四章・二十八節 最古の厄災
束の間、照は何もかもがゆっくりに感じられた。
胸を貫かれた痛みさえ鈍化し、倒れて視界が傾いていくその光景が何か別の映像を見ているようで、ひどく現実感を欠いている。
死を間近にしながらあまり恐怖を覚えていないのは、まだ実感に乏しいからか。
あるいは、そう。
──元々有り得ないはずだった存在が再び無に帰る。夢幻のごときIFそのものであるならば、真っ当な死の恐怖すら持ち合わせていないのだろうか。
「照っ────!?」
急速に遠のいていく意識の中で、青ざめた雀が手を伸ばすのを照は見た。
無意識にその手を握ろうと腕を持ち上げた時だった。
ドクンッ、と照の奥底で眠っていた力が鳴動し、壊れた。
「に、げ──」
最後の抵抗さえ許されず、雨取照の意識は堕ちた。
「なっ──」
雀が最初に見たのは罅だった。
膝から崩れ落ちる照の身体が不自然に止まったかと思えば、響によって穿たれた照の穴そのものに罅が入った。
空間そのものに刻まれた罅は蜘蛛の巣上に広がり、ビシリッ──と、大きな亀裂が背後の空間へと走った。
それが始まり。
亀裂は逆流する雷のように空へと昇り、ある地点から放射状に罅の傘が開く。
やがて空が、いや世界が綻び出した。
ボロボロと罅から空が剥がれだし、この世界のテクスチャが崩壊していくその向こう側。
銀色の海が広がる異次元に、雀は別の世界を認識した。
およそ九年前。事故によってここではない世界の『雨取照』を観測してしまったように。
つまり、あの海は──
「鏡海!?」
驚愕に雀は声を震わせた。しかしそこに『ありえない』は存在しなかった。
鏡海。別名をアカシックレコード。
四世代前の神崎家当主が辿り着いた星の記憶媒体は、同時にあらゆる可能性を内包していた。それ即ち、無数にあると言われる並行世界の間を満たす事象の羊水。
決して表には出てこない最奥の神秘が、こともあろうか剥き出しになろうとしていた。
鏡魔術と錬金術によって成される雨取照の最大魔術、編纂魔術。その根底を成す権能とも称せる力に介入されたことによって。
「編纂だもんね。世界を一時的にでも自分の形に塗り替えるなら、世界の設計図がないと不可能だ」
空から照へ、そして照から雀へ視線を移した響は口元を三日月形に歪めた。
「──それってつまりはさ、神崎家の当主にあるはずの鏡海の力が、照にあるってことだよね?」
響が暴き立てようとしているのは雀と照を引き合わせた、九年前の事故だ。
神崎家の人間でも知るものは極限られた非情な奇跡。
事故で失われたと思われた鏡海へのアクセス権が有り得ない形となって、雀たちの前に現れた。
顔を合わせたその日に導かれるようにして殺し合い、その果てに奇妙な共同生活は始まったのだ。
「そうなると気になってくるのは照が一体誰ってことだ。鏡海の力を携えてるってことは神崎家の血筋の人間って考えるのが妥当。あー、でも妙だね。アストレアの調査では照はその出生に不明瞭な点が多いって話だ。ふふふ、そういえば改めてよくよく観察すると君たちってば結構似て──」
考察を口にしながら響は覗き込むようしながら、照の顔へと手を伸ばした。
「響ィ!」
それ以上踏み込むことは許さないと、激情に駆られた雀は響へと殴りかかったが、逆に懐に潜り込まれてしまい、あっと思った時には背負い投げで地面に叩き付けられていた。
「がっ……!」
硬い石畳みに背中を打ちつけられ肺から空気が絞り出される。
攻撃は終わらない。響は掴んだ雀の腕を両腿で抱え込むと、響は後ろに倒れ込んだ。
「やめっ──」
その狙いを雀が察した時には手遅れであった。
柔道の試合などでは決して見られない、背負い投げからの腕挫十字固。肘関節を逆側に開いて極めるこの関節技で、雀の武器が壊される。
「邪魔だからね。君の砲身を頂こうか」
背筋に走った冷たい怖気は次の瞬間には絶叫と灼熱へと変じた。
バギリ。
「あああああああああああああああああああああああああああッッ!!?」
魔弾の銃身そのものである右腕の肘関節が砕けた。
激痛が雀の全てを支配する。響はバク転をきるようにして既に離れていたが、今度は起き上ることさえ出来ない。
目尻に涙を浮かべ、燃え盛るような苦痛にのたうつ。
「へえ、君もそんな声を上げるんだねぇ。もう少し聞いていたくもあるけど、寝転がっている暇はないと思うぜ?」
「……っ!?」
痛みに苛まれながら響が指差す空を見上げれば、鏡海を覗かせる割れ目に異変が生じ始めていた。
