四章・三十一節 涼と響
今日で四章の残りを全部更新しちゃいます。
17時半頃、21半頃に順次投稿する予定です。
再び訪れた夜鷹邸は水を打ったような静けさに包まれていた。
温暖化の影響か、五輪市は梅雨の到来を前にしながら初夏の様相を呈している。ジリジリと肌を焼く日差しの熱がアスファルトに溜め込まれ、陽炎が立っている。
外とは対照的に照明を最小限しか設けていない夜鷹邸は、廊下以外は常に薄暗い。
その部屋もまた襖が開け放たれいるが、陽の光は半分も届かず、影に入れば畳の匂いが馴染んだ静謐な空気に支配されている。
涼は机を挟んで夜鷹と三度目となる対談の席についていた。
「あの子たちの経過はどうですか?」
「神崎は完全に復調して学校にも通っています。雨取もここ数日でようやく生活に復帰し始めました。まだ油断は禁物でしょうが」
「なら結構。貴方自身は如何です?」
「お気遣い痛み入ります。全快とは言い難いですが、仕事に支障はありません」
あれから既に半月が経過している。
隠蔽の結界は上手く働いていたようで、戦闘はもちろんパンドラ魔術が街から目撃されることはなく、厄災の泥による被害も出ていない。
「もう報道で耳にしているとは思いますが、街で起きた連続猟奇殺人はアストレアで用意した架空の人物の仕業……ということで処理さされています」
「実体のない、殺人犯ですか。真相には遠いですが、そう間違ってもいないとは皮肉が効いている。現場を駆けまわっていた刑事さんたちはさぞ不満でしょうね」
涼が夜鷹に明かしたのは、つまるところ権力という力技で押し通した捏造だ。どれだけ死人が積み上げられようとも、術師が絡んだ事件というのは往々にしてこうのように処理される。
アストレアはまた警察との確執を深めることになるが、真実を詳らかにしたところで法は死人を裁くことはできない。
かくして一連の騒動は一応の決着がついた。
今日涼が夜鷹の元を訪れたのは雀たちの経過報告も兼ねて、事後処理が完了したことを知らせるためだ。
「一応確認しておきますが、監視任務についてはどういう運びになりましたか?」
「……今回の事件を受けて、神崎雀、雨取照の両名の監視期間は予定通り来年の三月までの延長が決定されました。ただ倉橋の暴走は全面的にこちらの責任です。緩和措置として俺一人で彼女たちを担当します。よろしいでしょうか?」
「構いませんよ。私個人としても貴方に残ってもらう方が好ましい」
夜鷹はこの決定を歓迎するような口ぶりだが、これは予定調和だ。
倉橋の造反という罪を、夜鷹が涼を雀たちの担当監視官に指名したことで流している。
いわば温情という鎖に繋がれているようなもの。実質的に涼は神崎家に飼いならされたも同然であった。
監視任務には些かの枷が生まれたが、現状を鑑みれば最善の結果に納められたと言えよう。
「ですがこの決定には……少々納得しかねる部分もありますね」
「監視期間の延長についてですか?」
「いいえ。あまりにもこちらに都合が良すぎることです。宵波さん、貴方は今回の件を正確に上層部に報告していませんね?」
「……ええ」
バツが悪そうに涼は夜鷹から眼を逸らした。
涼は既にアストレア本部に今回の一件を報告書にまとめ、提出している。響と倉橋の共犯を含め事細かに。
だがパンドラ魔術にしても照の編纂魔術が響によって暴走したことにしており、鏡海については報告書では一切触れていない。報告するべきではないと、涼は判断した。
「てっきり貴方が今日ここに来たのは、雀さんと照さんの正体に言及しにきたと思っていたのですがね。違いますか?」
「……違います」
「知る権利が貴方にはありますよ。それに治療で実際にあの子たちに触れ続け、鏡海を眼にしたのならもう気付いているのではありませんか?」
机の下で涼は膝に付いていた手を握り締めた。
「──雀さんと照さんが、姉妹であることに」
半月前、夜鷹は電話越しにこう明かした。照は神崎家の血族である、と。
雀たちを治療していく中で、涼は確かに雀と照が姉妹である可能性について疑い、そして時を置かずに夜鷹らから裏付けがされてしまった。
だが雀に兄妹がいないことはアストレアで調査済みだ。出自が定かではない照と血縁関係にあるなど到底信じられなかった。
