一章・十一節 赤いリボンの青年
同時刻。
街の喧騒とは無縁の人里離れた峠道にその人物は脚を運んでいた。
二十歳前後の青年だ。
天秤と剣を携えた女神の刺繍が眼を引くコートを羽織り、赤いリボンで纏めている長髪が歩調に合わせて跳ねている。薄手の手袋まで着用し顔以外徹底して肌を見せない服装は夜中とはいえ些か眼に毒だ。
ただ仮に第三者が彼を目撃すれば、警官か軍人に近しい印象を抱く事だろう。
訓練を積んだ者が纏う鍛え抜かれた空気が彼の一挙手一投足から滲み出ている。
青年が歩く峠道はさながら文明崩壊後の様相を呈していた。
アスファルトで整備されていた道はそこかしこで罅割れ、割れ目から雑草やら樹木が生えている。本来崖から車両を守るガードレールには錆が浮いており、所によっては崩れている場所も見受けられる。部分的に足場を失ったガードレールが宙に浮いている様はなんとも滑稽ではないか。
ひょいっと道路を横断する亀裂を飛び越え、ほとんど塗装の禿げている標識を通り過ぎると最後の役目を終えたように支柱が折れた。
この山道に暫く人の手が加わっていないことは周囲の状況を見れば明らかだ。
詳しい経緯は青年も知らないが、この山道は大雨か地震で大規模な地滑りが発生したため数年前に閉鎖されている。元々は高度経済成長期の波に乗っかり、地方都市同士を結ぶ国道として整備されたのだが、道幅を十分に取れずカーブも多かったため事故が絶えなかった。
それゆえ利用者も少なく、閉鎖までの数年前には殆ど知られていなかったとの話だ。現在では地図からも消えている。
穿った視点から見ればここは今も昔も俗世から隔離された異界、というわけだ。
ましてや青年のような“霊能力者”や“魔術師”にとってここは天然の結界が展開される幽世に見えることだろう。
一計を案じるにはうってつけ。
そう例えば――
バスの乗客四十人弱を攫うには丁度いい立地条件。
青年は山肌にポッカリと口を開けるトンネルの前に着いていた。
照明の類は当然ながら全滅し、出口の光は見えない。ゴオォと時折トンネルを鳴らす生ぬるい風が青年の頬を舐める。
視界は五メートルも進めば文字通り一寸先は闇だ。
青年は腰に吊っていたマグライトでトンネルを暫し観察する。
典型的な山岳トンネルは片側一車線でやや天井が低い。緩やかにカーブしているコンクリート壁がライトで照らされヌラヌラと光っている。何処かから雨水が浸みだしているのか、巨大生物の腹の中のようで気味が悪い。
しかし青年はこの先に用があるので、足元を照らしつつ慎重に進む。
カツン、カツン……と一定のリズムで刻まれる反響音。
壁に手を当てつつ時折止まって周囲を確認しては、また進む。
事前の下調べでトンネルの全長は把握しているので、青年は歩幅と歩数から大凡の移動距離を割り出していた。
分岐のない一本道をひたすら進むこと十数分。何度目かの周囲確認を終えて折り返し地点を過ぎたあたりだった。
「……」
青年の歩みが止まった。
周囲に、変化はない。ただこれまでと同じ道が後にも先にも延々と続いている。外見上の異常は見当たらない。
送風機が動いていないからか。空気が酷く淀み、粘ついているような錯覚を覚える。
否。
確かにここら一帯の霊気が澱んでいる事を視て取った青年は、思考のスイッチを完全に霊能力者のそれに切り替えた。
右足に装着したホルスターから数枚の呪符を抜き取り、練り上げた霊力を注ぎ込み、刻んだ術式を起動させる。手に取る呪符は火行符。刻印された術式が霊力を熱エネルギーへ変換し、疑似的な発火現象を待機させる。
微かに光を纏う呪符は四方に放たれ、まず青年の両脇で炎が燃え上がる。続いてボボボボボ……という連続音と共に壁沿いに炎の道が形成され、闇に沈んでいた内部を詳らかにしていく。
外見的な変化は見られない。同じ景色が続いているだけ。
だが青年の感覚は確かに此処に異常を訴えており、また本人もそれを疑わない。
「……?」
ふっ、と一瞬だけ炎の光が何かに遮られた様に瞬いた。
その直後。視界の隅で照明のガラス板に小さな人影が映りこんだ。
「――!」
転身と抜銃、照準は殆ど一瞬だった。