銀色の海が徐々に濁り、泥のようなものが溢れ出そうとしていた。
雀には分かる。あれはこの世に降ろしてはいけない厄災だ。
「照に……あの子に、何をしたっ!?」
「なあに、難しいことじゃないよ。僕自身は鏡海に対してなんら特別な権限を持っていないからね。でも照っていう『門』から引き出せるものの方向性を決めることは出来る。ほら、ちょうど彼女は編纂魔術で『門』を少しだけ開いてたみたいだからね」
「最初から、私たちの狙いをっ……!?」
「それはそうだろ。僕が君たちでもまずはエーテル使いと土地の経路を断つことを考えるさ」
編纂魔術で響から土地のアドバンテージを奪うつもりが、逆に利用されてしまった。
その事実に雀はさらに痛烈に顔を歪めた。
戦いが始まってからずっと、雀たちはずっと響の掌の上で踊らされていたのだ。
「まあ、この先に何が起こるかは僕も知らないけどね。何しろ人類史上最初の厄災なんだし」
「最初の……厄災…………──まさか!?」
響が言わんとする事が何であるか、星座と深く結びついたギリシャ神話を知る雀はすぐに思い至った。
忌々しくも、雀たち女性が神々によって作り出されたとされる逸話。現代でも触れてはいけない災いの例えとしても、度々用いられる慣用句、その語源となった泥の乙女。
「──パンドラに照を仕立てたっていうの!?」
「ピンポーン、大~正~解!」
パンドラ。それはギリシャ神話において神々の手によって作り出された最初の女性の名だ。
有名な『パンドラの箱』とは地上に送り出されたパンドラが持っていた甕を指し、現代に蔓延る厄災の源泉となったものだ。
「鏡海はあらゆる情報の記憶体。なら当然人類史の善性だけじゃなくて、悪性も抱えているのは当然だよね。僕が照に打ち込んだのは言うなればパンドラ魔術さ」
「ふざ、けんな……!」
一瞬、腕の激痛すら忘れ雀は憤激に身を震わせた。
最悪の組み合わせだ。鏡海とパンドラを結びつけるなど、あってはならない。響の言う通り鏡海にはあらゆる厄災さえ等しく記録されているだろう。
罅から溢れようとしている泥は、神々が存在した時代であってさえ厄災と称される最上の呪いだ。もし地上に達すれば、何が起きるか分からない。
しかも照とパンドラ魔術はこの上なく相性がいい。いま空へ広がる罅は正常に術式が作動した結果だ。
「照っ」
止めなくては。術式が正しく起動しているならば、術式をキャンセルすればいい。
『門』を閉じるための『鍵』ならばまだ雀に残っている。
唇を噛み締め、役立たずとなった右腕を庇いながら雀は立ち上った。
もはや一刻の猶予もない。雀は照へと駆け出し──
「止めちゃっていいのかい? 『門』を閉じれば、本当に照は死んじゃうぜ?」
その悪魔の囁きに、雀の両脚は地面に縫い付けられた。
「術式の中核になってるから今はまだ疑似的な仮死状態だけど、止めちゃえば心臓を失った彼女は即絶命。それでも止める?」
「……っ、ひ、響ぃイッ!!」
響の言葉は嘘でも、脅しでもない。
パンドラ魔術を止めれば照は間違いなく死ぬだろう。心臓を無くして人がどうやって生きられるのか。
止めなくてはならない。それが土地の管理者たる義務だと分かっているのに、雀の足はそれ以上前へ進んでくれない。
恨めしく響を睨んだ雀は壊れた右腕で最後の特殊魔弾を構えた。
その時、ふっと頭上が陰り見上げれば、罅から零れた泥がすぐ眼の前にあった。
「──あ、」
しくじった。
判断を誤った。
非情に徹して、照を見殺しにすればパンドラ魔術は止められたのに。
神崎雀は最初で最後のチャンスを無に振ったのだ。
刹那の後悔さえ押し流すように視界一杯に降り注いだ泥が雀を覆い隠す、その直前。
横合いから猛スピードで飛び込んで来た何かに雀は掻っ攫われた。
全身を襲った衝撃は次には力強い抱擁に変わり、地面との衝突から雀を庇った。
一瞬何が起きたのか分からなかったが、自分を力強く抱き留めるそれから濃厚な煙草の匂いを嗅ぎ取り、誰かを悟る。
「無事か?」
「……まあ、なんとか」
「ならいい。すぐに立て」
赤いリボンを揺らし駆けつけた涼の手を雀はバツが悪そうにしながら借りた。
雀が一瞬前までいた場所には泥が落ちており、他の罅からも細いながら泥の滝が出来ていた。
液溜まりを広げていく泥に触れた草木はボロ屑のように崩壊していき、屋敷も泥に触れた傍から急速な風化と腐食に犯され始めた。
「状況はなんとなく理解したが、この事体の核は雨取とみて間違いないな?」
