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四章・二十九節 反撃

 生温い風が肌を撫でていく。

 刻一刻と崩壊していく空。罅から止めどなく零れる厄災の泥。


 屋敷一帯に常設されている幻惑結界が働いているために、街はまだ異変に気付いていないだろう。

 泥が結界を超えれば街にどれだけの被害が及ぶかは予測もできない。


 何しろ神話に語られるのみの未知の危機だ。神の子さえ生み落としたパンドラの箱がこれ以上開き続ければ、一体なにが起きるのか想像すらできない。


 世界の危機。そんな言葉が現実味を帯びていた。


 もっともこの事態の中心に立つ当事者たちは世界など見ていない。

 邪魔者を排除する。頭にあるのはただそれだけだ。


 対峙する役者は僅か四人。


 鏡海の扉そのものであり、パンドラ魔術の動力にされた雨取照。

 照を背にして立つのはエーテルへの到達者。此度の主犯である七榊響。


 相対するのは肩を並べる一組の男女。


 アストレアの監視官、宵波涼。

 魔弾の射手、神崎雀。


 冷え冷えとした光を放つ月だけが固唾を吞んで見守っていた。

 その月さえ空の崩壊に巻き込まれ、ふっと地上が暗闇に包まれる。


 それが開戦の合図となった。


「ふっ!」


 先に仕掛けたのは涼だった。


 大きく膝をたわめると、爆発するように飛び出した。鍛え抜かれた瞬発力を遺憾なく発揮し、一瞬で間合いを詰めると掬い上げるように掌底を放った。並みの犯罪者であれば決着がつく、洗練された一撃だ。


「おお、意外と早いね」


 響はそれを軽く受け流すと、涼の腕と襟を掴み取り、雀の時と同じく懐に潜り込んで背負い投げを仕掛けた。


 頭一つ分以上の身長差があるにも関わらず、まるで重心を操っているかの如く、涼の身体は綺麗に浮き上がる。


「あれ──?」


 しかし、涼の身体は半月を描いたところでビタリと止まった。肩越しに響が見たのは、涼の爪先から屋敷へと伸びるワイヤーだった。響が投げに入り背を向けた一瞬の間に繋いでいたものだ。