こんな場所で偶然人と出くわすなど有り得ない。
遮蔽物の無い閉鎖空間で背後を取られた状況に、青年の本能が警鐘を鳴らす。
しかしてトリガーを絞りかけた指を青年は止めた。
「……式神。なぜこんな所に」
立っていたのは着物姿の童だった。
少年か少女か判断が付かない人形めいた容姿。切り揃えられた前髪の隙間からジッと無機質な視線を投げてくる。マネキンのような佇まいは、童から命の息吹を感じさせない。
警戒を解かずに童を観察していると、消えかけの電球の様にその姿が明滅する。式神への霊力供給が不十分な場合によく見られる現象だ。
童は銃に怯える様子もなく、口を動かすがその声が空気を震わせる事は無い。声帯機能が壊れているのだろう。
その間も明滅は感覚を狭くし、消える時間の方が徐々に長くなっている。
童は足元の地面を指差し青年にしきりに何かを伝えようとしているようだった。
警戒は怠らず、銃を納めた青年は童へ近づき膝を着いて視線を合わせる。
「失礼」
断りを入れ、童の手を取ると青年は慎重に霊力を注ぎ込む。
何を伝えようとしているかは分からないが、ひとまず霊力の供給し実体化を安定させようようと考えたのだ。
だが幾ら霊力を与えようと、実体化が安定せず、霊力も殆ど霧散している。
恐らく、機構そのものに致命的な不具合が生じているのだろう。明滅は気持ちマシになった程度。
穴の開いたバケツに水を入れている様なものだ。
「すまない」
諦め、青年は童が指差す地面を調べる。
注意深く観察しているとアスファルトに不自然な繋ぎ目を見付けた。
補修や舗装といった形跡とは異なり、色合いも似せられ、こうして指摘されない限り気付けないだろう。それも繋ぎ目は地面だけでなく壁面にも見られる。
――どうやら青年の探し物はこれらしい。
「下がって」
童の式神をこの場から離すと、青年は再び呪符を引き抜く。此度は土行符だ。
地面へ叩き付けた土行符から霊力が浸透すると、繋ぎ目から十メートルほど薄くコンクリートの塗膜が剥がれだし、隠されていた物が露わらになる。
視界に飛び込んで来た光景に、青年は瞠目し息を詰まらせた。
この山道は外界から隔離された異界であれば、ここはその最奥。
世人の眼に付きにくく、周囲をコンクリートの壁で囲われた閉鎖空間。
ならばこの場で如何様な惨劇が起きようとも、誰が阻止できようか。
「西欧魔術……いや、錬金術に近いか」
青年の数歩先。
地面をびっしりと覆い尽くしていたのは、円形を基礎にした幾何学模様を描く魔術式と大量の血溜まりの痕。篝火が照らす範囲を超えて尚広がる血痕は一人や二人では到底足りない。どす黒く染まった一帯は過去に此処では数十人分の血の海が揺蕩っていた事を物語っている。
十分な換気がされていないためだろう、当時の惨劇の臭いが微かにこびりついている。
静謐に満たされた空間は一転して地獄を語り始めていた。篝火の燃焼音が無ければ静寂は怨嗟となって青年を蝕んだだろう。
青年は一度深呼吸を入れ、余計な感情を振るいに掛ける。酷い空気が鼻を抜けるが既に全身に浴びているのだ。車に戻れば聖水も用意してある。
「旧いな。ルネサンス期の術式に似ているが……」
屈み込んで地面に刻まれた術式の分析を試みるが、その表情はすぐに陰る。
彼が習得しているのは主に呪術や巫術といった陰陽道をベースにした術式が殆どだ。他は北欧のルーン魔術を基礎部分のみ習得しているものの、錬金術……とりわけ中世の名残を残したものとなれば――
「無理だな」
早々に解析を切り上げた青年は情報収集に作業をシフトする。もっともこれは術式を一目見た時点で予想していた事だ。詳しい解析は専門家に委託することに決め、青年は再び霊力を練り上げる。
立ち上ると青年はパンパンッと手を打つ。
周囲で霊気が揺らぎ今まで霊体化していた“式神”が起動していく。
コートの袖口がもぞもぞと動きし、腕を伸ばすと布を押し上げて式神は姿を現した。
掌にちょこんと座り命令を待つのは体躯に勝るとも劣らない尻尾を揺らすシマリスだ。
