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一章・十二節 想い人さえ忘れて

 浮上する意識が最初に捉えたのは全身の倦怠感だった。指一本動かす気力が湧かない。


 やがて鮮明になる聴覚はくぐもった水音を捉え、なんの音だろうとぼんやり考えると、シャワーの音だと気づく。お隣の池谷さんが夜勤から帰って来たのだろうか。このアパートは壁が薄く、テレビを見るのにも気を遣うほど音が漏れるのだ。そろそろ本格的に大家に改修を打診せねばならない。


 ふと、何故そんな事を思案しているのだろうと疑問符を浮かべる。

 何か重大な事を見落としている気がする。

 いや、そうではない。

 何故――砂純建人は思考を働かせている?


「……生きてる、俺?」


 音がするほど勢いよく瞼を見開いた建人は、呆然とそう漏らした。

 視界に移る天井は見慣れた自室のもの。去年撮影した冬の流星群とお気に入りのグラビアアイドルのポスターが並んでいる。喉仏の発達が鈍く男にしては高いことがコンプレックスな自分の声もいつも通りだ。


 首を巡らすとこちらも見慣れた自室があった。居間兼寝室の部屋には必要最低限の家具の他、宇宙関連の書籍が並ぶ本棚と望遠鏡。どれも建人の記憶と寸分違わず一緒だ。

 使い慣れたベッドから身を起こすと、気だるさはあるものの五体満足。試しに身体をあちこち触り、軽く動かしてみるが五感、動作共に大きな違和感もない。

 肌色に多少の違和感を感じるものの、どう違うかを掴みきれず直ぐに違和感も霧散してしまった。


「どうなってんだ」


 動揺を隠せない建人は頭を掻き毟る。


 ――俺は死んだはずじゃなかったのか……。


 夢。白昼夢。幻覚。錯覚。

 都合の良い単語がいくつも浮かんでは、這出る恐怖に否定されていく。


 身体が覚えているのだ、死を。

 途方もない重量と衝撃を受けた背中。硬い地面に押さえつけられ、身体が破裂する一瞬の感覚を経て、磨り潰され、押し潰され、無へ引き摺りこまれたあの感覚を。あの瞬間、建人は過去を振り返る事も、後悔を覚えることすら許されなかった。


 それがどうだ。こうして砂純建人は生きている。生きた身体に死がこびりついていることが、恐ろしくて仕方がない。


「もしかして、ループものってやつかこれ………そうだったら笑える」


 以前に天文部の部員から勧めらえたライトノベル小説を思い出す。

 活字アレルギーのため内容はあまり覚えてないが、主人公が時間遡行(タイムリープ)で同じ時間帯を何度もやり直し、凄惨な結末を回避しようとする話だったはず。その主人公も時間遡行を行うと、今の建人のように自室で目覚めていた。


 そっくりだ、と無理矢理笑ってみるがその声は酷く乾いて空虚だ。どちらにせよ自分を誤魔化すにはあまりに非現実的で、テーブルのデジタル時計はしっかりと日を進めている。


 ひとまず喉の渇きを癒そうと布団から出る。何故か一切服を着ていなかったが、無視する。建人は所謂裸族ではないのだが、混乱した頭にこれ以上問題を抱えることは歓迎しない。そのまま台所が併設された廊下に出る。


「ぷは……あれ?」


 一杯二杯とカルキ臭い水道水を流し込むと台所の後ろ、浴室へ続く扉に振り向く。先程から聞こえるシャワー音はお隣ではなく、どうやらこの部屋から聞こえてきている。

 同時に何者かの気配を察知した建人は、身体が否応なく硬直してしまう。


 この部屋には建人しか住んでいない。シェアハウスの類でもなく、ましてや同棲相手も同様だ。一番可能性が高いのは親兄弟だが、合鍵なと渡しておらず、高校進学を期に距離を置いて久しい。


 強盗か。

 咄嗟に浮かんだ可能性を即座に捨てる。

 盗みに入ったのなら住人が寝ている中悠長にシャワーなど浴びないだろう。いや、そもそも人がいれば殺すか逃げるかだ。


 清掃業者か。

 こちらも有り得ないと除外。そんな話は大家から伝わっていない上、住民の許可を得ずに上がり込むなど言語道断、意味不明だ。


(ええい、なんだっていい!)