 投げを途中で止められたことで響は不自然な体勢で硬直。その一瞬の隙に抜け出した涼は巧みにワイヤーを操り、響を絡め捕った。


「今だ神崎!」

「分かってるってのッ!」


 涼から遅れて飛び出していた雀が跳躍して大上段に構えた踵を、響の脳天目掛けて振り下ろした。


「んん~、詰が甘いよ」


 次の瞬間、響を縛っていたワイヤーがバラバラに引き千切られた。


 なんてことはない。エーテルの出力を上げて、ワイヤーを力づくで千切っただけのこと。響の生身はエーテルの器に成り得ないが、義手はその限りではない。


 響は悠々と雀の蹴り足を躱し、お返しとばかりに文字通りの鉄拳を打ち込む。

 だが涼とてそこは織り込み済みだ。


「ん!?」


 蹴りを外し無防備となった雀に伸ばされた響の義手が突如として軋み、動かなくなる。

 動作不良を起こしたのはちょうど肘関節の辺りだ。


 義手の関節の隙間からワイヤーが僅かに覗いているのを見て、遅まきながら響は先ほどの拘束の真の狙いを察した。


 最初から涼の狙いは響自身の身動きを封じるのではなく、義手だ。


 涼が使用したワイヤーはエーテルに反応する特殊金属で造られたものだ。忍び込ませてあったワイヤーが融解し、肘関節を固定したのだ。


「歯を食いしばれ、響!」

「しまっ──」


 今度こそ決定的な隙が生まれ、振り抜かれた雀の拳が頬に叩き込まれ、響は吹き飛んだ。

 それでも流石というべきか、響は咄嗟に後ろに飛ぶことでダメージを減衰させていた。


 だが実戦経験で言えばやはり涼の方が一枚上手。


 距離を取ろうとする響の回避位置を予め読んでいたように、回り込んでいた涼のナイフが襲いかかった。


 正確に頸動脈を狙った一閃を響は残る義手で受け流すも、今度は涼の霊力によってナイフが融解し、残る義手もまた機能不全に貶めた。


 涼はもう一本のナイフで更に斬撃を浴びせようとするも、運悪く頭上の空が崩れ、降り注ぐ泥が強制的に両者を離す。


 大きく飛び退いた涼は雀の傍へと着地し、泥を挟んで再び睨み合いの格好となる。


「……痛いなもぉ。顔を殴られたのなんか初めてだ」

「ああ、そう。こっちも腕を折られたのは初めての経験よ」

「じゃあ痛み分けだね。ま、僕は片腕どころか両腕ともダメそうだけど」


 雀の憎まれ口をあしらいながら、響は使い物にならなくなった義手を切り捨てた。重苦しい音を立てて、二本の義手が力なく足元に落ちる。


 厚みを失った袖が風に遊ばれ、元々華奢だった響のボディラインがさらに細く見える。


「はあ……それにしてもやっぱり戦い慣れしてるね、宵波監視官」

「当たり前だ。場数が違う」


 術式の撃ち合いに関してはエーテルを操る響にアドバンテージがある一方で、純粋な戦闘技術はやはりアストレアの涼に軍配が上がった。


 響のみならず、雀や照を含め術師の本懐は研究にある。戦闘とは無縁のまま生涯を終える術師もザラであるが、アストレアたる涼は兵士だ。その実力の土台は文字通り血反吐を吐いた訓練と、潜り抜けてきた数多の死線にある。


 万全には程遠いコンディションであろうとも、積み上げてきた戦闘技術の差が如実に表れている。


 加えて言えば雀を散々悩ませた精霊魔術も使えない。厄災の泥によってかえって良くないものを呼び寄せてしまう恐れがあるからだ。


 だがそれを差し引いても、涼は今一つ腑に落ちない部分があった。


「どうした七榊。随分と動きが鈍いようだが」


 確かに涼と響の経験値の差は歴然だ。


 二対一のハンデを差し引いても、響の動きは精細に欠けているように見えた。京都で矛を交えた時は、いまと同じ状況でも義手を両方失うほどの遅れは取らなかっただろう。


「どうしたもこうしたも、京都で説明したでしょ。僕の身体は元からボロボロだったんだぜ?いまだって器と力が噛み合ってないから、正直なところ毎日しんどいのさ」


 なにを当たり前のことをと、響は唇を尖らせて文句を垂れる。


 響は変質の霊力に身体が上手く適合せず、幾度となく病魔に侵されてきた。霊力がエーテルに変わったところでその問題に変わりはない。むしろ身に余る力に身体は擦り減り、自壊していく一方。