それも鏡海を見るまでだ。
あらゆる可能性を内包する事象の羊水。それはつまり有り得たかもしれない誰かも許容するということだ。
涼が神崎家の出生記録を洗い直し、その『もしも』に至るまで時間はかからなかった。
「夜鷹殿。貴女は俺にこういったはずだ。アストレアの監視官としてではなく、宵波涼としてあの二人の行く末を見届けろ、と」
「ええ。確かにそれは私の言葉ですね」
「俺があの日、監視官として動いたのは倉橋さんを殺すまでです。それ以降は貴女の言う宵波涼としてです。貴女との取り決めの内で起きたことは、アストレアに報告する義務はない」
「詭弁ですね。組織に背いていることには変わりないですよ」
「……承知の上です」
もし涼が今回の件を詳らかに報告すれば、上層部は照の抹殺命令を下すことだろう。
パンドラ魔術のような大規模な魔導災害の引き金に成り得る以上、その危険性は無視できるものではない。例え涼が拒んだところで、アストレア本部には涼以上の実力者が数多く在籍している。
そして戦いとなれば、雀も全力で抗うだろう。自らが死のうとも最後まで。
御免だ。理不尽に等しい正義など涼は願い下げである。
故に涼は神崎家の繋がれることを選んだ。夜鷹との約束通り、あの少女たちの行く末を見届けるために。
「いいでしょう。貴方の覚悟、この神崎夜鷹がしかと受け止めました。神崎家当主としてこの地に滞在することを正式に許可します。励みなさい、宵波さん」
「はい。では俺はこれで失礼します」
「淑艶の後継機が完成したら顔を見せに来てくださいね」
「ええ。ですがどうか貸し出しはご遠慮願いたい」
「……そこだけは心底倉橋が恨めしいですね」
最後のやり取りだけは肩の力を抜いて、涼は苦笑を浮かべ、夜鷹は心底残念そうに落胆を露わにした。
座したまま少し後ろに下がり、涼は深々と頭を下げてから日の指す廊下へと出た。
その時だった。
「我々が言えた義理ではないですが、貴方も早い内に血に決着をつけなさい。今回のように成り行きではなく、自らの意思で」
「──!?」
振り向いたときには夜鷹はもう部屋から姿を消していた。
庭から飛んで来た揚羽蝶が涼を横切り、屋敷の中を自由気ままに飛んでいく。静まり返った屋敷ではその羽ばたきの音さえ聞こえてきそうだ。
それを追いかけるようにして涼は夜鷹邸を出た。
近くのコインパーキングに停めていた新車に乗り込むと、重い息が零れた。
「血に決着……か」
車を走らせながら、ハンドルとは逆の手が無意識に懐へ伸び、煙草に火をつけていた。開け放たれた窓の外に流れていく紫煙が風に掻き消える。
なまじ煙草に呪詛など込めているせいか、いまだに煙の味には慣れず、深く肺に吸い込めばいつも過去の記憶が呼び起こされる。
鏡海が閉ざされたあの夜、照が命に別状がないと分かると雀はその場に倒れるように眠ってしまった。
二人を屋敷へと運び入れた涼は銃を手に取り、静かに外に出ていた。
屋敷を囲む原生林に踏み入り、枝葉が分厚く空を隠す暗闇の中をゆっくりと、しかし迷いのない足取りで進む。煙草の火種だけが夜の林に浮かび上がり、その存在を知らせる。
やがて煙草を吸っていても分かるほど、花香が濃くなってきた。
一際大きな木の裏に回ると、彼はいた。
「やあ……早かったね……宵波監視官」
大きく張り出した木の根を枕代わりにして七榊響はうっすらと笑った。
雀は細胞一つ残らず蒸発させたと思っているだろうが、響が魔弾に呑み込まれた直後に、横合いから飛び込んで来た奇妙な揺らぎに攫われていく瞬間を涼は見逃さなかった。
「翡翠か」
「うん……僕の死を偽装しようと……無茶したみたい。まあ、君の眼は誤魔化せなかったみたいだけど。彼女は君に関わるの……ずっと嫌がってたんだよね」
「そうか」
助け出されたとはいえ、一度は完全に魔弾に呑み込まれたことに変わりはなく、響は重傷だった。片目は潰れ、両足の義足は熱でひしゃげている。身体中が重度の火傷で爛れており、色白だった肌は見る影もない。
逆にいえばその程度であった。響が原型を留め生き永らえているのは、変質の霊力が魔弾の威力を減衰させたからに他ならない。
──だがそれも一度限り。