 頭を振って余計な思考を捨てた建人は音を立てないようにキッチンの引き出しから包丁を取り出す。碌に使っていない包丁は心強い光を放ち、刀身には生唾を飲み込む建人の顔が映っている。

 横引の扉に手を掛けると、慎重に頭に部屋の図面を思い浮かべる。


 といってもそう複雑ではない。

 扉の向こうは狭い脱衣所兼洗濯機置き場。入ればすぐ左手に浴室がある。突入すれば二秒掛るかどうかの距離だ。


「これは自衛のためだ。傷つけるためじゃない」


 包丁を固く握りしめ、どうか穏便に済むようにと祈る。

 呼吸を整え、慎重に突入するタイミングを計る。

 扉に耳を押し当てた建人は浴室の状況を音から探る。漏れ聞こえてくるぴちゃぴちゃという水音。ただ水を流している時のような一定のものではなく、何かに当たり、伝って落ちる類の音だ。


 やはりいる。

 腹を括った建人は小さくカウントを口にし、一気に扉を開放。流れるような動作で浴室の折り畳みドアを開けると、全裸であることを忘れ精一杯の虚勢を張って恫喝する。


「おい、今すぐ出て…い……ぃ……」


 尻すぼみしていく脅し文句。

 次の瞬間、建人は目玉が飛び出しかねない勢いで眼を見開く。

 絶句する建人の目の前。

 朦々と立ち込める湯気を纏い立っていたのは、見知った少女であった。


 ほっそりとしながらも、凹凸をはっきりと描くラインは否応なく女性を意識させる。艶めかしく髪の毛が張り付く肌は驚くほど白い。湯気に混じったシャンプーの匂いと異性を惹いてやまないスメルが鼻腔を擽り、意思とは別に跳ね上がる鼓動と共に血流が加速していく。


「あ、有澤っ……!?」


 茫然自失の体で建人は辛うじて少女の名を口にした。

 何度も夢見た光景だが同時に予想すらしなかった景色。二の次が継げない口はパクパクと動くばかりで、眼球は釘付けになっている。


 文字通り、一糸纏わぬ姿で湯を被る少女はスーッと横目で闖入者を一瞥。更に視線が彼の手にした包丁に移ると、建人は慌てて背中に隠す。


 咄嗟に弁明しようと焦る建人だが、ハッとさらに重大事項を思い起こす。

 生まれたままの姿は、彼女だけにあらず。

 頭隠して尻隠さず。包丁隠して一物隠さず。


「し、失礼しましたっ!」


 叩きつけるように扉を閉めると脱兎の如く脱衣所から飛び出す。

 包丁をシンクに放り込むと、慌てて衣装ダンスの引き出しに手を掛ける。が、混乱の極致に陥った為か手がもたつき、引き出しが掴めない。


 図らずも無遠慮に観察してしまった那月の裸体が脳裏を縦横無尽に駆け巡る。いきり立つ生理現象を鎮めるべく必死に状況整理に努めるものの、帰結が現状に置かれているため自爆を繰り返す。