 その度合いは涼や雀が思うよりもずっと深刻であり、残念ながら改善することはない。

 器と適合する力は生まれ持ったもののみであり、響はその摂理からつま弾きにされたのだ。


「そういや、アンタは暇さえあれば寝転がってたわね」

「うん。いっつも怠いから食事を摂るのもおっくうなんだ。だから直ぐに貧血になっちゃうから、悪循環だよね」


 四肢がなければその分の血液量も少ないということ。食事を抜けば体調を崩すのは道理だろう。


 響が全力で運動できるのは精々月に一度が限度だ。それを短期間で二度も行えば、必然的に動きは鈍る。


 今も昔も、響は自家中毒の運命からは逃れられない。


「その割には余裕だな。死ぬことに恐怖はないということか?」

「まさか。死ぬのが怖くない人間なんていないだろ。でもまあ、どのみち長生きできる身体じゃないなら、やりたいことを目一杯やりたいと思うのは自然なことだろ?」

「その結果がこれ(・・)ってわけ? 同情しようにも性根そのものがねじ曲がってるんじゃそれも無理な相談ね。身勝手もここまで貫けばいっそ清々しいけど」


 涼の問いかけに響はありきたりな答えを返し、雀が改めて憤りを露わにした。


 泥はもう間もなく涼が展開した結界内の半分を埋め尽くしつつあった。ぐずぐずしていれば戦うことさえ間々ならなくなるだろう。


 これ以上の会話に意味はないと、雀は一歩踏み出す。

 しかし涼がそれを手で制し、低い声で再び問う。


「……お前、何を考えている?」


 形勢は間違いなく涼たちに傾いている。


 厄災によってエーテル使いとしての響のアドバンテージは消えている。このまま戦い続ければ遅かれ早かれ涼と雀の勝利に終わる。


 だがここまで盤面を支配してきたのは響だ。自らを追い詰めるこの状況が涼には不可解でならない。


「以前、お前は俺にこういったな。鏡海と同じぐらい雨取を歪めたいと。傍から見ればその目的は達したように見えるが、それでもお前はまだ『やりたいこと』があると言う。聞き方を変えようか。お前はどうやって雨取を歪めるつもりだ?」


 ただの勘に過ぎないが、確信があった。パンドラ魔術は響の目的ではなく、ただの手段に過ぎないという確信が。


「照を……歪める?」


 響の思惑に触れ、雀は少しだけ冷静さを取り戻した。そして導かれるように空を──強制的に開かれた鏡海を見上げ、視線は『門』そのものである照へと吸い寄せられる。


 首の骨がシンと軋む。


 そう、『門』が開かれている。

 鏡海を介して、照への道が。


「やばい、ハメられたっ!」


 血相を変えて雀は残る一発の特殊魔弾に全ての魔力を注ぎ込み、響へ向けて腕を突きだした。


 判断を誤った。雀の考えが正しければ、響と戦うことは下策中の下策。少なくとも照はこの街から逃がすべきだった。


 超高密度の魔力を注がれ、指先の毛細血管が破れることにも構わず、雀が魔弾を放つ、その直前。


「流石は鏡海の魔術師。でも気付くのが少し遅かったかな」


 恍惚とした笑みとともに──響は降り注ぐ厄災の泥に身を潜らせた。


「なっ!?」

「……っ」


 涼は言葉を失い、雀は痛烈に顔を歪ませた。


 この世全ての厄災そのもである泥に触れれば、ただでは済まないことなど想像に難くない。

 しかしこれこそが響の照へ至る手段そのものであった。


「ねえ宵波監視官。君は僕の心臓を使って照の治療するつもりだったんだろ? 短期間だけど彼女は僕の月下美人を取り込んでたからね。今なら相性は悪くないし、一時的な代用品としては十分に機能するだろうね。流石は名だたる式神職人。目の付け所が違う」


 厄災の泥を一身に浴びながら、響は手放しで称賛を口にする。


 滝のように流れる泥で分かりづらいが、その身体には複雑な術式が浮かび上がっており、響自身が泥と同調しつつあった。


 術式から伸びた光の帯が一本、二本と遡上し空の割れ目へと伸び上がっていく。


「でもその必要はないよ。最初から僕の目的は照を歪めることであって、殺すことじゃないからね。まあ、心臓の補い方は宵波監視官とはだいぶ違うけど」

「何をするつもりだッ!?」

「鈍いな~。前振りは京都で済ませてたんだよ? 要するに、僕は父親と同じことを照にするんだよ。僕自身を呪詛に変換して、照に僕を植え付ける!」

「な、なにを馬鹿なことを……!? 月下美人で回路(パス)を通していたとしても、そんなこと出来るわけが──」


 咄嗟に否定しようとして、しかし涼は言葉に詰まらせた。

 不可能だと、断じることが宵波涼にはできない。


「あっははは! 気付いたみたいだね。そうだよ、いま僕が成ろうとしているのは、より正確に言えば君の『赤服』に近いからね! だからちょっと無理して京都では遊んでもらったんだ。君っていう前例を触媒にするためにね」