「引き金は僕だよ、宵波監視官。それはそうと窮地の女の子を助けるなんて、ベタだけど実際見ると痺れるね」
「現実はフィクションとは違う。ギリギリで駆けつけたことにロマンを感じるのは馬鹿だけだ。実際には間に合っていない」
響の囃し立てを切って捨て、涼は罅の発生源となっている照を確認し、唇を噛んだ。
「つれないね~。京都でもそうだったけど、もう少し砕けたお話してくれてもいいのに」
「なら少しはTPOを学ぶんだな」
「あっはは、まあそれはそうだね。じゃあTPOを弁えた話題を口にするなら──貴方は監視官として照をどう処理するつもりだい?」
──観察対象の術師が危険と判断した場合、担当監視官は処刑を執行できる。
監視期間の取り決めを思い出し、雀はゾッと血の気が引いていくのを覚えた。
「宵波くん……ッ!」
涼の表情は険しい。何度も照と崩壊していく空の間に視線を往復させ、唇を引き結ぶ。
じっとりと掌に浮いた汗ごと拳を握りしめ、雀はたったいま命を救われた青年と戦うことを覚悟した。
雀と響、二人の視線を受ける涼はやがて、ゆっくりと懐に手を伸ばした。
いよいよをもって警戒する雀を他所に涼が取り出したのは、ビン詰めの飴玉。
「雨取を殺してこの事態が収まるのなら安いのだろうが、こんな摩訶不思議な状況でそんな安易な判断はできん」
涼は色とりどりのアメ玉を適当に口の中に流し込むと、バリバリ噛み砕きながらビンごと雀に投げ寄越した。
「……むぐ……ん、神崎、簡潔に答えろ。アレを止めることは可能か?」
「は?」
「時間がない、早く答えろ。君なら雨取を止められるか?」
照と空を順に指差し、涼は雀に問う。
こうしている間にも空は崩壊し続け、泥は地上に侵食し続けている。
「……止められる。止められるけど、でもあの子は響に心臓を……」
そこまで言いかけ、雀は俯きかけた顔をハッと上げた。
「アンタなら照の心臓を補える?」
涼の能力、肉体代替ならば失った心臓を作り出せるのではないか。
しかし当の本人は険しい表情で首を横に振った。
「悪いが倉橋さんに使った岩戸ノ鏡で殆んど霊力は吐き尽くした。とてもじゃないが雨取の心臓を維持できない」
「それじゃあの子は──」
「落ち着け。例の作戦が上手くいけば、かなり分の悪い賭けにはなるが助かる方法がある。耳を貸すんだ」
作戦とは照が立案した対響戦のものだ。編纂魔術で土地と切り離したのもその一環。
だが要であった照が脱落したことで、事実上作戦は瓦解したも同然であった。
訝しみながらも雀はすがる思いで涼の口元に耳を寄せた。
響と泥の動向に注意を払いながら、話を聞き終えた雀は逡巡したのち大きく頷く。
「分かった。その話、乗ってあげる」
「即答だな。自分で言うのもなんだが、真面な手段じゃないぞ」
「今更でしょ」
「……まあ、そうだな」
雀は受け取ったアメ玉を涼に倣って全て噛み砕いて、空のビンを投げ捨てた。
この時雀たちが食べたのはアストレア謹製のドラッグ・キャンディだ。即効性に優れた鎮痛作用に加え、一時的な興奮作用で恐怖を和らげ、また代謝機能を増進させる代物だ。
「話は終わった?」
「ああ。ここからは俺とも遊んでもらうぞ、七榊響」
響に答えると同時に涼は呪符と手持ち全てのインドラの鎗弾を頭上へと投げた。
インドラの鎗弾に内包されていた膨大な霊力が呪符と呼応。屋敷を取り囲む即席の結界を展開した。外へと流れだす泥を一時的に堰き止める。
「もって五分だ。それまでにケリを付けるぞ」
涼はコートを脱ぎ捨て、ただの重りと化した銃もホルスターごと外して身軽になる。
「ところで神崎、殴り合いに自身はあるか?」
「……それなりだけど、アイツも結構やるみたいよ」
質問の意図を察して、雀は砕かれた右腕を涼のホルスターのベルトで固定しながら、忌々し気に響を睨む。
武器や術式に頼ることなく、関節技を用いるあたり響は白兵戦に慣れているのは間違いないだろう。
だがどのみち響には真面な術式は一切通じない。
よって殴って倒す。
それがもっとも合理的だと、涼は判断した。
「あいつの小細工は俺が止める。君は隙を逃さずありったけを叩きこめ」
「最後は力技か……そういうの嫌いじゃない」
薬も十分に回ってきた。
パンドラの箱が口を開けた空の下、残り五分弱のタイムリミットに追われたそこに役者は揃った。
肩を並べる監視官と魔術師。
「……意外としっくりくる画だね」
それを見てほんの一瞬、含みのある笑みを浮かべた響は鷹揚に手を広げた。
「来なよ。僕たちの因縁を一つ清算するときだ」
幕は近い。