正しく元の器に舞い戻った変質の霊力は、宿主を救い続けることはしない。放っておいてもあと一時間もしない内に響は自壊するだろう。
「何か言い残すことはあるか?」
涼はコルトSAAを引き抜いて弾倉を確認すると、響の眉間に照準した。過去、幾度となく対峙した犯罪者にそうしたように。
己に向けられる銃口を一瞥すると、響は真っ直ぐに涼と視線を絡ませる。
「出来る限りでいいから……翡翠の処遇は悪くしないでほしいな。彼女は僕にくっついてきただけで……誰も殺してない」
「無理な相談だ」
「つれないなあ……」
「……まあ、どのみち俺達はしばらく真面に動けない。アストレアの目の届かない何処かでつつましく生きていれば、その内時効になるだろ」
「ああ……それなら大丈夫かな。今も昔も……あの子はかくれんぼが得意だし」
本来であれば翡翠の行方を聞き出すべきなのだろうが、涼自信が言った通りもうそんな余力は残っていない。逃げてもらうなら、好都合でもあった。
どうあれ主犯はやはり響だ。彼の境遇には情状酌量の余地はあっても、やはり罪は大きい。
涼はコルトSAA撃鉄を起こした。あとは引き金を絞れば弾丸は速やかな死をもたらすだろう。
「ねえ……聞いてもいいかい?」
「何だ」
「いまの家族は……宵波家は好きかい?」
「ああ」
「いい人達?」
「俺には勿体ないほどだ」
「じゃあ──」
およそ九年前。
永遠に動き出すはずのない彼等の時間があった。
「僕たちのことは好きだった──硯兄さん?」
七榊硯。
それが宵波家に引き取られる前の彼の名前だ。
血縁上は涼と響は血を分けた兄弟であり、涼が十歳まで寝食を共にした家族。
しかしながら七榊硯の名はその出生から全て抹消されている。
他ならぬ七榊家の手によって、無かったことにされ、そして捨てられた子なのだ。ある日突然その身に受けた赤服の呪いによって、家族から見限られた。
彼は奥多摩の山奥でひっそりと死にかけていた所を、運よく宵波直嗣に保護され養子として第二の人生を歩む事となった。
皮肉にも響を狂わせた父親の呪詛は赤服に阻まれ、今日という運命を招いた。
何かが違えばいま銃口を向けられているのは涼だったかもしれない。
肉親だ。響はこの世に二人といない実の弟。
そのはずだ。
「わからん」
涼は首を横に振った。
「赤服の呪いを受けた影響か、俺には七榊硯としての記憶が殆どない。お前と兄弟であることは……知識として認識してはいる。あの家について覚えていることは、ただ苦しかったという事と、お前たちの父親──七榊幽連の死に際だけだ」
それが偽らざる涼の本音だった。
過保護な直嗣であれば涼が響と関わることに気を揉んでいたかも知れないが、京都で対峙した時も、「兄さん」と呼ばれた今でさえ胸の内は凪いだまま。
宵波涼の中には七榊硯はいないのだ。
「そっか……記憶喪失か。それじゃ……仕方ないね。まあ、そんな予感はしてたけど」
残った眼も見えなくなってきたのか、響の瞳は焦点を結んでいない。群がる月下美人も徐々に活動を停止し始め、最後の時が近いことを告げていた。
「父さんの呪詛は……君の中に七榊さえ刻めなかったってこと……か。それなのに因果なものだね。父さんの死に立ち会ったのも君……僕を送るのもまた君。これは此れで相応しい……のかな」
力なく、けれど心底愉快気に笑う弟のはずの少年。
幕を下ろすのは兄としてではなく、監視官として。
「ああ……そろそろねむくなってきた、かな」
首だけ僅かに傾け、響は最後の会話を欲した。
「おやすみ……なさい、硯にい……」
引き金を絞った。何百発と撃ってきたはずなのに、腕を蹴る反動はどこまでも重く感じた。
本当にただ眠っているだけのような彼の死に顔を直視し、麻痺していた感情がようやく荒波を立て始める。喉元に熱いものがせり上がってきた。
全てを自制心のみで押し留め、糸が切れたように下げられた銃の先からは血が滴っていた。
「おやすみ、響。俺がそっちに行ったときに、気が向いたらまた呼んでほしい」
銃声の余韻が残る暗闇の中、初めて涼は本音を口にした。
「実はまだ陸奥と伊予には面と向かって呼ばれたことがないんだ。だから、兄さんと呼んでくれて嬉しかった」
戦いは終わった。
宵波涼の物語はまだ動き出したばかりだ。