 全身が心臓に成り代わった思えるほどバクバクと鼓動が巡り息さえしづらい。


 ガラガラという引き戸の音が響き、シャツを掴んだ手が硬直する。次いでひたひたと水気を含んだ足音が近づく。

 ゆっくりと、慎重に振り向く。


 先程と全く変わらない姿の少女がそこにいた。


「何考えてんだよお前っ。せめて前ぐらい隠せ!」


 顔を覆い上擦った声で抗議する建人は反射的に後ずさる。

 建人の指摘通り、彼の前にはタオル一枚隔てることなく濡れた身体が無防備に曝されている。滴る水滴が肢体を伝い、局部を否応なく強調していく。


「眼が覚めたのね」


 しかし本人は平然としており、建人が下がった分、更に距離を縮める。


「話を聞けよ。なんで平気なんだお前!?」

「別に気にしないで。聞きたいことがあるの」

「服を着ろっ。話はそれからだ、つーか着てくださいお願いします!」

「嫌よ」

「なんで!?」


 ジリジリと追い詰められる建人はベッドに躓いてしまう。壁際に設置していたために、ベッドに尻もちをついた建人は後頭部を壁に打ち付け視界に星が散る。

 痛みに呻く建人は一瞬状況を忘れ、反応が遅れた。


 ベッドに乗り込んできた少女は身体を密着させ、ほっそりとした腕を建人の背中に廻す。首元に埋められた顔から伝わる熱い呼気が首筋を艶めかしく撫で、背中に電撃めいた甘美を走らせる。


「――~~ッ」


 瑞々しい肢体を直接堪能させられ、建人の処理能力は限界を迎えつつあった。肌と肌の接触部分が火傷しそうなほど熱い。髪から伝う水滴が建人の唇を濡らし、夏の暑い空気が匂いを強調していく。


 状況把握を放棄し蕩けた脳が本能に従い、身体を重ねる女性を求める。


「ねえ、建人」

「な、なんだ」


 ゆったりとした呼び掛けに健人はギリギリのところで理性を保つことが出来た。正直これ以上は理性を保つ自信は建人にはない。いつになく艶かかった口調に僅かな疑念を抱くものの、薄皮一枚隔てない人肌が理性を押し流していく。


 とにかくこのまま会話に乗っかり、熱暴走寸前の頭を何とかしなくては。


「なんで私を助けたの?」


 顔を埋めたまま投げ掛けられた問い。

 冷静になれば建人にも聞きたいことは山ほどあったが、ひとまず疑問を脇に置いておく。


「そ、それは、あの橋でのことか?」

「そうよ。答えて」


 大橋で目撃した魔弾の射手と人龍との戦闘。人龍の下敷きに成り掛けた彼女を、あの時建人は身代わりとなる形で助けた。こうして無事でいる謎が残るが、少なくとも建人はあの場で起きた事象を共有している事になる。


 混迷を極める事態を前に、何かとてつもない事案に巻き込まれているのではと、否応なく不安を掻き立てられてしまう。


「どうなの?」

「あ、ああ……」


 不安からくる寒気が一瞬で消し飛ぶ。

 先程潤したばかりの喉が強烈な渇きがぶり返してくる。それでも苦労して口を動かし、出来るだけ正直に質問に答える。


「そりゃ、あの時はああでもしないとお前が危なかったろ。あとは――」


 無我夢中で走ったため深く考えての行動ではなかった。

 それでも理由を付けるとすれば、やはりこれしかないだろうと建人は言葉を繋ぐ。


「男が女を守るのは当たり前だろ」


 正確には身代わりだったけどな、と自嘲するが本心だと建人は納得していた。例え状況が違っても建人は彼女を見殺しにすることなど想像すら出来ない。

 我ながらキザすぎたか。

 そっと様子を伺うと、彼女は変わらず全く反応を返さない。

 寝てしまったのだろうかと、少女に呼び掛けようとした時だ。


「ふざけないで」


 ゾッとする怨嗟に満ちた声が耳元で上がる。

 突如背中に回されていた少女の腕が万力のように建人を締め上げる。

 細腕からでは考えられない馬鹿力だ。内臓が悲鳴を上げ、骨が圧潰寸前の軋む音が体内から漏れてくる。


「う、ああああ!?」


 激痛に苛まれる建人は兎に角逃げようともがくが、両腕ごと抱きつかれている上に、壁際に追い遣られているため逃げ場がない。呼吸すら満足に叶わず建人に構うことなく、拘束力は徐々に増していく。


「あ、り…澤、なんでッ……」

「なんで? あの日、私達を裏切っておいてよく言えるわね」


 ――あの日? 私達?