「……っ」


 言われ、涼は遅まきながらに右脚に打ち込まれていた呪詛に気付いた。月下美人に仕込まれていたのだろう。単体では何ら意味を持たないが、しかしいまこの瞬間のためだけに効力を発揮する、触媒の呪詛。


 赤服と共鳴することで、響は『七榊響』という呪詛を照へ打ち込む橋渡しにしていた。


 そして赤服の呪いこそ用いていないが、涼は雀と照に治療を施し、あまつさえ魔力回復のために月下美人を移植してしまっている。


 鏡海、赤服、月下美人、そして泥の厄災。響自身を新たな呪詛に変換する土台は十二分に整えられていた。


「そんなことさせるわけ無いでしょッ!」


 激憤に髪を逆立て雀は魔弾を放とうとし、それを横から涼が腕を掴んで止めた。


「よせっ、神崎! 下手に干渉すれば君自身もどうなるか分からんぞ!」

「じゃあどうしろって言うのよッ!」

「パンドラ魔術自体を止めるしかない。雨取の元へ走れッ!」

「それじゃ間に合わないっ!」


 照の元へは厄災の泥が邪魔をして一直線に向かえない。迂回していては間に合わない。


 いや、そもそも照の元へ辿り着けたとしても果たして響の呪詛が完成する前に鏡海を閉じられる保証もない。


 そして間違いなく、涼に仕込まれていた呪詛は雀にも渡っているだろう。鏡海の閉じることが可能かどうかすらも不確定だ。


「……っ」


 焦燥に駆られる内心とは裏腹に、涼の監視官としての思考はこの状況を『詰み』と判断していた。


 パンドラ魔術が発動した時点で、響は泥に飛び込んでしまえばそれでチェックメイト。涼たちとの戦いは単なる戯れに過ぎなかった。


 敗北だ。

 全て響の掌の上だった。


「七榊……貴様っ……!」

「そう睨まないでよ。この大舞台は僕の全てを賭けて整えたものなんだからさ。むしろ失敗しちゃったら悲しすぎて化けて出ちゃうかも」

「戯言をッ」


 響の術式は間もなく臨界を迎えようとし、泥を遡上する光の帯は寄り集めり、光の柱となって空の割れ目へ達しようとしていた。


 厄災の泥と同調した術式によって呪詛への変換が始まり、響の身体が赤い光粒となっていく。


「まあ、照に憑りついても僕の意識は残るように術式を設計してあるから、文句はその時に聞くさ。それまでちょっとの間だけお別れだね」

「やめろ、響!!」


 雀はもはや形振り構わず泥に飛び込んででも止めようと乗り出すが、涼が羽交い絞めにして止めた。


 残された手段は、一つだけ。


 涼は監視官としての役目を果たすべく、足元に転がる愛銃を眼前に蹴り上げると、雀を抑える腕とは反対の手で銃を掴み取り、構えた。


 銃口の先には雨取照があった。


 一瞬にも満たない時間、心とは切り離された指が半ば自動的に引き金を絞ろうとし──それ(・・)に気付いた瞬間ビタリと涼の指は止まった。


「さあ、僕の短い人生の集大成で、これが僕という人間に唯一許された在り方だ。受け取っておくれよ、照!」


 そして、それは始まった。


 晴れやかに叫んだ響の術式が鏡海へと達し、七榊響という新たな呪詛が赤い光粒となって泥を遡上していく──そのはずだった。


「えっ──?」


 直後、呪詛へと成り変わる響の身体からそれ(・・)は咲き乱れた。


 呆気に取られた響の声と共に雀たちへと届く脳を蕩かすような強い花香。冷え冷えとした月光に染められたような純白の花弁が、厄災の泥ごと響を彩った。


 全ての元凶、全ての始まり。響が切り捨てたはずの、彼にとっての厄災。


「……どうして」


 初めて響は余裕を崩して、悲痛な叫びを上げた。


「どうしてこの花が──『変質』の霊力が僕の中にあるんだっ!?」


 月下美人の花が狂い咲いた。

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