七を数える長兄は自らに課せられた使命を十分に理解しており、長女と八歳になったばかりの双子も程度の差はあれ同じだ。


 ただそうは言っても所詮は子供だ。将来を有望視されようとも、苦痛を強要されることを無条件に受け入れ、己を律することは難しい。


 不満と鬱憤は蓄積し、しかし周りに当たることは七榊の名が邪魔をする。


 同じ兄妹でありながら不要と排斥された硯が、彼等の衝動の捌け口にされることはそう時間は掛からなかった。


「……っ、」


 夜。

 濡らした手拭で身体を拭く硯は苦悶を押し殺す。


 この時期の木桶に水を張っただけの前時代的な水浴びは辛いだけだが、今日のように痛めつけられた日は多少マシだ。やせ我慢に過ぎないが、患部を冷やす処置だけは十分に出来る。


 派手に出血していたのか、顔を拭うと手拭が真赤に汚れた。


 幽連の御咎めが無いのをいいことに、兄妹、特に長兄と長女の虐待は日に日にエスカレートしていっている。


 失敗作というレッテルが硯を虐げる正当性の後押しをしているのも要因の一つだろう。


 殴る蹴る、的代わりに木刀を打ち込まれることなどざら。今日という日は『魔術師に自分たちの霊術がどの程度有効であるのか』という名目で、簡易的ではあるが符術を頂戴した。