 急速に意識が遠のいていく中で視界にラグが走り、ここではない何処か暗い景色が眼前の少女と重なる。既視感がある現象はしかし、喉元に競り上がってきた嘔吐感に流された。


 堪えることが出来ず吐き出したのは、真赤な血だった。

 どうやら内臓の何処かがやられたらしい。


「建人、なぜあの日、私達を裏切ったの? どうして見捨てたのッ」

「何を……言って……」

「とぼけないで」

「がはっ……!」


 腕の力が更に強まる。

 ハッキリと背骨に罅が入る亀裂音が響き、同時に肉が潰れる嫌な感覚。先程よりも倍する喀血で少女の背が汚れていく。


 答えてと、何処か悲鳴じみた少女の要求。

 しかし、少女の言わんとすることが理解できない。求められる言葉が導けない。

 頭の奥で彗星の夜と同じく、誰かが警鐘を鳴らしている。


 ――思い出せ、想い出せ。


 建人は何かを忘却している。幾度となく脳裏をチラつく映像はその断片か。

 頭を割りそうな頭痛の波をかき分けて、断片を頼りに警鐘が鳴る記憶の奥底へ手を伸ばす。


 景色が飛ぶ。

 激しいラグに遮られた先に見えるのは、何処か暗い場所。


「――――――――――――」


 痛みで朦朧する意識のなか、途切れ途切れに口を開く。内容は覚えていない。

 それを聞いた那月は拘束を解くと、建人の気道を締め上げ、意識を狩り取った。




 話し声が聞こえた。

 偶然にも会話に釣り上げられただけの意識は酷く混濁している。浮力を失った意識はすぐに泥に沈むように、闇へ誘われようとしている。


 ピントのずれたボヤけた視界の中、自分は二人分の脚を見ているのだと、理解するのに時間を要した。


「尋問の成果はどうだったよ……って、その様子じゃ賭けは俺の勝ちだな」

「――貴方の言った通り、彼は壊れているわ。あの日のことも、自分の事さえ忘却している」

「落胆したか?」

「何故そう思うの」

「そんな面しているからな。まるで心の拠り所を失った子供みたいだ。まさか奇跡を望んでいたのか? 『きっと何かの間違いだ。私と会えば全てを思い出してくれる』とかよ。泣かすじゃねえか、流石は幼馴染だよ」

「黙って」


 聞いた事のある男女の声。

 毎日聞いている様な気もするし、されど泣きたいほど懐かしい気もする。

 軽薄な口調の男にたいして、女のそれには抑えきれない剣が覗いているよう。 


「それとも羨ましいか。俺もお前も、あのバスに乗ってた奴は全員死んだからな。悉くを捨て去って無為で安穏な日々を過ごす此奴が羨ましくて仕方――」

「黙れっていってるでしょッ」

「……覚悟は出来ているのか?」

「何処までも人形の私達には無駄なことよ」


 何もかも諦めた様な女の声に、何故だか途方もない後悔の念と自責の念で死にたくなる。

 声から伝わる女の雰囲気はこれから死ににでも行きかねないよう。

 男もまたそれまでの軽口を引っ込める程に、女は張り詰めていた。


「仰る通りで。アストレアがきな臭い動きをしている。“魔弾”の担当監視官は無視していいけどよ、先代は情報が掴めない」

「監視官もそうだけど、“編纂者”まで刺激したら終わりよ。“魔弾”との共闘関係は今は希薄みたいだけど、早期決着に越したことはないわ。」

「分かっている。だが監視結界は別としても、土地そのものに張り巡らされた防護結界は一筋縄じゃいかない。殆どこいつに吸われたとはいえ、右京の呪詛が殆ど弾かれたのがいい証拠だ」

「……それについては少し考えがあるわ。ひとまず場所を移すとしましょう」


 会話が遠ざかっていく。

 玄関の扉が閉まると同時に気力も尽き、瞼が重く降りてくる。


(この声……それに右京って……何処かで……)


 ズキリと頭痛を引き起こした人の名に疑問符を浮かべるも、意思とは反して建人は眠りの底へ沈んでいった。


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