間章三・一節 九年前
失敗作。
僅か十歳にして七榊硯に父が下した評価がこれだ。
父のみならず祖父や血を分けた兄弟からも同じように罵られ、使用人からは煙たがられる。幼くして家庭という小さな社会において硯の居場所は無くなった。
二百年の歴史を持つ七榊家の最高傑作と謳われる父・七榊幽連。霊能力者でありながら彼が有する霊力は魔力に引けを取らないエネルギー密度を秘め、魔術と比較し火力に劣る汎用霊術を同等以上の代物に押し上げる。
名実ともに幽連の名は知れ渡り、日本近代霊能力者の結晶との呼び声も高い。
反面、術師において一代限りの優良児というのは決して評価が高いものではない。次の世代へ継がなければただの突然変異と何ら違いはない。
故に幽連の実子に彼と同等以上の期待が寄せられるのは必然だ。
実際、第一子と第二子は幽連の血を色濃く受け継ぎ、保有する霊力量は五歳を迎えた頃には並の術師を凌いだ。霊術の才能は言うに及ばず、同年代はおろか低級の獣人を圧倒するほどの実力。
第三子として生を受けた硯は五人の兄弟の内、最も幽連の血を色濃く受け継ぎ──最も父から遠い体で生まれた。
今では三つ年下の双子の弟と妹にすら引けを取るばかりか、人間としての機能すら危うくなっていた。
「…………」
深夜。
広い屋敷が静まり返る中、とある一室で硯は座して姿見と向き合っていた。
照明の類はこの部屋には存在しない。開け放たれた襖から差し込む淡く青みかかった月明かりだけが頼りなく闇を払う。
視線の先にあるのは見慣れた自分。
家族からは嫌悪され、使用人からは蔑まされ或いは不気味がられる七榊硯の鏡像。
白衣に紺の袴を合わせただけの簡素な装い。水浴びを終えたばかりで髪の毛はまだ湿り気を帯びており、癖のない髪質も手伝って艶めいて見える。
今年で十歳。成人まで折り返しを迎え、早い者ならば二次性徴を迎える時期。容姿のみならず身体に雌雄の特徴がハッキリと現れる成熟の段階。
普通であれば身体の変化への戸惑いともどかしさ、成長の喜びを感じられるだろうが、硯には縁遠い話だった。
日々着実に変化していく身体が忌々しく、そして恐ろしい。
身体の変化を誤魔化すように最近は着物を愛用するようになった。幸いにも七榊邸は日本屋敷なので和服姿でも違和感はない。少なくとも表面を取り繕うには充分。
それもいつまで続くことだろう。
「……、」
無意識に右手で顔の輪郭をなぞった。子供特有の卵型。指先は頬を滑り顎を通り抜け首元へ。まだまだ未発達な喉仏は存在感を欠き、右手は鎖骨の間を通り抜け胸元へ向かうところでピタリと手が止まった。
口の端から一筋の血が流れる。無意識に噛み切っていた唇から溢れた生温い鮮血。指先を追うようにして流れた血は右手を追い抜き、僅かに胸元を押し上げる。着物の隙間へと消えていった。
糸が切れたように落ちる右手。
肌の上に引かれた鮮やかな血の跡。今も服の中で滑り落ちる血は下腹部へと達し、袴へと吸い込まれた。
以前、使用人の立ち話を聞いたことがある。硯は大変な難産だったらしく、硯は帝王切開で母親から取り上げられたと。
七榊家は術師の中でも些か特殊な家系であり、執刀医はお抱えの医師。手術もこの座敷で行われたらしく、幽連や祖父を始め多くの使用人も立ち会った。
母親の腹から取り上げられた赤子の硯を眼にした使用人たちは、恐らく今の硯へ向けるものと同じ顔をしていたに違いない。
いつだったか屋敷で働く使用人の子供に「気持ち悪い」と蔑まれたことがある。仮にも雇い主の子息ということで表面だけ恭しく取り繕った大人より、ずっと分かりやすい。なんの処罰も下らないのだから、いっそ堂々と見下せば良いものを。
それも今となっては叶わない。
母屋から雑木林を挟んだ離れに押し込まれて既に半年近く。失敗作から得られる教訓も無いのか、いよいよ七榊家にとって硯に価値は無くなったのだろう。
逃走防止用に結界が張られているのは、曲がりなりにも硯が七榊の人間である為。例え出来損ないであっても外部の者にとっては貴重な研究資料に成り得る。
幽連たちが失敗作の烙印を押しながら硯を処分しないのは別に家族だからではない。
──単に別の用途で生かしているだけ。
ふと、月が雲に隠れた。青い光が失せ、雑木林に囲われた離れが闇夜に没する。
「ぐっ──!?」
まるでこれが合図だったかのように、硯の心臓が大きく跳ねた。
焼き鏝を何本も身体に捻じ込まれたような灼熱が襲い掛かった。痛みは強弱の波があり、時間を追うごとに徐々に強くなってく。
硯は堪らず倒れ、苦痛に身体を折った。悲鳴だけは上げないように袖口を噛んで声を押し殺す。そう躾けられたわけでも意地でもなく、この苦痛は硯にとって馴染み深いだけのこと。ただ痛みに耐えるしか抗う術がない以上、泣き叫ぶ体力すら惜しい。