 ──無能。恥さらし。愚物。


 痛みに耐えることに必死だったために、最早聞き飽きた謗りは大して耳に入って来なかったことが、硯の小さな報復だ。


「────……うっ、」


 不意に夜風が吹き抜け、硯から体温を削いでいく。


 本当なら昼間に身体を清めたいが、兄妹に身体を見られでもしたら何をされるか。


 身体のダメージも無視できない。凍える前に水浴びを済ませて、もう眠ってしまいたい。


 風に雲が流され、その時雲間から月光が差し込んだ。


「…………」


 木桶の揺れる水面。水鏡に映る朧げな自分が視界に入り、手が止まった。


 冷水に浸かる足先は、もうそろそろ感覚が無くなってきている。


 おあつらえ向きにこれでもかと痛めつけられたことも手伝って、体力は底を尽きかけている。


 死ぬには絶好の機会かもしれない。


 今日まで硯が発狂せずに生きて来れたのは、皮肉にも幽連たちに疎まれる霊力と魔力が混在する両性具有であったから。


 今は無理でも身体が成熟すれば、二つの力を十全に操れるかもしれない。七榊家は硯の認識を改めかもしれない。そんな一縷の望みで自殺願望を誤魔化してきた。


 しかし現実はどうだ。魔術を行使するどころか、霊力さえ碌に扱えない。それどころか身体機能に矛盾を抱えている以上、この先は望めない。


 しつこく会いに来ていた影郎も秋口の来訪を最後に顔を見せることは無くなった。


 両親に至っては最後に会った記憶は遠い昔。顔すら上手く思い出せない。


 恐らく二人にとってもそれは同じことだろう。


『親族一同にお前を生かしておく理由をどう説明するか、父様は大変頭を悩ませている』


 昼間に浴びせられた罵詈雑言の中で、長兄がそのような嫌味を口にしていた。


 聞き流していたはずなのに、何故こんなことは覚えているのか。まるで自分自身も自らを見放したようだ。


 なら別に構わないだろう。

 今ここで、命を断っても──


「救けて、とは言わないのね、貴方は」


「……!?」


 濡れた身体に構わず傍に畳んで置いていた白衣を羽織った。


 声の方向へ振り向けば、やはりそこにはムマの姿。


 いつの間にという疑問は抱かない。彼女はいつだって神出鬼没であり、夜は彼女たち魔族の時間だ。


「……吸精なら今日は遠慮願いたい。差し出せるものが無い」


「そう。日本人は約束事には誠実だと思っていたけれど、違ったようね」


「……何を?」


「貴方から生気を頂戴することが、七榊家に私が協力する報酬なの。どういう経緯であろうと、契約を反故にされた事実に変わりはないということ。七榊は不義理を働いたわ」


 途端、ムマが纏う雰囲気が変質した。


「…………っ、」


 表情こそ常と変わらず微笑を浮かべているが、海底にいきなり叩き込まれたような圧迫感と息苦しさに硯は見舞われる。


 呼吸はおろか、心臓の自由さえ許さない、魔族の本性の発露。


 ただそれも瞬きにも満たないほんの僅かな間。


 次の瞬間には殺意は嘘のように失せ、ムマは硯に穏やかな笑みを向けた。


「風邪、引いてしまうわよ?」


「…………はぁ」


 喉の奥で詰まっていた息が零れる。


 風邪を引くどころか自殺に走ろうとしていたのだが、完全に毒気が抜かれてしまった。


 木桶から出た硯は擦り切れが目立つバスタオルで身体を拭いて、下着と袴を手に取った。


 随分と水に浸かっていたせいで手がかじかみ袴紐の結びに手間取っていると、背中から手を回してきたムマが代わりに結んでいく。余計なお世話だと手を払いのけた時には、着付けは既に終わっていた。


 自分でやるよりも綺麗な十文字の結び目に嫉妬を覚えていると、いつの間にかに髪と白衣も乾いており、おまけとばかりにムマと同じ香水まで付けられている。


 もうどうでもいい。


 片付けは明日にして、硯は離れに戻るとムマに構わず布団に横たわる。


 使用人の使い古しである綿が潰れ切った硬い布団には慣れたものの、真冬の冷気を凌ぐには頼りない。当然とばかりに、暖房器具など与えられているわけもなく。


 雑木林に囲われたこの離れは普段から日差しが届きにくく、冬の冷え込みは殊更に辛い。


 せめてもの抵抗と頭から布団を被ると、眼の前にムマの顔があり心臓が竦み上がった。


「…………何をしている?」


「ここで暖に当たれるのは貴方だけだもの」


「母屋になら囲炉裏もあるし暖房だって効いているだろ」


「薄情ね。空腹のサキュバスを夜中に野放しにするの?」


 ──寝屋を共にしなければ、屋敷の人間に何をするか分からないぞ。


 つい先程魔族の本性を垣間見せただけに、ムマの脅迫は冗談と片付けられるものではない。表面上はいつもの調子を取り戻しているが、空腹の今またいつ化けの皮が剥がれることか。


「…………」


 逡巡を挟み、硯はなし崩し的に同衾を受け入れた。


 だからといって身を寄せ合うのは御免であり、背中を向けつつムマから間を取った。


 当然とばかりに距離を詰められ、またもぞもぞと移動。背中に温もりを感じて、すぐに離れようとするが、狭い布団の中では不毛な攻防だ。


 布団の端に追い詰められた硯はムマの手に捕まり、密着を受け入れざるえない。


 香水とムマ自身の甘い匂いが混然一体となり、密閉空間となった布団の中を濃密に満たす。


 この匂いを嗅いでしまうとどうにも身体の芯が熱くなる。


 無論、これもサキュバスが得意とする誘惑の一種。濃密な性フェロモンと一匙の魔力が副交感神経を刺激し、サキュバスを強く意識させる。耐性のない者は一呼吸で思考に靄がかかる麻酔のようなもの。


