四章・二十二節 覚悟
「一体どういうおつもりですかフラン様!?」
東京都千代田区秋葉原、アストレア本部。
涼の義父である宵波直嗣はアストレアの当主、フランチェスカ・E・ユースティアに直談判していた。
面会申請もなく当主の部屋へ乗り込んで来た直嗣に対し、フランの補佐役である大柳から稲妻の如き一喝が奔る。
「痴れ者がッ。何の真似だ直嗣。分を弁えろッ!」
齢八十を超えながら精気横溢であり、年齢を感じさせない巌のような大柳は実質的なアストレアのまとめ役。衰えを感じさせない肉体から放たれた叱声は熟練の兵士であっても竦み上がる圧を備えていたが、いまの直嗣にはビビる余裕すら削がれていた。
血相を変えたままフランへと詰め寄る。
「どうしたんだい、日ノ國巨人と恐れられる君がそんなに慌てて」
「とぼけないで頂きたいッ!」
一方、机越しに詰め寄られるフランは若干十四歳。
藍鼠色の髪に銀灰色の瞳、ブラウスと緋袴という和洋折衷なコーディネートを除けば、彼女は年相応に無力な少女だ。
机を挟んでいるとはいえ、歳も体格も一回り以上離れている直嗣が迫れば殆ど脅迫に近しい構図だ。
フランが飄々としているのは、トップという地位に相応しく肝っ玉が据わっているというのもあるが、直嗣が乗り込んで来ることを予想していたからだ。
先程はとぼけたが、用件にも心当たりがある。
力づくで排除しようと踏み出した大柳をフランは手振りで制止し、憤る直嗣と正対する。
「涼のことだろう?」
「そうです! 何故私の応援の派遣を棄却なさったのですか!? 涼ちゃ……宵波監視官には荷が重すぎるッ」
五輪市で起きる一連の事件は現地の涼から報告が届いている。
倉橋の謀反も仔細漏れずに伝えられており、共有されているのは一部の人間のみだが本部は俄かに騒然としていた。
状況を重く受け止めた直嗣は即座に関西支社に応援要請を送っていた。十数人の一般市民が犠牲となり、二人もの監視官さえ敗れたとなっては涼一人では荷が重すぎるからだ。
現地の魔術師と共闘関係に持ち込んだとはいえ、戦力差が覆ったわけではない。
報告が確かであるならば、倉橋は直嗣が知る全盛期を超えている恐れさえある。
さらに七榊家の血族が二人も敵に回ったとなれば、誰であろうと直嗣と危機感を共有した事だろう。涼たちは万全とは程遠い状態なのだ。
しかしどういった思惑かフランは自らの権限で応援の派遣を退けた。
「落ち着きたまえ。いつまでも子煩悩から抜け出せないのは君の悪癖だぜ?」
「茶化さないで頂きたいっ。貴女はことの深刻さが分からないのですか!?」
「勿論理解しているとも。ああ、勿論実際に倉橋と肩を並べた君とはその認識に少なからず開きがあるだろうけどね」
「でしたら今からでも遅くはありません。関西支部、いや私を向かわせてください」
「ダメだ。許可できない」
「何故ですかッ!?」
いまにも掴みかからんとする直嗣の必死の訴えをフランは退ける。
理不尽ともいえるこの判断に直嗣は振り上げた拳を机に叩き付けた。
巨人の異名を持つ彼の拳で執務机に亀裂罅が走った。
直嗣の憤りは限界に達しつつあり、柳眉を逆立てる眼には危険な色がチラついている。
身構える大柳にフランはまたもや一瞥して制し、フランは両肘をついて組んだ手の上に顎を乗せると、至近距離から直嗣と視線を交わらせた。
激昂する直嗣を前にしながらひるまず、相手の奥底まで覗き込むような銀灰色の瞳が直嗣に向けられる。
直嗣は一瞬怯むも、直ぐに眦を決して真っ向からフランと睨む合う。
「フラン様。貴女とて倉橋と涼の確執はご存知でしょう!?」
「もちろん。三年前のハイジャック事件だろう? あの時亡くなったのが倉橋氏の弟子の宮藤カイ候補生で、生き残ったのが涼だ。いまでも惜しい才能を失ったと思ってるよ」
「そうです。逆恨みも甚だしいですが、奴は涼ちゃんを疎ましく思っている節があった。根拠はありませんが、まず間違いなく今回の謀反は復讐です。
いや、そうでなくても戦いは避けられない。弟子を失ったことで憑依能力も半ば失われていましたが、本当に七榊を取り込んだのなら、恐らく奴は全盛期に勝るとも劣らない」
一方で現在の涼は赤服の呪いから復調したばかりか、雀と照の治療で疲弊している。
共闘して倉橋と響を各個撃破する算段のようだが、どちらか一方が崩れればその時点で敗北だ。
直嗣の危惧は単純な戦力差に留まらない。
倉橋との確執以上に、涼と七榊の間には深い因縁がある。
養子に迎え入れる以前の涼の過去を知る直嗣としては、身を引き裂かれる思いだ。そもそも五輪市への派遣自体を猛反対していたのだ。これ以上、あの家に涼を関わらせたくはない。
「幾ら監視官といっても、あの子はまだ子供です。そうでなくとも……仲間殺しなんて、酷過ぎる……」
「──お前はアイツを舐め過ぎだ」
沈鬱に言葉を擦れさせる直嗣を叱ったのは大柳だ。
組織のナンバー・ツーの言葉を受け、直嗣は僅かに冷静さを取り戻した。
未だ経験の浅いフランを支えるのが未だ現役であるこの男だ。年若いフランが組織を纏め上げられているのも、彼の適切なサポートがあってのこと。