健気な抵抗を嘲笑うかのように、一際大きい苦痛に身体が跳ねた。腹の底から迸る波が全身に波及し、自身の輪郭さえ激痛で曖昧になる。
今晩はいつもより重い。
何度目かの大波が奔った直後、波が指先で行き場を失い、爪が弾け飛んだ。小さな血の花火が手先と足先で都合二十発。暗闇の中で淡く輝いた。
血液中の魔力が一気に解放されたことで起きた発光現象。硯を苛む元凶であり、ここに投獄された要因。
才能の裏返し。生まれ持った欠陥。
「そろそろだと思ってたけど少し遅かったかしら。今晩は随分と辛そうね、硯」
耳元で声が聞こえた直後、硯は抱き起された。労わるような手つきだが、硯の背中に回される細腕は蜘蛛の巣を連想させた。
瞼を開ければ、暗がりでもハッキリと分かる白い髪の少女と視線が合う。人形のような端正な顔立ちと、黒を基調とした古めかしいドレス姿。
見かけは硯と同程度の年頃。それに反して硯を気遣う彼女の見せた微笑は蠱惑に過ぎた。蒼玉色の瞳は何処までも澄み切っており、美しく、そして恐ろしい。
一体いつ離れに踏み入ったのか、という疑問は抱かない。この少女はいつだって唐突に現れては、同じように消えていく。
とりわけ硯が自家中毒に苛まれている時は許可も取らずに部屋に踏み込んで来る。拒んだところで追い返すことは硯には不可能。
いや。拒む権利すら硯にはありはしない。少女こそが硯が生かされている理由なのだから。
「いつも言っているけど、救けを求めてもいいのよ? 私は幽連やこの家の人間と違って、貴方を冷遇する理由は無いのだし」
ドレスの袖で硯の汗を拭う少女の気遣いは本心ではあろう。離れに張られている結界が内部からは外部に一切干渉できない代物であると知りながら。大声を張り上げたところで硯の声は母屋には一切届かない。
嫌味の一つでも返したいが、再び強烈な苦痛が押し寄せてきた。悲鳴を噛み殺すので精一杯。全身を駆け抜けた魔力の波動に炙られる。指先から噴き出す血に混じって魔力の残滓が綺羅と瞬いた。
「不憫ね。霊能力者の身体でありながら魔力を有しているなんて。霊能力者の家系に意図的に魔術師の因子を組み込んできた七榊家の研鑽の賜物ね」
何とも業が深いと、少女は微笑む。
「ある意味、貴方は幽連以上に七榊家の理想を体現している。この上なく破綻した形で」
少女の手がするりと硯の服の内側へ滑り込み、肩から腕を撫でるようにして着物を脱がした。
拒もうにも硯に抵抗する余力など無い。身体を強張らせるのが精々であり、羞恥と屈辱の反応を楽しむように少女はもう片方の肩からも着物を払った。
露わになったのは処女雪のようなきめ細やかな肌と、微かではあるが確かに膨らみを主張する乳房。
「誰も予想しなかったでしょうね。霊能力者と魔術師の因子が雌雄という形で同時に現れるなんて」
「……っ」
少女の細指が胸を弄ぶ感覚に、苦痛すら忘れて背筋が凍る。
未熟な蕾を愛でるように、触れるのはほんの指先だけ。
凌辱が目的ではないと分かっていても、何匹もの蛇が這いずり回っているかのような嫌悪感に苛まれる。
反面、徐々にだが苦痛が引いていき、体内で荒れ狂っていた魔力が沈静化していく。同時にどうしようもない虚脱感も。
依然として身体は自家中毒に陥ったまま。言い換えればこれ以上の回復はないということ。
少女は待っている。
硯が自らを差し出すのを。
「あ……ぐっ……」
「強情ね」
何度目とも知れない苦痛の波。子供の健気な抵抗も灼熱で溶かされ、眼の前には救いの甘い蜜が垂らされている。
あとはほんの一押し。
愛撫の指先を一本、また一本と離していき、少女が和らげていた魔力の暴走を解き放つ。
ギリギリで保たれていた硯の心は、これで崩れた。
「ム、マ……」
「なに?」
「食べるなら、好きに…………早くっ」
青い双眸が細められる。
「意地悪が過ぎたわ。ごめんなさい」
謝罪を述べれど、口元は微笑みを浮かべたまま。
垂れた髪の一房を耳に掛け、ムマと呼ばれた少女がおもむろにラズベリー色の小振りな唇を硯のそれへと重ねた。
柔らかく吸い付くようでありながら、伝わってくる体温は驚くほど冷たい。
底なし沼に放り込まれたような虚脱感を覚えた途端、硯を内から壊していた魔力が急速に失せていく。
こくこくと、ムマが喉を鳴らす度に苦痛は遠ざかり、虚脱感は加速度的に増していき、微かな快楽に脳が痺れる。
やがて体温が溶け合い、お互いの境界を失っていた唇が離れる。
「ご馳走さま」
もう一度、今度はついばむ様な口づけを最後に硯の意識は堕ちた。
※補足
新キャラ『ムマ』について。
夢魔あるいはサキュバスとも呼ばれる魔族の女性。
本名は不明なため周りからは種族名の『ムマ』と呼ばれている。