 女でもあり、嗅ぎ慣れた硯には効き目は薄いものの、意識から外せるものでもない。


 追い打ちとばかりに人肌の温もりが微睡みを誘い、回された腕を外す気力さえ失せていく。


 冬の夜気に堪えた身には悪魔的な誘惑。


「ねえ、どうして『救けて』って言わないの?」


 耳元で囁かれた二度目の問いは、どうしようもなく硯の心を揺さぶる。


「ここでは誰も貴方を気に掛けない。見てくれない。愛してくれない。貴方がこの家に縛られている理由は無いでしょう?」


 孤独。少なくとも七榊家という狭い世界において、硯に味方はいない。


 しかし部外者であるムマは違うという。


「私なら貴方を逃がすことぐらい簡単。やれと言ってくれれば、今すぐにでも」


 傲岸不遜とさえ捉えられる発言に硯は瞠目した。


 影郎が散々やったように、隠形術に秀でた上に屋敷の構造や各種警報結界の術式をある程度把握していれば侵入することは自体は可能だ。


 半年以上も逗留しているムマであれば条件はクリアしているし、何より彼女は夢魔だ。仮に誰かと鉢合わせたところで幻術や誘惑など、誤魔化す手段には事欠かない。


 問題は離れに展開されている硯を投獄するためだけの隔離結界だが、容易と豪語するぐらいなら失念している訳ではないだろう。


 だが──


「父さんは俺を逃がさない」


「そうね。失敗作なんて貶したところで、貴方が七榊であることには変わらない。何処に隠れようとも絶対に追ってくる」


「そんなリスクを犯すというのか?」


「勿論、相応の対価は支払ってもらうわ」


 ムマは抱擁の腕を解くと、強引に硯を上向きにし、覆い被さって来る。


 天鵞絨(ビロード)よりも滑らかな手触りの白髪がヴェールとなって硯の顔を囲う。


 暗闇の中に浮かび上がる、ほのかに魔力光を帯びたサファイアの双眸。


 その奥。蒼玉色の虹彩の向うに赤い(・・)揺らぎを垣間見て、硯の第六感が警鐘を鳴らす。自身とムマとの間に腕を割り込ませて、これ以上の接近を拒んだ。


「拒むの?」


「施しは受けない」


「鳥かごの生活が貴方の望み?」


「そうではない」


 囚人同様の扱いに不満を覚えないわけがない。


 硯が自分のモノだと胸を張って言えるものなど、命も含めても皆無。離れはおろか、身に着けている衣服でさえ父の機嫌次第で取り上げられるだろう。


 どれだけ理不尽であっても、辱めを受けようとも、ただの餓鬼に過ぎない硯には抵抗する術がないのだから。


 だからこそ、


「今、何かを与えられてしまえば、俺は一生それに縋ってしまう。それは御免だ」


 奪われるだけならば、心は次第に摩耗し痛みは鈍化するだけだ。


 渇ききったそこに与えられる自由や喜びといった潤いは、きっと麻薬のように甘美だろう。


 想像もしたくない悪夢だ。


 ここでムマを受け入れることは、自ら囚人から犬に成り下がることと同義。


 ならばどのような最後になろうとも『七榊の汚点』を貫き通し、幽連たちへ、ひいては七榊家へのささやかな復讐にこの無意味な人生を仕立て上げる。


 何の力も持たない硯が唯一自らを証明する、ちっぽけな克己心だ。


「……まあ、アンタが本気で俺を使うつもりなら(・・・・・・・)、抵抗は無意味だろうが」


「心外ね。情が移ったとは考えないの?」


「人と家畜に向ける愛情は同じではない。消費される人間は人ではないだろ」


 子供が口にするには酷過ぎる皮肉だ。


 ムマと硯の間柄を示すに相応しい関係は何かと問われれば、それは捕食者と食料が当てはまる。奇しくも二人の体位はこれを象徴するような馬乗り。


「じゃあ、少し趣向を変えましょうか」


「……? おい、何をっ」


 僅かに硯の声が剣を帯びる。


 上体を起こしたムマが自身の衣服に手を掛けたからだ。


 ゆっくりと焦らすように背中のファスナーが下ろされ、華奢な肩からドレスが滑り落ちる。


 咄嗟に顔を逸らしたものの、その程度では抵抗にすらならない。


 胸にかかる重みと、嗅ぎ慣れた女の香に気付いた時には硯とムマは重なった後。


 息づかいどころか心臓の鼓動さえ互いに筒抜けだ。


 首筋に顔を埋めるムマの息づかいがこそばゆく、どうしようもなく熱い。


 彼女にとっては男を狂わせることなど、吐息一つあれば造作もないのかもしれない。


「硯」


「………………なんだ?」


 今度はどんな戯言をほざくつもりなのか。


 不愉快気に目を眇め、けれどあくまで無抵抗に徹して、硯はムマの言葉を待った。



「──『私』を救けて頂戴」



「…………は?」