裏を返せば、応援の棄却も大柳がこれを是としたということだ。
しかし彼等の意図が読み取れず、直嗣は憤りを通り越して困惑した。
「舐めるなって……貴方は何を言っているのですかっ。確かに涼ちゃんは強い。身贔屓抜きにしても、それは俺も認めています。ですが──」
「なら知っているだろう。あの坊主の監視官としての出発点は『宮藤カイの死』だ。逆恨みに等しいバカの妄念とでは、魂の強度が違う」
「……っ」
大柳の主張はいってしまえば精神論だ。大局的に五輪市の状況を読み取った直嗣の危機意識の前では、本来一蹴されるものだ。
しかし、なぜか直嗣は反論がすぐに出てこなかった。それは子煩悩と揶揄されてしまった、父親故の甘さの露呈であった。
深々と溜息をつく大柳に代わって、フランが真意を詳らかにする。
「ついさっき涼から電話があってね。彼の権限ならそんな必要ないのに、わざわざ許可を求めて来たよ」
「許可……? それは一体……」
「──本気で戦うための」
「なっ!?」
直嗣の顔が強張る。
本気で戦う。それはつまり──涼は倉橋を処断するつもりという事だ。
義息子の覚悟に触れ、直嗣は遅ればせながらフランたちの真意を察した。
応援を送らないのではない。送れないのだ。彼が全力を出せば、むしろ仲間は足手まといどころか、最悪巻き込まれて死にかねない。
思い起こすのは、まだしても三年前のハイジャック事件だ。
宮藤カイの死をもって幕を引かれたあの事件はまさしく宵波涼の大きな転機となった。
それは同時に、彼が必死に抑え込んで来た赤服の呪いが解き放れる契機にも。
いまでこそ制御し、武器にさえ流用しているが、一度だけあの力が暴走したことがあった。
それがハイジャック事件。
三年の歳月がたった今も、事件にあった機体は一級封印指定呪物に指定され、厳重に隔離されている。
その呪詛は凄まじく、当時成田空港へ駆けつけた直嗣たち精鋭でさえ、現場となった機体には容易に近づけなかったほどだ。
慎重に機体に乗り込んだ直嗣らは、今でもその光景を克明に憶えている。
呪詛の爆心地。座席、壁、窓ガラス……あらゆるものが血を浴びたように真紅に染まり、世界そのものが死に絶えたようなその光景と──暴走する赤服の呪いを必死に抑え込む涼を。
あの場で何があったのか、現在でも判明していることは少ない。
分かっている事と言えば、あの襲撃が宮藤を狙って引き起こされたものという事だけだ。
大柳が言う通り、宵波涼の全てはあそこから始まった。
五感全てを切断し、生きた屍の様だった彼は文字通り死に物狂いで己を鍛え上げ、いまとなってはアストレアの化身たる地位を拝命するに至った。
「親が息子を想うのは当然だ。例え血が繋がっていなくてもな。だが、子が過去に一つケジメをつけようと褌を締め直したんだ。気持ちは分かるが、俺達がしゃしゃり出る幕じゃない」
「倉橋との戦いは、涼のこの先の人生において必要なことだ。我々は信じて待とうじゃないか」
ニュアンスは違えど、噛んで含めるような大柳とフランの言葉が直嗣の胸に重く圧し掛かる。
本当は直嗣とて分かっている。この戦いは単に倉橋の恩讐を断ち切る以上の意味も持つ。
たった三年の異例の早さでアストレアの最高戦力に名乗りを上げた涼は、内外からその実力を疑問視されている。中には宮藤という稀有な才能と並べ、監視官の地位剥奪を訴える者もいるほどだ。
しかしここで実力を示せば、涼は名実ともに監視官と認められ、その地位は真に揺るぎないものになるだろう。
そしてそれ以上に、この戦いはあの家、七榊家との決別にもなる。
「わかり、ました……!」
苦悩と葛藤の末、直嗣は絞り出すように見守ることを了承した。
硬く握り締められた拳からは血が滴り、歯は割れんばかりに食いしばられ、肩は抑えがたい感情に震えていた。
諫めたものの、彼を幼少期から知る大柳はその心中は察して余りある。皺が寄った手をただ静かに直嗣の肩に置いた。
「なあに、心配いらないさ。次に涼が東京に帰ってくるときは、女の一人や二人垂らし込んで、実家に連れ込んで来ることだろうぜ」
「……フラン様、さすがにそれは──」
シリアスから一転して陽気に笑うフランの言葉を、直嗣は毒気を抜かれながらもとっさに反論しようとし、言葉を見失った。
なぜだか妙に現実味を帯びている気がしてならない。
そういえば彼の監視対象は歳の近い少女だったか。
別の意味で不安になり、しかし緊張が解れたことに直嗣は気付く。
窓の外は間もなく日没を迎えつつあり、あと数時間もすれば夜は魔を許容する。
報告によれば、今日あたり倉橋が月下美人に馴染みきる頃合いだ。
恐らくは、仕掛けるとすれば今夜。
「気を付けてね、涼ちゃん」
遠く離れた息子の無事を祈ることしか出来ないのが、歯痒くて仕方がない。
夕日に細められた直嗣の眼には再び不安の色があったが、彼はその日、アストレア本部から動くことは無かった。
約六時間後の深夜。
様々な思惑が交錯するその戦いは始まりを告げた。