式神は霊力を原動力にしたドローンのようなもので、大半は青年のように動物を模して設計する術者がほとんどだ。万物に共通するように体躯が巨大であれば消費する霊力もそれに比例するため、小動物をモデルにした式神は古今東西よく見られる。青年もこれに倣い、一から設計した式神リスは冬毛で膨らんだやや丸々としたフォルムをしている。真白な腹毛には青年のコートと同じく“有翼の女神”が焦げ茶色の毛で描かれている。
「一帯の術式情報を収集。並列して体組織や体毛の類の精査も行うように」
命令を受諾したリスは「キュ」と返答すると次いで短い手でコートの袖口をペシペシ叩き始める。すると袖が泡立ったようにモゴモゴと蠢きだし、次々と新たなリスたちが飛び出していく。
射出機めいた奇妙な光景は暫し続き、三十匹ほど出ていったところで青年の腕は静まった。
リスたちは各々地面や壁面、天井などの精査を始めていく。クリーンワイパーのような尻尾で丁寧に塵や埃を除去しながら、小さな手で魔力の残滓や体組織の収集を行う。
余談だが最初に呼び出した式神リスが袖を叩いた行為。あれは仲間を呼んでいたのではなく、暗に「仕事内容に応じた人員を寄越せ」と請求していたのだ。
あの図々しさは製作を委託した技師の色が強く出ているようだ。
はあ、とため息を零し、澱んだ空気を誤魔化す様に煙草に火を着ける。普段は不味いとしか感じない紫煙もこの時ばかりは幾らかマシに思えた。
くいくいっと袖を引っ張られる感覚に振り向くと、童の式神が術式の中心を指差していた。
実体化がかなり不安定になってきており、一度切れれば二度と起動出来ない様子だ。
「あちらか」
童の正体が何であれ、明らかに何かを伝えようとしていることは明白だった。隠蔽工作を指摘したように、まだ何かあるのだろうか。
童が導いたのは、恐らくは魔術陣の中心と思われる場所。
乾いた血の海に中に、それはあった。
「……写真か」
青年が拾い上げたのは一枚の集合写真だった。半分以上が血で潰れてしまっているが、何処かの校舎の前で撮られたものだろう。現代では少数派になった学ランやセーラー服姿の学生らが笑いかけている。
写真から推測される学生の大凡の人数は四十人弱程か。
ざっと見ただけでも、地面に刻まれた術式の起点の数と一致する。
「――」
青年はスマホの画像フォルダを呼び出すと、一枚の古い新聞記事を表示する。『修学旅行生集団で行方不明』という見出しと、何名かの学生の顔写真が乗せられている。
集合写真と新聞を見比べると、両方に同じ人物を直ぐに見つけた。
それも、良く知った顔だ。
――肩口で切り揃えたショートヘアと人となりがよく現れた快活な笑顔の少女。
その時、式神リスたちが騒ぎ始めた。
見れば地面の術式の一角が紫色に光り始めている。
童の手を取った青年が弾かれたように術式上から退避した直後、バシュウゥという音を上げて術式は沈黙した。
暫く様子を伺うも、それ以上の変化は起こらなかった。罠の類が作動した形跡も無し、周囲の霊気も大きな変動はない。
いや。僅かではあるが変化がもう一つ。
「!」
写真だ。
無事だった部分が炭化したように赤黒く塗り潰れている。先程は気付かなかったが、奇妙な事に塗り潰れている部分は全て生徒に限定されている。
つまり、今の変化で一人の生徒が写真から消えている。
ほぼ確実に地面の術式とリンクしてのことだろう。
もう一度同じ現象が起きても保存が効くようにスマホ写真に収めておき、改めて青年は童と向き合う。
しかし一歩遅かった。
限界を迎えた童の式神はノイズが走ったように激しくその姿がブレはじめていた。
「君の主は健在か?」
最後にそれだけ訊ねた青年に、式神は青年が手にする写真――先程塗り潰れた学生を指差し答えた。
それが最後の役目だったのか、童はその姿を霊気に霧散させた。
後には人型の式符がひらひらと力なく落ちていく。
労わる様に手に取ると、随分古い式神だという事が一目で見て取れた。
決して高度とは言えないが何度も補修が施されている。術者は丁寧に使役していたのだろう。
しかし術式は摩耗しきっており、修復は不可能だろう。
「忠誠、確かに見届けた」
式符を丁寧に仕舞い込み、眼前に広がる過去と向き合う。
「厄介な相手が街に紛れ込んでいるぞ、生徒会長」