 自分でも間抜けな声が出たと思う。


 つい先程に何故救けを乞わないと問うた本人が、何故救けを求めるのか。


 思わず背けていた顔をムマへと向けるが、その表情は首筋に埋もれて窺い知れない。


 しかし、この時初めて硯の意識がムマへと向いたことで気付いた。


 小さなムマの身体が異様に熱いことに。


 人間は勿論、魔族であっても常ならぬ高温だ。冬の冷気で気付くのが遅れたが、大量の発汗に加えて苦し気に呼吸まで乱れている。


「まさか魔力が枯渇しているのか?」


「……今日は貴方を食べられなかったから、少し辛いの」


 あまり余裕がないのか、返答に間があった。


 夢魔は食事による魔力精製の効率が人間と比較してかなり悪いため、他者から直接奪うことでこれを補う種族だ。


 吸精が出来なければ魔力の収支は必然的にマイナスになり、飢餓状態となり衰弱していく。


 しかし硯は自分で口にしながら、すぐにムマの異常が魔力不足と直接起因していないことにも気付いている。


 飢餓状態に陥ったところで発熱など起こすわけがない。


 つまり魔力不足は間接的な原因に過ぎず、いま彼女が苦しんでいる理由は他にある。


 ただ生憎と今日の硯には分け与えられる程の魔力が無い。


 だからといって流石に突き放すわけにもいかず、どうしたものかと焦る硯は『それを』視た。


「何だ、これは……?」


 ムマの背に這う、赤い痣。


 罅か、あるいは彼岸花を連想させる痣が白磁の肌をじわじわと侵食していた。


 よく見ていたわけではないが、間違いなく先程まではこんなものは無かった。


 ムマの体調が崩れたことで表出したのだろう。


 何らかの魔術か、もしくは呪詛の類かまでは硯には見当がつかないが、確実なのはこの赤い痣がムマを蝕んでいるということ。


 それも命に関わるレベルで。


「普段は抑え込んでいるのだけど、『この子』が最近ますます増長したせいで、少しご飯を抜いただけで表に出てきちゃう……」


 硯が手をこまねいているうちに痣は全身を覆い尽くし、美しかった白髪も血を被ったような有様になっている。


「硯」


 ゆっくりと顔を上げたムマはいつものように、しかし苦痛に玉汗を滴らせながら、唇を綻ばせた。


「救けて──『私』を愛して」


 唇が落ちて来る。


 肢体は既に重なり合い、最後に残されたその一点。


 相変わらず硯の本能は警鐘を鳴らしている。


 けれど導かれるように両手はムマの背に回され、『彼女』を受け入れた途端、警鐘がパタリと止んだ。


 理屈や本能ではない。


 硯という器がムマの内に宿る『 (わたし)』を求めた。


 その時。鮮血よりも尚赤く途方もない呪いを孕んでいた痣に、朱金の輝きが混じり、ムマと硯を温かな光が包み込んだ──直後。



「ダメだよ硯、魔族の甘言に乗っちゃ」



 聞き覚えのある飄々とした声と共に、腹部に小さな衝撃と冷たい何かが差し込まれた。


 それがムマごと貫いた刀の感触であると理解し、金属の冷え冷えたとした質感が経験したことのない激痛に置き換わるのには一拍を要した。


 一体いつ侵入したのか、という疑問は今更だろう。


 気配を気取られずに接近することは、この男の十八番だ。


 常と異なる点は、いつもの人当たりのいい笑みが今日は蛇を連想させた事と、手にしているのが土産ではなく、硯とムマを串刺しにする刀であること。


「なんの、つもりだっ……!?」


「何って、いま言ったでしょ。甥が怪しい女の誘いにまんまと乗ってるんだ。躾だよ、躾」


 言いながら、男は刀を引き抜くと硯に被さるムマを蹴り飛ばした。


 小さな身体が障子を突き破り、血の尾を引いて外へ投げ出される。


 腹の刺し傷から壊れたように零れ出る鮮血が、月明かりの元に広がっていく。


 急所を貫かれたのか。意識はあるようだが起き上らない。


 反射的に救けに行こうとした硯を、土足の脚が無遠慮に踏み付ける。


 出血と激痛は硯も同じ。当然ながら子供の血液量は成人と比べてずっと少ない。失血によって早くも意識が遠のいていく。


 霞みかかる視界で見上げる男に対して、口を付いたのはやはり「何故」という疑問。


「その内分かるさ。とはいえひとまずはだ、迎えに来たよ硯」


 にっこりと、癖となっただけの人当たりの良い笑みを狂気に濁らせ、薄羽影郎は一切の躊躇なく血に濡れた刀を硯の首元へ無造作に振り抜く。


 峰打ちの衝撃を感じる間もなく、硯の意識は刈り取られ闇へと堕ちていった。


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